第151話 森へ続く道と、まだ知らなかった塔の役目
朝の光が古の塔の食堂へ差し込み、磨かれた木の床に細長い窓枠の影を落としていた。昨夜のうちに雨雲はすっかり東へ流れたらしく、開け放たれた窓からは湿った土と若葉の匂いが運ばれてくる。
アルが食堂へ入ると、セリーは小さな皿へ焼き野菜を盛りつけているところだった。厨房から漂う香ばしい匂いに気づいたアルが声を掛けると、彼女は手元の皿を置き、いつもの丁寧な挨拶とともに柔らかな笑みを向けた。
「おはようございます、主様。今朝は昨日よりも空気が澄んでいますね。庭の鉢植えも雨のおかげで元気そうでしたので、朝食のあとにご覧になってはいかがでしょうか」
「おはよう、セリー。それは楽しみだね。昨日は作業場にいる時間が長かったから、今日は少し外を歩いてみたいな」
アルがそう答えると、セリーは嬉しそうに頷いた。食卓には焼きたてのパンと野菜のスープが用意されており、昨日の夕食で試した香草の香りが、今朝は控えめに使われている。
席に着いたアルは、まずスープを一口味わった。野菜の甘みが先に広がり、そのあとから爽やかな香りが追いかけてくるため、朝でも食べやすい仕上がりになっている。
「昨日より少し香草を減らしたんだね。こっちもおいしいよ」
「ありがとうございます。昨日は主様が香りを楽しんでくださったので、今朝は野菜そのものの味も分かるように調整してみました。どちらがよいか迷ったのですが、朝食にはこちらの方が合うかもしれません」
「うん。料理も工作と似ているところがあるね。実際に試してみると、次はこうしたいって考えが浮かんでくる」
セリーは少し照れたように微笑み、アルの向かいへ腰を下ろした。食卓の窓からは庭の一角が見え、昨夜まで葉の先に残っていた雨粒が朝日に照らされて輝いている。
「主様。昨日の記録板の留め具について、少し考えていたことがあります」
セリーがそう切り出すと、アルはパンを置いて彼女へ顔を向けた。昨日の作業では、細い丸棒を軸にして木片の片側を動かせるところまで試したものの、反対側の受けが外れやすく、紙を確実に固定するには至らなかった。
「俺も気になってたんだ。受けを深くすれば外れにくくなるけど、そうすると今度は開けるときに力が必要になるんだよね」
「はい。ですから、留め具だけで紙を押さえようとするのではなく、紙を置く位置も工夫してみてはいかがでしょうか。昨日は紙の端が少し浮いていましたので、それが木片の動きを妨げていたように思います」
アルは昨日の試作品を思い浮かべた。確かに、紙を平らに置くことばかり考えていて、紙そのものが動かないようにする工夫は十分ではなかった。
「紙の上端を浅い段差に当てておけば、留め具を閉じるときにずれにくくなるかもしれないね。そうすれば、押さえる力も今ほど強くなくていいのかな」
「実際に試してみなければ分かりませんが、紙を傷めずに扱える方法としては考える価値があると思います。今日はそのための小さな端材も用意してみましょうか」
「うん。ただ、その前に庭を見に行こう。せっかく天気がいいんだから、作業場にこもりきりになるのはもったいないよ」
セリーは頷き、嬉しそうにスープへ匙を伸ばした。アルはその表情を見ながら、今日一日をどのように過ごそうかと考えた。
王太子だった頃には、一日の予定を自分の気分で決めることなど、ほとんどできなかった。誰かが用意した日程に従い、必要な場所へ移動し、求められた言葉を口にすることが当然だった。
けれど今は、朝食のあとに庭を眺め、その後で作業場へ向かうかどうかさえ、自分たちで相談して決められる。
(こういう自由が欲しかったんだよな。大きなことを成し遂げる自由だけじゃなくて、今日の午前中をどう過ごすか、自分で選べる自由が)
アルは胸の奥に広がる穏やかな満足感を味わいながら、温かなスープを飲み終えた。
◇
朝食を片づけた二人が庭へ出ると、石畳の隙間にはまだ雨の名残が残っていた。日当たりのよい場所はすでに乾き始めていたが、塔の影になっている部分には小さな水たまりができている。
セリーは鉢植えの並ぶ場所へ向かい、花の苗の葉を一枚ずつ確かめた。アルも隣にしゃがみ込み、土の表面へ指を近づけたものの、昨日の雨で十分に湿っていることに気づき、水やりの道具を取りに戻る必要はないと判断した。
「今日は水を足さなくても大丈夫そうだね。昨日の雨が思ったよりしっかり降ったみたいだ」
「はい。こちらの鉢は水が溜まっていませんし、葉の状態も悪くありません。ただ、奥の鉢は少し日陰になっていますので、乾き方に違いが出るかもしれません」
セリーは奥に置かれた鉢を見つめ、しばらく考えたあとで位置を少し変えた。以前なら決められた配置を維持することを優先したかもしれないが、今の彼女は植物の育ち方を見ながら、自分で判断して置き場所を調整している。
アルはその様子を眺め、何気なく庭の外側へ目を向けた。
塔を囲む森は朝の光を受けて明るく見えるものの、木々の奥へ続く道はところどころ陰に沈んでいた。以前から塔の周辺を歩くことはあったが、森の中にはまだ十分に確かめていない場所が多い。
「セリー。今度の散歩で、あの先の道を少し歩いてみたいんだ」
アルが指さしたのは、庭の外れから森へ続く細い道だった。踏み固められた地面が木々の間へ伸びているものの、少し進んだ先で緩やかに曲がっているため、塔からはその先が見えない。
セリーは立ち上がり、アルの示した方向を確かめた。
「あちらですね。塔の周辺にある古い管理用の道の一つだと思われますが、現在の状態については十分な確認ができていません」
「管理用の道?」
「はい。塔が建てられた当時、周囲の設備や土地を確認するために使われていた道がいくつか存在します。ただ、二千年の間に地形や植生が変化していますので、当時の記録がそのまま現在の安全を保証するわけではありません」
セリーの説明を聞き、アルは改めて森の道を見つめた。
古い塔に残された設備が、今でもすべて当時の姿を保っているわけではない。建物の内部には優れた保存機構が働いている場所もあるが、屋外の道や設備は風雨にさらされ続けてきたはずだった。
「じゃあ、いきなり奥まで歩くのはやめた方がよさそうだね。入口の近くを確かめるくらいならどうかな」
「それでしたら、足元の状態を確認しながら短い距離を歩くことはできると思います。ただし、昨日の雨で地面が緩んでいる可能性がありますので、無理に進まないことを条件にしたいです」
アルは頷いた。森の奥へ進むことそのものが目的ではなく、セリーと一緒に知らない景色を見つけることが楽しみなのだから、危険を冒してまで遠くへ行く必要はない。
「分かった。今日は入口を少し見てみるだけにしよう。記録板が完成してから、改めて散歩の計画を立てればいいしね」
「はい。私も、その方が安心です」
二人は庭の道具を片づけ、森へ続く道の入口へ向かった。
塔の敷地内から見ると細く見えた道は、近づいてみると二人が並んで歩ける程度の幅があった。ただし、両側から草が伸びており、ところどころ地面を覆っているため、足を置く場所には注意が必要だった。
アルは道の端へしゃがみ込み、地面の状態を確かめた。表面には落ち葉が重なっていたが、その下の土は雨を含んで柔らかくなっている。
「思ったより湿ってるね。これなら、今日はここまでにしておいた方がいいかな」
「はい。特に奥の曲がり角は日陰になっていますので、乾くまで時間がかかると思います」
セリーは道の先を眺めてから、入口の少し手前にある石へ目を留めた。
「……主様。あちらをご覧ください」
アルが視線を向けると、草の間から角ばった石の一部が覗いていた。自然に転がってきた石にしては平らな面があり、表面には苔が薄く広がっている。
「何かの目印かな?」
「その可能性があります。ですが、現在見えている部分だけでは判断できませんので、触れずに確認するのがよいと思います」
二人は石から少し距離を取り、見えている範囲を観察した。
石の上部には浅い溝のようなものがあり、苔の下に何らかの模様が刻まれているようにも見えた。ただし、土や草に覆われている部分が多く、文字なのか装飾なのかを確かめることはできない。
「エルに聞いてみようか。昔の道について、何か記録が残っているかもしれない」
アルが腕輪へ声を掛けると、しばらくして聞き慣れた声が返ってきた。
『お呼びでしょうか、アル様』
「うん。庭の外れにある森へ続く道なんだけど、入口の近くに古い石があるんだ。管理用の道だったかもしれないってセリーが言ってるんだけど、何か分かる?」
『塔の周辺には、建設当時に整備された複数の作業路および管理路が存在した記録がございます。ただし、現在の位置情報と当時の配置図を完全に照合できる状態ではありません』
エルの返答に、アルは少し驚いた。
「完全には照合できないんだね。塔の近くなら、もっと詳しく分かるのかと思ってた」
『塔内部の保存記録と、屋外環境の現況情報は同一ではございません。長期間にわたる地形の変化や植生の拡大により、記録上の道が現在も通行可能であるとは限りません』
「なるほど。じゃあ、この石が昔の目印だったとしても、そこから先へ安全に進めるとは限らないわけだ」
『その認識で問題ございません。なお、現時点で当該石材の用途を特定する情報は不足しております』
アルは腕輪を見つめ、少し考えた。
古い塔に残された記録は便利だが、記録が存在することと、現在の状態を知っていることは別なのだろう。
それは、最近ブラートから届いている古代の確認手続きに関する報告にも、どこか通じる考え方だった。
(昔の記録が正しくても、今の状態まで同じとは限らない。だから、確かめられていないことを、勝手に確かめたことにしちゃいけないんだな)
アルは立ち上がり、石から視線を離した。
「ありがとう、エル。今日は道の入口だけ見て戻るよ。石もそのままにしておく」
『承知いたしました。周辺の地形を調べる際には、現在の状態を優先してご判断ください』
エルの声が静かになると、セリーはアルの隣へ歩み寄った。
「主様。今の石について、記録板へ書いておくのはいかがでしょうか。詳しいことは分かりませんが、見つけた場所や状態だけなら残せると思います」
アルはその提案に頷きかけ、ふと笑みを浮かべた。
「確かに、ちょうど記録板の使い道ができたね。でも、まだ留め具が完成してないんだよな」
「でしたら、今日は普通の紙へ書いておいて、あとで記録板へ移してもよいと思います。道具が完成していなくても、記録を始めることはできますから」
その言葉に、アルは思わず感心した。
記録板を作ることに夢中になっていたため、いつの間にか、記録するには完成した道具が必要だと思い込んでいたらしい。
「そうだね。記録板は便利にするための道具であって、記録すること自体が目的なんだもんな」
「はい。主様と一緒に見つけたことを、忘れないように残しておきたいです」
セリーはそう言って、森の入口へもう一度目を向けた。
アルは彼女の横顔を見つめ、穏やかな気持ちで頷いた。
◇
塔へ戻った二人は、まず食堂で温かな飲み物を用意した。森の入口にいた時間はそれほど長くなかったが、日陰の道は思ったより涼しく、室内へ戻ると温かな空気が心地よく感じられた。
セリーが茶器を並べている間、アルは書斎から紙と筆記具を持ってきた。
机の上へ紙を広げると、先ほど見つけた石について、覚えていることを順番に書き始める。
「場所は、庭の外れから森へ続く道の入口付近。道の端にあって、草に一部が隠れていた。表面には苔があって、浅い溝のようなものが見えた……こんな感じかな」
アルが読み上げると、セリーは隣から紙を覗き込んだ。
「はい。ただ、溝が文字なのか模様なのかは確認できていませんので、そのことも書いておくとよいと思います」
「そうだね。見たものと、俺たちが考えたことは分けておこう」
アルは紙の下に小さな区切りを設け、確認できたことと、まだ分からないことを書き分けた。
見つけた石が何らかの目印である可能性はある。
けれど、それが管理用の道と関係しているかどうかは未確認だ。
さらに、道の先が現在も安全に通れるかどうかについても、確かな情報はない。
アルはそこまで書き終えると、筆記具を置いた。
「こうして整理すると、意外と分からないことが多いね」
「はい。ですが、分からないことが分かるのも、大切な発見だと思います」
セリーは茶器をアルの前へ置き、穏やかに続けた。
「もし今日、石を見つけただけで管理用の目印だと決めてしまっていたら、あとで違うことが分かったときに困ってしまうかもしれません。今はまだ分からないと記録しておけば、次に確かめることも明確になります」
「うん。エルも、昔の記録と今の状態は別だって言ってたしね」
アルは紙へ視線を落とし、少し考えた。
王宮にいた頃、彼は報告書の内容を確かめる立場にあった。
当時も、確定した事実と推測を区別することの大切さは理解していたつもりだったが、実際には限られた時間の中で判断を迫られることが多かった。
その結果、自分が十分に確かめられなかったことも、後から振り返れば少なくなかったのだろう。
(あの頃の俺は、間違えちゃいけないって思いすぎてたのかもしれない。でも、分からないことを分からないって言うのも、判断の一つなんだよな)
アルは自分の手元を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。
王太子として求められていた判断と、今の暮らしで必要な判断は、規模も責任も違う。
それでも、知らないことを知ったふりで埋めないという姿勢は、どちらにも通じるものがあるように思えた。
「セリー。今日の記録、記録板が完成したら最初の一枚にしようか」
「はい。私も、それがよいと思います」
セリーは嬉しそうに頷いた。
「ただ、今の紙をそのまま持って歩くのでしたら、汚れないように保管しておきたいですね。木箱に入れるには少し大きいですし、書斎の引き出しへ入れておきましょうか」
「そうだね。あとで見返せるように、日付も書いておこう」
アルは紙の上部へ日付を書き加え、丁寧に折らずに持ち上げた。
セリーが書斎まで同行し、二人で引き出しの空いている場所を確かめる。
そこには、以前から使っている筆記具や紙が整理されていた。
アルは記録を引き出しの手前へ置き、取り出しやすい位置に収めた。
「これなら、明日でもすぐに見られるね」
「はい。次に道を確認するときにも、今日の記録を参考にできます」
セリーは引き出しが静かに閉じられるのを見届け、満足そうに微笑んだ。
◇
その頃、王都ではブラートが一通の報告書を受け取っていた。
差出人はフェリクス・ハルトマンであり、封筒の中には古代の確認記録に関する新しい調査結果がまとめられていた。
ブラートは執務机の上を片づけ、報告書を広げた。
今回の内容は、以前から続いている古代の手続きに関する調査の延長にあるものだった。
確認担当者の変更、判断保留の理由、再確認の成立、状態変更の承認。
それらが必ずしも同じ手続きではないことは、これまでの資料から少しずつ見えてきている。
ただし、今回届いた報告書には、新たな注意事項が記されていた。
『確認記録の一部欠落に関する記述断片を確認。ただし、前後の文章が損傷しているため、適用対象および具体的な処理方法は判定できない』
ブラートはその一文を読み、続く注記へ目を移した。
そこには、記録が欠けている場合の扱いについて、いくつかの解釈が考えられることが記されていた。
だが、フェリクスはどの解釈も確定したものとして扱っていない。
特に、欠落した記録を後から補う行為と、新たな判断を下す行為が別の手続きだった可能性については、まだ仮説の段階にとどまっていた。
「……慎重だな」
ブラートは小さく呟き、報告書を机へ置いた。
それは批判ではなく、むしろ安堵に近い感想だった。
古代の施設に関する調査では、断片的な情報が少しずつ集まるほど、全体像が見えてきたような錯覚に陥りやすい。
しかし、似た言葉が使われているからといって、同じ対象や制度を指しているとは限らない。
ブラートは以前、アルへ送った報告を思い返した。
そこでは、判断を保留した理由が解消されたとしても、以前の判断が自動的に有効になるわけではないという規定を伝えている。
今回の資料は、その原則を直接補強するものではない。
むしろ、まだ調べるべき手続きが残っていることを示しているのだろう。
(アル様には、確定した規定と今回の未判読資料を明確に分けて伝えるべきだな。余計な推測を付け加えれば、かえって判断を誤らせる)
ブラートは新しい紙を取り出し、アルへ送るための要点を書き始めた。
確認されたのは、古代の記録群に欠落を扱った可能性のある断片が存在するという事実だけである。
その断片がどの施設に適用されていたのか、誰に判断権限があったのか、欠落をどのように補っていたのかは分かっていない。
さらに、現在調査されている個別の施設や人物と、この規定を結びつける証拠もない。
ブラートはそこまで書き終えると、筆を止めた。
報告の内容としては地味だったが、だからこそ正確に伝える必要があった。
アルはすでに王太子ではない。
それでも、過去に関わった出来事や、まだ明らかになっていない問題が完全に消えたわけではない。
ブラートは、必要な情報を届けることが自分にできる支えの一つだと考えていた。
彼は報告書を丁寧に折り、封筒へ収めた。
送付の手配を終えたあとも、机の上にはフェリクスから届いた写しが残っている。
ブラートはそれをもう一度確認し、未判読の部分へ勝手な補足が加えられていないことを確かめてから、資料を保管した。
◇
午後の古の塔では、作業場の窓から柔らかな光が差し込んでいた。
アルとセリーは午前中に書いた森の記録を引き出しへ収めたあと、昼食を挟んで記録板の試作へ戻っていた。
作業台には昨日作った木製留め具と、練習用の端材が並んでいる。
アルはまず、昨日の試作品をもう一度動かしてみた。
細い丸棒を軸にした木片は滑らかに持ち上がるが、反対側の受けへ収めるときには少し引っかかる。
その状態を確かめてから、セリーが提案した紙の位置決めを試すことにした。
「最初から記録板を削るのはやめて、練習用の端材に浅い段差を作ってみよう。紙がずれなくなるか確かめたいんだ」
「はい。紙の端が傷まないように、段差の角も少し丸くしておくとよいかもしれません」
アルは頷き、端材へ印を付けた。
紙の上端が軽く当たる程度の浅い段差を作るだけなので、大きく削る必要はない。
それでも、深くしすぎれば紙を差し込むときに引っかかる可能性があるため、少しずつ形を整えていった。
セリーは隣で紙を持ち、削った部分へ当てては位置を確かめた。
「主様。今の深さでしたら、紙を置くときに引っかかりません。ただ、横へ動かすとまだ少しずれてしまいますね」
「そうだね。上だけじゃなくて、片側にも目印があるといいのかな」
「はい。ただ、両側を囲んでしまうと、紙の大きさが少し違うだけで使えなくなってしまいます」
アルはその指摘に頷き、端材を見つめた。
記録板は、森で見つけたものや気づいたことを書き留めるための道具だ。
紙の大きさを厳密に揃えなければ使えないのでは、かえって不便になってしまう。
「じゃあ、片側だけに小さな目印を付けようか。紙の角をそこへ合わせれば、置く位置は分かるけど、少し大きさが違っても使えると思う」
「それでしたら、よいかもしれません。私も試してみたいです」
二人は細い木片を使い、紙の左上の角を合わせるための小さな受けを仮置きした。
セリーが紙を置いてみると、以前よりも位置を決めやすくなった。
ただし、木片の留め具を閉じるときには、まだ紙がわずかに動いてしまう。
「うーん。少しはよくなったけど、これだけじゃ足りないね」
アルは紙を持ち上げ、木片の下側を確かめた。
木の表面は滑らかに磨かれているため、紙を傷めにくい一方で、押さえる力が弱いと滑りやすい。
アルがそのことを口にすると、セリーはしばらく考えたあと、棚に置かれた布の端切れへ目を向けた。
「主様。木片の下へ、薄い布を当ててみるのはいかがでしょうか。紙と木が直接触れなくなりますし、少しは滑りにくくなるかもしれません」
「布か。確かに、試してみる価値はありそうだね」
アルは布の端切れを受け取り、木片の下側へ当ててみた。
そのままでは布がずれてしまうため、まずは小さく切った布を仮に挟み、紙を押さえたときの違いだけを確かめることにした。
セリーが紙を置き、アルが木片を下ろす。
今度は紙が以前より動きにくくなった。
「お、これはいいかもしれない」
アルが端材を少し傾けると、紙はすぐには滑らなかった。
ただし、布の厚みが加わったことで、木片の先端が受けへ収まりにくくなっている。
セリーはその様子を見つめ、静かに頷いた。
「紙を押さえる点では改善しましたが、留め具の開閉には別の調整が必要ですね」
「そうだね。でも、何を変えればいいのか少し分かってきた気がする」
アルは木片を持ち上げ、布を外した状態と比べてみた。
紙を傷めずに押さえるためには、木片の下側へ柔らかな素材を当てる方法が使えるかもしれない。
ただし、布が濡れたり汚れたりした場合のことも考える必要がある。
森で使う道具なのだから、晴れた日だけでなく、湿った地面や急な天候の変化にもある程度対応できた方がよい。
「布を使うなら、取り替えられるようにしたいな。汚れたときに外せないと困るし」
「はい。縫いつけるよりも、取り外せる形がよいかもしれません。ただ、今の小さな木片へ布を固定する方法は、もう少し考える必要がありますね」
アルは頷き、試作品を作業台へ置いた。
昨日までは、木片をどのように固定するかという問題だけを考えていた。
けれど今日は、紙の位置を決める方法や、接触する素材を変える方法も見えてきた。
それらを一度に完成させようとする必要はない。
アルは新しい紙を取り出し、今日試した内容を書き留めた。
「紙の位置決めは効果あり。ただし、留め具を閉じるときのずれは残る。薄い布を挟むと滑りにくくなるけど、開閉が少し難しくなる……こんなところかな」
「はい。布の固定方法については、まだ決まっていないことも書いておきましょう」
セリーはそう言い、アルの隣へ椅子を寄せた。
二人は試作品を見比べながら、今日分かったことと、次に確かめたいことを整理していった。
作業がひと区切りついた頃、アルは窓の外へ目を向けた。
午前中より日差しが傾き、森の木々の影が長く伸び始めている。
「今日は、思ったよりいろいろ分かったね。森の道も見に行けたし、記録板の方も少し進んだ」
「はい。主様と一緒に考える時間が、とても楽しかったです」
セリーは微笑み、作業台の上へ視線を落とした。
「ただ、私は一つ気づいたことがあります」
「うん。どんなこと?」
「記録板を作る目的は、森で見つけたことを書き留めるためでしたよね。ですが、今日のように作業場で試したことも記録しておけば、あとから見返すことができます」
アルは彼女の言葉を聞き、机の上に並ぶ紙を見つめた。
森の入口で見つけた石についての記録。
留め具の試作で分かったことを整理した記録。
どちらも、まだ分からないことを含んでいる。
それでも、書き残しておくことで、次に何を確かめればよいのかが見えてくる。
「そうだね。記録板を作ってる途中のことも、ちゃんと残しておきたいな」
「はい。完成した道具だけではなく、そこへ至るまでの工夫も、主様と私が一緒に考えた大切なものですから」
アルはセリーの言葉に微笑み、そっと頷いた。
◇
夕方、二人は作業場を片づけたあと、塔の廊下をゆっくり歩いていた。
昨日見つけた窓辺の景色をもう一度眺めようという話になり、食堂へ戻る前に少し遠回りをすることにしたのだ。
廊下の窓からは、森の木々が夕日に照らされているのが見えた。
朝には明るい緑色だった葉も、今は金色を帯びた柔らかな光に包まれている。
アルは窓辺で足を止め、午前中に見た森の入口がどのあたりにあるのかを探した。
木々の影に隠れて直接見ることはできなかったが、あの道がこの森のどこかへ続いているのだと思うと、少しだけ胸が弾んだ。
「セリー。今日、あの道を見つけられてよかったよ」
「はい。私もそう思います。ただ、主様が奥まで進もうとなさらなかったので、安心いたしました」
アルは彼女の方へ顔を向け、少し照れたように笑った。
「さすがに、雨上がりの知らない道を無理に進むつもりはないよ。セリーと一緒に歩くんだから、安全な方がいいしね」
その言葉を聞いたセリーは、ほんの少し目を見開いた。
彼女はすぐには返事をせず、窓の外へ視線を戻した。
夕日の光が横顔を照らし、その表情には穏やかな喜びが浮かんでいる。
「……ありがとうございます、主様」
しばらくして返ってきた声は、いつもより少し柔らかかった。
「私は、主様が新しい景色をご覧になることを楽しみにしています。ですが、それと同じくらい、主様が無事に塔へ戻ってこられることも大切だと思っています」
「うん。俺も同じだよ。知らない場所へ行くのは楽しみだけど、帰ってきて一緒に夕飯を食べたり、今日のことを話したりする時間も大事だから」
アルはそう答え、窓辺へ置いていた手をゆっくりと下ろした。
セリーはその動きに気づき、少しだけ迷ったあと、自分から手を差し出した。
アルは自然にその手を取り、指先を優しく包んだ。
以前なら、こんなふうに手をつなぐことにも戸惑いがあった。
今でも胸が少し高鳴ることはあるが、それ以上に、隣にいる相手と同じ時間を過ごせることが嬉しかった。
「主様。森へ出かけるときには、昼食も持っていきましょうね」
「もちろん。前に話したみたいに、どこか落ち着いて座れる場所が見つかったら、そこで一緒に食べたいな」
「はい。どのようなお料理がよいか、今から少しずつ考えておきます」
セリーは楽しそうに微笑み、アルの手をそっと握り返した。
アルはその表情を見つめながら、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、セリー。前に箱へ入れた願い事の紙にも、知らない景色を一緒に見に行きたいって書いてくれてたよね」
「はい。覚えていてくださったのですね」
「もちろん。俺にとっても、楽しみにしてることだから」
セリーは少し頬を染め、視線を落とした。
アルは彼女の手を握ったまま、窓の外へ目を向けた。
森の道はまだ十分に確かめられていない。
記録板も完成していない。
持っていく昼食も、出かける日も決まっていない。
けれど、その一つ一つを二人で相談しながら決めていく時間が、アルには何よりも楽しく思えた。
「急がなくていいよね。道の状態も、記録板も、少しずつ確かめていけばいい」
「はい。私も、主様と一緒に準備する時間を大切にしたいです」
二人はしばらく窓辺に立ち、夕暮れの森を眺めていた。
やがて食堂の方から、夕食の準備を始める時間を知らせる柔らかな音が聞こえてくる。
セリーが顔を向けると、アルは小さく頷いた。
「そろそろ戻ろうか。今日は俺も料理を手伝いたいな」
「ありがとうございます。では、野菜を切るところからお願いしてもよろしいでしょうか」
「うん。今日はどんな料理にする?」
「温かな煮込みを考えています。昨日とは少し違う香草を使ってみたいのですが、主様のお好みに合うかどうか、一緒に確かめていただけると嬉しいです」
アルは笑みを浮かべ、セリーと並んで廊下を歩き始めた。
塔の外には、まだ知らない道が続いている。
その先に何があるのか、今は分からない。
けれど、知らないことを無理に知ったことにせず、一つずつ確かめていけばいい。
そして、その過程で見つけた景色や小さな発見を、隣にいるセリーと分かち合えたら、それだけで十分に幸せなのだと思えた。
夕暮れの光が差し込む廊下を、二人は手をつないだまま歩いていった。
その足取りはゆっくりとしていたが、アルの胸には、これから始まる新しい散歩への期待が静かに広がっていた。




