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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第150話 小さな留め具に込めた工夫と、完成を急がない二人の約束


 古の塔の朝は、窓の外から聞こえる鳥の声と、厨房から漂う温かな香りとともに始まった。


 昨夜のうちに弱い雨が降ったらしく、庭の石畳にはところどころ水の跡が残っている。森の木々も朝日に照らされて瑞々しく輝き、開け放たれた食堂の窓からは、湿り気を含んだ涼しい風が流れ込んでいた。


 アルが食堂へ入ると、セリーはちょうど焼きたてのパンを籠へ移しているところだった。彼女はアルに気づくと手を止め、柔らかな笑みを浮かべて朝の挨拶をした。


「おはようございます、主様。昨夜は雨が降りましたので、今朝は少し涼しくなりましたね。お部屋は寒くありませんでしたか」


「おはよう、セリー。大丈夫だったよ。むしろ、雨の音が気持ちよくて、いつもよりよく眠れた気がする」


「それでしたら安心いたしました。今日は昨日の作業の続きをなさる予定でしたね。朝食のあと、作業場の準備をお手伝いしてもよろしいでしょうか」


 セリーの声には、普段の丁寧さに加えて、楽しみにしていたことを確かめるような弾みがあった。


 アルは椅子へ腰を下ろしながら、昨日の作業場での出来事を思い返した。


 森の散歩へ持っていくための記録板は、まだ一枚の木板に近い状態だ。それでも表面を磨き、四隅を丸くし、実際に持って歩いてみたことで、使いやすさについていくつもの発見があった。


 何より嬉しかったのは、セリーが自分から使い方を試し、気づいたことを伝えてくれたことだった。


「もちろん。今日は紙を留める仕組みを考えたいんだけど、昨日試した細い木片をもう少し工夫できないかなって思ってるんだ」


「昨日は紐で押さえてみましたが、紙を取り外すときに少し引っかかってしまいましたね。あの木片を使うのでしたら、押さえる力を簡単に変えられるとよいのですが」


「そうなんだよね。紙を差し込むときは緩くて、書くときは動かない。そんなふうにできれば便利なんだけど」


 アルはパンを一口食べ、香ばしい表面の下にある柔らかな生地を味わった。


 以前なら、便利な道具が必要になれば、塔に残された魔導具の中から似たものを探していたかもしれない。エルに尋ねれば、何らかの仕組みを見つけられる可能性もある。


 けれど、今回の記録板については、自分の手で作ってみたいという気持ちが強かった。


(難しい仕組みじゃなくてもいいんだ。自分で考えて、実際に使ってみて、少しずつ直していく。それが今は楽しいんだから)


 アルがそんなことを考えていると、セリーが向かいの席へ腰を下ろした。


「主様。今日は一つ、私から試してみたいことがあります」


「うん。どんなこと?」


「昨日の木片を押さえる方法なのですが、紐を使わずに、木そのものの形で固定することはできないでしょうか。箱の蓋を作ったとき、位置を合わせるための枠を使いましたよね。あのときのように、木片が収まる場所を作ることはできないかと思ったのです」


 アルはすぐに答えず、頭の中で板と木片の形を思い浮かべた。


 完成した木箱の蓋には、蝶番を使っていない。裏側の位置決め枠によって横ずれを防ぎ、持ち上げれば簡単に取り外せる構造になっている。


 同じものを記録板へ取り付けるわけにはいかないが、木片を一定の位置へ収めるという考え方は使えるかもしれなかった。


「なるほど。木片がずれないようにする場所を作るんだね。でも、紙を押さえるには、上から少し力が掛からないといけないよね」


「はい。ですから、まだ形までは分かりません。ただ、昨日のように紐を締め直さなくても済む方法があればと思いまして」


「いいね。じゃあ、今日はその考えも試してみよう。うまくいかなかったとしても、何が難しいのか分かると思う」


 セリーは嬉しそうに頷き、温かなスープへ視線を落とした。


 朝食の間、二人は木片の長さや厚みについて話し合った。


 アルは紙を押さえる部分が大きすぎると書くときに邪魔になると考え、セリーは取り外すときに指を掛けられる場所が必要ではないかと提案した。


 どちらも実際に作ってみなければ分からないことだったが、二人の会話は自然と弾んでいった。


     ◇


 朝食を終えた二人が作業場へ入ると、昨日片づけた道具が整然と棚へ並んでいた。


 窓から差し込む光はまだ柔らかく、木材を保管している棚の奥まで明るく照らしている。昨夜の雨の影響で外気は少し湿っていたが、作業場の中に保管されている木材は乾いた状態を保っていた。


 アルは棚から記録板を取り出し、作業台の中央へ置いた。


 表面は滑らかに磨かれ、四隅には緩やかな丸みが付いている。昨日、二人で持ち比べながら調整した部分は、今朝改めて触れてみても手に馴染んだ。


「まずは昨日の木片を使ってみようか。いきなり板に溝を掘ると、失敗したときに直しにくいから、別の端材で試すのがよさそうだね」


「はい。主様、こちらの板でしたら、厚みも近いと思います。練習用として使ってもよろしいでしょうか」


 セリーが差し出したのは、記録板より少し小さな端材だった。


 アルは厚みを確かめてから頷き、作業台へ並べた。


「これなら十分だね。まずは細い木片を固定するための場所を考えよう」


 二人は昨日使った細長い木片を取り出し、端材の上へ置いた。


 木片をそのまま載せただけでは、紙を押さえることはできない。両端を何らかの方法で支え、木片が浮き上がらないようにする必要があった。


 アルは木片の両端へ小さな印を付け、端材の上に薄い木の受けを仮置きしてみた。


「こんなふうに、両端を上から押さえる形ならどうかな。木片を横から差し込めば、紙を留められるかもしれない」


 セリーは身を乗り出し、木片と受けの位置を確かめた。


「なるほど。ですが、横から差し込むのでしたら、紙を置いたあとに木片を動かすことになりますね。そのとき、紙まで一緒にずれてしまわないでしょうか」


「……ああ、そうか。それは考えてなかった」


 アルは試験用の紙を端材へ載せ、木片を横から滑らせてみた。


 すると、木片の下側が紙の表面へ触れ、紙の端がわずかに曲がってしまった。


 強い力を掛けたわけではないが、何度も繰り返せば紙を傷める可能性がある。


「確かに、これだと使いにくいね。紙を置いたあと、上から木片を下ろせる方がよさそうだ」


「はい。ただ、上から置くだけでは固定できませんので、別の工夫が必要ですね」


 セリーは曲がった紙の端を丁寧に伸ばし、作業台へ戻した。


 アルはその様子を見ながら、別の方法を考え始めた。


 木片の片側だけを固定し、反対側を持ち上げられるようにすれば、紙を置いてから閉じることができるかもしれない。


 しかし、木だけでその仕組みを作るには、接続部分の強さが問題になる。


「片側だけ動くようにするのはどうだろう。箱の蓋とは違うけど、小さな扉みたいに開けられれば、紙を置きやすそうだよね」


「蝶番のような仕組みでしょうか」


「うん。でも、金具を使うほど大きなものでもないし、できれば簡単な形にしたいんだ」


 アルは木片を持ち上げ、端の部分を指で押さえながら動かしてみた。


 その動きを見ていたセリーは、少し考え込んだあと、作業場の棚へ目を向けた。


「主様。細い木の棒を軸にすることはできないでしょうか。小さな穴を開けて通せば、片側を中心に動かせるかもしれません」


 アルは彼女の指さす棚を見た。


 そこには、以前の工作で余った細い丸棒が何本か保管されている。


「なるほど。軸を作るんだね。それなら試せるかもしれない」


 アルは丸棒を一本取り出し、細長い木片の端へ当ててみた。


 木片を回転させるためには、軸を支える部分も必要になる。細かな加工が必要だが、仕組みそのものは難しくない。


「まずは練習用の端材でやってみよう。うまく動いたら、記録板へ取り付ける方法を考えればいいし」


「はい。私もお手伝いいたします」


 二人は作業台の上へ道具を並べ、寸法を確かめ始めた。


 アルが木片へ印を付け、セリーがその位置を確認する。小さな部品だけに、少し位置がずれると動きに影響する可能性があった。


 アルは慎重に穴を開け、丸棒を通してみた。


 最初の試作品は穴が少しきつく、木片を動かそうとすると軸まで一緒に回ってしまった。


「思ったより難しいね。もう少し余裕が必要かな」


「はい。ただ、緩くしすぎると木片が傾いてしまうかもしれませんので、少しずつ調整しましょう」


 セリーは木片の動きを確かめ、どの部分が引っかかっているのかを指さした。


 アルはその部分をわずかに削り、もう一度丸棒を通した。


 今度は木片が滑らかに動いた。


「お、動いた」


 アルが木片を持ち上げると、セリーも嬉しそうに目を細めた。


「はい。主様、先ほどよりずっと自然に動いています」


「うん。でも、まだ紙を押さえる力はないね」


 アルは木片を下ろし、端材の上へ重ねた紙を見た。


 木片は自分の重さで紙へ触れているだけで、板を傾ければ紙は簡単にずれてしまう。


 動かす仕組みはできたが、固定する仕組みはまだ必要だった。


「ここからが問題だね。閉じたときだけ、軽く留まるようにできればいいんだけど」


 セリーは木片の反対側へ指を添え、少しだけ押してみた。


「この端を押さえる小さな受けがあれば、木片が浮き上がらなくなると思います。ただ、外すときに強い力が必要にならない形がよいですね」


「そうだね。無理に引っ張らないと外れないようじゃ、紙を傷めるかもしれない」


 二人はしばらく考え、木片の先端を浅い受けへ差し込む方法を試すことにした。


 受けは固定したまま、木片を少し持ち上げて外せる形にする。


 ただし、木材は金属のように大きくしならないため、強く噛み合わせることは避けた。


 アルは小さな端材を削り、木片の先端が軽く収まるくぼみを作った。


 その受けを仮置きして木片を下ろすと、先端がくぼみへ入った。


「……これなら、少しは留まるかな」


 アルが端材を傾けると、紙はすぐには落ちなかった。


 しかし、少し強く揺らすと木片が浮き、紙が滑り出してしまう。


「まだ弱いね。でも、最初よりはよくなったかな」


「はい。紙を押さえる力が少し生まれました。ただ、今のままでは持ち運ぶときに外れてしまうかもしれません」


 セリーは落ちかけた紙を受け止め、端材へ戻した。


 アルは木片の先端を眺めながら、少し考えた。


 もっと強く固定すれば紙は動かなくなるかもしれない。


 だが、そうすると外しにくくなる。


 その二つの条件を両立させるには、もう少し工夫が必要だった。


「今日は、この仕組みが動くところまで確認できたから十分かな。固定する方法は、もう少し考えてみたい」


「はい。私も、急いで形を決める必要はないと思います」


 セリーはそう答え、試作品を丁寧に作業台へ置いた。


 アルはその横顔を見つめ、穏やかに微笑んだ。


「ありがとう、セリー。今日は君の考えがなかったら、ここまで試せなかったよ」


「私も、主様が実際に作ってくださったから、考えていたことを確かめられました。ですから、こちらこそありがとうございます」


 二人は顔を見合わせ、小さく笑った。


     ◇


 昼食の時間が近づく頃、アルは試作品を棚へ移し、作業台を片づけ始めた。


 木片を削ったことで細かな木屑が広がっていたため、セリーは布を持ってきて机の表面を拭いた。


「主様。今日は小さな部品を作りましたので、いつもより細かな木屑が多いですね」


「そうだね。大きな板を切るときとは違って、少し削るだけでも気を使うよ」


「ですが、主様は何度も確認しながら進めていらっしゃいましたから、無理に削りすぎることはありませんでしたね」


 アルは木屑を集めながら、少し照れたように笑った。


「失敗したくないって気持ちもあるけど、それ以上に、どこを変えたらどうなるのか知りたいんだ。大きく削っちゃうと、何が原因だったのか分からなくなりそうだから」


「なるほど。少しずつ変えることで、違いを確かめられるのですね」


「うん。たぶん、そういうことなんだと思う」


 アルは作業台を見渡し、道具が片づいたことを確かめた。


 まだ完成していない記録板と、今日作った小さな留め具の試作品。


 どちらも、今すぐ森へ持っていけるものではない。


 それでも、昨日より確かに進んでいた。


 セリーは棚へ置かれた試作品を眺め、ふと口を開いた。


「主様。私は以前、何かを作るときには、できるだけ早く正しい形へ近づけることが大切だと思っていました」


 アルは彼女へ顔を向けた。


「今は違うの?」


「はい。もちろん、使いやすいものを作ることは大切です。ですが、主様と一緒に試していると、途中で分かったことにも意味があるのだと思うようになりました」


 セリーは少し考え、言葉を続けた。


「今日の試作品も、まだ完成ではありません。けれど、私は作っている時間が楽しかったのです。うまく動かなかったところを直して、少し動くようになったとき、とても嬉しく感じました」


 アルは彼女の言葉を聞き、自然と表情を和らげた。


 セリーが自分の楽しさを、こんなふうに言葉にしてくれることが嬉しかった。


「俺も同じだよ。完成したらもちろん嬉しいと思うけど、作ってる途中も楽しいんだ」


「はい。ですから、急いで完成させるよりも、主様と一緒に確かめながら進めたいと思います」


 セリーはそう言い、アルの方へ微笑みかけた。


 アルは頷き、彼女の気持ちを受け止めた。


「じゃあ、これからもそうしよう。完成を急がずに、ちゃんと使いやすいものを作ろう」


「はい。お約束です」


 セリーは嬉しそうに答えた。


     ◇


 その日の午後、王都の魔導研究院では、フェリクス・ハルトマンが古い記録の照合作業を続けていた。


 机の上には、これまでに確認した規定の写しと、まだ判読できていない断片が並んでいる。


 彼が調べているのは、古代の施設で行われていた確認手続きと、その判断をどのように記録していたかという問題だった。


 すでに、確認担当者が変更された場合には、確認済みの事項と未確認事項、判断を保留した理由を区分して記録する必要があったことが分かっている。


 さらに、記録を受け取ることは以前の判断を認めることと同じではなく、保留理由が解消された場合でも、過去の判断が自動的に有効になるわけではないという規定も見つかっていた。


 だが、それらはあくまで一般的な規定であり、具体的な施設へどのように適用されていたかは不明だった。


 フェリクスは新しく整理された資料を手に取り、慎重に文字を追った。


 そこには、確認記録の一部が欠けている場合について述べたらしい文章が残されていた。


 ただし、前半が大きく損なわれており、何を対象とした記録なのかは読み取れない。


 彼は判読できる部分だけを紙へ写し、欠けている箇所には印を付けた。


(欠落した記録を、存在しなかったものとして扱わないための規定なのだろうか。いや、そこまで判断するには材料が足りない)


 フェリクスは筆を止め、原本の状態を確かめた。


 古い紙の端は失われ、残された文字も一部が薄くなっている。


 読み取れる範囲だけでは、記録の欠落をどのように扱うべきだったのか、具体的な手順までは分からなかった。


 彼は資料の余白へ、慎重に注記を書き加えた。


『確認記録の欠落範囲に関する記述あり。適用対象、判断権限および具体的な処理方法は未確認』


 そこまで書いたところで、研究院の助手が別の資料を持ってきた。


「ハルトマン様。昨日ご依頼のあった保存台帳ですが、該当する年代のものを確認できました。ただ、資料番号の一部が欠けております」


「ありがとう。欠けている番号を推測で補わず、そのまま写してくれたかな」


「はい。確認できた番号だけを記載し、不明な部分は空欄にしてあります」


「それでいい。番号が続いているように見えても、途中に別の資料が存在した可能性はあるからね」


 助手は頷き、写しを机の端へ置いた。


 フェリクスは資料を受け取り、内容を確認した。


 そこには複数の記録群が保管されていたことを示す項目が並んでいたが、現在調べている規定と直接結びつく証拠は見つからなかった。


 それでも、どの資料が残り、どの資料が失われているのかを整理することには意味がある。


 フェリクスは新しい写しを既存の記録と分けて置き、確認できた事実だけを報告書へまとめ始めた。


 ブラートへ送る報告には、今回の断片を添えるつもりだった。


 ただし、何かの結論を急ぐためではない。


 確かめられたことと、まだ分からないことを区別するためだった。


     ◇


 同じ頃、古い療養施設の三〇八号室では、ヨアヒムが少年の体調を確かめていた。


 窓の外には明るい空が広がり、遠くの木々が風に揺れている。


 少年は寝台の上で上体を起こし、ヨアヒムの手元をじっと見つめていた。


「きょうは、パンのにおい、できる?」


 少年が尋ねると、ヨアヒムはすぐには答えず、手元の記録を確かめた。


「今日は、まだ新しい予定は決まっていないよ。前に試したときのことも含めて、担当者が体調への影響を確認しているところなんだ」


 少年は少し考え込んだ。


 以前、窓辺で焼きたてのパンの香りを感じたとき、少年は温かな匂いが嬉しいと話していた。


 その一方で、食べられないことを悲しく感じ、途中で自分から試験を終えたいと伝えていた。


 ヨアヒムは、その両方の気持ちを記録に残している。


「ぼく、あのにおい、すきだった」


「うん。そう言ってくれたね」


「でも、たべられないの、かなしかった」


 少年は膝の上で手を重ね、窓の方へ目を向けた。


 ヨアヒムは椅子を少し近づけ、少年の表情を確かめながら頷いた。


「そうだったね。嬉しい気持ちも、悲しい気持ちも、どちらも大切なことだと思うよ」


「……また、においだけでも、いい?」


「また試せるかどうかは、担当者と相談してからになるよ。君が望んでいることは伝えるけれど、今日すぐにできるとは約束できないんだ」


 少年は少し残念そうにしたものの、やがて小さく頷いた。


「わかった。まつ」


 ヨアヒムはその返事を聞き、少年の気持ちを記録へ書き加えた。


 少年が再び香りを感じてみたいと望んでいること。


 以前の試験で悲しさを感じたことも覚えていること。


 そして、実施できるかどうかはまだ決まっていないと理解していること。


 それらを分けて記録することが必要だった。


「ヨアヒム」


 少年が小さく呼ぶと、彼は顔を上げた。


「どうしたんだい」


「まちのパンやさん、まだ、いけない?」


 ヨアヒムは少年の目を見つめ、穏やかな声で答えた。


「町へ出かけることは、まだ許可されていないよ。香りを試すこととは別に、安全に移動できるかどうかも確かめなければならないからね」


「……そっか」


 少年は窓の外へ視線を戻した。


 その表情には残念そうな色が浮かんでいたが、ヨアヒムは無理に励ます言葉を重ねなかった。


 少年が自分の望みを伝えられること。


 そして、その望みがすぐに叶わないときにも、気持ちを言葉にできること。


 それらを大切にしたかった。


「行けるようになるかどうかは、まだ分からない。でも、君が行ってみたいと思っていることは、ちゃんと覚えているよ」


 ヨアヒムがそう告げると、少年はゆっくりと顔を向けた。


「……わすれない?」


「忘れないように、記録にも残してあるよ」


 少年は少し安心したように微笑んだ。


「じゃあ、いい」


 ヨアヒムはその言葉を聞き、静かに頷いた。


 窓の外では、風に揺れた葉が陽光を反射している。


 少年の願いは、まだ叶っていない。


 けれど、本人が望んでいるという事実は、確かに残されていた。


     ◇


 古の塔では、夕方の光が作業場の窓から差し込んでいた。


 アルは昼食後に少し休んでから、セリーとともに午前中の試作品をもう一度確かめていた。


 木片を動かす軸は問題なく機能しているが、先端を固定する部分にはまだ改善の余地がある。


 アルは試作品を持ち上げ、紙を差し込む動作を繰り返してみた。


「やっぱり、留めるときに少し力が必要だね。これだと、片手で使うのは難しいかな」


「はい。ですが、紙を置くときには安全な場所で立ち止まる予定ですから、必ずしも片手だけで操作できる必要はないと思います」


 セリーはそう答え、試作品を受け取った。


 彼女は木片を持ち上げ、紙を置いてからゆっくりと下ろした。


 先端が受けへ収まると、紙は軽く固定された。


「主様。今の形でしたら、両手を使えば紙を留めることはできます。ですが、外すときに少し引っかかることが気になります」


「そうだね。何度も使うものだから、無理な力が必要なのは避けたいな」


 アルは試作品を受け取り、木片の先端を眺めた。


 受けのくぼみが深すぎるのかもしれない。


 あるいは、木片の形を少し変えれば、滑らかに外せるようになるのだろうか。


 考えられることはいくつもあったが、どれが正しいのかはまだ分からなかった。


「今日は、ここまでにしておこうか。無理に削って失敗するより、明日また落ち着いて考えた方がよさそうだ」


「はい。私もそう思います」


 セリーは頷き、試作品を作業台へ置いた。


 アルはその横に記録板を並べ、二つを見比べた。


 昨日までは、紙を留める方法について具体的な形が見えていなかった。


 けれど今日は、小さな木片を動かす仕組みを試すことができた。


 まだ完成ではないものの、何ができて、何ができないのかは少しずつ分かってきている。


「こうして並べると、なんだか不思議だね」


 アルが呟くと、セリーが顔を向けた。


「何がでしょうか」


「最初は、ただの板だったんだ。それが、使ってみるうちに角を丸くしたり、紙を留める方法を考えたりして、少しずつ形が変わってきた」


 アルは記録板の表面へ手を置き、穏やかに微笑んだ。


「完成したものを最初から作ろうとしてたら、きっと気づかなかったことも多かったと思う」


 セリーはその言葉を聞き、少し考えたあとで頷いた。


「はい。私も、今日の作業で同じことを感じました。作る前に考えていたことと、実際に使ってみて分かったことは、必ずしも同じではありませんでしたから」


「そうだね。だから、これからも試しながら作っていこう」


「はい。主様と一緒に」


 セリーはそう答え、嬉しそうに微笑んだ。


 アルは彼女の表情を見つめ、胸の奥が温かくなるのを感じた。


(こういう時間を、これからも一緒に過ごしていきたいな)


 その思いを言葉にする代わりに、アルはそっと手を差し出した。


 セリーは少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに微笑み、アルの手を取った。


「主様。今日は、少しだけ遠回りをして食堂へ戻りませんか」


「遠回り?」


「はい。廊下の窓から、夕方の森がよく見える場所があります。今日は雨上がりですから、いつもとは少し違う景色になっているかもしれません」


 アルは彼女の提案に笑みを浮かべた。


「いいね。せっかくだから、見に行こうか」


 二人は作業場の明かりを落とし、並んで廊下へ出た。


 塔の中は静かで、遠くから微かな風の音が聞こえている。


 セリーに案内されて窓辺へ向かうと、森の木々が夕日に照らされ、濡れた葉の表面が柔らかく輝いていた。


 アルは窓の外を眺め、しばらく言葉を失った。


 朝とは違う光の中で、森は落ち着いた色合いに変わっている。


 遠くの枝には小鳥が止まり、時折羽を震わせていた。


「……綺麗だね」


 アルがそう言うと、セリーも隣で頷いた。


「はい。主様にお見せしたいと思っていました」


「ありがとう。こんな場所があったんだね」


「以前から窓があることは知っていましたが、こうして景色を眺めることは、あまりありませんでした」


 セリーは窓の外へ目を向け、静かに言葉を続けた。


「主様と暮らすようになってから、同じ場所でも、以前とは違って見えることがあります。今日の景色も、その一つなのだと思います」


 アルは彼女の横顔を見つめた。


 夕日の光がセリーの髪を柔らかく照らし、その表情には穏やかな喜びが浮かんでいる。


「俺もだよ。前だったら、綺麗な景色を見ても、少し眺めて終わってたかもしれない。でも今は、セリーにも見せたいって思うんだ」


 セリーはゆっくりと顔を向けた。


「……私も、同じです」


 二人はしばらく見つめ合い、それから自然に微笑んだ。


 手をつないだまま、窓の外へ視線を戻す。


 森の向こうには、まだ歩いたことのない道が続いている。


 その道へ持っていく記録板は、まだ完成していない。


 けれど、今日もまた、二人で新しいことを見つけることができた。


 アルは隣に立つセリーの手を優しく握り返し、穏やかな夕暮れの景色を眺め続けた。


 完成を急がなくてもいい。


 少しずつ考え、試し、時には失敗しながら、自分たちの暮らしに合うものを作っていけばいい。


 その時間を一緒に楽しめる相手がいることを、アルは心から嬉しく思っていた。


 やがて夕日が森の向こうへ沈み始めると、セリーはアルの方へ顔を向けた。


「主様。そろそろ夕食の準備を始めましょうか」


「そうだね。今日は何を作る予定?」


「温かな野菜の煮込みを考えていましたが、主様がよろしければ、昨日とは少し違う味付けを試してみたいと思っています」


「いいね。じゃあ、今日も俺に手伝えることがあったら教えて」


 セリーは嬉しそうに頷いた。


「はい。では、今日も一緒に作りましょう」


 二人は窓辺を離れ、厨房へ向かって歩き始めた。


 作業場には、まだ完成していない小さな記録板が残されている。


 その隣には、今日作った留め具の試作品が置かれていた。


 明日になれば、また新しい工夫を思いつくかもしれない。


 あるいは、今日の形を少し直すだけで、使いやすくなるかもしれない。


 どちらでも構わなかった。


 アルにとって大切なのは、完成した道具を手に入れることだけではない。


 自分で考え、セリーと相談し、一緒に試してみること。


 そして、その過程で生まれる小さな発見や喜びを、二人で分かち合うことだった。


 塔の廊下には、二人の穏やかな足音が響いていた。


 夕食の準備を始めるために厨房へ向かうその時間さえ、今のアルにとっては、誰にも奪われたくない自由な暮らしの一部になっていた。


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