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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第149話 持ち歩くための工夫と、二人で見つける使いやすさ



 朝の光が古の塔の窓を通り抜け、食堂の床へ柔らかな四角い模様を落としていた。森から吹き込む風には夜の冷たさが少し残っていたが、厨房ではすでに火が使われており、焼きたてのパンと温かなスープの香りが漂っている。


 アルが食堂へ入ると、セリーは朝食の準備を終えたところだった。いつものように食器を並べていた彼女は、アルの姿を見つけると手を止め、嬉しそうに微笑んだ。


「おはようございます、主様。今朝はよくお休みになれましたか」


「おはよう、セリー。うん、ぐっすり眠れたよ。昨日は作業場で木を切ったから、少し疲れてたのかもしれないね」


「それでしたら、今日は無理をなさらないでくださいね。昨日お作りになった板を試す予定ですが、急いで完成させる必要はありませんから」


 セリーはそう言いながら、アルの席へスープを運んだ。器から立ち上る湯気が朝日に照らされ、二人の間でゆっくりと揺れている。


「ありがとう。でも、今日は昨日よりも楽しみなんだ。形を作るところまでは進んだから、実際に使ってみると何が分かるのか気になってる」


「私も楽しみです。主様が作られたものを、私も一緒に試してよいとおっしゃってくださいましたから」


 セリーは向かいの椅子へ腰を下ろし、嬉しそうに両手を膝の上で重ねた。昨日、記録板が完成したら自分も使ってみたいと伝えたことを、彼女はよく覚えているようだった。


 アルはパンを手に取りながら、昨日の書斎での会話を思い出した。


(俺が作りたいものを、セリーも使いたいと思ってくれた。それって、考えてみるとすごく嬉しいことだよな)


 以前のアルなら、自分の使う道具を誰かに作ってもらうことはあっても、使い方そのものを誰かと相談する機会は少なかった。王宮では便利なものが当然のように用意され、使いにくさを感じても、それを作った者と直接話すことなどほとんどなかったのである。


 けれど今は違う。


 自分で作り、セリーと相談し、実際に試してから直すことができる。


 その自由さが、アルには何より心地よかった。


「今日は、まず板を持って塔の中を歩いてみようと思うんだ。昨日は作業台の前でしか使ってないから、実際に持ち運ぶとどうなるか分からないしね」


「はい。では、私が紙と筆記具を用意いたします。ですが、主様。板だけでなく、普段のお散歩で持っていくものも一緒に持った方がよいのではありませんか」


「そうだね。板だけなら軽くても、ほかの荷物と一緒になると違うかもしれない」


 アルは頷き、少し考えた。


 昨日は板の厚みや大きさばかり気にしていたが、実際に森へ出かけるときには水や食事、必要な道具も持っていくことになる。記録板だけを特別扱いしても、使いやすさを正しく確かめることにはならないだろう。


「じゃあ、昨日の手提げ籠も使ってみようか。まだ遠くへ出かけるわけじゃないから、中身は軽いものでいいと思う」


「承知しました。ただ、持ち歩くときの重さを確かめるのでしたら、ある程度は普段の荷物に近づけた方がよいと思います」


「確かにそうだね。じゃあ、水を入れた容器と布、それから紙を入れてみよう」


 セリーは楽しそうに頷いた。


「はい。朝食が終わりましたら、一緒に準備いたしましょう」


 二人はそのあとも、今日の作業について話しながら朝食を楽しんだ。


 パンの表面は香ばしく、中は柔らかい。アルが昨日より少し焼き色が濃いことに気づいて尋ねると、セリーは火加減をわずかに変えてみたのだと説明した。


「昨日、主様が外へ持っていく食事についてお話しされていましたので、冷めたときの食感も少し考えてみたのです。ですが、今朝のパンは普段の朝食用ですから、特別な試作品というわけではありません」


「なるほど。じゃあ、今度冷めたパンを食べるときには、焼き色の違いも気にしてみようかな」


「はい。私も、食べやすさだけでなく、香りや硬さがどのように変わるのか確かめてみたいと思います」


 アルは彼女の返事を聞き、自然に笑みを浮かべた。


 森へ出かける予定は、まだ具体的な日取りが決まっていない。それでも、二人の暮らしにはすでに小さな楽しみが増え始めていた。


     ◇


 朝食を終えると、アルとセリーは作業場へ向かった。


 昨日切り出した長方形の板は、作業台の端に置かれたままになっている。角はまだ直角で、表面にも仕上げの磨きが必要だったが、紙を載せて使うための大きさは確保できていた。


 アルは板を手に取り、まず表面を確かめた。


「昨日は切ったところで終わったから、今日は最初に引っかかる部分がないか確認しよう。歩いているときに手を傷つけたら困るしね」


「はい。切り口の一部に、少しざらつきが残っています。紙を置いて使う場合にも、表面を整えておいた方がよさそうです」


 セリーは板の縁へ指を近づけ、木目に沿って慎重に状態を確かめた。アルも同じ場所へ触れ、確かに小さな引っかかりがあることに気づく。


「ここは軽く磨いておこうか。でも、角をどれくらい丸くするかは、持って歩いてから決めたいな」


「それがよいと思います。先に大きく削ってしまうと、あとから元へ戻せませんから」


 二人は作業台へ布を敷き、細かな研磨に使う道具を用意した。アルは木目に逆らわないように板の縁を整え、指で確かめながら少しずつざらつきを取り除いていく。


 セリーは隣で作業を見守っていたが、途中で板の向きを変えるよう提案した。


「主様。こちら側から光を当てると、表面の細かな凹凸が見えやすくなると思います」


「本当だ。さっきまで気づかなかったところも、少し光って見えるね」


 アルは板を窓の方へ傾け、光の反射を確かめた。


 木の表面には、切り出したときの細かな跡が残っている。筆記具を使うときに支障が出るほどではないが、紙を何度も載せたり外したりすることを考えると、整えておいた方がよさそうだった。


「じゃあ、表面も軽く磨いておこう。紙が引っかからないくらいになれば十分かな」


「はい。必要以上に薄くしないよう、少しずつ確認しながら進めましょう」


 作業を終える頃には、板の表面は指先で触れても引っかかりにくくなっていた。


 アルは木屑を払い、紙を載せてみた。


 紙の端は板の内側へ収まり、筆記具を動かしても大きくたわむことはない。


「うん。これなら、昨日より安心して使えそうだね」


「はい。ですが、まだ紙を留めるものがありませんので、持ち歩くときには別に保管する必要があります」


「そうだね。まずは今の状態で試して、それから留め方を考えよう」


 アルは板と紙を別々に持ち、セリーと一緒に作業場を出た。


 最初の試験場所は、塔の一階にある広い廊下だった。


 床は平らで障害物も少なく、窓から光が入るため、手元を確認しながら歩くには都合がよい。セリーは用意した手提げ籠を持ち、アルは板と紙を手にして廊下の端へ立った。


「じゃあ、まずは普通に歩いてみるよ。何か気づいたら教えて」


「承知しました。私は少し離れて、主様の手元を見ていますね」


 セリーは壁際へ移動し、アルが歩く様子を見守った。


 アルは板を左手で持ち、右手に紙を重ねたまま歩き始めた。最初の数歩では特に問題を感じなかったが、廊下の途中で紙を板の上へ載せようとすると、思ったよりも手間がかかった。


 板を支えたまま紙の向きを揃えるには、片手だけでは難しい。


 さらに、筆記具を取り出そうとすれば、もう一度何かを持ち替える必要がある。


「……ああ、そうか。書くときより、書く準備の方が大変なんだ」


 アルが足を止めると、セリーが近づいてきた。


「主様。どのあたりが使いにくかったのでしょうか」


「板を持って、紙を置いて、それから筆記具を出すだろう? でも、手は二本しかないから、途中でどれかを置かなきゃいけないんだ」


 アルは実際の動作をゆっくりと繰り返した。


 片手で板を支え、もう片方で紙を載せるところまではできる。しかし、紙がずれないように押さえながら筆記具を取り出すのは難しかった。


 セリーはその様子を見つめ、少し考えてから口を開いた。


「主様。もし紙が最初から板へ留められていれば、準備するものを一つ減らせるのではありませんか」


「うん。やっぱり、紙を押さえる仕組みは必要だね。昨日は風で飛ばされないようにすることばかり考えてたけど、準備のしやすさにも関係するんだ」


「はい。ですが、紙を留めたまま持ち歩くのでしたら、表面が傷まないようにする方法も必要になりますね」


 アルは頷き、板の上に紙を重ねた。


 昨日考えた二枚の板で挟む形なら、持ち運ぶときに紙を守ることはできるかもしれない。しかし、それだけでは書く準備を簡単にする問題が解決するとは限らなかった。


「二枚の板をつなぐ前に、紙を留めるところを試した方がよさそうだね」


「はい。まずは一枚の板で使いやすくしてから、持ち運ぶ方法を考えてもよいと思います」


 アルは彼女の提案に頷いた。


 作り始めたときには、二枚の板を開閉する仕組みを考えていた。だが、実際に歩いてみると、必要なものの順番が少し変わってきた。


(頭の中で便利だと思っていたものと、使ってみて必要だと感じるものは、同じとは限らないんだな)


 アルは板を持ち直し、今度はセリーへ差し出した。


「セリーも使ってみる? 俺とは違うところが気になるかもしれない」


「はい。ぜひ試してみたいです」


 セリーは板を受け取り、アルと同じように紙を重ねてみた。


 彼女はアルよりも手際よく紙を整えたが、筆記具を持つためには、やはり一度手を持ち替える必要があった。


「主様のおっしゃったことが分かりました。私も、紙を押さえる仕組みがあれば便利だと思います」


「そうだよね。ほかに気になるところはある?」


 セリーは少し考え、板の下側へ視線を落とした。


「私は、板の角が手に当たることが気になりました。今は痛くありませんが、長い時間持っていると、同じところへ力が掛かりそうです」


 アルは彼女の手元を覗き込んだ。


 セリーは板の下側を左手で支えており、角の一つが手のひらに触れている。アルが持ったときには少し違う位置を支えていたため、その点には気づかなかった。


「なるほど。じゃあ、角はやっぱり丸くした方がよさそうだね」


「はい。ただ、主様と私では持ち方が少し違いますので、どちらでも使いやすい形にできればよいと思います」


 アルは思わず笑みを浮かべた。


「一緒に試してよかったよ。俺一人だったら、そこまで気づかなかったかもしれない」


「私も、主様が最初に使ってくださったから、準備するときの不便さが分かりました。二人で試すと、見つかることが増えますね」


 セリーは嬉しそうに答え、板をアルへ返した。


 そのあと二人は、手提げ籠と一緒に持った場合も試してみた。


 籠を片手に持ち、もう一方の手で板を支えると、紙や筆記具を取り出す余裕がほとんどなくなる。立ち止まって籠を置けば使えるが、森の中では必ずしも平らな場所があるとは限らない。


「これは、思ったより大変だね」


 アルが苦笑すると、セリーも頷いた。


「はい。ですが、記録を取るときには安全な場所で立ち止まるつもりでしたから、必ずしも歩きながら取り出せる必要はないと思います」


「それもそうだね。歩きながら書こうとしたら、足元を見なくなっちゃうし」


「特に森では、木の根や石があります。記録を取ることに夢中になって転んでしまっては、せっかくのお散歩が大変なことになりますから」


 セリーの声には、わずかな心配が混ざっていた。


 アルは彼女の顔を見て、穏やかに頷いた。


「うん。書くときはちゃんと立ち止まるよ。そこは最初から決めておこう」


「ありがとうございます。私も、周囲を確かめてから使うようにいたします」


 二人はそう約束し、最初の試験を終えた。


     ◇


 作業場へ戻ると、アルは机の上へ板を置き、気づいたことを書き出した。


 紙を留める仕組みが必要なこと。


 角が手に当たりにくい形にすること。


 書くときには立ち止まること。


 持ち運ぶときには、紙と筆記具をまとめて扱えるようにすること。


 昨日の図へ新しい項目を書き加えていくと、最初に考えていた形とは少し違うものが見えてきた。


「二枚の板をつなぐことより、まず紙を押さえる部分を作ってみようかな」


 アルが呟くと、セリーは作業台の反対側から頷いた。


「はい。ですが、紙を押さえる部分は、どのような形になさるのでしょうか」


「そこなんだよね。紐で結ぶ方法もあると思うけど、紙を替えるたびに結び直すのは面倒そうだし」


 アルは細い紐を取り出し、板の上へ置いてみた。


 紙の上端を紐で押さえる形なら、特別な金具は必要ない。しかし、板へ固定する方法を考えなければならず、強く締めすぎると紙が曲がる可能性もあった。


 セリーは紐を手に取り、紙の上へ軽く当てた。


「主様。これでしたら、紙を傷めずに押さえられそうですが、緩むとずれてしまうかもしれませんね」


「うん。それに、紙の端をめくりたいときにも邪魔になるかな」


 二人は何度か紐の位置を変えてみたが、簡単に扱える形は見つからなかった。


 アルはそこで、作業場の棚へ目を向けた。


 以前の木箱作りで余った小さな木片が、端材入れに残されている。薄い木片を使って紙を軽く押さえられないかと考え、アルは箱の中を探し始めた。


「何か使えそうなものがないかな。大きな部品を作る前に、簡単な形を試してみたいんだ」


「でしたら、こちらの薄い木片はいかがでしょうか。長さは少しありますが、紙の上端を押さえるには使えそうです」


 セリーが差し出したのは、細長い木片だった。


 厚みはそれほどなく、表面も比較的滑らかである。


 アルは受け取り、板の上端へ重ねてみた。


「うん。これを少し浮かせた状態で固定できれば、紙を差し込めるかもしれないね」


「ですが、固定してしまうと、紙を抜き差しする際に引っかかる可能性があります」


「そうだね。だったら、取り外せるようにするか、片側だけ動くようにするか……」


 アルは考え込んだ。


 木箱の蓋を作ったときにも、取り外しやすさと安定性を両立させるために何度も試した。今回も似たような問題に見えるが、紙は木の板より薄く、力を掛けると簡単に折れたり破れたりする。


 同じ仕組みをそのまま使うことはできないだろう。


「まずは、紙を傷めないことを優先しよう。留める力が強すぎるのは困るし、簡単に外れるのも困るけど、最初から全部うまくいくとは限らないからね」


「はい。では、実際に使う紙ではなく、試験用の紙で確かめましょう」


 セリーはそう言い、端材と一緒に保管されていた練習用の紙を持ってきた。


 アルはその紙を板へ載せ、細長い木片を上から重ねた。


 指で軽く押さえている間は紙が動かない。


 しかし、指を離すと木片も一緒に浮き、紙は簡単にずれてしまう。


「やっぱり、何かで押さえないと駄目だね」


「はい。ですが、木片を使うと紙の広い範囲を押さえられることは分かりました」


 セリーはそう答え、木片の位置を少し変えた。


「もし両端だけを押さえられれば、中央の部分で紙を留められるかもしれません。ただ、固定する方法はまだ分かりませんが」


「なるほど。両端か……」


 アルは木片を眺め、少し考えた。


 細い紐を木片の両端へ掛け、板の裏側で結べば、上から押さえることはできるかもしれない。だが、それでは紙を替えるたびに紐を緩める必要がある。


 試作品としてなら使えるが、完成形としては不便そうだった。


「一度、紐で留めてみようか。使いやすいかどうかは別として、どれくらいの力が必要なのか確かめられると思う」


「はい。それでしたら、板に穴を開ける前に、外側から紐を回して試してみましょう」


 アルは頷き、紐を板の裏へ回した。


 木片の両端を軽く押さえるように結び、紙を差し込んでみる。


 最初は少し緩く、板を傾けると紙が滑り落ちた。


 そこで紐をわずかに締め直すと、今度は紙が動きにくくなった。


「お、少しよくなったね」


「はい。ですが、紙を抜くときには、少し引っかかります」


 セリーが紙の端を持ってゆっくり引くと、確かに木片の下で紙が擦れる感触があった。


 アルはすぐに紐を緩めた。


「これだと、何度も使ったら紙が傷むかもしれないね。やっぱり、留めるときと外すときで力を変えられる方がいいのかな」


「そう思います。ただ、今の試験で、紙を押さえる位置はこのあたりがよさそうだと分かりました」


 セリーは板の上端を指さした。


 アルも頷き、図へその位置を書き込んだ。


 今日のうちに仕組みを完成させることは難しそうだったが、試して分かったことは確実に増えていた。


     ◇


 昼食の準備を始める少し前、アルは作業台を片づけながら、セリーへ尋ねた。


「セリーは、今日の試験で一番気になったことって何だった?」


 セリーは道具を戻す手を止め、少し考えた。


「私は、主様と私で板の持ち方が違ったことが印象に残っています。同じものを使っていても、気になるところが同じとは限らないのですね」


「そうだね。俺は紙を置くことばかり気にしてたけど、セリーは手に当たる角のことに気づいたし」


「はい。ですから、道具を作るときには、使う人のことを考える必要があるのだと思いました」


 アルは彼女の言葉を聞き、少しだけ手を止めた。


 王宮で暮らしていた頃、道具を作る職人たちがどのようなことを考えていたのか、彼はほとんど知らなかった。使う側の希望が伝えられ、それに合わせた品が届けられることはあったが、そこへ至るまでの試行錯誤を目にする機会は少なかったのである。


(便利なものって、ただ形が整っていればいいわけじゃないんだな。誰が、どんなときに使うのか。それを考えるところから始まるんだ)


 アルは手元の板へ目を向けた。


 古の塔には、二千年前の魔導具師が遺した不思議な道具が数多く存在する。自分ではまだ仕組みを理解できないものもあり、その精巧さに驚かされることは少なくない。


 けれど、今作っている小さな板にも、同じように考えるべきことがある。


 魔法を使わない簡単な道具だからといって、使いやすさまで簡単に決まるわけではないのだ。


「そう考えると、昔の魔導具師も、いろんなことを試したのかもしれないね」


 アルが呟くと、セリーは穏やかに頷いた。


「はい。主様が今お使いになっている道具にも、作られた方が考えた理由があるのだと思います。ただ、私がすべてを知っているわけではありませんので、分からない部分も多くあります」


「うん。だからこそ、勝手に決めつけないで調べたいね」


 アルはそう答え、板を棚へ置いた。


 エルが持つ記録の中にも、まだ十分に確かめられていない情報がある。王都から届く報告にも、確定した事実と、今後の調査が必要なものが分けて記されていた。


 そうした大きな問題と、今作っている記録板を同じものとして扱うつもりはない。


 それでも、分からないことを急いで答えに変えないという姿勢は、どちらにも必要なのだろう。


「じゃあ、午後は角を少し丸くして、もう一度持ってみようか。紙を留める仕組みは、今日の結果を見ながら明日以降に考えてもいいし」


「はい。私も、その方がよいと思います」


 セリーは嬉しそうに答え、二人は昼食のために厨房へ向かった。


     ◇


 その日の午後、王都の魔導研究院では、フェリクス・ハルトマンが古い資料を机の上へ並べていた。


 彼が調べているのは、古代の施設で使われていた確認手続きに関する記録だった。これまでに見つかった断片から、確認担当者の変更や記録の継承について、いくつかの規定が存在したことは分かっている。


 しかし、その規定がどのような施設で、どの範囲まで適用されていたのかは、まだ明らかではない。


 フェリクスは資料の一枚を持ち上げ、記された文字を慎重に読み直した。


 そこには、継承記録を受け取ることと、記載された判断を認めることは同じではないという趣旨の文が残されている。


 彼は以前にもその部分を確認していたが、今回は前後の資料と照らし合わせながら、言葉の使われ方を調べていた。


(記録を受け取った者が、以前の判断をそのまま引き継ぐとは限らない。だが、だからといって、受け取った者に新しい判断を下す権限があるとも限らない)


 フェリクスはその違いを記録へ書き留めた。


 古い規定を調べる際には、見つかった一文だけで制度全体を説明したくなることがある。だが、実際には、その前提となる別の規定が存在した可能性もあるのだ。


 彼は資料を並べ直し、同じ言葉が使われている箇所を探した。


 しばらくして、助手が新しく整理した写しを持ってきた。


「ハルトマン様。先ほどの資料群ですが、保存状態のよい部分だけを抜き出した写しができました」


「ありがとう。こちらへ置いてくれ。原本と照合するまでは、欠けている部分を補って読まないようにしたい」


「承知しました。判読できない箇所は、そのまま空欄にしてあります」


 助手は机の端へ写しを置き、軽く頭を下げて退出した。


 フェリクスは新しい紙を手に取り、慎重に目を通した。


 今回の写しには、確認記録を扱う際の注意事項らしい文章が残されていた。ただし、前半が欠けており、何を対象とした注意なのかは分からない。


 読める部分には、記録の欠落がある場合、その欠落した範囲を明示するという趣旨の言葉が含まれていた。


 フェリクスはすぐに意味を確定せず、原本の所在を確認した。


 写しの文字は比較的明瞭だったが、前後の文章が失われている以上、具体的な手続きまでは判断できない。


「……少なくとも、欠けていること自体を記録する考え方はあったらしいな」


 彼は小さく呟き、報告書の余白へ新しい項目を設けた。


『確認記録の欠落範囲に関する記述。適用対象および具体的な対応手順は未確認』


 それ以上の推測は書き加えなかった。


 ブラートへ送る報告には、今回見つかった断片と、その限界を明記するつもりだった。どこかの施設へ適用できるかどうかは、別の資料による確認が必要になる。


 フェリクスは窓の外へ目を向けた。


 王都の空は明るく、遠くでは鐘の音が響いている。


 研究院の中では古い記録を読み解く作業が続いていたが、彼にとって大切なのは、早く結論を出すことではなかった。


 確かめられたことを確かめられたまま残すこと。


 そして、まだ分からないことを、分かったことのように扱わないことだった。


     ◇


 一方、古い療養施設の一室では、ヨアヒムが窓辺の椅子を整えていた。


 三〇八号室の少年は寝台の上からその様子を眺め、少し期待したように尋ねた。


「きょう、パンのにおい、する?」


 ヨアヒムは椅子を置く手を止め、少年の方へ向き直った。


「まだ今日とは決まっていないよ。厨房と医療の担当者から、短い時間なら準備できるかもしれないと返事はもらっているけれど、最後の安全確認が終わっていないんだ」


 少年は少し残念そうに視線を落としたが、すぐに顔を上げた。


「じゃあ、まだ、だめじゃない?」


「そうだね。できないと決まったわけではないよ。ただ、できるかどうかも、まだ決まっていない。だから、今は待っていてほしいんだ」


 ヨアヒムは少年の近くへ椅子を寄せ、落ち着いた声で説明した。


 少年が望んでいるのは、パンを食べることではなく、まず焼きたての香りを感じてみることだった。それでも、体調への影響がないか確かめる必要があるため、簡単に実施するわけにはいかない。


「ぼく、まどのところがいい」


 少年はそう言い、窓の方へ目を向けた。


「うん。その希望は伝えてあるよ。もし試せることになったら、窓辺で短い時間だけ香りを感じる方法を考えている」


「……たべない?」


「今の相談は、香りを感じるだけのものだよ。食べることについては、別に確かめなければならないことがあるからね」


 少年は少し黙り込んだ。


 ヨアヒムは急いで言葉を重ねず、少年が自分の気持ちを整理するのを待った。


 しばらくして、少年は寝台の上で膝を抱えた。


「においだけでも、うれしいとおもう。でも、たべたくなったら、かなしいかもしれない」


 ヨアヒムはその言葉を聞き、静かに頷いた。


「そうかもしれないね。香りを感じられて嬉しい気持ちと、食べられなくて悲しい気持ちは、一緒にあってもおかしくないよ」


「かなしくなっても、いい?」


「もちろん。悲しくなったら、そう言ってくれていいんだ。途中でやめたくなったら、やめてもいい」


 少年はヨアヒムの顔を見つめた。


「ぼくが、やめるっていったら?」


「そのときは、やめるよ。始める前でも、始めたあとでも、君が嫌だと思ったら伝えてほしい」


 ヨアヒムはそう答え、少年の反応を待った。


 少年はすぐには返事をしなかったが、やがて小さく頷いた。


「……じゃあ、やってみたい」


「分かった。その気持ちは、もう一度きちんと伝えておくね」


 ヨアヒムは少年の希望を記録へ書き加えた。


 窓辺で香りを感じてみたいこと。


 途中でやめることができると理解していること。


 嬉しいだけでなく、悲しくなるかもしれないと本人が考えていること。


 それらは、実施の可否を決めるための安全確認とは別に、少年自身の気持ちとして残しておくべきものだった。


 少年はヨアヒムが書く様子を眺めていたが、やがて窓の外へ目を向けた。


「まちのパンやさんも、いつか、みたい」


 ヨアヒムは筆を置き、少年の隣から窓の外を眺めた。


「その希望も覚えているよ。でも、町へ出かけることは、香りを試すこととは別の相談になる。今はまだ約束できないんだ」


「うん。しってる」


 少年はそう答え、窓枠に落ちる光を見つめた。


 外へ出ることも、パンを食べることも、まだ決まっていない。


 それでも、少年は自分の望みを言葉にすることをやめなかった。


 ヨアヒムはその姿を見守りながら、記録の最後へ短い一文を書き加えた。


『本人は希望を維持している。実施の可否は未決定』


     ◇


 古の塔では、午後の作業が再開されていた。


 アルとセリーは、午前中に気づいた角の問題を確かめるため、板の四隅を少しずつ丸くしていた。


 アルは一度に大きく削らず、少し形を変えるたびに板を持ち直している。セリーも隣で同じ動作を試し、手のひらへ当たる部分を確認していた。


「このくらいなら、さっきより持ちやすいかな」


 アルが板を差し出すと、セリーは受け取って左手で支えた。


「はい。角が直接当たりにくくなりました。ですが、こちら側はまだ少し気になります」


 セリーは一つの角を指さした。


 アルはその部分を確かめ、ほかの角より丸みが小さいことに気づいた。


「本当だ。少しずつ削ってたら、形が揃わなくなっちゃったね」


「ですが、今ならまだ調整できます。先に大きく削らなくてよかったと思います」


「そうだね。じゃあ、残りも少しずつ整えよう」


 二人は角の形を確かめながら作業を続けた。


 しばらくすると、板の四隅は緩やかな曲線になり、手に持ったときの引っかかりも減っていた。


 アルは板を持ち上げ、作業場の中をゆっくり歩いてみた。


 昨日よりも手に馴染み、持ち替えるときにも角が気になりにくい。


「うん。これはよくなった気がする」


「私もそう思います。主様、もう一度使わせていただいてもよろしいでしょうか」


「もちろん。今日は二人で試すって決めたからね」


 セリーは板を受け取り、紙を載せてみた。


 角の問題は改善されていたが、紙を留める仕組みについては、まだ解決していない。


 彼女は板を見つめ、少し考えたあと、アルへ顔を向けた。


「主様。今日のところは、紙を押さえる方法を無理に決めなくてもよいと思います。ですが、一つだけ試してみたいことがあります」


「何かな?」


「板を持ったまま書くとき、どの位置へ紙を置くと使いやすいのか、確かめてみたいのです。紙を留める場所を決める前に、書く位置を知っておいた方がよいと思いまして」


 アルは少し驚き、それから頷いた。


「なるほど。確かに、上の方へ留めるって決めてたけど、書くときに邪魔になるかもしれないもんね」


「はい。ですから、まずは紙を手で押さえながら、書きやすい位置を探してみませんか」


 二人は作業台へ戻り、試験用の紙を用意した。


 アルは板の中央へ紙を置き、短い文字を書いてみた。


 次に紙を少し上へずらし、同じように文字を書く。


 さらに下へずらしてみると、今度は手首の位置が変わり、少し書きにくくなった。


「俺は、真ん中より少し上の方が書きやすいかな」


 アルがそう言うと、セリーも試してみた。


 彼女はアルより少し下の位置を好んだが、大きな違いではなかった。


「主様。紙を置く位置が違っても、上端を押さえる部分が邪魔にならなければ、どちらでも使えそうです」


「そうだね。じゃあ、留める部分はできるだけ薄くして、手が当たりにくいようにした方がいいのかな」


「はい。ただ、薄くしすぎると壊れやすくなるかもしれませんので、その点も考える必要があります」


 アルは頷き、図へ新しい印を書き加えた。


 紙を留める位置は、板の上端付近。


 ただし、手を動かす範囲へ大きく張り出さないこと。


 その条件が分かっただけでも、次に考える形は少し絞られた。


「今日は、ずいぶんいろんなことが分かったね」


 アルが言うと、セリーは嬉しそうに微笑んだ。


「はい。完成したものはまだありませんが、昨日よりも使いやすい形へ近づいたと思います」


「そうだね。完成してなくても、ちゃんと進んでるんだ」


 アルは板を机へ置き、作業場の窓へ目を向けた。


 午後の日差しは少し傾き、棚の上へ長い影を落としている。


 今日はここまでにしてもよさそうだった。


「セリー。そろそろ片づけようか。続きは明日にしよう」


「はい。主様も、今日は十分に作業をされましたから」


 二人は道具を戻し、木屑を掃除した。


 板は昨日と同じ棚へ置いたが、その形は少し変わっている。


 角が丸くなり、表面が整えられ、どの位置へ紙を置くと使いやすいのかも分かってきた。


 まだ完成ではない。


 けれど、確かに昨日とは違うものになっていた。


     ◇


 夕食後、アルは書斎で今日の記録をまとめていた。


 机の上には、昨日描いた図と、今日の試験で気づいたことを書いた紙が並んでいる。


 セリーは隣の椅子へ腰を下ろし、記録を見守っていた。


「主様。今日の試験について、すべて書き残されるのですか」


「全部ってほどじゃないけど、次に作業するときに忘れそうなことは書いておこうと思ってる。特に、最初に考えてた形と違ってきたところは残しておきたいな」


「なぜでしょうか」


 セリーが尋ねると、アルは筆を止めた。


「最初に何を考えてたか分かれば、あとから形を変えた理由も思い出せるだろう? 完成したものだけ見ても、どうしてそうなったのか分からなくなるかもしれないからね」


 セリーは少し考え、それから頷いた。


「なるほど。作っている途中で考えたことも、記録として残しておくのですね」


「うん。もちろん、全部を細かく書く必要はないと思うけどね」


 アルは紙へ短い一文を書き加えた。


『持ち歩いて試した結果、紙を留める仕組みを先に考えることにした』


 その下には、角を丸くした理由と、二人で試したときに持ち方が違ったことも記した。


 セリーはその文字を見つめ、静かに微笑んだ。


「主様。私が気づいたことも、書いてくださったのですね」


「もちろん。セリーが教えてくれなかったら、気づかなかったことだから」


「……ありがとうございます」


 セリーは少し照れたように視線を落とした。


 アルはその様子を見て、穏やかに微笑んだ。


「それに、これからも一緒に使うつもりなんだから、セリーの意見も大事にしたいよ」


 セリーはゆっくりと顔を上げた。


「はい。私も、主様の作りたいものを大切にしながら、自分が気づいたことをお伝えしたいと思います」


 アルは頷き、筆を置いた。


 書斎の窓からは、夜の森が見えている。


 次に出かける日取りは、まだ決まっていない。


 携帯用の記録板も、完成までにはもう少し時間が掛かりそうだった。


 それでも、アルは焦っていなかった。


 今日一日で、昨日は分からなかったことがいくつも見つかった。


 その一つ一つを、セリーと一緒に確かめることができた。


「セリー。今日もありがとう」


 アルがそう言うと、セリーは少し驚いたように目を瞬かせた。


「主様。私は、自分が使ってみたいと思ったからお手伝いしたのです。ですから、お礼をいただくほどのことではありません」


「それでも、ありがとうって言いたいんだ。俺一人だったら、たぶん今日ほどいろんなことには気づけなかったから」


 セリーはしばらくアルを見つめ、それから柔らかく微笑んだ。


「……それでしたら、私からもお礼を申し上げます。主様が一緒に試してよいとおっしゃってくださったおかげで、私も新しいことを知ることができました」


 アルは笑みを返し、机の上の紙を重ねた。


 セリーはその横へ手を伸ばし、紙の角を揃えるのを手伝った。


 二人の手が触れ、アルが顔を上げると、セリーも同じようにこちらを見ていた。


 どちらからともなく微笑み、アルはそっと手を差し出した。


 セリーは自然にその手を取り、指を重ねた。


「明日も、一緒に考えようか」


「はい。主様と一緒でしたら、きっとまた新しいことが見つかると思います」


 アルは頷き、窓の外へ目を向けた。


 森の向こうには、まだ歩いたことのない道が続いている。


 その道へ持っていく小さな道具は、まだ完成していない。


 けれど、使いやすい形を探して二人で試した今日の時間は、すでにアルにとって大切なものになっていた。


 明日になれば、また別の不便さが見つかるかもしれない。


 思っていた形では使いにくく、最初から考え直すことになるかもしれない。


 それでも構わないと、今のアルは思っていた。


 誰かに完成した答えを渡されるのではなく、自分たちで確かめながら形を決めていく。


 そんな時間を、これからも大切にしたかった。


 アルはセリーの手を優しく握り返し、穏やかな夜の静けさの中で、明日の作業を楽しみに思った。


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