第148話 まだ知らない道へ持っていくもの
古の塔の厨房に、朝の光がゆっくりと差し込んでいた。窓の外では森の木々が風に揺れ、葉の重なる音が、火にかけられた鍋の小さな沸騰音と混ざり合っている。アルが食堂へ入ると、セリーは焼き上がったパンを籠に移しながら、何やら考え込んでいる様子だった。
「おはよう、セリー。今日は何か考え事?」
声をかけると、セリーは顔を上げ、少し照れたように微笑んだ。籠へ最後のパンを置いてから、手を拭き、アルの方へ向き直る。
「おはようございます、主様。昨日お話しした、森へ持っていく食事のことを考えておりました。ですが、まだ出かける日を決めておりませんので、今朝は試作を増やすのではなく、普段どおりの朝食を用意しています」
「それは助かるよ。昨日も冷めたパンを試したし、毎日試食ばかりじゃ、出かける前にお腹いっぱいになっちゃうからね」
アルが冗談めかして言うと、セリーは一瞬真面目な顔になり、それから言葉の意味に気づいて笑った。最近の彼女は、こうした何気ない冗談にも、自分なりの返事を考えるようになっている。
「では、出かける日までに主様のお腹がいっぱいにならないよう、試作の量には気をつけます。ただ、食事の準備を考えること自体は、続けてもよろしいでしょうか」
「もちろん。俺も何か作るって言ったしね。まだ何にするか決めてないけど、今日はそのことも考えてみたいな」
アルが席に着くと、セリーはスープを運んできた。朝食は焼きたてのパンと野菜のスープ、それに少量の果物という、いつもの穏やかな献立だった。特別なものではないが、二人で向かい合って食べる時間を、アルはすっかり気に入っている。
パンを割ると、温かな湯気が指先へ触れた。昨日試した小さなパンより少し大きく、柔らかな生地がゆっくりと元の形へ戻っていく。
「そういえば、昨日描いた花の絵も見直したいんだったね。朝食が終わったら、先にそっちをやろうか」
「はい。実は、昨日のうちに少し気づいたことがありました。花の形を思い出すとき、主様が描いてくださった葉の位置と、私が覚えていた花の向きが、少し合わなかったのです」
「そうなんだ。俺の記憶違いかもしれないね」
「私の方が違っている可能性もあります。ですから、どちらかを正しいことにせず、次に実物を見たときに確かめられるようにしておきたいと思いました」
セリーはそう説明しながら、スープの器を両手で包んだ。その表情には、間違いを見つけたときの困惑よりも、確かめることが一つ増えた楽しさが浮かんでいる。
アルは頷き、窓の向こうへ目を向けた。
(以前の俺だったら、どちらが正しいか早く決めようとしていたかもしれない。けど、今は分からないことを残しておくのも、悪くないと思えるんだよな)
昨日、自分の願いを書いた紙には、分からないことを大切に扱えるようになりたいと記した。大きな謎だけでなく、森で見つけた小さな花の形にも、その考え方は通じるのだろう。
アルはスープを一口飲み、セリーへ微笑みかけた。
「じゃあ、今日は絵の分からないところを整理して、それから俺が作りたい道具を考えてみよう。全部決めなくてもいいし、思いついたことから試せばいいよね」
「はい。私も、主様が何を作られるのか楽しみにしております」
セリーは嬉しそうに答え、二人は朝食の続きをゆっくりと楽しんだ。
◇
食事を終えて書斎へ移ると、昨日描いた花の絵が机の上に広げられた。小さな白い花の周りには、アルが記憶を頼りに描いた細長い葉と、セリーが描き足した花茎が伸びている。紙の端には、次に森へ行ったときに確認することが、いくつか書き添えられていた。
セリーは椅子をアルの隣へ寄せ、絵の一部分を指さした。
「主様。こちらの葉なのですが、昨日は花のすぐ下にあると思っておりました。ですが、帰ってから思い返すと、もう少し離れたところから伸びていたようにも感じるのです」
アルは紙を覗き込み、昨日しゃがんで花を眺めたときの様子を思い出そうとした。地面にはほかの草も生えていたため、どの葉が同じ茎から伸びていたのか、確かに曖昧だった。
「そう言われると、俺も自信がないな。隣の草の葉を、同じ花の葉だと思ってた可能性もあるね」
「はい。ですから、ここはまだ描き直さず、印だけ付けておきませんか。次に見るときには、花の根元まで確かめれば分かると思います」
「それがよさそうだね。花を傷めないように、見える範囲で確認しよう」
アルは葉の横へ小さな印を書き加え、セリーは別の紙に確認事項をまとめ始めた。花びらの枚数、中心の色、茎と葉のつながり、周囲に咲いていた花との違い。書き出してみると、短い散歩で見ていたつもりのものにも、まだ確かめていない部分が多かった。
「こうして見ると、昨日はずいぶん大雑把に見てたんだね」
「ですが、主様。昨日は植物を調べるために出かけたわけではありません。あの道を一緒に歩いて、そこで花を見つけたのですから、最初からすべてを覚えていなくてもよいと思います」
セリーはそう言って、紙から顔を上げた。
「それに、次に確かめたいことができたので、私は嬉しいです。昨日見つけた花が、もう一度あの道を歩く理由になりましたから」
アルは思わず笑みを浮かべた。
「そうだね。俺も、もう一度見に行くのが楽しみになったよ」
二人は絵をそのまま保管することにし、確認事項を書いた紙を重ねた。セリーは紙の角が折れないように薄い板の間へ挟み、次に持ち出すときに分かる場所へ置いた。
そこでアルは、ふと机の上を見回した。
昨日は願いを書いた紙を広げ、今日は花の絵と確認事項を並べている。これから出かける場所が増えれば、同じような紙も少しずつ増えていくのだろう。
「……そうか。作ってみたいもの、一つ思いついたかもしれない」
アルが呟くと、セリーはすぐに顔を向けた。
「主様。どのようなものでしょうか」
「昨日、行った場所で見つけたものを記録したいって書いたよね。だったら、その記録を外へ持っていくための道具があったら便利かなって」
アルは花の絵と確認事項の紙を指さし、考えを言葉にしていった。
「大きな机がなくても、紙を置いて簡単な絵や文字を書けるもの。歩いている間はしまっておけて、必要なときだけ取り出せるようなものがいいな」
セリーは真剣な表情で聞き、少し考えてから頷いた。
「薄い板に紙を留めるような形でしょうか。ですが、紙が風で飛ばされないようにするには、何か工夫が必要ですね」
「そうなんだ。板だけならすぐ作れそうだけど、持ち歩くことを考えると、角が引っかからない方がいいし、紙も濡れにくいようにしたい」
アルは手元の紙を持ち上げ、実際に片手で支えてみた。もう一方の手で筆を動かそうとすると、紙がずれやすく、姿勢によっては書きにくい。
セリーはその様子を見て、自分も試してみたいと申し出た。アルが紙を渡すと、彼女は左手で下から支え、右手で文字を書く動作をしてみたが、紙の端が垂れてしまう。
「確かに、これでは書きにくいですね。支える板があれば安定しそうですが、紙を押さえる部分も必要だと思います」
「うん。でも、紙を強く挟むと跡が残るかもしれないし、取り替えにくくなるのも困るな」
アルは以前作った木箱を思い出した。セリーの刺繍を収める蓋には、交換しやすさを考えた仕組みを取り入れている。
ただ、今回作りたいものは用途が違う。木箱と同じ構造にすればよいとは限らなかった。
「まずは、どんな場面で使うか考えよう。立ったまま書くこともあるだろうし、座って使うこともある。雨が降りそうなら、そもそも取り出さない方がいいかもしれない」
「はい。そうしますと、完全に水を防ぐことよりも、持ち運ぶ間に紙が汚れにくいことを優先した方がよいでしょうか」
「そうだね。雨の中でも書ける道具を作るのは、今の俺には難しそうだし」
アルは笑いながら答えたが、セリーはその言葉を真面目に受け止めていた。
「主様が最初から難しいものを作ろうとなさらないのは、よいことだと思います。以前の木箱でも、少しずつ試してから形を決めたことで、使いやすいものになりましたから」
「そう言ってもらえると助かるよ。あの箱は、何度も試してやっと完成したからね」
セリーは机の横に置かれた木箱へ目を向け、嬉しそうに微笑んだ。
「はい。今も大切に使っています。昨日入れた願いの紙も、きちんと収まっていますよ」
アルはその言葉に頷き、今回の道具について考えを続けた。
薄い板を使い、紙の上端だけを押さえる。持ち運ぶときには、紙を内側へ向けて閉じられるようにする。そうすれば、紙の表面がほかの荷物と擦れることを減らせるかもしれない。
ただし、閉じる仕組みを付ければ厚みが増えるし、重くなる可能性もある。
アルは紙へ簡単な形を描き、セリーへ見せた。
「こんな感じで、二枚の薄い板を重ねるのはどうかな。開いたときは片方を下敷きにして、閉じたら紙を挟んで守るんだ」
セリーは図を見つめ、しばらく考えた。
「よいと思います。ただ、二枚の板をつなぐ部分は、どうなさるのでしょうか。金具を使うのでしたら、薄い板が割れないようにする必要がありそうです」
「そこがまだ決まってないんだ。革や布でつなぐ方法もあるかもしれないけど、何が使いやすいかは試してみないと分からないね」
「それでしたら、今日は形を決めきらず、使えそうな材料を確かめてみませんか」
アルは頷いた。
「うん。まずは材料を見て、簡単な試作品を作るところから始めよう」
そう決めると、二人は机の上の紙を片づけ、作業場へ向かう準備を始めた。
◇
塔の作業場には、これまでの木工で使った板材や端材が、種類ごとに分けて保管されている。アルとセリーは棚の前へ立ち、薄くて反りの少ない板を探し始めた。
木箱を作ったときには、強度や接合部分の精度を気にする必要があった。今回の道具では、それに加えて持ち運びやすさが重要になる。
アルは一枚の板を手に取り、厚みを確かめた。
「これくらいなら軽そうだけど、少し力をかけると曲がるね。書くときの下敷きにするには、もう少し硬い方がいいかな」
セリーも板を受け取り、両端を軽く支えた。
「確かに、中央が少したわみますね。ですが、厚い板にすると重くなりますので、どちらを優先するか考える必要がありそうです」
「そうだね。外へ持っていくものだから、重すぎると使わなくなっちゃうかもしれない」
アルは板を棚へ戻し、別の端材を取り出した。今度のものは少し厚みがあり、手で持ったときにも安定している。
しかし、二枚重ねることを想像すると、少々重い。
セリーはアルの表情を見て、作業台の上へ板を並べた。
「主様。実際に紙を置いてみてはいかがでしょうか。板だけを持っているときと、書く動作をするときでは、感じ方が違うかもしれません」
「そうだね。じゃあ、まずはこの板で試してみよう」
アルは紙を置き、片手で板を支えながら、もう一方の手で短い文字を書いた。板は安定していたが、しばらく持っていると手首に重さが掛かる。
今度は薄い板で同じことを試すと、軽く持てる代わりに、少し力を入れたときにたわみが気になった。
「どっちも一長一短だな。少し小さくすれば、厚い板でも軽くできるかもしれないね」
「はい。ですが、紙の大きさより小さくすると、端の方が書きにくくなると思います」
セリーはそう言い、紙の四隅を指さした。
アルは頷き、使いたい紙の大きさを先に決めることにした。普段の書斎で使う大きな紙ではなく、外で簡単な記録を残すための小さな紙を想定する。
その大きさなら、板を二枚使っても重くなりすぎないかもしれない。
「じゃあ、今日は紙の大きさに合わせて、板を切る位置を決めるところまでにしよう。いきなり二枚とも加工して失敗したら、材料がもったいないし」
「承知しました。最初は一枚だけ試してみるのですね」
「うん。使いやすさを確かめてから、もう一枚を考えたい」
アルは紙を板の上へ置き、周囲に少し余裕を持たせて印を付けた。セリーは定規を支え、線がずれないように手伝った。
作業は静かに進んだ。
木を切る前に何度も寸法を確かめ、紙を置き直し、持ちやすさを試す。急いで形にしようとすれば、もっと早く進められるかもしれない。
しかし、アルは今、その時間を面倒だとは思わなかった。
王宮で書類を扱っていた頃、彼は完成した道具を使う側だった。誰かが用意した机や筆記具を当たり前のように使い、その形がどう決められたのかを考えることは少なかった。
今は、自分が使うものを自分で考えている。
不便な部分を見つけ、どうすればよくなるかを試し、必要なら考え直す。
その過程そのものが、アルには新鮮だった。
「主様。こちらの角は、少し丸くした方がよいでしょうか」
セリーの声で、アルは考えから戻った。
彼女が指さした板の角は、まだ直角のままだった。持ち運ぶときに布や衣服へ引っかかる可能性がある。
「うん。丸くした方がよさそうだね。でも、どれくらい削るかは、切ってから考えよう。大きく削りすぎると、紙の角がはみ出しちゃうかもしれない」
「分かりました。では、今は印だけ付けておきます」
セリーは丁寧に線を書き加え、アルへ板を返した。
二人はそのあとも、紙を押さえる位置や、手で持つ部分の形を話し合った。最終的な構造はまだ決まらなかったが、何を確かめればよいのかは少しずつ明らかになっていった。
昼が近づいた頃、アルは作業をいったん止めることにした。
「今日はここまでにしようか。午後に少し時間があれば、一枚目を切ってみよう」
「はい。ですが、主様。午後はお疲れではありませんか。昨日も森を歩きましたし、今日も朝から考え事をされております」
セリーは心配そうに尋ねた。
アルは自分の手元を見つめ、少し考えてから答えた。
「大丈夫だと思うけど、無理に進める必要はないね。午後になってから決めよう。今は昼食にしようか」
セリーは安心したように頷いた。
「はい。では、準備してまいります。主様も、少しお休みになってくださいね」
アルはその言葉に甘え、作業台を片づけてから食堂へ向かった。
◇
同じ頃、王都ではブラートが研究院から届いた報告書を読んでいた。
フェリクスの調査は、古代の確認手続きに使われていた言葉を整理する段階へ進んでいる。これまでに判明した規定から、確認した者と判断した者、さらに状態変更を承認する者の役割が、必ずしも同じではなかったことが示唆されていた。
しかし、どの手続きがどの施設へ適用されていたのかは、まだ分からない。
ブラートは報告書の一文へ目を留めた。
『類似する用語の存在のみをもって、同一の権限または手続きであったと推定しないこと』
その注意書きは、今の調査全体に関わるものだった。
古い施設に残された記録は、断片的なものが多い。何か一つの規定が見つかったからといって、それを別の場所へそのまま当てはめることはできない。
ブラートは机の上に置かれた別の書類へ目を向けた。
そこには、療養施設に関する調査の進行状況がまとめられている。西側の壁については、引き続き外からの観察だけが行われており、確定的な変化は確認されていない。
彼は報告書を閉じ、椅子の背へ体を預けた。
(急いで答えを出せば、何かを見落とすかもしれない。だが、慎重であることと、何もしないことは同じではない)
ブラートは再び姿勢を正し、フェリクスへ返す書面を用意した。
新しい調査を急がせるのではなく、確認できた事実と推定を分けて記録する方針を維持すること。そして、今後新たな資料が見つかった場合にも、既存の結論を自動的に変更しないこと。
その二点を明記し、彼は筆を置いた。
窓の外では、王都の街路を人々が行き交っている。
多くの者にとっては、いつもと変わらない昼だった。
しかし、ブラートの机の上には、まだ答えの出ていない問題がいくつも残されていた。
◇
午後、アルとセリーは再び作業場へ戻った。
昼食のあとに少し休んだことで、アルの頭もすっきりしていた。午前中に印を付けた板を取り出し、切る位置をもう一度確認する。
「セリー。今日は一枚だけ切って、紙を置いてみよう。思ったより使いにくかったら、形を変えればいいしね」
「はい。では、私は板が動かないように支える準備をいたします」
二人は作業台の上を整え、必要な道具だけを並べた。アルは印に沿って慎重に板を切り、切り口を確かめながら少しずつ形を整えていった。
作業を終える頃には、机の上に小さな長方形の板が一枚置かれていた。
まだ角は丸くしておらず、紙を留める仕組みもない。持ち運び用の道具としては、完成まで遠い状態だった。
それでも、アルは板を手に取り、少し嬉しそうに眺めた。
「とりあえず、最初の形にはなったね」
セリーも隣から覗き込み、頷いた。
「はい。紙を置いてみてもよろしいでしょうか」
「もちろん。試してみよう」
アルは小さな紙を板の上へ置き、片手で支えてみた。
午前中に使った大きな板よりも軽く、手首への負担は少ない。紙の端も大きくはみ出さず、簡単な文字を書くには十分な広さがあった。
「うん。大きさは悪くなさそうだね」
「はい。ただ、紙を押さえる方法がまだありませんので、実際に外で使う場合は、風の影響を受けそうです」
「そうだね。そこは次に考えよう」
アルは板を机へ置き、少し離れて眺めた。
ただの薄い板にしか見えない。
しかし、自分が使う場面を想像しながら作ったものだと思うと、少し違って見えた。
セリーはアルの表情を見つめ、静かに微笑んだ。
「主様。楽しそうですね」
アルは少し照れたように笑った。
「うん。まだ何も完成してないのにね。でも、こういうのも楽しいなって思ってる」
「私は、主様が何を作りたいのか考えているときのお顔を見るのが好きです。少し難しいところで悩まれていても、楽しそうにしていらっしゃいますから」
アルはその言葉に目を瞬かせた。
セリーは自分の発言を振り返ったのか、少し頬を赤らめた。
「……申し訳ありません。作業のお邪魔になるようなことを申し上げてしまいました」
「邪魔じゃないよ。むしろ、嬉しい」
アルはそう答え、彼女へ微笑みかけた。
「セリーが楽しそうにしてると、俺も嬉しいから。たぶん、似たようなことなんじゃないかな」
セリーはしばらくアルを見つめ、それから小さく頷いた。
「……はい。そうかもしれません」
作業場の窓から、午後の日差しが差し込んでいる。
二人は少しの間、完成していない板を眺めながら、次に何を試すかを話し合った。
紙を押さえる仕組みを作ること。
角を丸くすること。
持ち運ぶときに紙が傷まない方法を考えること。
すべてを今日決める必要はない。
アルは板を丁寧に棚へ置き、次の作業まで保管することにした。
◇
夕方、二人は庭へ出て、森の方を眺めていた。
昨日歩いた道は、塔の入口からは見えない。けれど、木々の向こうにあの分かれ道があると思うと、アルには森が少し身近に感じられた。
セリーは庭の花へ水をやり終えると、アルの隣へ戻ってきた。
「主様。今日作られた板は、次に森へ行くときまでに完成させるのでしょうか」
「どうしようかな。間に合えば持っていきたいけど、無理に急いで作るつもりはないよ。使いにくいまま持っていっても困るしね」
「そうですね。もし間に合わなければ、紙と筆記具だけ持っていく方法もありますし、帰ってから記録を書くこともできます」
アルは頷いた。
「うん。道具を完成させることが目的になっちゃうと、散歩そのものを楽しめなくなるかもしれないし」
セリーはその言葉を聞き、少し考えた。
「主様。私は、今日の作業も楽しかったです。ですが、道具が完成していなくても、次に森へ行くのを楽しみにしています」
「俺もだよ。作る楽しみと、出かける楽しみは、別々にあっていいんだよね」
「はい。どちらも、主様と一緒にできることですから」
セリーはそう答え、穏やかに微笑んだ。
アルは庭の椅子へ腰を下ろし、彼女にも隣へ座るように勧めた。
二人はしばらく、夕日に染まり始めた森を眺めていた。
昨日は願いを紙へ書き、今日はその願いから新しい道具を考えた。
明日には、また別のことを思いつくかもしれない。
その一つ一つが、これからの暮らしを少しずつ変えていくのだろう。
アルは隣へ目を向けた。
セリーは森を眺めながら、どこか楽しそうに微笑んでいる。
「セリー。次に森へ行くとき、あの分かれ道の上の方を歩いてみようか」
アルがそう言うと、セリーは顔を向けた。
「はい。ですが、道がまだ湿っているようでしたら、無理をせず戻りましょう」
「もちろん。天気を見て、歩きやすい日にしよう」
セリーは頷き、少し嬉しそうに手を膝の上で重ねた。
「楽しみです。あの先に、どのような景色があるのでしょうね」
「行ってみないと分からないけど、それがいいんだと思う」
アルはそう答え、森の向こうへ目を向けた。
まだ知らない道がある。
まだ見たことのない景色がある。
そして、その場所へ一緒に行きたいと思える相手が隣にいる。
アルはそっと手を差し出した。
セリーは自然にその手を取り、指を重ねた。
夕方の風が二人の間を通り抜け、庭の花を静かに揺らしていく。
明日もまた、この塔で新しい一日が始まる。
何をするか、どこへ行くか、何を作るか。
そのすべてを、急いで決める必要はない。
二人は手をつないだまま、森の向こうへ沈んでいく夕日を、しばらく静かに眺めていた。
やがて日差しが弱まり、庭の石畳に落ちていた木々の影も輪郭を失い始めた。セリーは空の色を確かめてから、そろそろ夕食の準備を始める時間だと告げたが、アルは立ち上がる前に一つだけ確かめたいことがあると言った。
「今日作った板なんだけど、あれを持って歩くとき、何に入れようかって考えてなかったんだ。道具そのものを軽くしても、運び方が不便だったら意味がないよね」
セリーは重ねていた手を離さず、少し考え込んだ。庭の椅子の脇には、昨日の散歩にも持っていった小さな手提げ籠が置かれている。
「私の籠でしたら入りそうですが、主様が記録を取りたいと思われたとき、毎回私から受け取っていただくことになりますね。それでは、主様ご自身の道具としては少し使いにくいかもしれません」
「そうなんだ。だから、紐を付けて肩から掛けられるようにするか、それとも別の袋を作るか……。でも、まだ板の形も決まってないから、先に運び方だけ決めるのも違うかな」
「でしたら、次に試作品を確かめるとき、持ち運ぶ動作も一緒に試してみませんか。塔の中で歩いてみるだけでも、重さや取り出しやすさは分かると思います」
アルは感心したように頷いた。実際に森へ持ち出す前に、塔の廊下や庭で使い勝手を確かめることはできるし、そうすれば必要のない部品を増やさずに済む。
「それがいいね。道具を作ることばかり考えて、使う前後のことを忘れてたよ」
「私も、主様とお話しして初めて気づきました。ですから、一緒に考えるのは楽しいのだと思います」
セリーはそう答え、ようやくアルの手をそっと離した。立ち上がるときには名残惜しそうな様子も見せず、自然に籠を持ち上げたが、アルには彼女の指先が離れる直前、ほんの少しだけ自分の手を包み直したことが分かっていた。
(こういう時間が、当たり前になってきたんだな)
その変化を嬉しく思いながら、アルも椅子から立ち上がった。
厨房へ戻る途中、セリーは夕食の献立について相談を始めた。今日は野菜を使った温かな煮込みを作るつもりだが、昼に使った材料が少し残っているため、別の料理へ回すこともできるという。
「それなら、予定どおり煮込みにしようか。今日は作業場で木を切ったし、温かいものが食べたい気分なんだ」
「承知しました。では、主様は先に手を洗ってお休みください。夕食の準備が整いましたら、お呼びいたします」
「今日は俺も手伝うよ。料理を一つ作るって約束したのに、まだ何にするかも決めてないし、少しは練習しておきたいから」
セリーは振り返り、嬉しそうに目を細めた。
「ありがとうございます。では、野菜を切るところをお願いしてもよろしいでしょうか。大きさを揃える必要がありますので、私も隣で確認いたします」
「うん。よろしく頼むよ、先生」
アルがわざと改まった口調で答えると、セリーは一瞬きょとんとしてから、頬を赤らめた。
「せ、先生と呼ばれるほどではありません。私も、まだ学んでいる途中ですので」
「だったら、一緒に練習する仲間かな」
「……はい。それでしたら、とても嬉しいです」
厨房に入った二人は、まず材料を作業台へ並べた。セリーは野菜の切り方を説明し、アルは見本を確かめてから包丁を手に取った。最初の数切れは大きさが揃わなかったものの、彼女に教わりながら少しずつ手の動かし方を調整していくと、鍋へ入れるには十分な形になった。
セリーは切り終えた野菜を見つめ、満足そうに頷いた。
「主様、ありがとうございます。これでしたら、火の通り方も大きくは変わらないと思います」
「よかった。でも、まだセリーみたいに手早くはできないな」
「急がなくても大丈夫です。私は何度も同じ作業をしてきましたから、主様も少しずつ慣れていけばよいと思います」
アルは包丁を置き、彼女が鍋へ材料を移す様子を眺めた。
自分で何かを作りたいという願いは、木工だけに限ったことではない。今日のように料理の一部を任せてもらうことも、自分の手で暮らしを形にする経験なのだろう。
やがて鍋から湯気が立ち始め、香草の匂いが厨房に広がった。セリーが火加減を調整している間、アルは使い終わった道具を洗い、作業台を拭いた。
「主様。今日は、夕食の準備までお手伝いいただいてしまいましたね」
「俺がやりたいって言ったんだから、気にしないで。それに、こういうのも楽しいよ」
「はい。私も楽しかったです。主様と一緒に作った料理を食べられるのが、今から楽しみです」
アルはその言葉に笑みを返し、洗った道具を乾かす場所へ並べた。
◇
夕食のあと、アルは書斎へ戻り、午前中に描いた携帯用の記録板の図をもう一度広げた。セリーは食器を片づけてからやって来て、机の端に置かれた紙を覗き込んだ。
「主様。まだ作業を続けられるのですか」
「いや、今日はもう木を切らないよ。ただ、明日試したいことを忘れないように書いておこうと思って」
アルは図の余白へ、持ち運ぶときの重さ、紙の押さえ方、角の丸め方、取り出しやすさという四つの項目を書き加えた。さらに、実際に使うときは片手が塞がるため、立ったまま筆記具を取り出す方法も考える必要があると気づいた。
「……こうして書いてみると、板一枚でも考えることが多いんだね」
「はい。ですが、主様が今日作られたものは、まだ試作品ですから。すべてを最初から備える必要はないと思います」
セリーはそう答え、机の上に置かれた花の絵へ目を向けた。
「それに、もし記録板が完成する前に森へ行くことになっても、今日のように帰ってから絵を描けばよいのですよね」
「うん。道具ができるまで出かけられないなんてことには、したくないから」
アルは筆を置き、紙を重ねた。
そこでセリーが、少し迷うように口を開いた。
「主様。私からも、一つお願いしてよろしいでしょうか」
「もちろん。どうしたの?」
「今日の記録板が完成したら、最初に書くものを、主様だけでなく私も選んでみたいのです。主様の道具だということは分かっていますが、もしご迷惑でなければ、私が見つけたものも一緒に残したいと思いまして」
アルは彼女の言葉を聞き、少し驚いた。
これまでセリーは、アルのために何かを作ることを喜んでいた。けれど今は、アルが作ろうとしている道具を自分も使ってみたいと、はっきり望んでいる。
その変化を、アルはとても嬉しく感じた。
「迷惑なわけないよ。むしろ、セリーにも使ってほしい。俺一人じゃ気づかないものを、きっとたくさん見つけてくれると思うから」
セリーは目を丸くし、それから安心したように微笑んだ。
「ありがとうございます。それでしたら、私も使いやすさを考えるお手伝いをしたいです。ただ、主様が作ってみたいというお気持ちも、大切にしたいと思っています」
「ありがとう。じゃあ、形を考えるのは俺が中心になってやってみるけど、試すときは二人で使ってみようか」
「はい。楽しみにしております」
アルは図の余白へ、もう一つ短い言葉を書き加えた。
『二人で試す』
その文字を見たセリーは、少し照れたように微笑んだ。
机の上には、まだ完成していない道具の図と、森で見つけた花の絵が並んでいる。どちらも今すぐ何かの役に立つわけではないが、二人にとっては、これからの楽しみにつながる大切な紙だった。
セリーはしばらくそれらを眺めてから、窓の外へ目を向けた。
「主様。今日は森へ出かけていないのに、昨日よりも次のお散歩が楽しみになりました」
「俺もだよ。持っていくものを考えてるだけなのに、もう少し先まで歩いたような気がするね」
「はい。でも、実際の道がどのようになっているかは、まだ分かりません。ですから、次に行くときには、きちんと足元を確かめたいと思います」
「そうだね。楽しみにするのと、安全に歩くのは別のことだから」
アルは頷き、書き終えた紙を丁寧に片づけた。
明日は、今日切り出した板を持って塔の中を歩き、実際に使うときの重さや取り出しやすさを確かめてみよう。それで不便なところが分かれば、必要な部分だけを直せばいい。
作りたいものの形は、まだはっきりしていない。
森の分かれ道の先に、どんな景色が広がっているのかも知らない。
けれど、分からないことがあるからこそ、明日が楽しみになる。
アルが書斎の明かりを落とそうとすると、セリーがそっと隣へ並んだ。
「主様。明日も、ご一緒してよろしいでしょうか」
アルは彼女へ顔を向け、穏やかに微笑んだ。
「もちろん。一緒に考えよう」
セリーは嬉しそうに頷き、差し出されたアルの手を取った。
二人は並んで書斎を出た。廊下の窓からは夜の森が見え、遠くの木々の間に淡い月明かりが落ちている。
塔の中には、今日も静かな時間が流れていた。
誰かに決められた予定をこなすのではなく、自分たちがしてみたいことを見つけ、そのために少しずつ準備を重ねていく。
アルは隣を歩くセリーの手を握りながら、明日もまた、そんな一日を過ごせたらいいと思った。




