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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第147話 願いを書いた紙と、まだ知らない道の先



 古の塔の朝は、窓辺へ差し込む柔らかな日差しと、厨房から漂ってくる焼きたてのパンの香りとともに始まった。昨夜まで森の上に薄く広がっていた雲はすっかり流れ去り、遠くの木々の間には、澄んだ青空が覗いている。


 アルが寝室を出て廊下を歩いていると、開け放たれた窓から涼しい風が吹き込み、壁に掛けられた小さな布飾りが静かに揺れた。以前、セリーが刺繍の練習を始めた頃に作ったもので、今の彼女ならもっと整った模様を縫えるのだろうが、アルはその少し不揃いな仕上がりを気に入っていた。


(あの頃は、セリーがこんなにいろいろなことをやりたいと思うようになるなんて、想像していなかったな)


 昨日、セリーは新しい願いを紙へ書き加えた。刺繍や料理、花の世話といった身近な楽しみのほかに、アルと一緒にまだ知らない景色を見に行きたいという願いもあった。


 そしてアル自身も、自分の望みを紙へ書いてみようと約束した。


 何を書こうかと考えながら食堂へ入ると、セリーがちょうど焼き上がったパンを籠へ移しているところだった。彼女はアルの姿に気づくと、いつものように丁寧に頭を下げ、それから少し嬉しそうに微笑んだ。


「おはようございます、主様。今朝はお天気がよいので、食堂の窓を少し開けております。風が強くなるようでしたら閉めますので、おっしゃってくださいね」


「おはよう、セリー。これくらいなら気持ちいいよ。パンの香りもするし、いい朝だね」


「ありがとうございます。今日は昨日より少し小さめに焼いてみました。外へ持っていく場合にも食べやすい大きさを考えてみたのですが、まずは朝食で試していただければと思います」


 アルは籠の中を覗き込み、丸く焼かれたパンがいつもより一回り小さいことに気づいた。表面には薄い焼き色がついており、ひとつずつ形を整えた跡が残っている。


「昨日話してた、外で食べるお弁当のことを考えてくれたんだね」


「はい。ただ、実際に持ち運ぶには、冷めてからの食感や、潰れやすさも確かめる必要があると思っています。今日のものは試作ですので、すぐにお弁当へ採用すると決めたわけではありません」


 セリーはそう説明しながら、パンの籠を食卓へ置いた。アルは彼女の慎重な言い方に笑みを浮かべ、自分の席へ腰を下ろした。


「分かった。じゃあ、まずは朝食として食べてみよう。冷めたときのことは、残った分で確かめればいいしね」


「はい。実は、そのつもりで少し多めに焼いております」


 セリーは少し得意そうに答え、温めたスープを運んできた。


 食事を始めると、小さなパンは表面がほどよく香ばしく、中は柔らかかった。アルがその感想を伝えると、セリーは安心したように頷き、冷めたときにどう変わるかを確認するため、残りを清潔な布で包んでおくことにした。


 食卓での会話がひと段落した頃、セリーは少しだけ姿勢を正した。


「主様。昨日のお話なのですが、今日はご自身の願いをお書きになるのでしょうか」


「うん。そのつもりだよ。朝食が終わったら、書斎で少し考えてみようかな」


「それでしたら、私もご一緒してよろしいでしょうか。主様がどのようなことをしてみたいと思われているのか、聞いてみたいのです」


 アルは彼女の表情を見つめた。


 セリーは期待を隠していなかったが、答えを急かすような様子はない。自分が昨日そうしてもらったように、アルにも考える時間が必要だと分かっているのだろう。


「もちろん。一緒に考えてくれると助かるよ。ただ、書いてみるまでは自分でも何が出てくるか分からないけどね」


「それでも構いません。私も昨日、書き始めてから気づいたことがありましたから」


 セリーは嬉しそうに微笑み、食事の続きを始めた。


 アルは小さなパンをもう一つ手に取りながら、窓の外へ目を向けた。


 森の向こうには、まだ歩いたことのない場所がいくつもある。


 王宮にいた頃、知らない土地へ行くことは、視察や外交、あるいは誰かに定められた公務を意味していた。今はそうではなく、行きたいと思ったから出かけることができる。


 その違いを、アルは改めて噛みしめていた。


     ◇


 朝食の片づけを終えた二人は、書斎へ向かった。


 机の上には昨日まとめた木箱の取り扱い説明書が置かれており、その横に新しい紙と筆記具が用意されていた。セリーは窓際の椅子を少し動かし、アルが机へ向かいやすいように場所を空けた。


「主様。紙はこちらでよろしいでしょうか。昨日私が使用したものと、同じ大きさです」


「うん、ありがとう。ちょうどいいよ」


 アルは椅子へ腰を下ろし、白い紙を前にした。


 しかし、筆を持ってみると、すぐには言葉が出てこなかった。


 やってみたいことが何もないわけではない。塔の中で調べたい魔導具はまだあるし、木工も続けたい。セリーと一緒に料理を考えたり、森を歩いたりすることも楽しそうだ。


 それでも、最初に何を書くべきかと考え始めると、なぜか手が止まってしまう。


 セリーは隣の椅子へ座り、しばらく静かに待っていた。


「……主様。少し難しいでしょうか」


 アルは苦笑しながら頷いた。


「そうだね。書きたいことはあるはずなんだけど、いざ紙を前にすると、ちゃんとしたことを書かなきゃいけない気がしてしまって」


「ちゃんとしたこと、ですか?」


「うん。何か意味のある目標とか、これからの暮らしに必要なこととか。そういうものを最初に書くべきなんじゃないかって、つい考えるんだ」


 セリーはアルの言葉を聞き、少し首を傾げた。


「ですが、昨日、主様は私に、望みは何でも書いてよいとおっしゃいました。すぐに実現できるかどうかも、最初から決めなくてよいと」


「……そうだったね」


「はい。ですから、主様も同じように考えてよいのではないでしょうか。私は、主様がどのようなことを楽しみにしているのかを知りたいです」


 その言葉に、アルは筆を持った手を少し緩めた。


 自分がセリーへ伝えたことを、今度は彼女から教えられている。


 それがおかしくもあり、嬉しくもあった。


「ありがとう、セリー。そうだね。誰かに見せるための立派な目標じゃなくて、俺がやってみたいことを書けばいいんだ」


 アルは改めて紙へ目を落とし、最初の一行を書いた。


『セリーと一緒に、まだ歩いたことのない場所へ出かけたい』


 書き終えると、隣から小さく息を呑む音が聞こえた。


 顔を上げると、セリーが紙を見つめたまま、驚いたような表情を浮かべている。


「……主様。それは、私が昨日書いた願いと同じですね」


「うん。昨日、セリーの話を聞いて、俺も行ってみたいと思ったんだ。だから、最初に書くならこれかなって」


 セリーはしばらく黙っていたが、やがて頬を少し赤らめて微笑んだ。


「ありがとうございます。私が望んだことを、主様もしてみたいと思ってくださったのですね」


「セリーが言わなかったら、思いつかなかったかもしれない。でも、今は俺自身も楽しみにしてるよ」


 アルはそう答え、もう一度紙へ目を向けた。


 最初の一行を書いたことで、少し肩の力が抜けたらしい。次に何を書こうか考えていると、いくつかのことが自然に浮かんできた。


『自分で考えた道具を、最後まで作ってみたい』


 アルはその文字を書きながら、昨日完成した木箱を思い出した。


 あれはセリーのための箱であり、二人で考えながら作ったものだった。失敗も多かったが、出来上がったものを実際に使ってもらえる喜びは、王宮で書類を決裁していた頃には知らなかった感覚だった。


 今度は、自分で最初から用途を考えた道具を作ってみたい。


 魔導具である必要はない。


 木で作るものでも、日常のちょっとした不便を解消するものでも構わない。


 その願いを説明すると、セリーは興味深そうに頷いた。


「主様は、次にどのようなものを作ってみたいのでしょうか」


「まだ決まってないんだ。だから、作りたいものを探すところから始めたいかな。暮らしてるうちに、こういうものがあったら便利だなって思うこともあるだろうし」


「それでしたら、私も日々の生活で気づいたことをお伝えできますね。ただ、主様がご自身で考えて作りたいのでしたら、私が先に形を決めてしまわないように気をつけます」


 アルはその言い方に笑みを浮かべた。


「そこまで気を遣わなくていいよ。一緒に考えるのも好きだから。ただ、今度は俺が何を作りたいかを決めるところからやってみたいんだ」


「分かりました。では、主様が考えをまとめる時間も、大切にいたします」


 セリーはそう答え、アルの手元へ視線を戻した。


 アルはさらに筆を進めた。


『塔の中で、まだ知らないことを少しずつ学びたい』


 これは以前から続けていることだった。


 古の塔には、二千年前の魔導具師が遺した数多くの仕組みや資料が残されている。エルの助けを借りても、すべてを理解できているわけではない。


 ただ、アルはそこで一度筆を止めた。


 古代の記録を調べることには、今では別の意味も生まれている。


 保護されていた者たちの過去や、王都で続いている調査、失われた判断の経緯。そうした問題に関わる以上、知りたいという気持ちだけで踏み込んではならない領域もある。


 アルは紙の文字を見つめながら、少し考えた。


(知りたいことはたくさんある。でも、知らないことを全部明らかにするのが正しいとは限らないんだよな)


 セリーはアルの手が止まったことに気づいたらしく、静かに声をかけた。


「主様。何か、気になることがございましたか」


「うん。塔のことをもっと知りたいと思って書いたんだけど、調べることと、何かを動かすことは別だなって考えてたんだ」


 アルは筆を置き、言葉を続けた。


「古い仕組みの中には、誰かを守るために作られたものもあるかもしれない。だから、知りたいからって勝手に動かすんじゃなくて、ちゃんと確かめながら学んでいきたいと思う」


 セリーは真剣な表情で頷いた。


「はい。私も、主様と一緒に学んでいきたいです。ただ、私自身にも分からないことがありますので、知らない部分を知っているかのようにお答えしないようにいたします」


「ありがとう。セリーが分からないって言ってくれるのも、俺には大事なことだよ」


 アルは紙へ一行を書き足した。


『分からないことを、分からないまま大切に扱えるようになりたい』


 書いたあとで、少し大げさだったかもしれないと思った。


 しかし、今の自分が望んでいることに違いはない。


 セリーはその文字を読み、ゆっくり頷いた。


「主様らしい願いだと思います」


「そうかな。自分では、ちょっと堅苦しいことを書いた気もするけど」


「いいえ。主様は、私が何かを選ぶときにも、すぐに答えを決めずに待ってくださいます。ですから、私はこの言葉を読んで、主様が普段から大切にしていることが書かれているように感じました」


 アルは返事をするまで、少し時間が掛かった。


 王宮で王太子として過ごしていた頃、彼は多くの判断を求められた。誰かの意見を聞き、限られた時間の中で決断し、責任を引き受けることが役割だった。


 今は、急いで答えを出さないことにも意味があると知っている。


 その変化を、セリーが見てくれていた。


「……ありがとう。そう言ってもらえると、嬉しいよ」


 セリーは微笑み、机の上へ置かれた紙を見つめた。


「主様。まだ何か書いてみたいことはございますか」


「そうだね。あと一つくらい、今思いつくことを書いておこうかな」


 アルは窓の外へ目を向けた。


 青空の下で木々が揺れ、遠くから鳥の声が聞こえてくる。


 この塔へ来てから、彼は何度も朝を迎えてきた。


 危険や心配事がなくなったわけではない。それでも、明日もここで暮らしたいと思える日々が続いている。


 アルは最後の一行を、ゆっくり書いた。


『この塔での暮らしを、これからも楽しみたい』


 セリーはその文字を読み、何も言わずにしばらく見つめていた。


 やがて、彼女は静かに微笑んだ。


「……私も、同じ気持ちです」


 アルはその言葉に頷き、筆を置いた。


 紙には五つの願いが並んでいた。


 どれも壮大な目標ではない。


 王位を取り戻すことも、誰かに認められることも書かれていない。


 しかし、アルは不思議と物足りなさを感じなかった。


 むしろ、今の自分にとって大切なものが、ようやく見える形になったように思えた。


     ◇


 昼前、アルとセリーは塔の入口近くで、周囲の道を確かめることにした。


 遠出をするためではない。


 昨日、二人で出かけたいと話したものの、どこへ向かうかはまだ決めていなかった。そこで今日は、塔の近くから見える範囲を歩き、道の状態や歩きやすさを確かめておこうということになったのである。


 セリーは小さな手提げ籠を用意し、水の入った容器と清潔な布を収めた。アルも歩きやすい靴を履き、必要以上の荷物を持たないようにした。


「今日は、あまり遠くまで行かないつもりだからね。道の様子を見て、よさそうな場所があったら覚えておこう」


「はい。お弁当を持っていく日は、改めて決めましょう。今日は、歩いてみたい道を探す時間ですね」


 セリーは嬉しそうに答え、塔の扉を開けた。


 外へ出ると、朝よりも少し温かくなった風が二人の頬を撫でた。雨上がりの土は場所によってまだ湿っており、石の表面には薄く水気が残っている。


 アルは足元を確かめながら、塔から森へ続く道へ目を向けた。


 普段よく使う道は踏み固められているが、少し外れた場所には草が伸び、木の根が地面から覗いている。無理に進む必要はないものの、歩きやすい場所を選べば、塔の周囲だけでも十分に楽しめそうだった。


「セリーは、どんな場所へ行ってみたい?」


 アルが尋ねると、セリーは森の方を見つめた。


「そうですね……。花が咲いている場所も素敵ですが、今日は少し高いところから森を眺めてみたいと思っています。塔の窓から見る景色とは、また違うものが見えるかもしれません」


「なるほど。高いところか。塔の北側に、少し地面が上がってる場所があったと思うけど、あそこはどうかな」


「以前、木々の間から見えた場所でしょうか。近くまで行ったことはありませんが、道が続いているようには見えました」


「うん。今日は入口のあたりまで行ってみよう。地面がぬかるんでたら、無理せず戻ればいいし」


 二人は塔の脇を回り、森の北側へ続く細い道へ向かった。


 道の両側には背の低い草が生え、ところどころに小さな白い花が咲いている。セリーはその花へ目を向けたが、摘み取ろうとはせず、立ち止まって形を眺めていた。


「主様。こちらの花は、庭で育てているものとは花びらの形が違いますね。小さいですが、中心へ向かって色が少し濃くなっています」


 アルも隣へしゃがみ込み、花を覗き込んだ。


「本当だ。遠くからだと白一色に見えるけど、近くで見ると違うんだね」


「はい。刺繍にする場合も、中心の色を少し変えた方が、この花らしくなるかもしれません」


「もう新しい図案のことを考えてるんだ」


 アルが笑うと、セリーは少し照れたように微笑んだ。


「はい。ですが、今すぐ作ると決めたわけではありません。こうして見つけたものを覚えておけば、あとで図案を考えるときに役立つかもしれないと思いました」


「いいね。帰ったら、簡単に形を描いておくのもよさそうだ」


「それでしたら、主様も一緒に描いてみませんか。私は花の形を、主様は周りの葉や枝を描いていただければ、一つの図案にできるかもしれません」


 アルは少し考え、頷いた。


「面白そうだね。俺は絵が得意ってわけじゃないけど、試してみたいな」


 二人は花の形をよく眺めてから、再び歩き始めた。


 森へ入ると、日差しは枝葉に遮られ、道の上へまだらな影を落としていた。足元には落ち葉が重なり、踏むたびに柔らかな音がする。


 しばらく進むと、道は緩やかな上り坂になった。


 アルは前方を確かめ、セリーへ振り返った。


「ここから少し傾斜があるね。滑りそうなところもあるから、ゆっくり行こう」


「はい。主様も足元にお気をつけください」


 セリーはそう答え、歩幅を少し小さくした。


 アルは木の根が露出している場所を避けながら進み、途中で振り返って彼女の様子を確かめた。セリーは問題なく歩いていたが、アルが待っていることに気づくと、嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとうございます、主様。私は大丈夫ですので、どうぞ先へ進んでください」


「急いでないから、一緒に行こう。せっかく散歩してるんだしね」


 セリーは少しだけ目を丸くし、それから頷いた。


「……はい。では、ご一緒させていただきます」


 二人は並んで坂を上った。


 途中、木々の間から塔の上部が見えた。普段は塔から森を眺めているため、外から塔を見上げる景色は少し新鮮だった。


 セリーは立ち止まり、遠くに見える石造りの壁へ目を向けた。


「主様。あちらから見ると、塔はずいぶん高く見えますね」


「そうだね。中にいるとあまり意識しないけど、外から見ると大きいな」


「二千年前から、あの場所に立っているのですね」


 セリーの声には、静かな感慨が混ざっていた。


 アルは塔を眺めながら、少し考えた。


 古の魔導具師が何を思ってこの塔を築いたのか、そのすべてを知っているわけではない。遺された仕組みには、まだ理解できないものも多い。


 けれど今、あの塔は自分たちが暮らす場所になっている。


 遠くから眺める石の壁には、王宮のような華やかさはない。それでも、アルにとっては帰る場所だった。


「……あそこへ戻れるって思えるのが、なんだかいいね」


 アルがそう呟くと、セリーは彼へ顔を向けた。


「主様も、そう思われますか」


「うん。王宮にいた頃は、帰る場所っていうより、戻らなきゃいけない場所だった気がする。今は、外へ出ても、またあの塔へ帰りたいって思えるんだ」


 セリーはしばらく塔を見つめ、静かに頷いた。


「私も、主様と一緒にあの塔へ帰ることが好きです。外へ出て知らない景色を見るのも楽しみですが、帰ってから見つけたものについてお話しする時間も、きっと嬉しいと思います」


 アルはその言葉を聞き、穏やかに微笑んだ。


「じゃあ、今日は帰ったら、見つけた花の絵を描こうか」


「はい。楽しみにしております」


 二人は再び歩き始めた。


 坂を上り切る少し手前で、道は二つに分かれていた。


 一方は木々の間を抜けてさらに高い場所へ続いているように見え、もう一方は緩やかに下りながら森の奥へ伸びている。


 アルは分岐点で立ち止まり、周囲を見回した。


「ここまで来たけど、今日はどっちへも進まない方がよさそうだね。上の道は地面が少し湿ってるし、下の道は先が見えない」


 セリーも足元を確かめ、頷いた。


「そうですね。今日は道の状態を確かめることが目的でしたから、ここで戻っても十分だと思います」


 アルは少し意外に思った。


 セリーは高い場所から森を眺めてみたいと言っていた。もう少し進めば、木々の向こうが開けているかもしれない。


「もう少し行ってみたかったんじゃない?」


 アルが尋ねると、セリーは少し考えてから答えた。


「はい。ですが、今日は無理に進まなくてもよいと思っています。次に来る楽しみができましたし、主様とここまで歩けただけでも嬉しかったので」


 その返事を聞き、アルは頷いた。


「そっか。じゃあ、次に来るときは、雨が降ってから何日か経った日にしよう。道が乾いてれば、もう少し上まで行けるかもしれない」


「はい。そのときには、お弁当も持ってきたいですね」


 二人は分岐点の位置を覚え、来た道を引き返すことにした。


 帰り道では、上りのときに気づかなかった小さな草花や、木の幹に残る古い傷が目に入った。セリーはそれらを興味深そうに眺め、アルも彼女が見つけたものへ一緒に目を向けた。


 ただ目的地へ向かうのではなく、歩いている途中の景色を楽しむ。


 それだけで、いつもの森が少し違って見えた。


     ◇


 王立魔導研究院では、フェリクスが古代の記録に関する照合作業を続けていた。


 前日までに確認された一般規定は、保留理由が解消されたことと、以前の判断が自動的に有効になることを区別していた。しかし、その規定が実際にどの施設で用いられていたのか、また、どのような例外が存在したのかは不明のままだった。


 若い研究員は机の上に索引の写しを広げ、分類ごとの見出しを確認していた。


「先生。昨日の分類について、もう一度照合してみました。やはり、記録の継承と判断の承認は、少なくとも索引上では別の項目として扱われているようです」


 フェリクスは資料を受け取り、慎重に目を通した。


「本文が確認できない以上、別の手続きだったと断定することはできないが、同じものとして扱わない方がよさそうだね」


「はい。そこで、次の調査では、まず用語の使い方を確かめたいと思っています。『確認』『判定』『承認』が、それぞれどの範囲を指しているのか、同じ時代の別資料と比較できれば、少し整理できるかもしれません」


 フェリクスは頷いた。


 それは地味な作業だったが、今の段階では必要なことだった。


 古代の文書に書かれた言葉を、現在の制度と同じ意味で読んでしまえば、重大な取り違えが起きる可能性がある。特に、誰かの状態を変更する判断へ関わる規定であれば、曖昧な解釈のまま扱うわけにはいかなかった。


「その方向で進めよう。ただし、比較する資料についても、年代や用途が違う可能性を明記しておくこと。似た言葉が使われているからといって、同じ権限を意味するとは限らない」


「承知しました。まずは確認できた用例だけを集め、意味の推定は別の欄へ記録します」


 研究員はそう答え、新しい整理用紙を取り出した。


 フェリクスは机の端に置かれた報告書へ目を向けた。


 ブラートへ伝えるべき内容は、少しずつ増えている。


 しかし、確定した情報が増えたというより、これまで一つのものとして考えかけていた事柄を、慎重に分け直している段階だった。


 そのことを、報告を受ける側にも正しく理解してもらう必要がある。


 フェリクスは筆を取り、今日の調査方針を短くまとめ始めた。


     ◇


 塔へ戻ったアルとセリーは、昼食を済ませてから、森で見つけた花の形を紙へ描くことにした。


 セリーは窓際の机へ紙を広げ、アルは向かい側へ座った。二人とも絵を描くための道具を専門的に使い慣れているわけではなかったが、今日は正確な図面を作ることが目的ではない。


 見てきたものを、思い出しながら形にしてみる。


 それができれば十分だった。


「主様。花びらは五枚だったと思いますが、少し重なって見えていましたね」


 セリーは記憶を辿りながら、紙へ小さな円を描いた。


「そうだったね。真ん中は少し色が濃くて、外側へ行くほど白く見えた気がする」


「はい。では、刺繍にする場合は、中心に淡い色の糸を使うとよいかもしれません」


 セリーは花びらの形を整え、アルへ紙を見せた。


 アルはそれを眺め、少し考えた。


「葉っぱは、もう少し細長かったかな。あと、花のすぐ下から小さい枝が出てたと思う」


「そうでしたか。私は花の方ばかり見ていましたので、葉の形までは詳しく覚えておりません」


「俺もはっきり覚えてるわけじゃないけどね。じゃあ、今のところは大体の形だけ描いておいて、次に行ったときに確かめようか」


 セリーは頷き、紙の端へ小さく書き加えた。


『葉の形は次に確認する』


 アルはその文字を見て、少し笑った。


「こうしておけば、覚えてないところを無理に描かなくて済むね」


「はい。分からない部分を残しておけば、次に見たときに確かめられますから」


 二人はその後も、花の周りにあった草の形や、枝の伸び方を思い出しながら描き進めた。


 完成した絵は、実物を正確に写したものではなかった。


 しかし、森で見つけた小さな花を思い出すには十分であり、次に見に行くときの楽しみも増えた。


 セリーは紙を持ち上げ、嬉しそうに微笑んだ。


「主様。これを、次の刺繍の候補として残しておいてもよろしいでしょうか」


「もちろん。セリーが気に入ったなら、ぜひ使ってよ」


「ありがとうございます。ですが、今日はまだ図案を決めずにおこうと思います。次に森へ行ったとき、ほかにも素敵な花が見つかるかもしれませんから」


 アルは頷いた。


「そうだね。今すぐ決めなくてもいいし、いくつか候補を集めてから考えるのも楽しそうだ」


 セリーはその言葉に微笑み、紙を丁寧に片づけた。


 そのあと、アルは午前中に書いた願いの紙を取り出した。


 セリーはそれに気づき、少し首を傾げた。


「主様。何か書き足されるのですか」


「うん。さっき森を歩いてて、一つ思いついたことがあってね」


 アルは筆を取り、紙の下へ新しい一行を書き加えた。


『行った場所で見つけたものを、少しずつ記録してみたい』


 セリーはその文字を読み、嬉しそうに頷いた。


「それは素敵ですね。今日の花の絵も、その最初の記録になりますね」


「うん。大げさな記録じゃなくていいんだ。どこへ行って、何を見て、どんなことが楽しかったか。あとで読み返せたら面白いかなって」


「でしたら、私も一緒に書いてよろしいでしょうか。主様と同じ場所へ行っても、私が気づいたことは少し違うかもしれません」


「もちろん。むしろ、そういう違いがあった方が楽しそうだね」


 二人は顔を見合わせ、笑い合った。


 セリーは机の上に置かれた木箱へ視線を向けた。


 昨日、彼女は自分の願いを書いた紙を箱へ収めた。


 今日、アルも自分の望みを書いた。


 それぞれの紙に書かれていることは、すべて同じではない。


 けれど、一緒にしたいことが少しずつ増えている。


 セリーはその事実を、静かに嬉しく思っていた。


     ◇


 夕方になると、アルとセリーは庭の椅子へ腰を下ろし、冷めたパンの食感を確かめることにした。


 朝に焼いた小さなパンは、清潔な布で包んで保管してあった。セリーはそのうちの一つを取り出し、半分に割ってアルへ渡した。


「主様。朝よりも少し硬くなっていますが、持ち運ぶには問題なさそうです。ただ、外で食べる場合は、もう少し水分の多い具材と合わせた方がよいかもしれません」


 アルは一口食べ、ゆっくり噛んで確かめた。


「うん。朝の柔らかさは減ってるけど、これはこれで美味しいね。スープがなくても食べやすいようにするなら、何か挟んでもいいかもしれない」


「そうですね。ですが、具材によっては時間が経つとパンが湿ってしまいますので、その点も考えたいと思います」


 セリーは真剣な表情で頷き、残りのパンを確かめた。


 アルはその様子を見ながら、少し笑った。


「セリー、すごく楽しそうだね」


「はい。まだ出かける日も決まっていませんが、何を持っていこうか考えるだけでも楽しいです」


 彼女はそう答え、少し照れたように視線を落とした。


「以前の私でしたら、主様が外へお出かけになると決まってから、必要なものを準備していたと思います。ですが、今は、私自身が出かけたいと思っていますので、準備を考える時間も嬉しいのです」


 アルはその言葉を聞き、穏やかに頷いた。


「俺も同じだよ。今日は少し歩いただけだったけど、次にどこへ行こうか考えるのが楽しかった」


「はい。あの分かれ道の先には、どのような景色があるのでしょうね」


「上の道なら、もう少し森を見渡せるかもしれないね。でも、実際に行ってみないと分からないな」


 セリーは微笑んだ。


「それでしたら、次に行く楽しみとして残しておきましょう」


 アルは頷き、庭の向こうへ目を向けた。


 夕日に照らされた森は、昼間とは違う色に見えた。木々の影は長く伸び、枝の間から差し込む光が地面へ細い線を描いている。


 アルはふと、午前中に書いた願いの紙を思い出した。


 あの紙には、まだ実現していないことがいくつも書かれている。


 しかし、今日一日を過ごしただけで、そのうちの一つに向けて少し動き始めた。


 セリーと知らない場所へ出かけたい。


 その願いは、もう単なる思いつきではなくなっている。


 行きたい場所を考え、道を確かめ、持っていく食事を相談する。


 そうした小さな準備が、これからの楽しみを少しずつ形にしていくのだろう。


「……セリー。次に森へ行く日は、天気を見て決めようか」


 アルがそう言うと、セリーは嬉しそうに頷いた。


「はい。ですが、無理に急がなくても大丈夫です。今日のように、準備をしながら楽しみに待つ時間も、私は好きですから」


 アルはその返事に微笑んだ。


「そうだね。じゃあ、次に行くまでに、俺も何か持っていくものを考えておこうかな」


「主様も、ですか?」


「うん。セリーにお弁当を全部任せるのも悪いし、何か一つくらい自分で作ってみたい」


 セリーは少し考え、それから楽しそうに微笑んだ。


「それでしたら、主様がお作りになるものは、当日まで秘密にしていただいてもよろしいでしょうか。私も、何を用意するか少し考えてみたいと思います」


「秘密にするの? それも面白そうだね。でも、同じものを作っちゃうかもしれないよ」


「その場合は、二人で同じものを食べることになりますね。それも、きっと楽しいと思います」


 セリーはそう言って、小さく笑った。


 アルもつられて笑い、残っていたパンを口へ運んだ。


 まだ何を作るかは決まっていない。


 どこへ出かけるかも、いつ出発するかも分からない。


 けれど、二人はその未定の時間を、少しも不安には思っていなかった。


 夕方の風が庭を通り抜け、花の葉を静かに揺らしている。


 アルは隣に座るセリーへ手を差し出した。


 セリーは一瞬だけその手を見つめ、それから自然に指を重ねた。


 互いの手の温かさを確かめながら、二人はしばらく森を眺めていた。


 王宮を離れた日、アルは自由に生きたいと願った。


 しかし、自由になった先で、誰かと一緒に願いを書き、まだ知らない道を歩くことを楽しみにする日が来るとは思っていなかった。


 セリーもまた、かつては自分が何を望んでいるのか、うまく言葉にできなかった。


 今は違う。


 二人はそれぞれの願いを持ち、その中に、一緒に過ごしたい時間を見つけている。


 アルは重ねた手へ少しだけ力を込めた。


 セリーは彼へ顔を向け、柔らかく微笑んだ。


「主様。今日も、とても楽しかったです」


「うん。俺も楽しかったよ。明日は何をしようか」


 セリーは少し考え、庭の花へ目を向けた。


「そうですね……。まずは、今日描いた花の絵をもう一度見てみたいです。それから、主様が作ってみたいとおっしゃっていた道具についても、何か考えられるかもしれません」


「いいね。じゃあ、明日はその辺りから始めようか」


「はい。楽しみにしております」


 セリーは嬉しそうに頷いた。


 空には、夕焼けの色がゆっくり広がっている。


 古の塔へ帰る時間が近づいていたが、二人はもう少しだけ庭に座っていることにした。


 今日書いた願いも、これから歩く道も、まだすべてが決まっているわけではない。


 それでも、自分たちで選びながら進んでいける。


 そのことが、今のアルには何より嬉しかった。

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