第146話 新しい願いを書き足す場所
古の塔の朝は、いつもより少しだけ早く始まった。
夜の間に降っていた雨は夜明け前にやみ、窓の外では濡れた木々の葉が朝日を受けて輝いていた。森から吹き込む風には湿った土の匂いが混ざっており、遠くで鳥が鳴くたびに、静かな塔の中へ小さな音が届いてくる。
アルが食堂へ向かうと、すでにセリーが朝食の準備を進めていた。焼き上がったパンの香りが室内に広がり、温めた野菜のスープからは細い湯気が立ち上っている。
「おはよう、セリー。今日は少し早いんだね」
アルが声をかけると、セリーは手にしていた木べらを置き、嬉しそうに振り返った。
「おはようございます、主様。今朝は少し早く目が覚めましたので、朝食の準備を始めておりました。昨夜は雨が降っていましたが、今はよいお天気になりましたね」
「うん。窓から見た森が綺麗だったよ。雨上がりの朝って、いつもと少し匂いが違う気がする」
「私もそう感じました。庭の花も、今日は水を与える必要がなさそうです。ただ、鉢の底に水が溜まっていないかは、あとで確認しようと思っています」
セリーはそう答えながら、スープを器へ注いだ。彼女が料理を始めたばかりの頃は、手順を正確に守ることが何より大切だったが、今では天候や食材の状態を見ながら、自分で少しずつ工夫を加えるようになっている。
アルは席へ腰を下ろし、その様子を穏やかな気持ちで眺めていた。
(こうして毎朝、セリーが考えた料理を食べられるのも、当たり前じゃないんだよな)
王宮で暮らしていた頃、食事は決められた時間に用意されるものだった。献立に自分の希望が反映されることはあっても、誰がどんなことを考えて作ったのか、ゆっくり話す機会はほとんどなかった。
今は違う。
目の前にある料理には、セリーが選んだ食材が使われ、彼女が考えた味付けが施されている。そして、その理由を尋ねれば、彼女は楽しそうに教えてくれる。
「そういえば、今日のスープは昨日と少し違う香りがするね」
アルが器を覗き込むと、セリーは嬉しそうに頷いた。
「はい。昨日の夕食で使用した香草が少し残っていましたので、今朝は量を控えめにして加えてみました。主様は以前、香りが強すぎると野菜そのものの味が分かりにくくなるとおっしゃっていましたから、今日はその点を意識しています」
「覚えていてくれたんだ。ありがとう。確かに、これくらいなら野菜の甘さも分かりそうだね」
「まだ実際に召し上がっていただいておりませんので、成功したかどうかは分かりません。ですが、私としては、昨日よりも少しよい仕上がりになったのではないかと思っています」
セリーは控えめにそう言ったものの、表情には期待が浮かんでいた。
アルはスープを一口飲み、温かな味が舌の上へ広がるのを確かめた。香草の香りは確かに感じられたが、野菜の甘みを邪魔するほどではなく、後味も穏やかだった。
「うん、美味しいよ。香草が入ってるのは分かるけど、野菜の味もちゃんと残ってる。俺はこっちの方が好きかな」
その言葉を聞いたセリーは、ほっとしたように肩の力を抜いた。
「よかったです。では、今日の分量も記録しておきますね。次に作るときには、野菜の種類が違っても同じようになるか、試してみたいと思います」
「いいね。でも、毎回同じ味にしなくてもいいと思うよ。今日みたいに、セリーが美味しそうだと思ったものを作ってくれたら嬉しい」
セリーは少しだけ目を丸くしたあと、柔らかく微笑んだ。
「はい。ありがとうございます、主様」
食卓には、穏やかな時間が流れていた。
アルはパンをちぎりながら、ふと昨日完成した木箱のことを思い出した。
「そうだ、セリー。昨日の箱だけど、今朝はもう使ってみた?」
セリーはその問いに頷きかけ、それから少し考えるように視線を落とした。
「はい。今朝、刺繍糸を一束取り出しました。ただ、使い始めてみて、一つ気づいたことがあるのです」
「気づいたこと?」
「箱そのものに問題があるわけではありません。ですが、昨日入れた紙を、糸を取り出すたびに傷めてしまわないか、少し気になりました」
アルは手を止めた。
セリーが箱の底へ収めたのは、彼女が初めて自分の望みを書き留めた、大切な紙片だった。上には柔らかな布を敷いていたものの、何度も糸を出し入れしていれば、紙が動いたり、角が折れたりする可能性はある。
「なるほど。大事なものだから、できれば普段使う糸とは分けておきたいね」
「はい。ですが、箱の外へ出してしまうのも、少し違うように感じてしまって……。あの紙を最初に入れたいと思ったのは、この箱が私の望みから生まれたものだと、忘れたくなかったからなのです」
セリーはそこで言葉を区切り、少し申し訳なさそうにアルを見た。
「せっかく完成したばかりなのに、もう使い方について相談してしまってもよろしいでしょうか」
アルは思わず笑みを浮かべた。
「もちろん。実際に使ってみないと分からないことだってあるよ。むしろ、昨日完成したからって、もう何も変えちゃいけない方がおかしいと思う」
その返事に、セリーの表情が和らいだ。
「ありがとうございます。では、朝食のあとで、少し一緒に考えていただけますか」
「うん。今日はほかに急いでやらなきゃいけないこともないし、ゆっくり考えよう」
アルはそう答え、残っていたスープへ匙を運んだ。
完成したものを使いながら、必要に応じて工夫していく。
王宮では、何かを変更するたびに承認や報告が必要だった。もちろん、多くの人間が関わる仕事では必要な仕組みだと理解しているが、自分たちの暮らしの中にある小さな道具まで、誰かの許可を待たなければならないわけではない。
それが今のアルには、少し嬉しかった。
◇
朝食を終えた二人は、食器を片づけてから作業室へ向かった。
昨日まで木材や道具が広がっていた作業台は、すでに大部分が片づけられている。細かな木屑も掃き集められ、端材は大きさごとに分けて棚へ収められていた。
その中央に、完成したばかりの木箱が置かれている。
蓋には青緑色の布がはめ込まれ、白い花の刺繍が朝日を受けていた。表面を滑らかに磨いた木材は、昨日よりも少し落ち着いた色に見える。
セリーは箱の前へ立つと、両手で蓋を持ち上げた。
「主様。まず、今の状態をお見せしますね」
中には刺繍糸が色ごとに並べられ、端へ小さな布片が収められていた。底には柔らかな布が敷かれており、その下に、昨日の紙片が大切に保管されている。
セリーは糸を一束持ち上げ、布の端をそっとめくった。
「今は、このように収めています。紙そのものへ糸が直接触れることはありませんが、布を動かすときに一緒にずれてしまうことがあるのです」
アルは箱の内側を覗き込み、紙と布の位置を確認した。
箱には十分な深さがあるものの、底面の広さには限りがある。ここへ厚い仕切りを追加すると、糸や布を入れる場所が狭くなってしまうだろう。
「箱の底に固定する方法もあるけど、それだと紙を取り出しにくくなるね。それに、あとで別の場所へ移したくなったときに困るかもしれない」
「そうですね。私は、時々取り出して読み返したいと思っています。昨日、主様から新しい望みを書き足してもよいと教えていただいたので、なおさら……」
セリーはそこまで話すと、少し照れたように笑った。
アルは彼女の言葉を聞き、机の上に置かれた薄い木板へ目を向けた。
「だったら、紙を入れるための薄い袋を作るのはどうかな。箱の底へ置くのは同じだけど、布だけで包むより取り出しやすくなると思う」
「袋、ですか?」
「うん。紙より少し大きくて、口を閉じられるもの。厚すぎなければ、上に糸を置いても邪魔にならないんじゃないかな」
セリーは少し考え、箱の中から紙片を取り出した。
何度か開いているため、折り目は柔らかくなっている。けれど、文字はまだはっきりと読める状態だった。
「それでしたら、私が縫ってみてもよろしいでしょうか。小さな布袋なら、今まで覚えた縫い方で作れると思います」
「もちろん。セリーの大切な紙だから、どんな袋にするかもセリーが決めた方がいいと思う」
アルが答えると、セリーは嬉しそうに頷いた。
彼女は棚から布の入った籠を取り出し、作業台へ並べ始めた。生成り色の薄い布、少し厚みのある青い布、柔らかな白い布など、これまで刺繍の練習に使った端切れがいくつも残っている。
アルはそれらを眺めながら、布の厚みや手触りを確かめた。
「これなら柔らかいけど、少し薄すぎるかな。何度も出し入れするなら、端が傷みやすいかもしれない」
「では、こちらはいかがでしょうか。少し厚みがありますが、折り畳んでも大きくはなりません」
セリーが選んだのは、淡い生成り色の布だった。
アルは指先で触れ、柔らかさを確かめた。目が細かく、紙の角が引っ掛かりにくそうな布地だった。
「うん、よさそうだね。口を閉じるところはどうする?」
「紐で結ぶ方法もありますが、紙を取り出すたびに結び直すことになりますね。小さな折り返しを作れば、紐がなくても中身が落ちにくくなるかもしれません」
セリーは布を二つに折り、端を内側へ重ねて見せた。
アルはその形を見ながら、紙片を出し入れする動作を想像した。
「なるほど。封筒みたいな形だね。それなら厚くなりにくいし、結び目が紙を押す心配もなさそうだ」
「はい。では、その形で試してみます」
セリーは裁縫道具を用意し、布へ紙片を当てて寸法を確かめた。
最初からぴったりの大きさにするのではなく、出し入れしやすいよう少し余裕を残す。紙の角が縫い目へ引っ掛からないよう、内側の縫い代も短く整える必要があった。
アルは彼女の向かい側へ腰を下ろし、作業を見守った。
木箱を作っている間、アルが木材を加工し、セリーが刺繍を担当する場面は多かった。しかし、今はセリーが中心になって作業を進め、アルは必要なときだけ相談に応じている。
その違いが、アルには心地よかった。
(セリーはもう、自分が何を作りたいのか、どう使いたいのかをちゃんと考えている。俺が先に答えを出さなくても、一緒に考えればいいんだ)
セリーは針を進めながら、ときどき縫い目を確かめていた。
以前は、少しでも形が揃わないと作業をやり直そうとすることがあった。けれど、今は仕上がりに影響しない程度の違いなら、そのまま生かすことも覚え始めている。
「主様。こちらの角ですが、少しだけ縫い目が曲がってしまいました」
セリーは布を持ち上げ、アルへ見せた。
確かに、角へ近づくところで縫い目がわずかに斜めになっている。ただ、布が引きつれたり、袋の形が崩れたりしているわけではなかった。
「使うには問題なさそうだね。セリーはどう思う?」
アルが尋ねると、セリーはすぐに答えず、指先で縫い目をなぞった。
「……以前でしたら、ほどいて縫い直していたと思います。でも、今は、このままでもよいように感じています。少し曲がっていても、私が縫ったものだと分かりますから」
「うん。それもいいと思う。もちろん、直したくなったら直していいけどね」
「はい。今回は、このまま仕上げてみます」
セリーは穏やかに微笑み、再び針を動かし始めた。
窓から差し込む光が作業台の上をゆっくり移動し、針の先で小さく反射する。アルはその様子を眺めながら、完成した木箱を作業台の端へ寄せ、セリーが布を広げやすいよう場所を空けた。
しばらくして、小さな布袋が完成した。
セリーは縫い終えた糸を切り、袋を表へ返した。折り返しの部分も自然に収まり、紙片を入れてみると、少し余裕を残して中へ収まった。
「主様。できました。紙を入れたままでも、箱の底へ置けそうです」
アルは受け取った袋を確かめ、笑顔で頷いた。
「いい仕上がりだね。これなら、紙を読み返すときにも取り出しやすそうだ」
セリーは袋を両手で包み、少しだけ考え込んだ。
「……主様。もう一つ、相談してもよろしいでしょうか」
「うん。何でも言って」
「この袋には、今の紙を入れておきたいと思っています。でも、新しく書く望みまで同じ紙へ書き足してしまうと、いつか余白がなくなってしまいますよね」
アルは頷いた。
確かに、昨日見せてもらった紙片は小さく、すでにいくつもの言葉が書かれていた。新しい願いを書き足すには、あまり余裕がない。
「だったら、新しい紙を使えばいいんじゃないかな。最初の紙はそのまま残して、次の望みは別の紙に書くんだ」
「別の紙に……」
「うん。最初に考えたことを消さなくてもいいし、新しく考えたことも残せる。あとから読み返したとき、何をしたかったのか、どう変わったのかも分かると思う」
セリーは紙片を見つめたまま、しばらく黙っていた。
そこに書かれているのは、彼女がまだ自分の望みをうまく言葉にできなかった頃の記録だった。今では実現したものも多いが、当時の彼女にとっては、どれも簡単に口にできる願いではなかった。
花を育てたい。
料理を考えたい。
刺繍を覚えたい。
木を削って何かを作りたい。
そして、アルと一緒に何かを作りたい。
その一つ一つが、彼女の中で少しずつ形になっていった。
「……そうですね。最初の紙は、最初の紙として残しておきたいです」
セリーは静かに顔を上げた。
「今の私が考えることは、あの頃とは少し違うかもしれません。でも、違っていてもよいのですよね」
アルは彼女の表情を見つめ、ゆっくり頷いた。
「もちろん。前に望んだことを、ずっと同じように望み続けなきゃいけないわけじゃないよ。やってみたからこそ、別のことをしたくなる場合だってあるだろうし」
「……はい。私も、そう思います」
セリーは小さな布袋へ紙片を収め、折り返しを丁寧に閉じた。
そして、箱の底へそっと置いた。
今度は上から布を掛けても、袋が簡単にずれることはなかった。糸を出し入れしても、紙が直接擦れる心配は少なくなっている。
セリーはその状態を確かめ、満足そうに頷いた。
「これで、安心して使えそうです。ありがとうございます、主様」
「どういたしまして。でも、ほとんどセリーが考えて作ったんだよ」
「主様が相談に乗ってくださったからです。一人で考えることも大切ですが、誰かと一緒に考えることも、私は好きなのだと思います」
アルはその言葉に少し照れながら、作業台の上に残った布片を片づけた。
木箱は昨日完成した。
そして今日は、使い始めたことで見つかった小さな問題を、二人で解決できた。
それだけのことだったが、アルには昨日とは違う満足感があった。
◇
王都の三〇八号室では、ヨアヒムが少年の様子を確認していた。
昨日、少年は焼きたてのパンの香りを初めて体験した。
短い時間ではあったが、本人が希望し、必要な説明を聞き、自分で実施を選んだ体験だった。終了後に体調の変化は確認されず、夜も普段どおりに過ごしている。
ヨアヒムはその経過を記録へ残していたが、今朝は別のことを確かめたいと思っていた。
昨日の体験を、少年がどう受け止めているのか。
そして、今日になって気持ちが変わったところはないか。
それを本人の言葉で聞いておきたかったのである。
部屋へ入ると、少年は寝台の上で絵本を開いていた。窓から差し込む光が布団の端を照らし、枕元には昨日までと同じように、赤い布に包まれた手紙が大切に置かれている。
ヨアヒムはその包みに触れず、少年へ声をかけた。
「おはようございます。今朝の具合はいかがですか」
少年は絵本から顔を上げ、少し考えてから答えた。
「おはよう、先生。今日は元気だよ。昨日のパンの匂い、まだ覚えてる」
ヨアヒムは椅子を引き寄せ、寝台の脇へ腰を下ろした。
「それはよかったです。昨日は初めての体験でしたから、疲れたり、嫌な気持ちが残ったりしていないか、少し気になっていました」
「嫌じゃなかったよ。でも、夜になったら、また食べたくなっちゃった」
少年は少し困ったように笑った。
「先生、あのパンって、もうないのかな。食べられないって分かってるけど、どんな味なのか気になってるんだ」
ヨアヒムは少年の言葉を遮らず、最後まで聞いた。
「そうですね。昨日のパンを食べることはできませんでしたが、食べてみたいと思ったことは、きちんと記録に残してあります。今後、食べられるものの種類や条件について確認する機会があれば、その希望も伝えましょう」
少年は頷いたものの、少しだけ眉を下げた。
「……すぐには食べられないんだね」
「はい。今すぐできるとは約束できません。ただ、食べたいと思ったことまで、なかったことにする必要はありませんよ」
少年は布団の上で指を動かし、しばらく考え込んだ。
ヨアヒムは急かさず、窓の外へ目を向けた。庭の木々にはまだ雨粒が残っており、風が吹くたびに葉先から小さな雫が落ちている。
やがて少年が顔を上げた。
「先生。昨日、ぼくがパンの匂いを嗅いだことって、ちゃんと書いてある?」
「はい。あなたが感じたことも含めて、記録しています」
「じゃあ、食べられなくて残念だったことも?」
「もちろんです。嬉しかったことと、残念だったことの両方を書いています。あなたがそうしてほしいと話してくれましたから」
少年は安心したように息を吐いた。
「よかった。ぼく、嬉しかったって言ったら、もうそれで十分だと思われちゃうのかなって、少し心配だったんだ」
ヨアヒムはその言葉を聞き、胸の奥へ小さな痛みを覚えた。
少年は自分の希望を伝えることに、以前より慣れてきている。しかし、何か一つが叶えば、それ以外の願いを取り下げなければならないのではないかという不安は、まだ残っているらしい。
「昨日の体験が嬉しかったことと、ほかにも望んでいることがあるというのは、別の話です。町へ行きたいという希望も、変わらず記録されています」
ヨアヒムがそう伝えると、少年は顔を上げた。
「石橋も?」
「はい。石橋の上から川を見たいことも、川の音を聞きたいことも、焼いている時間のパン屋へ行ってみたいことも、残してあります」
「先生も一緒に来てほしいってお願いは?」
「それも残しています。ただし、外出そのものが認められるかどうかは、まだ決まっていません。私が付き添えるかどうかも、実際に検討する段階で確認が必要になります」
少年は少し残念そうな顔をしたが、やがてゆっくり頷いた。
「……うん。まだ決まってないんだよね。でも、忘れられてないならいい」
ヨアヒムは、その言葉を簡単に受け流すことができなかった。
忘れられていないならいい。
少年はそう言ったが、本当は忘れられないだけでは足りないはずだった。いつか町へ出たいという希望がある以上、その実現に向けて何が必要なのか、可能な範囲で検討されなければならない。
しかし、今ここで実現を約束することもできない。
ヨアヒムは慎重に言葉を選んだ。
「あなたの希望は、これからも確認していきます。もし気持ちが変わったり、新しく行きたい場所が増えたりしたら、教えてください。前に話したことと違っていても構いません」
少年は少し驚いたように目を丸くした。
「変わってもいいの?」
「もちろんです。以前の希望を残しておくことと、今の希望を聞くことは、どちらも大切ですから」
少年は膝の上の絵本へ視線を落とした。
開かれていたのは、町の広場が描かれたページだった。小さな店が並び、人々が荷物を持って歩いている。絵の奥には石造りの橋があり、その下を川が流れていた。
「……じゃあ、もう一つお願いしてもいい?」
ヨアヒムは頷いた。
「聞かせてください」
「町へ行けたら、パン屋さんの前で、少しだけ立ち止まりたい。昨日みたいに匂いを嗅いで、それから、どんなパンがあるのか見てみたいんだ」
少年は絵本の店先を指差した。
「昨日はパンを一つしか見られなかったけど、お店にはもっといろんな形のパンがあるんでしょう?」
「そうですね。丸いものや細長いもの、表面に切れ目が入ったものなど、いろいろあります。店によって並ぶ種類も違うと思いますよ」
「じゃあ、見るだけでも楽しそうだね」
少年は嬉しそうに笑った。
ヨアヒムはその笑顔を見つめながら、今の希望を記録するための紙を取り出した。
「パン屋の前で立ち止まり、店先に並ぶパンを見てみたい、ということですね。昨日の香りの体験とは別の希望として残しておきます」
「うん。それから、先生。もし行けるようになったら、急がなくてもいいようにしてほしいな」
少年は少し考え、言葉を続けた。
「ぼく、きっと、初めて見るものがたくさんあると思うんだ。だから、ゆっくり見たい」
ヨアヒムは筆を止め、少年の顔を見た。
外出が認められるかどうかも決まっていない今、歩く速度や滞在時間を具体的に約束することはできない。それでも、少年が何を大切にしたいのかを知ることには意味がある。
「分かりました。急がずに景色を見たいという希望も、記録しておきます。ただ、実際に外出する場合には体調や安全の確認が必要になりますので、そのときに改めて相談しましょう」
少年は満足そうに頷いた。
ヨアヒムは記録を閉じる前に、もう一度本人へ読み上げた。
焼きたてのパンの香りを知れたことは嬉しかった。
食べられなかったことは残念だった。
町へ行きたい希望は変わっていない。
パン屋の前で立ち止まり、いろいろなパンを見てみたい。
そして、初めて見る景色を急がずに楽しみたい。
少年は一つずつ確かめ、最後に小さく頷いた。
「うん。それでいいよ」
ヨアヒムはその返事を聞き、記録へ確認したことを書き加えた。
少年の希望は、昨日より少し具体的になっていた。
それは、外出の許可が近づいたという意味ではない。
ただ、少年が自分の望む経験を、以前より詳しく思い描けるようになったということだった。
ヨアヒムはその変化を、急いで何かの成果へ結びつけようとは思わなかった。
◇
昼を過ぎた頃、古の塔ではアルが書斎の机へ向かっていた。
午前中にセリーと布袋を作り終えたあと、彼は以前から用意しようと考えていた木箱の取り扱いの説明をまとめ始めていた。
刺繍の台紙を交換する方法。
蓋を取り外すときの持ち方。
布を洗う場合の注意点。
木箱の内側が湿ったときには、十分に乾かしてから糸を戻すこと。
これらは、箱が完成する前から二人で話していた内容だった。
アルは最初、簡単な説明を書けば十分だと思っていた。しかし、実際に書き始めると、使い慣れた自分たちには当たり前のことでも、文章だけでは分かりにくい部分があると気づいた。
「……台紙を引き出すときは、蓋を裏返して、つまみを持つ。これだけだと、どこまで引き出せばいいか分かりにくいかな」
アルが紙へ視線を落としていると、扉の向こうから控えめな声が聞こえた。
「主様。お茶をお持ちしました。今、お邪魔してもよろしいでしょうか」
「うん、ありがとう。ちょうど少し休もうと思ってたところだよ」
セリーは盆を持って書斎へ入り、机の端へ茶器を置いた。
彼女の視線が、アルの前に広げられた紙へ向けられる。
「木箱の説明を書いてくださっているのですね」
「うん。でも、思ったより難しくてね。作った本人には分かることでも、あとで読み返したら分かりにくいかもしれないと思って」
セリーは紙を覗き込み、しばらく文章を読んでいた。
「主様。こちらの『台紙をゆっくり引き出す』という部分ですが、布を引っ張らないことも書いておいた方がよいかもしれません。私は仕組みを知っていますが、急いで交換しようとしたときには、つい布の端へ指を掛けてしまう可能性があります」
「確かに。それは大事だね。布を引っ張ると刺繍が傷むかもしれないし、台紙が曲がることもある」
アルは筆を取り、注意書きを加えた。
セリーはその様子を見つめながら、少し考え込んだ。
「それから、台紙を交換するときには、箱の中身を出さなくてもよいことも書けますね。蓋だけを取り外して、机の上で交換できますから」
「そうだね。じゃあ、最初に蓋を外して、柔らかい布の上へ裏返して置くところから書こうか」
二人は説明の順序を考え直した。
蓋を持ち上げる。
柔らかな布の上へ裏返して置く。
裏側の小さなつまみを持ち、木製台紙をゆっくり引き出す。
布の端や刺繍糸を直接引っ張らない。
別の台紙を溝へ沿わせ、無理な力を掛けずに差し込む。
最後に表側から刺繍の位置を確かめ、蓋を箱へ戻す。
アルは書き上げた説明を読み返し、少し満足そうに頷いた。
「これなら、順番も分かりやすいかな」
セリーは紙を受け取り、実際に作業するつもりで一つずつ確認した。
「はい。ですが、台紙が途中で動かなくなった場合のことも、書いておいた方が安心かもしれません」
「そうだね。無理に押したり引いたりしないで、一度戻して位置を確認する、かな」
「はい。それでも動かない場合は、作業を中断する方がよいと思います。道具を差し込んで無理に外そうとすると、木材を傷めてしまうかもしれませんから」
アルはその意見を取り入れ、注意書きを追加した。
ふと、彼は筆を止めてセリーを見た。
「こういう説明って、作ったときのことを思い出しながら書くと、いろいろ気づくね。最初は交換方法だけでいいと思ってたけど、使っているうちに困りそうなことも書いておいた方がいいんだな」
セリーは微笑んだ。
「私もそう思います。主様と一緒に箱を作ったとき、最初に考えた方法ではうまくいかないことが何度もありました。ですが、そのたびに理由を確かめて、少しずつ形を変えてきましたから」
「そうだね。木栓の穴がずれたときなんか、どうしようかと思ったよ」
アルが苦笑すると、セリーも小さく笑った。
「私も、あのときは少し驚きました。ですが、主様が無理に組み立てず、端材で練習しようとおっしゃったので、落ち着いてやり直せました」
「セリーも、穴の位置を確認する方法を一緒に考えてくれたからね。俺一人だったら、もっと時間が掛かってたと思う」
二人はしばらく、完成までの作業を振り返った。
最初に木板を並べたとき、箱はまだ漠然とした形しか持っていなかった。蓋の刺繍を交換できるようにしたいという希望が生まれ、布が引っ掛からない方法を考え、台紙を作り直した。
木材の加工に失敗したこともあった。
思いどおりの形にならず、作業を翌日へ持ち越したこともある。
しかし、その時間をアルは無駄だったとは思わなかった。
むしろ、完成した箱を眺めるたびに、失敗した場面も含めて思い出せることが嬉しかった。
「……セリー。説明書の最後に、少し余白を残しておこうか」
アルがそう提案すると、セリーは首を傾げた。
「余白、ですか?」
「うん。使ってみて新しく気づいたことがあったら、そこへ書き足せるようにするんだ。今日だって、紙を入れる袋が必要だって分かっただろう? これからも何か見つかるかもしれないから」
セリーはしばらく考えたあと、嬉しそうに頷いた。
「それは素敵ですね。完成したときの使い方だけでなく、使い続ける中で分かったことも残せるのですね」
「そういうこと。最初から全部分かってる必要はないと思うんだ」
アルは説明書の下半分へ余白を残し、見出しを書き加えた。
『使ってみて気づいたこと』
セリーはその文字を見つめ、柔らかく微笑んだ。
「主様。この説明書も、私の木箱と一緒に保管してよろしいでしょうか」
「もちろん。セリーの箱のために書いたものだからね」
アルは紙を乾かし、折り目を付けないように整えた。
その横で、セリーは茶器を片づけながら、何かを考えているようだった。
アルは彼女の表情に気づいたが、すぐには尋ねなかった。
最近のセリーは、何かを思いついても、その場ですぐに言葉にするとは限らない。自分の中で考えをまとめてから、ゆっくり話し始めることが増えていた。
アルは、その時間を大切にしたかった。
◇
同じ頃、王立魔導研究院では、フェリクスが若い研究員とともに、古代の記録の照合結果を整理していた。
昨日確認された文言は、保留理由が解消されたことと、以前の判断が再び有効になることを区別するものだった。
しかし、その規定がどのような場面へ適用されるのかは、まだ分かっていない。
フェリクスは机の上に複数の写しを並べ、確認済みの文言と、そこから推測できる内容を別々の紙へ書き分けていた。
「先生。昨日の一節ですが、関連する見出しをもう少し広い範囲で探してみました」
若い研究員がそう言って、薄い資料の束を差し出した。
フェリクスは受け取り、最初の紙へ目を通した。
「何か見つかったのかね」
「本文の新しい部分は、まだ確認できていません。ただ、保留や再確認に関する記録が、複数の分類へ分かれている可能性があります。索引の並びだけでは判断できませんが、同じ見出しの下にすべての手続きが収められているわけではなさそうです」
フェリクスは資料を机へ置き、慎重に頷いた。
「それなら、今の段階で一つの手順としてつなげて考えるのは危険だね。見出しの近さだけで、同じ対象へ適用される規定だと決めることはできない」
「はい。特に、確認記録の欠落と、状態変更の承認については、別の分類に置かれている可能性があります」
若い研究員はそこで少し言葉を選んだ。
「ただ、先生。そうなると、私たちが今まで探していたものも、少し見直す必要があるのではないでしょうか」
フェリクスは研究員へ視線を向けた。
「どういう意味だね」
「これまでは、欠けた確認記録を補うための手順を探していました。ですが、仮に記録の欠落が解消されたとしても、それだけでは以前の判断を再開できないのであれば、記録を補う手順と、判断を新しく行う手順は、別々に存在していた可能性があります」
フェリクスはすぐには答えなかった。
机の上には、これまで確認してきた規定の写しが並んでいる。
一次確認を行う者と、再確認の成立を判定する者を分ける原則。
再確認の成立判定は、状態変更の承認を兼ねないという規定。
継承記録の受領は、その判断の追認を意味しないという文言。
そして、保留理由が解消されても、以前の判断が自動的に有効になるわけではないという注意。
それぞれは短い文章だったが、並べてみると、一つのことが見えてくる。
少なくとも古代の制度には、ある段階を終えたからといって、次の段階まで自動的に認めるわけではないという考え方があったらしい。
ただし、それが誰を守るためのものだったのかは分からない。
制度が実際に守られていたかどうかも不明だった。
「……君の考えには、調べる価値があると思う」
フェリクスはようやく口を開いた。
「ただし、今の話はまだ仮説だ。記録を補うことと判断をやり直すことが別だったとしても、実際にどのような順序で行われていたのかは、本文を確認しなければ分からない」
「承知しています。ですから、次は索引の分類を確かめるところから進めたいと思います。本文が残っていない箇所についても、見出しだけで手続きを補わないようにします」
フェリクスは頷き、机の端へ置かれた報告用紙を引き寄せた。
「ブラート殿へ送る次の報告には、昨日の文言が確認済みであることと、今日の分類に関する見立てが未確定であることを分けて記そう。今すぐ何かを判断する材料にはならないが、調査の方向を考えるうえでは重要だ」
研究員は静かに頷いた。
フェリクスは筆を取り、慎重に文章をまとめ始めた。
古代の制度を調べることは、単に古い規則を読み解くことではない。
そこに記された言葉が、どのような状況で使われ、誰の判断へ影響していたのかを考える必要がある。
しかし、分からない部分を想像で埋めてしまえば、かえって過去の判断を取り違えることになるだろう。
フェリクスはその危うさを、以前より強く意識するようになっていた。
◇
夕方、古の塔の庭では、アルとセリーが花の鉢を確かめていた。
朝の雨で土は十分に湿っていたが、鉢によっては水の抜け方が違う。セリーは一つずつ状態を確認し、底に水が溜まっていないかを確かめていた。
アルはその隣で、少し伸びすぎた枝が通路へ掛かっていないかを見ていた。
森から吹く風は朝よりも穏やかになり、空には薄い雲が流れている。西へ傾き始めた日差しが塔の壁を照らし、庭の石畳には長い影が伸びていた。
「主様。こちらの鉢は、今日は水を与えなくても大丈夫そうです」
セリーは土の表面を確かめ、立ち上がった。
「そうだね。朝の雨がしっかり染み込んでるみたいだ。明日また様子を見ればいいと思う」
「はい。ですが、こちらの花は少し葉が増えましたので、鉢の位置を変えた方がよいかもしれません。今の場所では、隣の鉢と触れるようになっています」
アルは隣へしゃがみ込み、葉の広がり方を確かめた。
確かに、以前より枝葉が伸びている。今のままでもすぐに問題が起きるわけではないが、少し間隔を空けた方が風も通りやすそうだった。
「じゃあ、少しだけこっちへ動かそうか。日当たりはあまり変わらないし、隣の花にも余裕ができると思う」
「はい。では、私が持ち上げますね」
二人は鉢を移動させ、石畳の上へ置き直した。
セリーは少し離れたところから全体を眺め、満足そうに微笑んだ。
「これで、どちらの花も窮屈ではなくなりましたね」
「うん。最初に並べたときは、こんなに大きくなると思わなかったな」
アルがそう言うと、セリーは嬉しそうに頷いた。
「私もです。ですが、育っていくにつれて、必要な場所も変わるのですね。最初に決めた位置へ、ずっと置いておく必要はないのだと思いました」
アルはその言葉を聞き、少しだけ笑った。
「今日は、そういうことに何度も気づく日だね」
「そうでしょうか?」
「うん。木箱の中身も、使い始めてから入れ方を変えただろう? 説明書にも、あとから書き足せる場所を作ったし。花だって、大きくなったら置く場所を変える。最初に決めた形が、ずっと正解とは限らないんだなって」
セリーはしばらく考えたあと、穏やかに微笑んだ。
「……はい。ですが、最初に決めたことが無駄になるわけでもありませんね」
「そうだね。最初に考えたことがあったから、今の形にできたんだと思う」
アルは花の鉢へ視線を落とした。
この塔へ来たばかりの頃、彼は自分が何をして暮らしていくのか、はっきりと想像できていなかった。
王太子の地位を失い、王宮から離れ、自由に生きると決めた。
その選択を後悔してはいない。
けれど、自由になったあとで何を望むのかまでは、最初から分かっていたわけではなかった。
塔を調べ、古い魔導具に触れ、セリーと一緒に料理や庭仕事をするようになった。
木を削り、刺繍を眺め、何でもない会話を楽しむ。
そうした日々を重ねるうちに、アルの中にも少しずつ新しい望みが生まれていた。
(王太子だった頃は、何をするべきかを考えることが多かった。でも今は、何をしてみたいかを考えられるんだな)
その違いは、決して小さなものではなかった。
アルは隣に立つセリーへ顔を向けた。
「セリー。今日は、新しい願いを書く紙を用意するって話してたよね」
セリーは頷いた。
「はい。ですが、まだ何を書こうか決めていません。書きたいことはいくつか思い浮かぶのですが、どれを最初に書くか迷ってしまって」
「全部書いてもいいんじゃないかな。順番を決めなきゃいけないわけじゃないし」
セリーは少し驚いたように目を丸くした。
「全部、ですか?」
「うん。やってみたいことがいくつもあるなら、全部残しておけばいいと思う。あとで気持ちが変わってもいいし、今すぐできないことがあっても構わないんじゃないかな」
セリーはその言葉を聞き、しばらく庭を眺めていた。
風が吹くと、花の葉が小さく揺れる。
彼女はその動きを目で追いながら、静かに口を開いた。
「……では、今夜、書いてみようと思います。主様にお見せしてもよろしいでしょうか」
「もちろん。でも、見せたくないものまで見せなくてもいいからね。セリー自身の願いなんだから」
セリーはアルを見つめ、柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます。ですが、今考えていることは、主様にも知っていただきたいと思っています」
アルはその返事に少し照れながら、頷いた。
二人は残りの鉢を確かめ、道具を片づけてから塔の中へ戻った。
◇
夜の食事を終えたあと、セリーは居間の小さな机へ紙と筆を用意した。
アルは向かい側へ座り、彼女が書き始めるのを待っていた。窓の外には星が見え始めており、室内の灯りが木製の机へ柔らかな影を落としている。
セリーはしばらく白い紙を見つめていたが、やがてゆっくり筆を動かした。
最初に書いたのは、次の刺繍を作ることだった。
完成した木箱に収める、新しい図案を考えてみたい。
その次には、庭の花をもっと上手に育てられるようになりたいと書いた。
そして、今まで作ったことのない料理にも挑戦してみたいと続けた。
アルは邪魔をしないように見守っていたが、セリーは途中で顔を上げ、少し考え込んだ。
「主様。ここまで書いてみたのですが、もう一つ、少し違う種類の願いがあることに気づきました」
「違う種類?」
「はい。何かを作ることや、覚えることではないのですが……それでも、私がしてみたいと思っていることです」
アルは頷き、彼女が続きを話すのを待った。
セリーは筆を置き、膝の上で両手を重ねた。
「私は、主様と一緒に、まだ行ったことのない場所へ行ってみたいです。遠くでなくても構いません。塔の近くでも、森の中でも、私たちがまだゆっくり歩いたことのない場所を、二人で見てみたいと思っています」
アルはその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。
これまでにも二人で外へ出たことはある。
しかし、その多くには何かしらの目的があった。必要なものを探したり、塔の周囲を確かめたり、用事を済ませたりするための外出だった。
ただ景色を楽しむために、行き先を選んで歩く。
セリーが望んでいるのは、そういう時間なのだろう。
「……いいね。俺も、セリーと一緒に行ってみたい」
アルがそう答えると、セリーは嬉しそうに微笑んだ。
「本当ですか?」
「うん。塔の周りにも、まだゆっくり見てない場所があると思う。天気のいい日に、何か食べるものを持って出かけるのも楽しそうだね」
セリーは少し考え、目を輝かせた。
「それでしたら、私がお弁当を作ってもよろしいでしょうか。外で食べることを考えて、持ち運びやすい料理を選んでみたいです」
「ぜひお願いしたいな。でも、せっかくだから、俺も何か手伝わせてよ」
「はい。では、何を持っていくか、一緒に考えましょう」
二人は自然と笑い合った。
まだ日程も行き先も決まっていない。
天候や道の状態を確かめる必要もあるだろう。
それでも、ただ一緒に出かけたいという願いを言葉にできたことが、セリーには嬉しかった。
彼女は再び筆を取り、紙へ新しい一行を書き加えた。
『主様と一緒に、知らない景色を見に行きたい』
書き終えたあと、セリーはその文字をしばらく見つめていた。
アルは彼女の表情を見ながら、静かに尋ねた。
「セリー。書いてみて、どう?」
セリーは少し考えてから、ゆっくり答えた。
「……嬉しいです。まだ実現していないことなのに、こうして書いただけで、少し楽しみになりました」
「うん。俺も楽しみだよ」
セリーは紙を持ち上げ、もう一度最初から読み返した。
刺繍。
花。
料理。
そして、アルと一緒に見に行きたい景色。
どれも、今の彼女が自分で選んだ願いだった。
「主様。以前の紙には、私が初めて考えた望みが書かれています。今日の紙には、今の私がしてみたいことが書かれました」
セリーは穏やかに微笑んだ。
「これから先、また新しい紙が増えていくのでしょうか」
「きっと増えていくと思うよ。もちろん、増やさなきゃいけないわけじゃないけどね」
「はい。無理に増やすのではなく、何かをしてみたいと思ったときに、書いてみようと思います」
アルは頷いた。
セリーは新しい紙を丁寧に折り畳み、昨日完成した木箱を手元へ引き寄せた。
蓋を開けると、中には刺繍糸と布が整然と収められている。底には、午前中に作った小さな布袋があった。
セリーは少し考えたあと、新しい紙をその袋へ入れようとして手を止めた。
「……主様。最初の紙と、今日の紙を同じ袋へ入れてもよいでしょうか」
アルは微笑んだ。
「もちろん。セリーがそうしたいなら、それが一番だと思う」
「はい。私は、同じ場所へ入れておきたいです。最初の望みがあったから、今の私があるのだと思いますので」
セリーは袋の折り返しを開き、新しい紙をそっと差し込んだ。
二枚の紙は、同じ袋の中へ収まった。
彼女は袋を箱の底へ戻し、その上へ柔らかな布を掛けてから、刺繍糸を元の位置へ並べ直した。
最後に蓋を閉じると、青緑色の布に咲く白い花が、灯りの下で穏やかに浮かび上がった。
セリーはしばらく箱を見つめ、それからアルへ顔を向けた。
「主様。私、この箱を作ってよかったです」
アルは彼女の隣へ移動し、椅子へ腰を下ろした。
「俺もそう思う。作ってる間も楽しかったし、完成してからも、いろいろ考えるきっかけになったね」
「はい。最初は、刺繍糸や布を片づけるための箱が欲しいと思っていました。ですが、今は、それだけではなくなったように感じています」
セリーは箱の蓋へ指先を添えた。
「この箱には、私が作ったものと、これから作りたいものの両方を入れておけます。まだ何も作っていない日でも、次に何をしてみたいかを考えられるのが、嬉しいのです」
アルはその言葉を聞き、静かに頷いた。
王宮を離れてから、彼自身も似たようなことを感じていた。
何かを成し遂げた日だけが、大切な一日なのではない。
何も大きなことが起きなくても、明日やってみたいことを考えられる。
その時間があること自体、以前の自分には想像できなかった自由だった。
「……セリー。俺も、今度やってみたいことを書いてみようかな」
アルがそう呟くと、セリーは驚いたように顔を上げた。
「主様も、ですか?」
「うん。今までは、頭の中で考えるだけだったけど。書いてみたら、自分が何をしたいのか、もう少し分かるかもしれない」
セリーは嬉しそうに微笑んだ。
「それでしたら、紙をお持ちしましょうか」
「ありがとう。でも、今日はもう遅いから、明日にしようかな。せっかくなら、ゆっくり考えて書きたいし」
「はい。では、明日、主様がお書きになるときには、私も隣にいてよろしいでしょうか」
アルは少し照れながら頷いた。
「もちろん。セリーがよければ、一緒に考えてくれると嬉しい」
セリーはその返事に、心から嬉しそうな笑みを浮かべた。
しばらくして、アルが手を差し出すと、セリーは自然にその手を取った。
指先が触れ、ゆっくりと重なっていく。
以前なら、こうして手をつなぐだけでも、互いに少し緊張していた。今も胸の奥が落ち着かなくなることはあるが、その温かさを確かめる時間が、二人にとって大切なものになっている。
セリーはアルの隣へ少しだけ身を寄せ、静かに窓の外を見た。
夜の森には、淡い月明かりが降り注いでいる。
遠くの木々が風に揺れ、その影が地面の上をゆっくり動いていた。
「……主様」
セリーが小さく声をかけると、アルは彼女へ顔を向けた。
「どうしたの?」
「今日、新しい願いを書いてみて、気づいたことがあります」
彼女は少し考え、言葉を選んだ。
「私は、何かができるようになることも嬉しいです。でも、それと同じくらい、主様と一緒に何をしようか考える時間が好きなのだと思います」
アルは一瞬だけ言葉を失った。
セリーの声は穏やかだったが、その言葉はまっすぐに彼の胸へ届いた。
彼女が自分で望みを持つようになったことは、アルにとって何より嬉しい変化だった。
そして、その望みの中に自分と過ごす時間が含まれていることを、今は素直に喜びたいと思った。
「……俺もだよ、セリー」
アルは重ねた手へ少しだけ力を込めた。
「何かを作るのも、知らないことを調べるのも楽しいけど、セリーと一緒に考えてる時間が、俺は好きだと思う」
セリーはゆっくり顔を上げた。
その頬には、ほんのりと赤みが差していた。
「……ありがとうございます、主様」
彼女はそう答え、握っていた手を優しく握り返した。
二人はそれ以上、急いで言葉を重ねなかった。
今の気持ちに、すぐ名前を付ける必要はない。
ただ、隣にいることを望んでいる。
その事実だけで、今夜は十分だった。
机の上には、完成した木箱が置かれている。
その中には、セリーが初めて自分の望みを書いた紙と、今日新しく書き加えた願いが収められていた。
明日になれば、また違うことを考えるかもしれない。
新しい刺繍を作り始めるかもしれないし、庭の花を眺めながら、知らない景色へ出かける日のことを相談するかもしれない。
そしてアルも、自分がこれから何をしてみたいのか、初めて紙へ書いてみるつもりだった。
古の塔の夜は静かに更けていく。
その静けさの中で、二人は手をつないだまま、まだ決まっていない明日のことを、穏やかな気持ちで思い描いていた。




