第153話 届いた報告書と、古い石に刻まれていたかもしれないもの
古の塔の食堂には、朝食の支度を終えたばかりの温かな空気が満ちていた。窓の外では昨夜から続いていた穏やかな風が庭の草花を揺らし、薄い雲の隙間から差し込む朝日が、食卓に置かれた焼きたてのパンを柔らかく照らしている。
アルが食堂へ入ると、セリーは小さな鍋の蓋を開け、野菜の煮え具合を確かめているところだった。彼女はアルの足音に気づいて振り返り、いつもの丁寧な挨拶をしたあと、窓辺に置かれた鉢植えへ目を向けた。
「おはようございます、主様。今朝は昨日よりも風が穏やかですので、庭の植物も落ち着いているようです。朝食のあと、少し様子を見に行こうと思っているのですが、主様もご一緒されますか」
「おはよう、セリー。もちろん。昨日は森の入口にある石を見に行ったから、庭の方はあまりゆっくり見られなかったしね」
アルは椅子へ腰を下ろし、用意されたスープの香りを楽しんだ。昨夜二人で切った野菜が使われているらしく、根菜の大きさには少しばらつきがあったものの、どれも柔らかく煮込まれている。
「昨日の野菜、ちゃんと使えたんだね。少し大きく切りすぎたものもあったと思うけど、大丈夫だった?」
「はい。大きいものは少し早めに鍋へ入れましたので、問題ありませんでした。主様が丁寧に切ってくださったおかげで、形もほとんど崩れておりません」
「それならよかった。次はもう少し大きさを揃えられるようにしたいな」
セリーは嬉しそうに微笑み、向かいの席へ腰を下ろした。彼女が自分の食事へ手を伸ばすのを見てから、アルもスープを口へ運んだ。
温かな味わいが広がると、アルは昨日の森での出来事を思い返した。
庭の外れから続く古い道の入口には、草に半ば隠れた角ばった石があった。表面に見えた浅い線は、正面から見ると一続きの溝のようだったが、見る角度を変えると一部が苔の影である可能性も浮かび上がった。
結局、石が何のために置かれているのかは分からなかった。
それでも、セリーと交代で記録板を使い、見えた範囲を絵に残すことができた。完成していない道具を実際に使ったことで、紙を留める仕組みだけでなく、持ち運ぶ際の保護についても考える必要があると分かっている。
「そういえば、昨日の絵を見返していて思ったんだけど、石の上の線って、道の方向を示しているようにも見えるよね」
アルがそう口にすると、セリーは食器を置き、少し考えるように目を伏せた。
「確かに、そのように見える部分はありました。ただ、実際に線が刻まれている範囲も確かめられていませんので、道を示す印かどうかは判断できないと思います」
「うん。俺もそう思う。道の入口にあるから、つい道標なんじゃないかって考えちゃうけど、もしかしたら全然違うものかもしれないし」
「はい。塔が建てられた当時の設備に関係している可能性もありますが、単に後の時代に置かれた石ということも考えられます」
アルは頷き、パンを小さくちぎった。
森にあるものを何でも二千年前の遺産と結びつけてしまえば、かえって本当の姿を見失うかもしれない。
塔の内部には驚くほど精巧な魔導具が数多く残されているが、外の森まで当時の姿を保っているわけではないのだ。
「今日は石を見に行くより、昨日描いた絵をもう少し整理しようかな。見えた部分と、分からなかった部分をはっきり分けておきたいんだ」
「それでしたら、私もお手伝いいたします。昨日は周囲の植物を描きましたので、石との位置関係を確かめながら整理してみたいです」
セリーはそう言って微笑んだが、すぐに別のことを思い出したように顔を上げた。
「それから、主様。記録板の留め具についても、一つ試してみたいことがあります。昨日使った布を固定する方法なのですが、木片を削る前に、別の細い板で布の端を挟む形を試せないでしょうか」
「なるほど。木片そのものに溝を作るんじゃなくて、布を挟む部品を別にするんだね」
「はい。ただ、部品が増えれば厚みや重さも変わりますので、実際に使いやすいかどうかは分かりません」
アルはその提案を聞き、少し嬉しくなった。
セリーは以前から工作を手伝ってくれていたが、最近は自分で使いたい道具について、積極的に考えを伝えてくれるようになっている。
彼女にとっても、この記録板は単にアルのために用意する道具ではなく、二人で使うためのものになっていた。
「いいね。じゃあ、今日は庭を見たあとで、記録の整理と留め具の試作をしよう。ただ、午後はほかにも何かしたくなるかもしれないし、予定は詰め込みすぎないようにしようか」
「はい。主様と相談しながら決められれば、私も嬉しいです」
二人は朝食を続けながら、庭の植物や昨日見つけた草の形について話した。
食堂の窓からは森の木々が見えていたが、その奥に何があるのかは分からない。アルは知らない場所へ出かける楽しみを感じながらも、今朝はまず目の前の暮らしをゆっくり味わいたいと思っていた。
◇
朝食の片づけを終えた二人が庭へ出ると、空気にはわずかな湿り気が残っていた。石畳はほとんど乾いていたが、塔の影になっている場所では、昨日の雨の名残がまだ消えきっていない。
セリーは鉢植えの並ぶ場所へ向かい、葉の色や土の状態を順番に確かめた。アルも隣へしゃがみ込み、以前より少し伸びた茎を眺めながら、植物がゆっくり変化していることに気づいた。
「この花、前より葉が増えた気がするね。毎日見てるとあまり分からないけど、こうして比べると少しずつ育ってるんだな」
「はい。こちらの鉢は新しい葉が二枚増えています。ただ、奥の鉢は日当たりが少し違いますので、同じように育つとは限りません」
セリーは植物を見つめながら、葉の根元へそっと指を近づけた。触れれば傷めてしまうかもしれないと考えたのか、途中で手を止め、少し離れた位置から様子を確かめる。
アルはその慎重な仕草を眺め、穏やかに微笑んだ。
「セリー、最近は植物のこともずいぶん詳しくなったね。最初に育て始めた頃は、俺たち二人とも分からないことばかりだったのに」
「まだ知らないことはたくさんあります。ですが、毎日見ていると、少しずつ違いに気づけるようになりました」
セリーはそこで言葉を切り、アルへ顔を向けた。
「主様。私は以前、記録に残された情報を参照すれば、必要な判断ができると考えることが多かったのです。けれど、植物を育てるようになってから、同じ種類でも置かれた場所や天候によって状態が変わることを実感しました」
「そうだね。昔の記録があっても、今ここでどうなってるかは、自分たちで確かめないと分からないこともあるんだろうね」
「はい。だからこそ、主様と一緒に見て、考えて、必要ならやり方を変えていく時間を大切にしたいと思っています」
アルはその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。
セリーが自分の考えを話してくれることは、今では珍しくなくなっている。それでも、彼女が新しい経験から何かを学び、それを自分の言葉で伝えてくれるたびに、アルは嬉しさを覚えた。
「俺も同じだよ。何でも最初から正しくできるわけじゃないし、間違えたら直せばいいんだと思う。もちろん、取り返しのつかないことは慎重に考えないといけないけどね」
「はい。失敗してもやり直せることと、やり直しが難しいことは、分けて考える必要がありますね」
二人はしばらく庭の植物を眺め、それから水やりが必要な鉢だけを選んで手入れをした。
作業を終えた頃、塔の入口へ続く石畳の向こうから、控えめな呼び出し音が響いた。
アルは顔を上げ、セリーと視線を交わした。
「誰か来たのかな」
「外部からの連絡が届いた可能性があります。確認してまいりますので、主様はこちらでお待ちください」
「いや、一緒に行こう。ちょうど手入れも終わったところだしね」
二人は道具を片づけ、並んで塔の入口へ向かった。
入口近くの連絡設備には、外部から届けられた書類が一通収められていた。封筒にはブラートの名前が記されており、アルはそれを見た瞬間、少しだけ表情を引き締めた。
「ブラートからだね。何か新しいことが分かったのかな」
セリーは封筒へ目を向け、静かに答えた。
「調査の報告かもしれません。ただ、内容を確認するまでは分かりませんので、落ち着ける場所でお読みになった方がよいと思います」
「そうだね。書斎へ行こうか」
アルは封筒を手に取り、セリーとともに塔の中へ戻った。
庭の明るい空気から一転して、石造りの廊下には静かな涼しさが漂っている。
アルは歩きながら封筒を見つめた。
ブラートからの報告は、これまでも何度か届いている。
古代の確認手続きに関する資料は少しずつ増えていたが、その内容が具体的な施設や人物とどう関わっているのかは、まだ明らかになっていない。
それでも、調査を続けてくれている人がいるという事実は、アルにとって大きな支えだった。
◇
書斎へ入ると、アルは机の上へ封筒を置いた。
セリーは窓際の椅子を少し動かし、アルが落ち着いて書類を読めるように整えた。アルは礼を言って腰を下ろし、封を開けて中の紙を取り出した。
報告書には、フェリクス・ハルトマンによる新しい調査結果が、ブラートの説明とともにまとめられていた。
アルはまず、確認された事実の部分へ目を通した。
古代の確認記録について、欠落した部分の扱いに関係する可能性のある文書断片が見つかったこと。
ただし、その断片は前後が大きく損なわれており、どの施設や対象に適用されていた規定なのかは分からないこと。
さらに、記録の欠落を補う手続きと、新しい判断を下す手続きが同じものだったかどうかも、確認できていないこと。
アルはそこで一度読む手を止めた。
「……記録が欠けている場合のことまで、考えられていた可能性があるんだね」
セリーはアルの隣へ歩み寄ったが、書類を覗き込む前に一度確認するように顔を向けた。
「主様。私も内容を拝見してよろしいでしょうか」
「もちろん。君にも一緒に考えてほしいんだ」
アルは報告書を少し横へ動かし、セリーが読めるようにした。
彼女は書かれた内容を慎重に追い、しばらくしてから静かに口を開いた。
「主様。こちらには、記録の欠落に関する記述が存在する可能性は示されていますが、欠落した記録を補ってよいという許可が確認されたわけではありませんね」
「うん。そこが大事なんだと思う。記録がないときにどう扱うかって話と、記録がないから新しく何かを決めていいって話は、同じじゃないから」
セリーは頷き、報告書の別の箇所へ視線を移した。
そこには、以前の調査で確認された規定との関係についても注意が書かれていた。
確認担当者が変更された場合、確認済みの事項と未確認事項、判断を保留した理由を区分して継承記録へ残すこと。
継承記録を受け取る行為は、そこに記された判断を追認することを意味しないこと。
そして、判断を保留した理由が解消されたとしても、保留以前の判断が自動的に有効になるわけではないこと。
アルはそれらを読み返し、机の上へ指を置いた。
「前に届いた報告と、考え方はつながってるように見えるね。でも、同じ施設の規定だって分かったわけじゃないんだよね」
「はい。ブラート様も、その点を強調されています。似た言葉が使われていても、適用される対象や時代が違えば、同じ意味とは限りません」
アルはゆっくりと頷いた。
報告書には、確かな答えが書かれているわけではない。
むしろ、分からないことが増えたようにも感じられた。
それでも、以前なら見落としてしまったかもしれない違いが、少しずつ明確になっている。
(記録を受け取った人が、前の判断まで引き受けたことになるわけじゃない。保留した理由がなくなっても、前の判断をそのまま使えるわけじゃない。そういう区別が必要だったんだな)
アルは書類から目を上げ、窓の外へ視線を向けた。
庭の木々は朝の風に揺れている。
その穏やかな景色を眺めながら、アルは王宮にいた頃のことを思い出した。
王太子として多くの報告を受けていたとき、書類の中に残された判断の理由を、どこまで確かめられていただろうか。
誰かがすでに認めたことだからと、十分に考えず次の手続きへ進めてしまったことはなかっただろうか。
今となっては、一つ一つを確かめ直すことはできない。
けれど、その経験があるからこそ、報告書に記された区別の重要さが胸に残った。
「セリー。俺は昔、書類を読むことに慣れてるつもりだったんだ。でも、こういう報告を読むと、まだ知らないことがたくさんあるって思うよ」
アルがそう言うと、セリーは少しだけ表情を曇らせた。
「主様は、王太子として多くの責任を負っていらっしゃいました。すべての情報を一人で確かめることは、難しかったのではないでしょうか」
「そうかもしれない。でも、それで間違えた判断がなかったとは言い切れないからね」
アルは苦笑し、手元の報告書へ視線を戻した。
「だから、今は分からないことを分からないまま残しておきたいんだ。急いで答えを出さなくてもいいなら、ちゃんと確かめてから考えたい」
セリーはしばらくアルを見つめ、それから穏やかに頷いた。
「はい。主様がそのようにお考えなら、私もお手伝いしたいです。ただ、分からないことを確かめるために、主様が無理をなさる必要はないと思っています」
その言葉に、アルは少し驚いた。
セリーは続けた。
「主様は、今の暮らしを大切にしたいとおっしゃっていました。過去の問題について調べることが必要な場合もあると思いますが、そのために毎日を不安だけで満たしてしまうのは、私は悲しいです」
アルは返事を急がず、彼女の表情を見つめた。
セリーの声には、命令を受けて主を守ろうとするだけではない、彼女自身の願いが込められているように感じられた。
「……ありがとう、セリー。俺も、今の暮らしを失いたくないよ」
アルはそう答え、机の上に置いていた手をゆっくりと開いた。
「でも、知らないままでいることが誰かを危険にするなら、そこは考えないといけないと思う。だから、調べることと、何かを実行することは分けておきたいんだ」
「はい。調べるだけであれば安全というわけでもありませんが、少なくとも、確認されていないことを理由に状態を変えてしまうべきではないと思います」
「うん。ブラートにも、そう伝えておこう」
アルは新しい紙を取り出し、返書の下書きを始めた。
まず、調査を続けてくれていることへの感謝を書く。
続いて、今回の断片については、適用対象や具体的な手続きが確認されるまで、何らかの行動の根拠として扱わないことを明記した。
さらに、古代の規定を調べる際には、確認できた事実と研究者の解釈を引き続き分けて報告してほしいと頼んだ。
アルはそこまで書き終えると、筆記具を置いた。
「こんなところかな。ブラートに余計な負担を掛けたくはないけど、慎重に進めてほしいことは伝えておきたいんだ」
セリーは下書きを読み、静かに頷いた。
「主様のお考えが、よく伝わる文章だと思います。ただ、最後の部分に、調査を急ぐ必要はないことも書き加えてはいかがでしょうか」
「そうだね。向こうも忙しいだろうし、無理をしてほしくないから」
アルはその一文を書き足した。
返書を完成させると、二人はもう一度内容を確かめ、封筒へ収めた。
ブラートから届いた報告書は、書斎の資料棚へ保管することにした。
そこには以前の報告も整理されているが、今回の断片については、確定した規定と混同しないよう、別の区分へ収めた。
アルは棚の前に立ち、しばらくその並びを眺めた。
資料が増えるほど、分かったことも増えていく。
けれど、分からないことまで勝手に埋めてしまえば、どれだけ多くの紙を集めても意味がなくなるのだろう。
◇
昼食のあと、アルとセリーは作業場へ向かった。
午前中に届いた報告書については、返書をまとめたことでひと区切りついている。今すぐ新しい判断を下す必要もなく、二人は予定していた記録板の試作へ戻ることにした。
作業台には、昨日までに作った木製の留め具が置かれていた。
細い丸棒を軸にして木片を動かし、反対側の先端を浅い受けへ収める仕組みは、練習用の端材の上で動作を確かめられている。
しかし、紙を押さえる力が十分ではなく、木片の下へ薄い布を当てる方法を試している途中だった。
「今日は、布を固定する方法を試してみようか。セリーが朝言ってた、別の細い板で挟む形が気になってるんだ」
「はい。ただ、部品が増えることで開閉しにくくなるかもしれませんので、まずは練習用の端材で試したいです」
「うん。記録板本体には、まだ取り付けないでおこう」
二人は作業台へ道具を並べ、細い木片と布の端切れを用意した。
セリーは布を木片の下側へ当て、どの位置なら紙を押さえられるかを確かめた。
昨日の試験では、木片の先端に布が掛かると受けへ収まりにくくなったため、今回は紙に触れる部分だけへ布を置く。
アルはその位置へ小さな印を付け、別の細い板を仮に重ねた。
「この板で布の端を押さえれば、動かなくなるかな」
アルが指で軽く押すと、布はある程度固定された。
しかし、押さえる板の厚みが加わったことで、留め具全体が少し重くなり、動かしたときの感触も変わってしまった。
「……思ったより厚くなるね」
アルは木片を持ち上げ、軸の動きを確かめた。
先端を受けへ収めることはできるものの、以前より動きが重くなっている。
セリーはその様子を見つめ、少し考えた。
「主様。布を挟む板をもう少し薄くすれば、改善するかもしれません。ただ、薄くしすぎると割れやすくなる可能性があります」
「そうだね。無理に薄くするのは危ないかな」
アルは板を外し、布を元の位置へ戻した。
試作品を眺めていると、昨日までとは別の問題が見えてくる。
布を固定する方法を工夫すれば、紙は滑りにくくなるかもしれない。
けれど、部品を増やせば、今度は重さや強度の問題が生まれる。
アルは少し考えたあと、作業台の端に置かれた別の木片へ目を向けた。
「セリー。布を板で挟むんじゃなくて、木片の上から細い帯みたいなものを巻く方法はどうかな」
「巻く、ということですか」
「うん。布の端を上へ回して、そこで軽く留めるんだ。そうすれば、下側には布だけが残ると思う」
セリーは木片を手に取り、アルの言葉を確かめるように布を折り返した。
布の両端を木片の上側へ回すと、下側には薄い布が一枚だけ残る。
ただし、そのままでは布が緩んでしまうため、何らかの方法で上側を留める必要があった。
「なるほど。これでしたら、紙に触れる部分の厚みは抑えられそうです。ただ、上側の布をどのように固定するかが問題ですね」
「そうだね。紐で結ぶとほどけるかもしれないし、小さな留め具を作るとまた部品が増えちゃう」
二人はしばらく考え、まずは布を巻いた状態で木片がどのように動くかだけを確かめることにした。
セリーが布の端を押さえ、アルが木片をゆっくり動かす。
すると、下側に布を当てた状態でも、先端は比較的自然に受けへ収まった。
アルは少し嬉しそうに目を細めた。
「これは、さっきよりよさそうだね」
「はい。ただ、布を固定する方法が決まらなければ、完成にはできません」
「うん。でも、下側の厚みを抑えるっていう方向はよさそうだ」
アルはそう答え、試作品を作業台へ置いた。
今日も完成には至らなかったが、試した方法の違いを確かめることはできた。
セリーは新しい紙を取り出し、布を巻いた状態の図を描き始めた。
アルはその隣へ座り、先ほど試した細い板で挟む方法についても記録した。
「こっちは厚みが増えて動きが重くなった。布を上へ回す方法は動きやすかったけど、固定方法が未決定……こんな感じかな」
「はい。どちらも実際に試した結果ですので、残しておくと次に考えるときに役立つと思います」
セリーはそう言って微笑んだ。
アルは彼女の描いた図を見つめ、少し感心したように頷いた。
「セリーの絵、前より分かりやすくなってる気がするよ。木片のどこに布が当たってるか、すぐに分かる」
「ありがとうございます。昨日、森で石の形を描いたときに、見えた部分と分からない部分を分けることが大切だと感じましたので、今日もそのようにしてみました」
「なるほど。森での記録が、工作にも役立ってるんだね」
セリーは少し照れたように微笑み、紙へ視線を落とした。
「はい。主様と一緒に経験したことが、別の場面でも役立つのは嬉しいです」
アルはその言葉を聞き、胸の奥に温かなものが広がるのを感じた。
森の散歩も、工作も、料理も、それぞれ別のことのように見える。
けれど、そこで得た経験が少しずつつながり、次の発見へ結びついていく。
その時間をセリーと共有できることが、今のアルにとって何より大切だった。
◇
同じ頃、王都の魔導研究院では、フェリクス・ハルトマンが新しい資料の確認を続けていた。
机の上には、以前から調べている確認記録の断片と、最近見つかった類似の分類記号を持つ資料が並んでいる。
フェリクスはそれぞれの年代と保存状態を確かめながら、共通点があるかどうかを慎重に調べていた。
資料の中には、同じような記号が使われているものもあった。
しかし、記号が似ているというだけで、同じ制度や施設に関係しているとは限らない。
フェリクスはその点を意識しながら、読み取れる文字だけを写していった。
しばらくして、助手が一枚の紙を持ってきた。
「ハルトマン様。先ほどの資料ですが、裏面にも文字が残っていることが分かりました。ただ、かなり薄くなっておりますので、判読できる範囲は限られています」
フェリクスは顔を上げ、差し出された紙を受け取った。
「裏面にも文字があったのか。表面の内容と続いているかどうかは分かるかな」
「いいえ。紙の端が失われていますので、文章がつながっているかどうかは確認できません」
「分かった。まずは読める部分だけを記録しよう。前後を推測で補うのは避けてほしい」
助手は頷き、机の横へ立った。
フェリクスは写しを慎重に眺めた。
薄く残された文字の中には、確認担当者の変更に関係しているように見える語が含まれていた。
ただし、その前後は欠けており、どのような条件で担当者が変更されたのかは分からない。
フェリクスはしばらく考えたあと、資料の余白へ注記を書き加えた。
『担当者変更に関連する可能性のある語を確認。ただし、文章の連続性および適用対象は未確認』
そこまで書き終えると、彼は助手へ顔を向けた。
「この資料については、保存台帳との照合を続けよう。ただし、今回の文字だけで以前の規定と同じものだと判断しないようにしてほしい」
「承知しました。分類記号の一致についても、まだ関連性は未確認として扱います」
「それでいい。確かなことが少ないときほど、分かったように見える部分へ引っ張られやすいからね」
フェリクスはそう答え、再び資料へ目を落とした。
研究院の窓からは午後の光が差し込み、机の上に並ぶ古い紙の端を淡く照らしている。
彼は、まだ読めない部分が多いことを残念に思いながらも、無理に結論を出そうとはしなかった。
古代の人々が何を守ろうとしていたのか。
なぜ確認と判断と承認を分ける必要があったのか。
その答えへ近づくためには、失われた部分を想像で埋めるのではなく、残された情報を一つずつ確かめていくしかないのだろう。
◇
夕方の古の塔では、作業場の窓から差し込む光が少しずつ赤みを帯び始めていた。
アルとセリーは試作品を棚へ戻し、作業台に残った木屑を片づけていた。
今日の作業では、布を固定するための新しい方法をいくつか試したが、完成形を決めるには至らなかった。
それでも、どの方法にどのような問題があるのかは、昨日よりはっきりしている。
アルは道具を片づけながら、ふと書斎で読んだ報告書のことを思い出した。
「セリー。今日届いた報告書と、今やってる工作って、少し似てるところがある気がするんだ」
セリーは手を止め、アルへ顔を向けた。
「似ているところ、ですか」
「うん。工作では、うまくいかなかったところを確かめて、次にどう直すか考えるだろう? 報告書の方も、分からないことを分けて記録してるんだよね」
アルは試作品の置かれた棚へ視線を向けた。
「もちろん、工作と古代の施設の問題じゃ、重さが全然違う。でも、確かめてないことを確かめたことにしないっていうのは、同じなんじゃないかな」
セリーは少し考え、静かに頷いた。
「はい。ただ、工作でしたら失敗しても作り直せることがありますが、人や施設の状態に関わる判断では、取り返しがつかないこともあります。ですから、同じように試してよいとは限りませんね」
「そうだね。そこは絶対に間違えちゃいけないと思う」
アルは彼女の言葉を受け止め、ゆっくりと息を吐いた。
自分たちの暮らしの中で試せることと、慎重に扱わなければならないこと。
その違いを忘れないようにしたかった。
「今日の報告を読んで、少し考えちゃったんだ。俺が王宮にいた頃も、誰かの判断を引き継いだことがあったから」
セリーは黙ってアルを見つめた。
アルはすぐには続けず、作業台の端へ手を置いた。
王宮での暮らしは、今では遠い過去のように感じられる。
けれど、すべてを忘れたわけではない。
誰かの報告を受け、限られた時間の中で判断しなければならなかった日々。
正しいと思っていたことが、後になって違う形で見えてくることもあった。
そして、自分自身が嵌められ、王太子の立場を失ったことも。
(あの頃のことを全部なかったことにはできない。でも、だからって今の暮らしまで、あの頃のために使い切りたくはないんだ)
アルはそう考え、隣に立つセリーへ目を向けた。
「俺は、過去のことを調べるのをやめるつもりはないよ。でも、今の暮らしを後回しにしたくもないんだ」
セリーは少しだけ目を見開き、それから穏やかに微笑んだ。
「はい。主様がそうお考えなら、私も同じ気持ちです。必要なことは確かめながら、今ここで過ごす時間も大切にしたいと思います」
アルはその言葉に頷いた。
セリーが隣にいてくれることが、今では当たり前のように感じられる。
けれど、その当たり前は、最初から存在していたものではない。
塔へ来たばかりの頃、アルは自分がこれからどう生きていけばよいのか、まだ十分に分かっていなかった。
王太子としての立場を失い、誰かが決めた役割から離れたあと、自分が本当に望むものを考える時間が必要だった。
そして、その時間を一緒に過ごしてくれたのがセリーだった。
「セリー。これからも、俺が考えすぎてたら教えてくれる?」
アルがそう尋ねると、セリーは少し驚いたように顔を上げた。
「私が、ですか」
「うん。自分じゃ気づけないこともあると思うから。もちろん、君が何か悩んでるときは、俺にも話してほしい」
セリーはしばらくアルを見つめ、それから小さく頷いた。
「……はい。私も、主様にお話ししたいことがあれば、できるだけ自分の言葉でお伝えするようにいたします」
「ありがとう。それなら、俺も安心だよ」
アルは微笑み、彼女へ手を差し出した。
セリーは少し照れたように目を伏せたが、すぐにその手を取った。
指先が触れ合うと、アルの胸に穏やかな温かさが広がった。
言葉にしなくても伝わることがある。
けれど、言葉にしなければ分からないこともある。
だからこそ、これからも一緒に考え、話し合っていきたいと思った。
◇
その日の夜、夕食を終えたアルは、セリーとともに書斎へ立ち寄った。
昼間に届いた報告書はすでに整理されており、返書も送付の手配を終えている。
机の上には、森で見つけた石の記録と、記録板の試作について書いた紙が並べられていた。
アルはそれらを見つめ、少し考えたあとで一枚の紙を取り出した。
「セリー。今日のことも、少し書いておこうかな」
「はい。どのようなことを残されるのですか」
「報告書を読んで考えたことと、記録板の試作で分かったこと。それから、今の暮らしを大事にしたいって思ったことも」
セリーはその言葉を聞き、静かに微笑んだ。
「それでしたら、私も一緒に書いてよろしいでしょうか。今日、主様とお話ししたことを、私も忘れたくありません」
「もちろん。じゃあ、二人で書こう」
アルは紙を机の中央へ置き、セリーが隣に座れるよう椅子を少し寄せた。
二人はしばらく相談しながら、今日の出来事を短くまとめていった。
古代の記録について、新しい断片が見つかったこと。
ただし、適用対象や具体的な手続きはまだ分からないこと。
記録板の留め具では、布を当てる位置について少し進展があったこと。
そして、これからも必要なことを確かめながら、今の暮らしを大切にしていきたいということ。
アルは最後の一文を書き終えると、筆記具を置いた。
「こうして書いてみると、今日はけっこういろんなことがあったね」
「はい。ですが、どれも急いで結論を出す必要はありませんでしたね」
セリーは紙を眺め、少し考えてから続けた。
「私は、主様と一緒に考える時間が好きです。答えがすぐに見つからなくても、その時間が無駄だとは思いません」
アルは彼女の横顔を見つめ、ゆっくりと微笑んだ。
「俺もだよ。君と一緒なら、分からないことがあっても、少しずつ進んでいける気がする」
セリーはその言葉を聞き、頬をわずかに染めた。
彼女はすぐには返事をせず、机の上へ置いていた手をそっとアルの方へ動かした。
アルはその手を取り、優しく握り返した。
窓の外では、森の木々が夜の闇に包まれ始めている。
古い石が何を示しているのかは、まだ分からない。
王都から届いた報告書にも、確かな答えは書かれていなかった。
記録板の留め具も、完成にはもう少し時間が必要だ。
それでも、アルは焦りを感じていなかった。
今の自分には、考える時間がある。
試してみる自由がある。
そして、隣には一緒に考えてくれるセリーがいる。
アルは彼女の手を握ったまま、机の上の記録へ目を向けた。
そこには、今日分かったことだけでなく、まだ分からないことも残されている。
その空白を無理に埋める必要はない。
いつか新しいことが分かったときに、二人で続きを書き加えればいい。
「そろそろ休もうか、セリー。明日も、またいろいろできそうだしね」
「はい。主様。明日も、どうぞよろしくお願いいたします」
セリーは柔らかな笑みを浮かべ、アルの手を握り返した。
二人は書斎の明かりを落とし、静かな廊下へ出た。
塔の中には、夜の穏やかな空気が広がっている。
アルは隣を歩くセリーへ目を向け、今日一日を思い返した。
届いた報告書に書かれていた、まだ答えの出ていない古代の手続き。
庭で育つ植物。
完成へ少しずつ近づいている記録板。
そして、セリーと交わした、今の暮らしを大切にしていこうという約束。
どれも、これからの時間へつながっている。
アルはそう感じながら、セリーと並んで廊下を歩いていった。
古の塔で過ごす自由な日々は、今日もまた、静かに積み重なっていくのだった。




