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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第143話 届いた香りと、まだ開けない扉

 雨の翌朝、古の塔を取り囲む森には、洗い流されたような緑が広がっていた。


 枝先に残った水滴が朝日を受けて輝き、開け放した作業室の窓からは、湿った土と若い葉の匂いが流れ込んでくる。アルはその空気を胸いっぱいに吸い込みながら、作業台に並べた四枚の木板を眺めていた。


 昨日、セリーと一緒に試した木栓の接合方法は、端材を使った範囲ではうまくいった。今日はその方法を本番の板へ使う予定だが、アルはすぐに道具を手に取らず、完成したときの箱の形をもう一度確かめていた。


 小さな木箱とはいえ、セリーが刺繍の道具をしまうために使うものだ。中には糸巻きや布の見本が収まり、蓋には刺繍を交換できる仕組みを取り付ける。針を入れる容器は別に保管することに決めているため、内部に鋭いものが触れる心配は少ないが、布を傷めないよう角を整える必要はあった。


「……これなら、糸を取り出すときにも邪魔にならないかな」


 アルは箱の側面になる板を仮に並べ、指先で内側の空間を確かめた。設計図の上では十分な広さがあるものの、実際に立体として組み合わせると、板の厚みの分だけ印象が変わる。


 そのとき、作業室の入口から柔らかな声が聞こえた。


「主様。おはようございます。今日は、いよいよ本番の木板を組み合わせるのですね」


 セリーは淡い色の作業用エプロンを身に着け、両手で浅い籠を抱えていた。籠には刺繍糸の束と布の見本、それに普段使っている糸巻きが収められている。


「おはよう、セリー。うん。でも、穴を開ける前に実際の道具を入れてみたくてさ。図面で考えた寸法が、使うときにも合ってるか確認したいんだ」


「でしたら、ちょうどよかったです。昨日のお話を思い出して、普段よく使うものを持ってまいりました。まだ刺繍の途中で使っている糸もありますので、すべてではありませんが」


 セリーは籠を作業台へ置き、糸巻きを一つずつ取り出した。


 アルは仮に並べた四枚の板の内側へ、それらを置いてみる。最初は十分に余裕があるように見えたが、糸巻きを横に並べると、端の一つが側板に近づきすぎていた。


「……あれ。思ったより狭いね。布を畳んで入れる場所も必要だから、これだと少し窮屈かもしれない」


 セリーは糸巻きの位置を変え、細長いものと丸いものを分けて置いた。それでも、指を差し込んで取り出すには余裕が足りない。


「糸巻き自体は収まりますが、取り出すときに隣のものへ触れてしまいますね。毎回ほかの糸を動かす必要があると、使いにくいかもしれません」


「そうだね。箱の中に入るかどうかだけじゃなくて、ちゃんと取り出せるかまで考えないと駄目なんだな」


 アルは設計図を引き寄せ、側板の長さを見直した。


 まだ接合用の穴を開けていないため、寸法の変更は可能だった。もっとも、用意した木材には限りがあり、ただ大きくすればよいというものでもない。


 セリーは箱の内側を見つめたあと、糸巻きの一つを手に取った。


「主様。少し大きくすることもできますが、私が普段使う糸をすべて一度に入れる必要はないと思います。刺繍をするときに使うものを選んで入れ、残りは今までどおり別の場所へ保管する方法もあります」


「なるほど。じゃあ、この箱は道具を全部しまうためじゃなくて、今作っているものに使う糸や布をまとめておく箱にする?」


「はい。その方が、作業する場所へ持っていくときにも便利だと思います。大きすぎる箱では、移動させるのも少し大変ですから」


 アルは箱の外寸を見直し、セリーが持ち上げたときのことを想像した。


 確かに、作業室と居間を行き来するたびに重い箱を運ぶのは不便だろう。飾りとして美しいだけでなく、実際の暮らしの中で使いやすいものにしたい。


「じゃあ、普段使う分を入れる形にしよう。ただ、今の配置だと少し取り出しにくいから、内部の仕切りをどうするかは、箱を組んでから決めてもいいかな」


「はい。仕切りは後から取り外せる形にしていただけると嬉しいです。使う糸の種類によって、必要な広さが変わるかもしれませんので」


 アルはその提案に頷き、設計図の仕切り部分へ小さな印を付けた。


 箱本体の寸法は維持する。


 内部の仕切りは固定しない。


 蓋の刺繍を交換する仕組みは、昨日までに確かめた方法を基準にする。


 使い方を一つずつ確認したことで、ようやく本番の板へ手を加える準備が整った。


「それじゃあ、始めようか。昨日みたいに、俺が穴を開けるから、セリーには板の位置を一緒に確かめてもらいたい」


「承知しました。ですが、今日は本番の木板ですから、昨日以上に慎重に進めましょう。私も、主様が確認しやすいようにお手伝いいたします」


 二人は作業台の中央へ板を移し、固定具を取り付けた。


 朝の光が木目に沿って伸びる中、アルは最初の穴の位置へ細い印を付けた。


     ◇


 王都の三〇八号室では、ヨアヒムが少年の希望について、担当する医療職員と話し合っていた。


 小さな相談室の窓は半分だけ開かれており、廊下から離れた静かな空間には、紙をめくる音と遠くの足音だけが聞こえている。机の上には少年の最近の体調記録と、ヨアヒムが本人の言葉を確認しながらまとめた希望の記録が並んでいた。


 医療職員はそれらを読み、しばらく考えてから顔を上げた。


「焼きたてのパンの香りを知りたい、という希望ですね。食べることまで含めるなら、現在の食事内容との調整が必要になります。ただ、香りを確かめるだけであれば、方法を工夫できる可能性はあります」


 ヨアヒムは頷いたものの、すぐに実施を求めることはしなかった。


「本人も、目の前にパンがあれば食べたくなるかもしれないと話しています。ですから、食べられないと分かっているものを突然持ち込むことは避けたいと思っています」


「それは大切な点ですね。香りだけを体験することに本人が納得できるか、改めて確認する必要があります」


 医療職員は体調記録へ目を落とし、食事に関する欄を指でなぞった。


 少年の状態は、以前より安定している。白い薬の量は調整された状態で維持され、青と紫の薬はすでに中止されているが、それだけで食事の制限がすべてなくなったわけではない。


「現時点で、新しい種類のパンを食べることまで許可する判断はできません。ただし、普段の食事に使われている材料と照らし合わせ、香りを確かめるだけの方法なら検討できます」


「ありがとうございます。では、まず本人へ、食べることはまだ約束できないと伝えたうえで、香りだけでも試したいか確認します」


「その方がよいでしょう。もし本人が望むなら、厨房にも相談してみます。ただし、実施する場合も体調を確認しながら短時間にとどめ、途中で嫌になったらすぐにやめられるようにしてください」


 ヨアヒムはその条件を記録へ書き加えた。


 できることが一つ見えてきたからといって、少年の気持ちを置き去りにしてはいけない。実施する側の準備が整っても、本人が望まなければ、その日は行わないという選択が必要だった。


「それから、町への外出希望については、引き続き別の案件として扱ってください」


 ヨアヒムがそう伝えると、医療職員は明確に頷いた。


「もちろんです。施設内でパンの香りを体験できたとしても、それは外出希望への回答にはなりません。外出については、移動時の負担や付き添いの体制を含め、別途検討を続けます」


 その言葉を聞いて、ヨアヒムは少しだけ肩の力を抜いた。


 少年が心配していたのは、何か一つを望んだことで、別の希望を取り消されてしまうことだった。


 彼が自分の言葉で伝えた願いを、職員の都合でまとめてしまわない。


 その方針を共有できたことに、ヨアヒムは確かな意味を感じていた。


     ◇


 古の塔では、最初の接合部分が完成しようとしていた。


 アルは木栓を差し込んだ二枚の側板を慎重に合わせ、接合面に隙間がないことを確かめていた。昨日の端材と違い、本番の板は長さがあるため、少しの傾きでも反対側では大きなずれになる。


 セリーは板の端を支えながら、定規を当てる位置を変えた。


「主様。こちらの角度は問題なさそうです。ただ、板の下側が少し動きますので、固定具をもう一つ使った方がよいかもしれません」


「そうだね。ここで動くと、せっかく穴の位置が合っててもずれちゃうから」


 アルは固定具を追加し、板が動かないことを確認した。


 木栓の周囲には必要な分だけ接着用の材料を使っている。余分なものが内側へはみ出さないよう、セリーが細い布で端を整えた。


 しばらくして、二枚の側板はきれいな直角を保ったまま固定された。


「……よし。これで一つ目の角はできたね」


 アルは手を離し、少し離れた位置から形を眺めた。


 まだ二枚の板がつながっただけで、箱と呼ぶには早い。しかし、平らな木板だったものが立体の一部分になったことで、完成したときの姿が少し想像しやすくなった。


 セリーも作業台の反対側へ回り、接合部分を見つめた。


「とてもきれいにできていますね。昨日までの試作が、ちゃんと役に立ったように思います」


「うん。失敗した板を残しておいてよかったよ。あれがなかったら、今日も同じように穴をずらしてたかもしれない」


 アルはそう言いながら、接合部分へ触れようとして手を止めた。


 固定したばかりの木材は、まだ十分に落ち着いていない。今動かせば、わずかなずれが生じる可能性がある。


「……ここは、しばらくこのままにしておこう。次の角も作りたいけど、今は無理に動かさない方がよさそうだ」


「はい。では、その間に蓋の方を考えましょうか。刺繍を交換する仕組みは試せましたが、蓋全体の形はまだ決めていませんので」


 アルは頷き、別の木板を取り出した。


 蓋に使う板は、箱本体より少し大きくする予定だった。指を掛けて開けやすいようにするためだが、張り出しが大きすぎると持ち運ぶときに邪魔になる。


 セリーは試作品の刺繍台紙を持ってきて、蓋用の板へ重ねた。


「この位置なら、刺繍が中央に見えますね。ただ、交換するための押さえ板を裏側へ入れるのでしたら、指を掛ける場所も必要です」


「そうだね。押さえ板を完全に隠すと、外すときに困るかもしれない。小さなくぼみを作れば、そこへ指を掛けられるかな」


 アルは板の裏側へ印を付け、試作品を当ててみた。


 セリーは押さえ板を引き抜く動作を何度か試し、指が届きにくい位置を示した。


「こちらの角へ少しくぼみを作ると、取り外しやすそうです。ただ、深く削りすぎると、蓋の表側へ影響が出るかもしれません」


「じゃあ、まずは端材で試そう。今度は、箱本体の方を乾かしている間にできるしね」


 アルは作業台の端へ端材を置き、くぼみの形を描いた。


 セリーはその隣で、生成り色と青緑色の刺繍見本を並べている。


 アルはふと、その二枚を見つめた。


 昨日、セリーが見せてくれた図案は、別々の布でありながら、並べると一本の枝につながるように考えられていた。


 生成り色には葉。


 青緑色には白い花。


 どちらも単独で使えるが、二枚を並べると一つの木のように見える。


「……セリー。あの図案、やっぱりいいね」


 アルがそう言うと、セリーは少し驚いたように顔を上げた。


「ありがとうございます。まだ試し縫いの段階ですが、昨日より少し枝の角度を整えてみました」


「うん。二枚を並べたときのつながりが、前より自然になってる気がする」


 セリーは嬉しそうに微笑んだ。


「主様がそう感じてくださるなら、私も嬉しいです。実は、完成した箱へ入れるものとは別に、この二枚の刺繍も大切にしたいと思っているのです」


 アルはその言葉を聞き、少しだけ首を傾げた。


「完成した箱へ入れるものとは別?」


 セリーは一瞬だけ口を閉じたあと、穏やかに頷いた。


「はい。以前お話しした、最初に箱へ入れたいものは、まだ秘密にしておきたいのです。ただ、この刺繍も、主様と一緒に考えたものとして残したいと思っています」


 アルはその表情を見つめ、柔らかく笑った。


「そっか。じゃあ、どっちも楽しみにしてるよ。秘密の方は、セリーが見せたいと思ったときでいいから」


 セリーは胸元へ手を添え、少し照れたように視線を落とした。


 自分の選んだことを、アルは急かさない。


 それが彼女にとって、どれほど嬉しいことなのか。


 言葉にしようとすると、かえってうまく説明できない気がした。


(……主様は、私が決めるまで待ってくださる。だからこそ、私も自分で考えて、きちんとお渡ししたいのです)


 セリーはその思いを胸の奥へ大切にしまい、再び刺繍見本へ目を向けた。


 まだ完成していない箱。


 まだ秘密にしているもの。


 そして、今こうして一緒に作っている時間。


 そのどれもが、彼女にとって大切なものになっていた。


     ◇


 王立魔導研究院では、フェリクスが新たに閲覧を許可された古代文書の一部を確認していた。


 前日に項目名だけが判明した『確認担当者変更時の記録継承』について、共通規定の本文から短い一節が確認できたのである。


 資料は完全なものではなかった。


 文書の一部には欠損があり、前後の説明も十分には残っていない。さらに、今回閲覧できたのは共通規定の抜粋であり、個別施設の運用記録ではなかった。


 それでも、フェリクスは机の上へ資料を広げ、慎重に読み進めていた。


 若い研究員が隣に立ち、確認済みの文字を別紙へ書き写している。


「先生。この部分は、比較的はっきり読めますね」


「そうだな。ただし、欠損している前後の文章によって意味が変わる可能性もある。まずは読める範囲だけを正確に残そう」


 フェリクスは資料の中央に記された一文を指さした。


 そこには、次のように書かれていた。


『確認担当者の変更に際しては、既確認事項、未確認事項および判断保留の理由を区分して継承記録に記載すること』


 若い研究員はその文章を読み、静かに息を呑んだ。


「……既確認事項と未確認事項だけでなく、判断を保留した理由まで引き継ぐ必要があったのですね」


「少なくとも、この共通規定ではそう定められていたようだ。何を確認したかだけではなく、なぜ判断を進めなかったのかも、次の担当者へ伝える必要があったらしい」


 フェリクスは文章をもう一度読み返した。


 これまでに確認された古代の記録様式には、『延期時点の確認事項』『未確認事項の区分』『再確認を求める条件』『再確認後の判断経過』という項目が存在していた。


 今回の文章は、それらと考え方の上では近い。


 しかし、同じ制度の中で必ず一つの手順として使われたかどうかは、まだ分からない。


「先生。では、担当者が変わった場合でも、以前の判断をそのまま引き継ぐのではなく、保留した理由を確認する仕組みだったのでしょうか」


 研究員の問いに、フェリクスはすぐには答えなかった。


 文章には、保留理由を記載することが定められている。


 だが、それを受け取った担当者が何をしなければならないかまでは、今回の一節からは読み取れない。


「そういう意図があった可能性は高い。ただし、継承記録を受け取った者に再判断の義務があったのか、それとも内容を把握するだけでよかったのかは未確認だ。そこを区別しておこう」


 フェリクスは確認済みの文章を別紙へ写し、その下へ注意事項を記した。


 継承記録への記載事項は確認。


 継承後の判断権限は未確認。


 個別施設での運用状況は不明。


 続いて、もう一つの項目である『確認記録欠落時の再確認保留』についても資料を確かめたが、こちらは本文の閲覧許可がまだ下りていなかった。


 項目名の存在だけが確認されている状態は変わらない。


「……こちらは、まだ進展なしだな」


 フェリクスがそう言うと、若い研究員は頷いた。


「はい。今回の回答では、本文の確認にはもう少し時間が必要とのことでした」


「分かった。無理に急がせる必要はない。今日確認できた文章だけでも、十分に意味がある」


 フェリクスは資料を閉じ、ブラートへ送る報告書を書き始めた。


 古代の制度が、判断を引き継ぐ際に何を重視していたのか。


 その一端が、ようやく具体的な文章として見えてきた。


 しかし、それはまだ大きな謎の答えではない。


 誰がその記録を残したのか。


 誰が受け取ったのか。


 そして、記録に残された保留理由が、実際の判断へどう影響したのか。


 そのすべては、依然として分からないままだった。


     ◇


 旧保養施設の西側壁面では、ガルムが観測記録を確認していた。


 雨上がりの空気にはまだ湿り気が残っており、石壁の表面には薄い水の跡が見える。リディアとトーマスは定められた位置から三つの表示窓を観察し、前回の記録と見え方を照らし合わせていた。


 今日も、新たな発光や音は確認されていない。


 受動計測器の数値にも、確実な変化は見られなかった。


 トーマスは記録用紙へ目を落とし、少し考えてからガルムへ声をかけた。


「隊長。昨日までの記録を見返していたのですが、雨の日と晴れの日では、表示窓の見え方がかなり違いますね。今後も天候の違いを細かく残しておいた方がよいでしょうか」


 ガルムは記録を受け取り、前日の欄と今日の欄を見比べた。


「そうだな。ただし、観測方法を増やす必要はない。今までどおりの位置から見える範囲で、天候や周囲の明るさを記録しておけば十分だ」


 リディアも頷いた。


「雨のあとには表面の反射が変わることがあります。ですが、それが内部の状態と関係しているとは限りません。観測条件を残しておけば、後から比較するときに役立つでしょう」


 トーマスは納得したように頷き、記録へ書き加えた。


 ガルムは壁面へ視線を向けた。


 三つの表示窓と、その下にある外部確認札挿入部。


 それらは今日も静かなままだった。


 古代の制度について研究院が新しい情報を得たとしても、この壁面を操作してよい理由にはならない。


 ガルムはそのことを改めて確認し、三人へ撤収の準備を指示した。


 壁面の前に残されたのは、今日の観測結果だけだった。


     ◇


 午後の三〇八号室では、少年がヨアヒムの説明を聞いていた。


 窓の外には薄い雲が流れ、室内には穏やかな光が差し込んでいる。少年は寝台の上へ上半身を起こし、膝の上に町の絵本を置いたまま、ヨアヒムの顔を見つめていた。


「……じゃあ、パンの匂いだけなら、試せるかもしれないんだね?」


「はい。関係する職員と相談したところ、方法を工夫すれば実施できる可能性があると分かりました。ただし、まだ準備が整ったわけではありません」


 ヨアヒムは少年の目線に合わせ、ゆっくり説明を続けた。


「それから、今の段階では、パンを食べられるかどうかまでは決まっていません。もし香りを確かめることになっても、食べることは別に確認する必要があります」


 少年は少し考え、絵本へ視線を落とした。


 以前、彼は香りだけでも知りたいと話していた。


 しかし、実際に目の前へパンが来たら、食べたくなるかもしれないとも思っていた。


「……先生。もし食べられないって言われたら、ぼく、ちょっと残念だと思う」


 ヨアヒムは静かに頷いた。


「そうですね。残念に感じることはあると思います。その気持ちを無理に我慢しなくても大丈夫です」


「でも、匂いは知りたいんだ。焼きたてのパンがどんな匂いなのか、ずっと気になってたから」


 少年はそう言ってから、少しだけ顔を上げた。


「だから、もしできるなら、匂いだけでも試してみたい。でも、途中で嫌になったら、やめてもいい?」


「もちろんです。始める前でも、途中でも、やめたいと思ったら伝えてください。あなたが望まないまま続けることはしません」


 少年は安心したように息を吐いた。


 ヨアヒムはその様子を見つめ、もう一つ確認したいことを思い出した。


「それから、実施する場合には、どこで香りを確かめたいですか。今いるお部屋がよいか、それとも別の場所がよいか、希望はありますか」


 少年は少し驚いたように目を丸くした。


「場所も、ぼくが決めていいの?」


「安全面や準備の都合がありますので、必ず希望どおりにできるとは限りません。ただ、あなたがどこなら落ち着けるかを知りたいと思っています」


 少年は部屋を見回した。


 見慣れた寝台。


 窓際の椅子。


 絵本を置く小さな棚。


 ここは長く過ごしてきた場所であり、安心できる場所でもある。


 しかし、町のパン屋のことを考えると、窓の外に近いところで香りを確かめてみたい気持ちもあった。


「……この部屋がいい。でも、できれば窓の近くがいいな。外の空気も少し感じられるところで、パンの匂いを知りたい」


 ヨアヒムは頷いた。


「分かりました。窓の近くで安全にできるかどうかも、確認してみます」


 少年は嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとう、先生。ぼく、楽しみにしてる」


 ヨアヒムはその言葉を聞き、少しだけ胸が温かくなった。


 まだ実施が決まったわけではない。


 けれど、少年は自分の希望を伝え、必要な説明を聞いたうえで、試してみたいと選んだ。


 その過程を大切にすることが、何より重要だった。


     ◇


 夕方、古の塔へブラートからの報告が届いた。


 アルは作業室で道具を片付けていたところだったが、エルから知らせを受けると、セリーとともに居間へ移動した。


『……王立魔導研究院からの追加報告です。『確認担当者変更時の記録継承』について、共通規定の一部本文が確認されました』


 エルの声が静かに響き、アルの前へ報告内容が表示された。


 そこには、フェリクスが確認した一文が記されていた。


『確認担当者の変更に際しては、既確認事項、未確認事項および判断保留の理由を区分して継承記録に記載すること』


 アルはその文章を読み、しばらく考え込んだ。


「……なるほど。確認したことだけじゃなくて、まだ確認できていないことや、判断を保留した理由まで残す必要があったんだね」


 セリーも表示へ目を向けた。


「はい。ですが、その記録を受け取った方が、どのような判断をすることになっていたのかは、まだ分かりませんね」


「そうだね。少なくとも、記録を引き継ぐときに何を残すべきかは分かった。でも、それがどう使われたかは別の話だ」


 アルは報告の注記を読み直した。


 継承後の判断権限は未確認。


 個別施設での運用状況は不明。


 旧保養施設との関連も、まだ確定していない。


「……今は、この範囲までだね。ブラートには、引き続き慎重に調べてもらおう」


 アルは返信文を作成し、エルへ送信を頼んだ。


 その後、二人は作業室へ戻った。


 作業台の上には、今日固定した二枚の側板が置かれている。


 まだ箱の形にはなっていないが、最初の角はきれいに組み合わさっていた。


 アルはそれを眺めながら、少しだけ笑みを浮かべた。


「……セリー。今日は、ちゃんと一歩進めたね」


 セリーは隣へ歩み寄り、接合部分を見つめた。


「はい。昨日までの試作が役に立ちました。明日は、残りの側板も組み合わせられるかもしれませんね」


「そうだね。でも、今日固定したところが落ち着いてからにしよう。急いで動かして、ずれちゃったらもったいないから」


 セリーは穏やかに頷いた。


「はい。私も、完成を急ぐより、長く使えるものにしたいです」


 二人はしばらく作業台を眺めていた。


 まだ完成していない木箱。


 まだ答えの出ていない古代の記録。


 そして、遠い場所で、自分の希望を少しずつ言葉にしている少年。


 それぞれの時間は、違う場所で進んでいる。


 アルは少年の今日の出来事を知らない。


 ヨアヒムも、塔で二人が木箱を作っていることを知らない。


 それでも、誰かの意思を尊重し、確認できることを一つずつ確かめるという点では、どこか似た時間が流れていた。


 アルは作業台の上へ手を伸ばし、セリーの指先へそっと触れた。


 セリーはその手を見つめ、穏やかに微笑んだ。


「主様。今日は、ありがとうございました」


「こちらこそ。セリーが一緒に考えてくれたから、ここまでできたんだよ」


 二人は手を重ね、しばらく静かな時間を過ごした。


 窓の外では、雨上がりの森に夕日が差し始めている。


 まだ完成していないものがある。


 まだ知らないことがある。


 それでも、今日確かめたことは、明日へつながっていく。


 アルはそのことを感じながら、セリーと並んで窓の外を眺めていた。


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