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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第142話 引き継がれる記録と、自分で選ぶための時間

古の塔の朝は、夜明け前から降り続く細かな雨に包まれていた。


 森の奥から吹いてくる風は冷たく、作業室の窓には細い水滴が幾筋も流れている。普段なら窓を開けて木屑を外へ払うところだが、今日は雨が吹き込むため、アルは作業台の脇に小さな掃除用の箱を置き、削り屑をその都度集めることにしていた。


 朝食を終えてから作業室へ来たアルは、昨日の作業で使った二枚の木板を手に取り、接合部分を確かめた。


 板の端には、小さな木栓を差し込むための穴が開いている。しかし、二枚を直角に組み合わせようとすると、木栓が途中で引っ掛かり、どうしても細い隙間が残ってしまう。


 昨日は何度か試したものの、無理に押し込めば板が割れる可能性があったため、作業を中断していた。


「やっぱり、穴の位置が少しずれているんだな……」


 アルは木栓を抜き、接合面に残った擦れ跡を眺めた。穴そのものはきれいに開いているが、二枚の板を別々に測って印を付けたことが、ずれの原因になったらしい。


 彼が定規を手に取ったところで、作業室の扉が静かに開いた。


「主様、おはようございます。昨日の続きから始められるのですね」


 セリーが盆を手に入ってきた。温かな飲み物の入った杯が二つ載っており、その隣には、朝食の際にアルが気に入っていた小さな焼き菓子が添えられている。


「おはよう、セリー。うん。昨日の失敗したところを、もう一度確かめていたんだ」


「でしたら、私もご一緒してよろしいでしょうか。昨夜、穴の位置を合わせる方法について少し考えてみたのです」


 アルは顔を上げ、嬉しそうに微笑んだ。


「もちろん。むしろ、ぜひ聞かせてほしいな。俺もいくつか考えたけど、まだこれだっていう方法が見つかってなくて」


 セリーは盆を安全な場所へ置き、アルの隣へ歩み寄った。


 彼女は二枚の板を手に取ると、昨日と同じように直角に合わせた。しかし、すぐに穴の位置を測り始めるのではなく、まず板の外側を指先でなぞり、接合面が動かないように押さえる位置を確かめた。


「主様。昨日は、それぞれの板に印を付けてから穴を開けていらっしゃいましたね」


「そうだね。寸法は同じにしたつもりだったんだけど、穴を開けるときに少しずれたみたいなんだ」


「でしたら、二枚を合わせた状態で、片方の穴の中心をもう片方へ移す方法はいかがでしょうか。最初から両方へ穴を開けるのではなく、位置だけを確かめるのです」


 セリーは道具箱から先端の細い金属棒を取り出した。


 木材へ小さなくぼみを付けるための道具であり、力を加えすぎなければ、板を大きく傷めずに印を残せる。


 アルはその道具を見て、なるほどと頷いた。


「先に片方の穴を決めて、その位置をもう片方へ写すんだね。確かに、それなら二枚を別々に測るより、ずれにくいかもしれない」


「はい。ただ、実際にうまくいくかどうかは、試してみなければ分かりません。昨日の板をさらに削る前に、端材を使って確認したいと思います」


「そうしよう。せっかく残しておいた端材があるんだし、練習に使わないともったいないからね」


 二人は作業台の端へ小さな木片を並べた。


 アルが一枚の板を固定し、セリーがもう一枚を直角に合わせる。位置が決まったところで、細い金属棒を使って中心へ印を付け、いったん板を外してから穴を開ける。


 最初の試作では、穴の位置はほぼ合っていたものの、木栓を差し込む際に少し抵抗があった。


 アルは板を無理に押し込まず、いったん外して接合面を確認した。


「昨日よりはよさそうだけど、まだ少し固いね。穴の向きが斜めになったのかな」


 セリーは木栓を受け取り、擦れ跡を確かめた。


「中心の位置は合っているように見えます。ただ、こちらの穴の内側だけに跡がありますので、主様のおっしゃるとおり、穴を開けた角度が少し違っていたのかもしれません」


「位置だけじゃなくて、角度も大事なんだな。小さな箱だから簡単だと思ってたけど、こういうところは大きな家具と変わらないんだね」


 アルは苦笑しながら、使った道具を置いた。


 セリーはそんな彼の横顔を見つめ、少し考えてから口を開いた。


「主様。私が板を押さえている間に、主様が穴を開ける方法ではいかがでしょうか。先ほどは私が印を付けましたが、板を固定する方が得意かもしれません」


「それなら、俺も角度を確かめることに集中できそうだね。でも、セリーの手が近いと危ないから、固定具を使って押さえる位置を離そう」


「はい。では、私はこちら側を支えます。主様が作業しやすい位置を教えてください」


 二人は板の向きを変え、固定具の位置を調整した。


 セリーが木板の動きを確かめ、アルが穴を開ける。途中で一度手を止めて角度を確認し、最後まで無理な力を加えずに作業を終えた。


 木栓を差し込んでみると、今度は二枚の板が自然に組み合わさった。


 わずかな隙間もなく、接合部分はきれいな直角を保っている。


「……できた」


 アルは板を持ち上げ、何度か角度を変えて確かめた。


 セリーも顔を近づけ、接合面へ指先を添えた。


「はい。先ほどよりも、ずっときれいに合っていますね。主様、成功です」


 その声には、普段より少し弾んだ響きがあった。


 アルは思わず笑みを浮かべた。


「セリーが板を押さえてくれたおかげだよ。俺一人だったら、また同じところで失敗してたかもしれない」


「いいえ。主様が途中で角度を確かめてくださったからです。私は板を支えていただけですから」


「それでも、一人で作るよりずっとやりやすかったよ。こういうのって、どっちが何をしたかより、二人でうまくできたことが大事なんじゃないかな」


 セリーは少し驚いたようにアルを見つめた。


 それから、手元の木板へ視線を落とし、穏やかに微笑んだ。


「……そうですね。私も、二人でできたことが嬉しいです」


 アルは完成した接合部分を作業台へ置き、昨日の失敗した板と並べた。


 同じような形の木片が二組。


 片方にはずれた穴があり、もう片方はきれいに組み合わさっている。


 その違いを見比べていると、アルはふと、昨日ブラートから届いた報告を思い出した。


 古代の記録に残されていた、二つの役割。


 『一次確認記録者』と『再確認成立判定者』。


 そして、その二つの役割を同じ人物が兼ねることは、原則として認められていなかったという規定。


「……セリー。昨日の研究院の報告なんだけど、少し気になっていることがあるんだ」


 アルがそう切り出すと、セリーは道具を置いて向き直った。


「はい。どのようなことでしょうか」


「最初に確認した人と、再確認が成立したかを判断する人が別だとしても、その間に何があったか分からなければ、次の人は困るんじゃないかなって。もちろん、古代の制度がどうなっていたかは、まだ分からないけど」


 セリーはすぐには答えず、作業台の二組の木板を見つめた。


 昨日失敗した方には、穴の位置がずれている理由を確かめられる擦れ跡が残っている。


 今日成功した方には、二人で試した結果が形として残っている。


 しかし、もしこの二組だけを別の誰かへ渡したら、その人は何を理解できるだろう。


「主様。もし、私たちが昨日の作業をしていない方へ、この木板を渡したとします。その方は、穴がずれていることには気づけるかもしれませんが、どうしてずれたのかまでは分からない可能性がありますね」


「そうだね。俺たちは別々に測ったことも、穴を開けるときに角度がずれたことも覚えてる。でも、板だけ見ても全部は分からないだろうな」


「では、次に作業する方へ渡すなら、失敗した理由や、試した方法も一緒に伝えた方がよいのでしょうね」


 セリーはそう言ってから、少しだけ首を傾げた。


「ただ、古代の制度で同じことが問題になっていたかどうかは、まだ分かりません。確認記録の内容も、引き継ぎの方法も、私たちは知らないのですから」


 アルは頷いた。


「うん。今のは、あくまで俺たちの作業から考えたことだね。研究院が確認してくれるまでは、制度の仕組みと結びつけない方がいい」


 二人はそこで話を区切り、再び木箱の作業へ戻った。


 午前中に完成させるつもりだったのは、あくまで接合方法の試作である。


 本番の木板へ穴を開けるのは、もう少し確かめてからにしようと決めた。


 アルは成功した端材へ小さな印を付け、失敗したものと混ざらないように別の布の上へ置いた。


 セリーはその様子を見て、少し嬉しそうに微笑んだ。


「主様。こちらは、残しておきましょうか」


「うん。あとで見返したときに、どんな方法がよかったのか分かるようにしておこう」


 アルは紙を一枚取り出し、試した方法を簡単に書き留めた。


 そこには、板の固定位置、穴を開ける角度、木栓の太さ、そして二人で役割を分けたことが記されている。


 セリーはその紙を受け取り、最後に一行を加えた。


『本番の板で試す前に、もう一度寸法を確認すること』


 アルはそれを読み、笑いながら頷いた。


「そうだね。成功したからって、すぐ本番に進んで失敗したらもったいない」


「はい。ですが、今日は一つ方法が見つかりました。明日の作業が楽しみです」


 二人は顔を見合わせ、穏やかに笑った。


 窓の外では、雨が少し弱まっていた。


     ◇


 王立魔導研究院では、フェリクスが古代の共通規定を整理していた。


 机の上には、これまでに確認された文言が記された紙が並んでいる。彼はそれらを一つの図へまとめようとしていたが、途中で筆を止め、引きかけた線を消した。


 一次確認の記録。


 再確認成立の判定。


 状態変更の実施承認。


 三つの役割や判断が存在することは、これまでの調査で確認されている。


 しかし、それぞれが必ずどの順番で行われるのか、途中で担当者が交代した場合にどう扱われるのかは、まだ十分に分かっていなかった。


 フェリクスは紙を見つめながら、慎重に考えた。


(……名称が分かったからといって、手順まで分かったわけではない。ここで勝手に線を引けば、後からその図だけを見た者が、確定した制度だと思い込む危険がある)


 彼は図の中央にあった矢印を消し、代わりに小さく『接続関係未確認』と書き加えた。


 そのとき、研究室の扉が叩かれた。


「フェリクス先生。先ほどの照会について、一次回答が届きました」


 入ってきたのは、古代文書の照合作業を担当している若い研究員だった。


 手には薄い書類があり、表情からは何か新しい情報が見つかったことがうかがえる。しかし、フェリクスは急いで結論を求めることなく、まず書類を受け取った。


「ありがとう。確認できた範囲を教えてくれ」


「はい。担当者交代時の扱いと、確認記録が欠けている場合の扱いについて、共通規定にそれぞれ独立した項目が存在することが確認されました。ただし、本文の閲覧には追加の照会が必要です」


 研究員が差し出した紙には、二つの項目名が記されていた。


 『確認担当者変更時の記録継承』


 『確認記録欠落時の再確認保留』


 フェリクスはその文字をゆっくり読み、机の上に置いた。


 どちらも、これまでに確認されていなかった名称である。


 担当者が変更された場合には、記録を継承するための規定があったらしい。


 確認記録が欠けている場合には、再確認を保留するための規定があったらしい。


 しかし、項目名だけでは、その具体的な内容までは分からない。


「……少なくとも、古代の制度は担当者の交代と記録の欠落を、別々の問題として扱っていた可能性があるな」


 フェリクスがそう言うと、研究員は頷いた。


「はい。ただ、記録継承がどのような手続きだったのか、再確認保留がどの段階に適用されるのかは不明です。照会先からも、項目名だけで運用内容を判断しないよう注意が添えられています」


「それは重要な注意だ。こちらの報告にも、はっきり記しておこう」


 フェリクスは新しい紙を取り出し、二つの項目名を書き加えた。


 その横には『本文未確認』と記し、さらに下へ『個別施設への適用不明』と明記した。


 研究員はその様子を見つめ、少し迷ったように口を開いた。


「先生。もし確認記録が欠けている場合に再確認を保留する制度だったとしたら、古代の施設で何かが長期間停止したままになっている可能性も考えられるのでしょうか」


 フェリクスは筆を置き、研究員へ向き直った。


「可能性として考えることはできる。ただし、今の段階でその仮説を具体的な施設へ当てはめるのは早い。そもそも『再確認保留』という言葉が、何をどこまで止めるものなのか分かっていないからな」


「……そうですね。再確認だけが保留されるのか、その後の状態変更まで止まるのかも、まだ確認できていません」


「そのとおりだ。それに、規定が存在したことと、実際の施設でその規定が守られていたことも別の問題だ。古代の制度を調べるときには、そこを混同してはいけない」


 研究員は真剣な表情で頷いた。


 フェリクスは書類を整え、ブラートへ送る報告文の作成に取り掛かった。


 確認済みの事実は、二つの項目名が存在すること。


 未確認なのは、その本文、具体的な手順、適用条件、例外規定、個別施設との関係。


 その区別を崩さないよう、慎重に文章をまとめていく。


 やがて報告文を書き終えると、フェリクスは一度読み返し、余計な推測が混ざっていないことを確かめた。


「これでよいだろう。次の照会では、まず本文の閲覧が可能かどうかを確認する。内容が分かるまでは、制度の運用について結論を出さない」


 研究員は頷き、書類を受け取った。


 フェリクスは窓の外へ目を向けた。


 雨はすでに弱まり、研究院の中庭には薄い日差しが戻り始めている。


 彼は机の上に残された図を見つめ、消した矢印の跡へ指先を添えた。


 分からないことを、分からないまま残す。


 それは研究者にとって、時に結論を出すこと以上に難しい作業だった。


     ◇


 旧保養施設の西側壁面では、ガルム、リディア、トーマスの三人が、定められた位置から観測を続けていた。


 雨上がりの石壁には水滴が残り、三つの表示窓の表面にも薄い湿り気が見える。周囲の地面はぬかるんでいたが、観測位置そのものは安全を確保できる場所にあり、三人は足元を確かめながら記録を進めていた。


 リディアは前回の記録と今日の見え方を照らし合わせ、表示窓の明るさに確実な差がないことを確認した。


「今日も、明確な変化は確認できませんね。ただ、雨の影響で表面の反射が少し違って見えますので、その点は記録へ残しておきます」


 ガルムは頷き、壁面へ目を向けた。


「そうしてくれ。見え方が違うことと、内部で変化が起きたことは別だからな。判断できないものは、無理に異常として扱わなくていい」


 トーマスは記録用紙を見つめ、少し考えてから口を開いた。


「隊長。研究院では、古代の確認手順について調べているんですよね。もし何か新しいことが分かったとしても、こちらの観測方法は変えないのでしょうか」


「少なくとも、今の段階では変えない。研究院が調べている共通規定と、この壁面が関係しているかどうかは、まだ確認されていないからな」


 ガルムは落ち着いた声で答えた。


「仮に関連があると分かったとしても、それだけで操作してよい理由にはならない。何が起こるか分からない設備へ触れる以上、必要な情報と承認が揃わなければ動かせない」


 トーマスは真剣な表情で頷いた。


「分かりました。では、今日も受動観測だけですね」


「ああ。表示窓への接触、意図的な照射、外部確認札の挿入、壁面の清掃や開放は行わない。変化があれば、まず記録と報告だ」


 リディアはその会話を聞きながら、記録用紙へ視線を戻した。


 彼女は以前、表示窓に微かな明るさの違いがあるように見えたことを覚えている。しかし、それが本当に内部の変化だったのか、周囲の光による見え方の違いだったのかは、まだ判別できていない。


 今日の壁面は静かだった。


 だからといって、内部に何も存在しないと判断することはできない。


 リディアはその区別を忘れないよう、記録の最後へ『新たな確定的変化なし』と書き加えた。


 ガルムは記録を確認し、三人へ撤収を指示した。


 壁面は、雨上がりの薄い光を受けたまま、何も語らなかった。


     ◇


 王都の三〇八号室では、少年が窓際の寝台に腰を下ろし、町の絵本を眺めていた。


 ページには、石造りの橋と、その下を流れる川が描かれている。橋の向こうには小さな店が並び、人々が行き交う様子も見えた。


 少年はその絵を何度も見返していた。


 町へ行ってみたい。


 川の音を聞いてみたい。


 焼きたてのパンの香りを知りたい。


 以前なら、そうした希望を口にすること自体をためらっていたかもしれない。しかし、ヨアヒムは彼の言葉を記録し、間違っていたところを直してくれた。


 そのことが、少年の中に小さな安心を残していた。


 扉が控えめに叩かれ、ヨアヒムが入ってきた。


「こんにちは。今日は体調はいかがですか」


 少年は顔を上げ、少し嬉しそうに微笑んだ。


「うん。昨日と同じくらいだと思う。先生、パンのことは何か分かった?」


 ヨアヒムは椅子を引き寄せ、少年の目線に合わせて腰を下ろした。


「関係する職員へ相談を始めています。ただ、まだ実施できるかどうかは決まっていません。食事に関する確認も必要なので、もう少し時間をください」


 少年は小さく頷いた。


「そっか。まだなんだね。でも、先生がちゃんと聞いてくれたなら、待てるよ」


 ヨアヒムはその言葉を聞き、胸の奥に複雑な思いが広がるのを感じた。


 少年が自分を信頼してくれることは嬉しい。


 しかし、その信頼に甘えて、曖昧な返事を続けてよいわけではない。


 できることと、まだできないこと。


 分かっていることと、確認が必要なこと。


 それらを区別して伝えることが、今の自分にできる大切な役割なのだろう。


「ありがとうございます。確認が進んだら、分かったことをきちんとお伝えします。それから、今日はもう一つ相談したいことがあります」


 少年は少し首を傾げた。


「なあに?」


「焼きたてのパンの香りについて、もし施設内で体験できることになった場合、どのような形がよいか、あなたの希望を聞いておきたいのです」


 少年は絵本を見下ろし、少し考えた。


「……どんな形って?」


「たとえば、焼きたてのパンを部屋へ持ってきて、香りを確かめる方法も考えられます。ただし、食べられるかどうかは別の確認が必要です。香りだけでも知りたいのか、それとも食べられないなら今はやめておきたいのか。あなたがどう感じるかを知りたいと思っています」


 少年はしばらく黙っていた。


 絵本の中には、棚に並んだ丸いパンが描かれている。


 それを見つめているうちに、彼は少し困ったような表情になった。


「……匂いだけでも知りたい。でも、目の前にパンがあったら、食べてみたいって思うかもしれない」


 ヨアヒムは頷いた。


「そうですね。それは自然なことだと思います。だからこそ、食べられるかどうかを確認せずに、いきなり持ってくるのは避けたいと考えています」


「じゃあ、食べられないって決まったら、匂いだけにするかどうか、また聞いてくれる?」


「もちろんです。今ここで決める必要はありません」


 少年は安心したように微笑んだ。


「うん。じゃあ、分かったときに考える」


 ヨアヒムはその言葉を記録へ残した。


 少年は自分の希望を持っている。


 しかし、すべてを今すぐ決めたいわけではない。


 必要な情報を聞いてから、改めて選びたいと思っている。


 そのことを、ヨアヒムは大切にしたかった。


 記録を終えたところで、少年がもう一度口を開いた。


「先生。町へ行きたいってお願いは、まだ残ってる?」


 ヨアヒムは顔を上げ、はっきりと頷いた。


「はい。外出の希望は、そのまま残しています。パンの香りを知ることができたとしても、それで町へ行きたいという希望が消えるわけではありません」


 少年はほっとしたように息を吐いた。


「よかった。ぼく、パンの匂いも知りたいけど、橋の上から川を見るのも楽しみなんだ」


「そうですね。以前、橋の上から見える景色についても話してくれましたね」


「うん。先生が言ってたみたいに、川の音が少し大きく聞こえるのか、確かめてみたい」


 少年は絵本の橋を指さした。


「でも、もし怖かったら、途中で戻ってもいいのかな」


 ヨアヒムはその問いを聞き、少しだけ表情を和らげた。


「もちろんです。もし外出できることになったとしても、途中で怖くなったり、疲れたりしたら、そのことを伝えてください。予定していた場所へ必ず行かなければならない、ということにはしたくありません」


 少年は目を丸くした。


「……途中でやめてもいいの?」


「はい。あなたの体調や気持ちは、出発するときだけでなく、途中でも大切にしなければなりませんから」


 少年はしばらくヨアヒムを見つめ、それからゆっくり頷いた。


「そっか。じゃあ、行けるようになったら、ちゃんと話すね。怖かったら怖いって言うし、楽しかったら楽しいって言う」


 ヨアヒムは微笑んだ。


「それで十分です。あなたがどう感じたかを、私たちも知りたいと思っています」


 少年は嬉しそうに絵本を抱えた。


 外出が許可されたわけではない。


 焼きたてのパンの香りを体験できるかどうかも、まだ決まっていない。


 それでも、自分の希望について、次に何を確かめるのかが分かった。


 そして、もし何かが実現したとしても、途中で気持ちが変わったら、それを伝えてよいと知った。


 少年にとって、それは小さくても確かな前進だった。


     ◇


 夕方、古の塔へブラートからの報告が届いた。


 アルは作業室で道具を片付けていたところだったが、エルから知らせを受けると、セリーとともに居間へ移動した。


『……王立魔導研究院からの追加報告です。古代の共通規定に、新たな二つの項目名が確認されました』


 エルの声が静かに響き、アルの前へ報告内容が表示された。


 『確認担当者変更時の記録継承』


 『確認記録欠落時の再確認保留』


 アルはその文字を読み、午前中にセリーと話したことを思い出した。


「……セリー。今朝、君が気にしていたことに近い項目が見つかったみたいだ」


 セリーも表示へ目を向けた。


「はい。ただ、項目名だけでは、実際にどのような手順が定められていたのかは分かりませんね」


「そうだね。担当者が交代した場合の記録の引き継ぎと、記録が欠けていた場合の保留。少なくとも、別々の問題として扱われていた可能性はありそうだけど……」


 アルはそこで言葉を止め、報告の注記を読み直した。


 本文は未確認。


 個別の施設との関連は不明。


 その二点が、はっきりと記されている。


「……ここから先は、まだ考えすぎない方がいいね。分かったのは、そういう項目が存在するってことまでだ」


 セリーは頷いた。


「はい。ですが、次に何を確認すべきかは、少し明確になったように思います」


「そうだね。ブラートにも、今の範囲で調査を続けてもらおう。無理に急がせる必要はないけど、分かったことはきちんと積み重ねていきたい」


 アルは返信文を作成し、エルへ送信を頼んだ。


 その後、二人は作業室へ戻った。


 木箱の側面に使う本番の板は、まだ固定されていない。


 しかし、今日試した印の付け方は、昨日よりも正確だった。


 アルは成功した端材を手に取り、セリーへ見せた。


「……こっちは、うまくいったね。明日は本番の板でも試せそうだ」


 セリーは嬉しそうに頷いた。


「はい。今日は、二人で考えた方法が形になりましたね」


 アルはその言葉に微笑んだ。


 古代の制度も、目の前の木箱も、すぐに完成するものではない。


 しかし、分からないことを分からないままにせず、確かめられるところから進めることはできる。


 そして、誰かが残した記録を受け取るときには、その人が何を知り、何を知らなかったのかを、丁寧に見極めなければならない。


 アルは木板を作業台へ戻し、セリーの方へ手を差し出した。


「……今日は、ありがとう。セリーが一緒に考えてくれたおかげで、また少し進めたよ」


 セリーはその手を見つめ、穏やかに微笑んだ。


「こちらこそ、ありがとうございます。主様と一緒に作る時間は、私にとって大切なものです」


 二人の指が重なり、温かな手が静かに握り合わされた。


 窓の外では、雨上がりの森に夕日が差し始めている。


 まだ完成していない箱。


 まだ答えの出ていない記録。


 そして、これから二人で選んでいく時間。


 アルはそのすべてを急がず、大切にしていきたいと思っていた。

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