第141話 窓の向こうへ届く、最初の一歩
古の塔の作業室には、朝から木を削る音が響いていた。
窓を開けるには少し肌寒い季節になっていたが、室内には日差しが十分に届いており、作業台の上に並べられた薄い木板の木目が、柔らかな光を受けて浮かび上がっている。アルは小刀を置くと、削り終えた板の縁を指先で確かめ、隣に置いていた試作品と慎重に見比べた。
昨日まで二人で考えていた、刺繍を交換できる木箱。その蓋に使う仕組みは、何度か試した結果、薄い台紙に布を留めて裏側から押さえる方式が最も扱いやすそうだと分かってきた。
もっとも、仕組みが分かったことと、実際に使える箱が完成することは別だった。アルの目の前にあるのは、まだ箱の側面にもなっていない一枚の木板であり、寸法を間違えれば、これまでの試作を踏まえて考えた設計も修正しなければならない。
「……うん。こっちの端は、もう少し整えた方がよさそうだな」
アルが定規を当て直していると、背後から控えめな足音が聞こえた。
「主様。お茶をお持ちしました。少し休憩なさいませんか」
振り返ると、セリーが盆を手に立っていた。湯気の立つ杯が二つと、小さな皿に載せられた焼き菓子があり、彼女の腕には生成り色の布を入れた浅い籠も掛けられている。
「ありがとう、セリー。ちょうど一度手を止めようと思ってたんだ。今朝は少し進んだけど、同じ姿勢で作業してたら肩が固まってきちゃった」
「でしたら、なおさら休憩が必要ですね。主様は集中なさると、時々お身体のことを後回しにしてしまいますから」
セリーは作業台の端に盆を置き、アルが使っていた道具へ目を向けた。刃物はすでに布の上へ置かれ、削りくずも作業範囲の外へ寄せられていることを確認すると、安心したように表情を和らげる。
アルは椅子へ腰を下ろし、温かな杯を両手で包んだ。指先に残っていた木材の冷たさが薄れていくにつれ、細かな寸法ばかり追っていた頭も、少しずつ落ち着いてくる。
「セリーの方はどう? 昨日、刺繍の見本をもう少し考えるって言ってたよね」
「はい。実は、二つの図案を見比べているうちに、少し違うことを思いついたのです。まだ決めたわけではありませんが、ご覧いただいてもよろしいでしょうか」
セリーは籠から二枚の布を取り出した。
一枚は生成り色の布に三枚の葉を縫ったもの。もう一枚は淡い青緑色の布に、白い花びらを小さく重ねたものだった。
どちらも昨日見せてもらった図案だが、今日はその隣に、細い糸で新しい線が加えられていた。
「これは……枝かな?」
「はい。葉と花を、それぞれ別の模様として考えていたのですが、同じ枝につながっているようにしてみたくなりました。もちろん、布を替えれば片方しか見えませんので、完成したときには別々の図案になるのですが……」
セリーは少し言葉を探し、二枚を並べてみせた。
「それでも、並べたときには一つの木のように見えると、面白いと思ったのです」
アルは杯を置き、布へ顔を近づけた。
生成り色の布に縫われた葉の枝は、右端へ向かって細く伸びている。青緑色の布に縫われた白い花の枝は、左端から伸びており、二枚を隣り合わせると、確かに同じ枝の続きのように見えた。
「すごいね、セリー。別々でもちゃんと模様になってるのに、並べるとつながるんだ」
「ありがとうございます。まだ試し縫いですので、枝の太さや角度は揃っていません。ですが、こういう形も作ってみたいと思いまして」
「俺は好きだな。箱には一枚ずつしか入れられないけど、使ってない方も大切にしまっておけるし。いつか二枚を並べて飾るのも楽しそうだ」
セリーはその言葉を聞き、嬉しそうに布を見つめた。
アルは二枚の図案をもう一度眺め、胸の奥が温かくなるのを感じた。セリーは以前、自分の希望を尋ねられると、主にとって適切かどうかを先に考えることが多かった。今は、自分が面白いと思ったものを作り、それを誰かに見せたいという気持ちを、自然に言葉へできるようになっている。
(……俺が何かを教えたというより、セリー自身が見つけてるんだよな。好きなものを選んで、それを形にする楽しさを)
アルはその変化を誇らしく感じたが、本人へ大げさに伝えることはしなかった。代わりに二枚の布を丁寧に並べ直し、枝のつながりが最も自然に見える位置をセリーと一緒に探した。
その時間が、彼には何より楽しかった。
◇
王都の三〇八号室では、ヨアヒムがいつもより少し早く少年の部屋を訪れていた。
窓辺には薄い雲を通した日差しが届き、寝台の脇に置かれた水差しが淡く光っている。少年は上半身を起こし、膝の上に広げた町の絵本を眺めていたが、ヨアヒムが入ってくると、すぐに顔を上げた。
「先生。今日は早いね。何かあったの?」
少年の声には期待と警戒が少しずつ混じっていた。
このところ、彼は町へ行ってみたいという希望を何度か口にしている。しかし、その希望について正式な返事はまだ出ておらず、ヨアヒムが普段と違う時間に来たことが、何かの知らせにつながるのではないかと思ったらしい。
ヨアヒムはその表情に気づき、椅子を引き寄せながら穏やかに答えた。
「今日は、あなたが前に話してくれたことについて、少し相談したくて来ました。ただし、町への外出が決まったというお知らせではありません。そこは先に伝えておきますね」
少年の目がわずかに伏せられた。
期待していた答えではなかったのだろう。それでも彼は絵本を閉じず、指でページの端を押さえたまま、ヨアヒムの続きを待っていた。
「……そっか。まだ、行けるか分からないんだね」
「はい。あなたの体調や、外へ出たときに必要な支援について、確認しなければならないことがあります。ですが、外出の可否が決まるまで、町のことを何も知れないというわけではありません」
ヨアヒムは持ってきた薄い紙束を膝の上へ置いた。
そこには町の絵本に描かれた橋や店先について、少年がこれまで口にした疑問を整理した短い記録があった。橋の上を歩くとどんな感じがするのか、川の音は聞こえるのか、焼きたてのパンにはどんな匂いがあるのか。
少年は紙へ目を向け、少し不思議そうに首を傾げた。
「ぼくが言ったこと、書いてあるの?」
「そうです。あなたが話してくれたことを、忘れないようにまとめました。ただ、ここに書いてあるのは私が聞き取った言葉ですから、違うところがあれば直したいと思っています」
ヨアヒムは紙を少年の見やすい位置へ置き、一つずつ読み上げた。
少年は橋の項目で小さく頷き、川の音についても「それは聞いてみたい」と答えた。しかし、パン屋について書かれた部分では、少し考えてから手を上げた。
「先生。ここ、ちょっと違うかもしれない」
「どの部分でしょうか。急がなくていいので、教えてください」
「ぼく、甘いパンだけが気になるんじゃないんだ。焼きたてのパンの匂いがどんなものなのか知りたいの。甘くなくても、いい匂いがするんでしょ?」
ヨアヒムは記録へ目を落とした。
そこには確かに『甘いパンの香りを知りたい』と書かれている。以前、少年が焼き菓子の絵を見ていたことから、ヨアヒムが自分の理解で言葉を狭めてしまったのだろう。
「そうですね。私の書き方が少し違っていました。あなたが知りたいのは、甘いパンに限らず、焼きたてのパンそのものの香りなのですね」
「うん。だって、先生が前に、麦の香ばしい匂いって言ってたから。それがどんな匂いなのか、まだよく分からないんだ」
「分かりました。では、ここは書き直しましょう。教えてくれてありがとうございます」
ヨアヒムが筆を取り、記録を修正すると、少年は少しだけ胸を張った。
自分が話したことを、大人が書き直してくれた。
それは彼にとって、思っていた以上に大きな出来事だった。
この部屋では、食事の時間や薬の量、身体の状態について、さまざまなことが記録されてきた。しかし、その記録がどのような言葉で残されているかを、自分で確かめる機会は多くなかった。
「……先生。これって、ぼくが決めていいの?」
少年の問いに、ヨアヒムは紙を置いて向き直った。
「あなたが何を知りたいと思っているかについては、あなたの言葉が一番大切です。私が聞き間違えたり、違う意味で書いたりしたら、直さなければなりません」
「じゃあ、また違うことを思いついたら、増やしてもいい?」
「もちろんです。ただ、書いたことが全部すぐに実現するとは限りません。それでも、あなたが何を望んでいるかを知るために、きちんと残しておきたいと思っています」
少年はしばらく考えたあと、絵本のページを一枚めくった。
そこには、石造りの橋と、その下を流れる川が描かれていた。
「先生。川の音も聞いてみたいけど、ぼく、橋の上から下を見たらどんな感じがするのかも知りたい。高いところって、怖いのかな。それとも、気持ちいいのかな」
ヨアヒムはその言葉を聞き、少年の指が絵本の橋の欄干をなぞる様子を見つめた。
外へ出たいという希望は、単に部屋の外へ移動したいということではないのだろう。
少年は、自分がまだ知らない感覚を知りたいのだ。
足の下にある石の硬さ。
橋の上を吹く風。
川の流れる音。
焼きたてのパンの匂い。
それらを自分で確かめ、どう感じるのかを知りたいと思っている。
「……そうですね。橋の高さや形によっても感じ方は違うと思います。怖いと感じる人もいれば、景色がきれいで気持ちいいと感じる人もいるでしょう」
「先生は、どうだった?」
ヨアヒムは少し考え、以前町の橋を渡ったときのことを思い出した。
「私は、川の流れを眺めるのが好きでした。橋の中央に立つと、水の音が少し大きく聞こえることがあります。ただ、欄干から身を乗り出すのは危ないので、近づきすぎないようにしていました」
少年は目を輝かせた。
「そっか。じゃあ、ぼくも行けるようになったら、ちゃんと気をつける。先生が一緒にいてくれたら、怖くても大丈夫かもしれないし」
ヨアヒムはその言葉に、すぐには答えられなかった。
少年の信頼は嬉しい。
しかし、外出が許可されるかどうかも決まっていない段階で、自分が必ず同行できると約束することはできなかった。
「もし外出できることになったら、誰が一緒に行くのかも含めて、きちんと相談する必要があります。私が同行できるかどうかも、まだ決まっていません」
ヨアヒムが慎重に伝えると、少年は少し残念そうな顔をした。
それでも、彼は以前のように希望そのものを引っ込めようとはしなかった。
「……じゃあ、先生も一緒に行けたらいいなって、書いておいてもいい?」
ヨアヒムは胸の奥に温かなものを感じながら、ゆっくり頷いた。
「はい。それは、あなたの希望として書いておきましょう」
少年は嬉しそうに微笑んだ。
ヨアヒムは紙へ新しい一行を加えた。
外出が可能になった場合、ヨアヒムの同行を希望する。
それは許可でも約束でもない。
しかし、少年自身が選んだ希望だった。
◇
少年との話を終えたヨアヒムは、部屋を出てから記録をもう一度読み返した。
廊下には午後の光が届いており、遠くの部屋から食器を片付ける音が聞こえてくる。彼は壁際の小さな机へ腰を下ろし、少年が訂正した部分と、新しく加えた希望を確認した。
記録の中には、医療面の判断を必要とする事項と、生活の中で工夫できる可能性がある事項が混在していた。
町への外出には、身体の状態、移動方法、付き添い、休憩場所など、多くの確認が必要になる。
一方で、焼きたてのパンの香りを知りたいという希望については、外出以外の方法も考えられるかもしれない。
ヨアヒムはそこまで考えたところで、筆を止めた。
(……外へ出られないから、代わりにパンを持ってくればいい。そんなふうに簡単に決めてしまってはいけないな)
少年が望んでいるのは、町へ行ってみることでもある。
パンの香りを部屋で確かめられたとしても、それで外出の希望が消えるわけではない。
むしろ、二つを別々の希望として扱う必要があるだろう。
ヨアヒムは記録の余白へ、慎重に言葉を書き加えた。
『外出希望は継続。焼きたてのパンの香りについては、本人の希望を改めて確認したうえで、施設内で体験可能か関係職員へ相談する余地あり』
書き終えてからも、彼はしばらくその一文を見つめていた。
少年の食事には、これまで体調に応じた配慮が必要だった。薬の調整が進み、現在の状態が安定しているとしても、新しい食べ物を安易に与えてよいとは限らない。
香りを確かめるだけなら問題が少ないようにも思えるが、本人が食べたいと望む可能性もある。
そのときに、目の前へ食べ物を持ってきておきながら、理由を説明せず食べさせないようなことは避けたかった。
ヨアヒムは紙を閉じ、担当する医療職員へ相談するために立ち上がった。
廊下を歩きながら、彼は少年が記録の間違いを指摘したときの表情を思い出していた。
少し緊張しながらも、自分の言葉を引っ込めなかった姿。
書き直された文章を見て、安心したように笑った顔。
あの瞬間、少年は誰かの判断を待つだけの存在ではなかった。
自分の希望がどのように扱われるかを確かめ、必要なら訂正することができた。
その事実を、ヨアヒムは大切にしたかった。
◇
古の塔では、昼食を終えたアルとセリーが作業室へ戻っていた。
午前中に寸法を確かめた木板を前に、アルは箱の側面を作る順番を考えている。これまでの試作品は蓋の一部分だけだったため、箱本体の組み立てへ進むには、底板と四枚の側板を正確に合わせる必要があった。
アルは設計図を広げ、四隅の接合部分へ印を付けた。
「ここをどう組むかが問題だね。単純に板を合わせるだけだと、使っているうちにずれるかもしれない。小さな木栓を使う方法もあるけど、穴の位置を間違えると板が合わなくなるんだよな」
セリーは向かい側から図面を覗き込み、木板を一枚手に取った。
「でしたら、最初からすべての板へ穴を開けるのではなく、一組だけ仮に合わせてみてはいかがでしょうか。主様が以前、飾り台を作られたときも、形を確かめながら進めていらっしゃいましたから」
「そうだね。まずは角を一つ作ってみよう。うまくいけば残りも同じようにできるし、難しかったら別の方法を考えられる」
アルは木板を直角に合わせ、固定用の小さな留め具で動かないようにした。
定規を当てると、わずかに隙間が見える。
板の端が完全に平らではないらしい。
「……ここ、少し浮いてるね。削る前は気づかなかったけど、合わせると分かるな」
アルが板を持ち上げると、セリーは接合面を覗き込んだ。
「こちらの角が少し高くなっているようです。ほんのわずかですが、その部分が先に触れているのかもしれません」
「なるほど。じゃあ、そこを整えてからもう一度合わせてみよう。無理に押し込んでも、きれいにはならないだろうし」
アルは紙やすりを使い、角を少しずつ整えた。
セリーは削った部分の木粉を刷毛で払い、二枚を合わせたときの隙間を確認する。
何度か繰り返すうちに、板はほぼ直角に収まるようになった。
アルはそこで初めて、木栓を入れるための穴の位置を鉛筆で印した。
「よし。ここまでできたら、次は穴だね。でも、今日は一組だけにしておこうかな。ちゃんと合うか確かめてから、ほかの板にも進みたい」
「はい。私もその方がよいと思います。せっかく二人で作るものですから、急いで仕上げるより、使いやすい形にしたいです」
アルは頷き、道具を持ち替えた。
小さな穴を開ける作業は、思った以上に神経を使った。
板が薄いため、力を入れすぎれば反対側まで突き抜けてしまう。アルは木材をしっかり固定し、穴の深さを確かめながら慎重に進めた。
最初の穴を開け終えると、セリーが細い木栓を持ってきた。
「こちらでよろしいでしょうか。先ほど主様が選んでいらしたものです」
「ありがとう。じゃあ、まずは片方だけ入れてみるね」
アルは木栓を穴へ差し込み、手応えを確かめた。
少し抵抗はあったが、無理な力を加えずに収まった。
続いてもう一枚の板を合わせる。
しかし、途中で木栓が引っ掛かり、二枚の板の間に細い隙間が残った。
「……惜しいな。穴の位置が、ほんの少しずれてるみたいだ」
アルは力を加えるのをやめ、板を外した。
セリーは接合面を見つめ、木栓の先に付いた小さな擦れ跡を指さした。
「こちら側だけ擦れていますね。穴の中心が少し違っているのでしょうか」
「そうみたい。印を付けたときは合ってると思ったんだけど、実際に穴を開けると少しずれたんだね」
アルは失敗した箇所を見つめた。
残念ではあったが、不思議と腹立たしさはなかった。
以前なら、自分の技量の不足を必要以上に気にしたかもしれない。
けれど、今は目の前の板が教えてくれることを、次の作業へ生かせばいいと思えた。
「このまま穴を広げると、木栓が緩くなるかもしれない。今日はここまでにして、別の端材で穴の位置を合わせる練習をしようかな」
セリーは穏やかに頷いた。
「はい。私も、穴の位置を印すときに、二枚の板を固定したまま測る方法がないか考えてみます。主様だけに難しいところを任せるのではなく、私にもできることを探したいです」
アルはその言葉に顔を上げた。
セリーは自分の作業を増やしたいのではない。
二人で作るものだから、考えることも分け合いたいのだ。
「……ありがとう、セリー。じゃあ、次は一緒に印を付けよう。俺が板を押さえて、セリーに位置を見てもらうのもいいかもしれない」
「はい。そうしていただけると嬉しいです」
二人は笑みを交わし、失敗した板を丁寧に外した。
箱の側面は、まだ一つも固定されていない。
それでも、次に試すべきことは明確になっていた。
◇
王立魔導研究院では、フェリクスがブラートへ送る報告書を整理していた。
前日に確認された『一次確認記録者』と『再確認成立判定者』の役割分担については、すでに伝達済みである。
今回の作業は、新しい結論を出すためではなく、次に照会する内容を必要以上に広げないためのものだった。
フェリクスは机の上に、二枚の紙を並べた。
一枚には確認済みの共通規定。
もう一枚には、まだ答えの出ていない事項が記されている。
若い研究員はその二枚を見比べ、慎重に口を開いた。
「先生。引き継ぎについて調べる場合、担当者が不在になったときの規定と、記録そのものが失われたときの規定は、分けて確認した方がよいのでしょうか」
「そうだな。同じ問題に見えても、制度上は別の扱いだった可能性がある。担当者が交代するだけなら、記録は残っているかもしれない。だが、記録が欠けている場合は、そもそも何を確認したか分からなくなる」
フェリクスは紙の余白へ、二つの項目を書き加えた。
担当者交代時の引き継ぎ。
確認記録が欠けている場合の扱い。
そのどちらも、現時点では未確認である。
「ただし、今回も個別の事例を探す必要はない。まずは共通規定に、そうした状況を扱う項目が存在するかどうかを尋ねよう」
「分かりました。では、規定の有無と項目名だけを確認する形にします」
若い研究員は頷き、照会文を書き直した。
フェリクスはその様子を見守りながら、古代の制度を調べることの難しさを改めて感じていた。
記録に残された言葉は、かつて誰かが必要だと考えたものだ。
しかし、その言葉が残っていることと、実際に制度が正しく運用されていたことは同じではない。
まして、二千年もの時間が過ぎた今、その記録がどのような事情で作られたのかを知ることは容易ではなかった。
フェリクスは照会文を確認し、余計な推測が含まれていないことを確かめた。
「これでよいだろう。回答が得られるまで、既存の資料を整理しておこう。急いで答えを出すより、今ある情報の境界を明確にする方が大切だ」
若い研究員は頷き、書類を封筒へ収めた。
調査は続いている。
しかし、その進み方は、誰かの期待に合わせて速められるものではなかった。
◇
夕方、三〇八号室の少年は、窓の外を眺めていた。
昼間にヨアヒムと話したことが、まだ頭の中に残っている。
町へ行けるかどうかは決まっていない。
けれど、自分が知りたいと思ったことを、先生が書き残してくれた。
しかも、違うところを直してくれた。
少年はそのことを思い返しながら、膝の上に置いた絵本を開いた。
橋の絵。
市場の絵。
パン屋の絵。
どれも、何度も見たページだった。
それでも今日は、少し違って見える。
(……ぼくが知りたいことを、ちゃんと聞いてくれたんだ)
少年は指先で橋の欄干をなぞった。
外の世界には、自分の知らないことがたくさんある。
けれど、それを知りたいと思うことまで、誰かに決めてもらう必要はないのかもしれない。
扉が控えめに叩かれ、ヨアヒムが顔を覗かせた。
「少しよろしいですか。先ほどのお話について、確認したいことがあります」
少年は顔を上げ、嬉しそうに頷いた。
「うん。先生、どうしたの?」
ヨアヒムは椅子へ腰を下ろし、落ち着いた声で話し始めた。
「あなたが知りたいと言っていた、焼きたてのパンの香りについてです。町へ出かけることとは別に、施設の中で体験できる方法がないか、関係する職員へ相談してみようと思っています」
少年は目を見開いた。
「……ここで、パンの匂いが分かるの?」
「まだできると決まったわけではありません。食事に関する確認も必要ですし、どのような方法なら安全か、相談しなければなりません。ただ、あなたが望むなら、その可能性を調べてみたいと思っています」
少年はしばらく考えた。
そして、少し不安そうに尋ねた。
「でも、それをしたら、町へ行きたいってお願いは、なくなっちゃう?」
ヨアヒムは静かに首を横へ振った。
「いいえ。町へ行きたいという希望は、そのまま残します。パンの香りを知ることができたとしても、それで外出の希望が消えるわけではありません」
少年は安心したように息を吐いた。
それから、少し照れたように微笑んだ。
「……じゃあ、やってみたい。もしできるなら、焼きたてのパンの匂いを知りたい」
「分かりました。では、あなたがそう希望していることを伝えます。ただし、準備ができるかどうかは、確認が終わってからになります」
「うん。待つよ。でも、できるかどうか分かったら、教えてね」
ヨアヒムは頷いた。
「もちろんです。できる場合も、難しい場合も、分かったことはきちんとお伝えします」
少年は嬉しそうに絵本を抱えた。
まだ町へ出られるわけではない。
焼きたてのパンの香りを知ることができるかどうかも、決まっていない。
それでも、自分の希望について、次に何を確かめるのかが分かった。
少年にとって、それは小さくても確かな前進だった。
◇
古の塔の夜は、穏やかな静けさに包まれていた。
夕食を終えたアルとセリーは、居間の窓際で温かな飲み物を楽しんでいる。
作業室には、今日使った木板と試作品が整理されていた。
箱の側面はまだ固定できていないが、木栓の穴を正確に合わせる必要があることが分かった。
明日は、その方法をもう少し考える予定だった。
「……セリー。今日は箱が完成しなかったけど、なんだか楽しかったね」
アルがそう言うと、セリーは穏やかに頷いた。
「はい。私も、とても楽しかったです。主様と一緒に考えて、試して、うまくいかなかったところを確かめる時間が好きです」
「俺もだよ。前は、何かを作るなら早く完成させなきゃって思ってたけど、今は途中も楽しめるようになった気がする」
セリーはその言葉を聞き、少しだけ微笑みを深くした。
「主様が楽しそうに作業していらっしゃると、私も嬉しくなります。完成した箱を使う日も楽しみですが、こうして一緒に作っている時間も、大切にしたいです」
アルは頷き、窓際の棚へ目を向けた。
そこには、まるとそらが並んでいる。
その隣には、以前作った飾り台と、セリーが進めている花の刺繍が置かれていた。
アルはふと思いつき、セリーへ顔を向けた。
「そういえば、箱が完成したら最初に入れたいものがあるって言ってたよね。あれ、まだ秘密?」
セリーは少し照れたように笑った。
「はい。まだ秘密にしておきたいです。完成したときに、主様へお見せしたいと思っていますので」
「そっか。じゃあ、楽しみに待ってるよ」
アルはそれ以上尋ねなかった。
セリーが自分で決めた秘密を、無理に知ろうとは思わない。
いつか彼女が見せたいと思ったときに、見せてもらえればいい。
そのことを考えると、アルは自然に微笑んでいた。
セリーはそんなアルの横顔を見つめ、胸の奥が温かくなるのを感じた。
(……主様は、私が選ぶことを待ってくださるのですね)
以前の彼女なら、主に秘密を持つこと自体を不適切だと考えたかもしれない。
しかし、今は違う。
自分で考え、選び、伝える時期を決めることができる。
そして、アルはそれを尊重してくれる。
セリーはそっと手を伸ばし、アルの手へ自分の指を重ねた。
アルは少し驚いたように彼女へ目を向けたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべ、優しく握り返した。
「……どうしたの?」
「いいえ。ただ、こうしていたいと思ったのです」
セリーがそう答えると、アルは少しだけ頬を緩めた。
「そっか。俺も、こうしていたいな」
二人は並んで窓の外を眺めた。
夜の森には淡い月明かりが広がり、遠くの空には星が瞬いている。
古代の記録には、まだ多くの謎が残っていた。
誰が何を確認し、誰が判断を引き継いだのか。
そして、その判断がどのような結果につながったのか。
答えは、まだ見つかっていない。
けれど、今この塔で過ごしている時間は、誰かの判断を待つためだけのものではない。
アルとセリーが、自分たちの意思で選び、積み重ねていく時間でもある。
窓際には、小さな木彫りの鳥が二羽並んでいた。
作業室には、まだ完成していない木箱がある。
そして、二人の間には、明日も一緒に続きを作るという約束があった。
アルは握った手の温かさを感じながら、静かに微笑んだ。
セリーもまた、その手を優しく握り返していた。




