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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第140話 完成しない箱と、引き継がれなかった判断


 古の塔の作業室には、朝の光が斜めに差し込んでいた。


 窓の外では風に揺れる枝が石壁へ淡い影を落とし、机の上には昨日使った木材と二枚の試作品が並んでいる。一枚には木目に沿って裂けた傷があり、もう一枚には薄い押さえ板を通すための溝が削られていた。どちらも完成品には使えないが、アルは捨てずに残していた。


 朝食を終えたセリーが作業室へ入ってきたとき、アルはその二枚を並べ、何やら真剣に考えていた。


「主様。お待たせいたしました。昨日お話しした布の見本を持ってまいりましたが、何か気になることがございましたか」


「おはよう、セリー。いや、昨日のことを少し振り返ってたんだ。押さえ板が通るところまではできたけど、布を挟むと引っ掛かるでしょ。あれをどう直そうかなって」


 アルは溝のある板を持ち上げ、指先で削った部分を示した。


「最初は溝を広げればいいと思ったんだけど、それだけだと布の端が擦れる問題は残るんだよね。だから、今日は箱そのものを作り始める前に、布を固定する部分をもう一度試したい」


 セリーは作業台へ近づき、昨日の試作品を手に取った。


 板の端には、何度も押さえ板を出し入れしたためにできた小さな擦れ跡がある。木材そのものは大きく傷んでいないが、柔らかな布を長く使うことを考えると、確かに気になる部分だった。


「私も昨日、部屋で考えておりました。刺繍を替えるたびに布の端を折り直すのではなく、最初から薄い台紙へ留めておけば、取り外すときに布を直接引っ張らずに済むのではないでしょうか」


「うん。俺もそれがいいと思う。ただ、台紙を厚くすると今の溝には入らないから、そこをどうするかだね」


「でしたら、まず台紙の厚さを決めて、それに合わせて溝を作る方がよいのかもしれません。今までは木の方から考えていましたが、布の方を先に決めてもよいと思います」


 アルは思わず顔を上げた。


 確かに、昨日までの作業では木材の寸法を基準にしていた。箱を作るのだから木材から考えるのが自然だと思っていたが、実際に使うのはセリーであり、蓋に入れるのは彼女の刺繍なのだ。


「……なるほど。俺、順番を逆に考えてたのかもしれない。先に布を入れる仕組みを決めて、それに合わせて木を削ればいいんだね」


「はい。もちろん、木材の強度も必要ですから、どちらか一方だけを優先することはできません。ですが、使いたいものの大きさが分かれば、考えやすくなると思います」


 セリーは持ってきた布を作業台へ広げた。


 生成り色と淡い青緑色の二枚には、それぞれ小さな刺繍の試し縫いが施されている。生成り色の布には三枚の葉が、青緑色の布には白い花びらが縫われていた。


 どちらもまだ完成した図案ではない。


 しかし、糸の色と布地の組み合わせを見るには十分だった。


「わあ、もうここまで作ったんだ。昨日は見本を作るって話してたけど、こんなにきれいに縫ってたんだね」


「ありがとうございます。昨夜、少しだけ試してみたくなったのです。生成りの布では葉の色がよく見えますし、青緑の布では白い糸がはっきりしますので、どちらも違った印象になりました」


 アルは二枚を並べ、木板の上へ置いてみた。


 明るい木目にはどちらの色もよく合っている。生成り色は落ち着いた雰囲気になり、青緑色は少し華やかに見えた。


「どっちもいいな。俺は青緑の方も好きだけど、生成りの方は木の色と自然につながって見えるね」


「私もそう感じました。ですので、どちらかを選ぶのではなく、二つとも使える形にしたいと思っています」


「うん。そうしよう。交換できる仕組みにする意味も、ちゃんとあるしね」


 二人は顔を見合わせて微笑んだ。


 アルは定規を取り出し、布の見本の寸法を測り始めた。


 完成を急ぐ必要はない。


 今日は、二人が使いたい形を、もう少し確かなものにする日だった。


     ◇


 王立魔導研究院の資料室では、フェリクス・ハルトマンが新しい回答書を受け取っていた。


 前日に送った照会は、古代の共通様式に記されていた二つの役割――『一次確認記録者』と『再確認成立判定者』――について、兼任の可否と状態変更承認との関係を確認するものだった。


 保管部署から届いた回答は、予想よりも早かった。


 ただし、それは調査が大きく進展したからではない。


 担当者が別の資料を新たに発見したのではなく、すでに閲覧許可が出ていた共通説明文の続きを、改めて確認できたためだった。


「……ここに、続きがあったのか」


 フェリクスは回答書を読みながら、慎重に息を吐いた。


 若い研究員が隣へ近づき、机の上に置かれた資料へ目を向けた。


「先生。何か分かったのでしょうか」


「限定的だが、重要なことが一つ分かった。まず、二つの役割については、同一人物による兼任を原則として認めないという記載が確認されたそうだ」


 若い研究員は驚いたように目を見開いた。


「では、一次確認記録者と再確認成立判定者は、基本的に別の人だったんですね」


「そのように読むことはできる。ただし、例外が存在したかどうかまでは分からない。『原則として認めない』という記載がある以上、特別な条件で兼任が許された可能性まで否定することはできないからな」


 フェリクスはそう説明し、回答書の次の部分を指さした。


 そこには、さらに短い一文が記されていた。


『再確認成立の判定は、状態変更の実施承認を兼ねない』


 若い研究員はその文章を読み、しばらく黙り込んだ。


 確認が成立したと判断すること。


 状態変更を実施してよいと承認すること。


 それらは、少なくとも共通説明文の上では、別のものとして扱われていた。


「……ということは、再確認が成立しても、そのまま設備を動かしてよいわけではなかったんですね」


「そうだ。ただし、ここでも注意が必要だ。今回の文章は、再確認成立の判定と状態変更承認が同一ではないと示しているだけだ。誰が承認したのか、どのような条件が必要だったのかまでは分からない」


 フェリクスは回答書を机へ置いた。


 ここまでの資料を整理すると、古代の保護判断制度には複数の段階が存在していた可能性が高くなる。


 状態変更を延期する判断。


 延期後に確認すべき事項の記録。


 再確認が成立したかどうかの判定。


 そして、それとは別に存在していたらしい状態変更の実施承認。


 しかし、それらが必ず一つの順序で行われていたのか、施設によって異なる運用があったのかは分からない。


「先生。では、次は状態変更の承認者について調べるのでしょうか」


 若い研究員が尋ねると、フェリクスはすぐには答えなかった。


 机の上には、これまでの調査で確認された項目名と、まだ確認できていない事項をまとめた紙が並んでいる。


 そこには空欄が多い。


 しかし、空欄を埋めることだけを目的にすれば、調査の範囲は際限なく広がってしまう。


「承認者についても、いずれ確認する価値はあるだろう。ただ、今はもう一つ気になる点がある」


「何でしょうか」


「延期判断が行われたあと、再確認が成立しないまま担当者が交代した場合だ。今回の制度は、記録者と判定者を分けている。ならば、その間に担当者が不在になったり、記録が引き継がれなかったりした場合、どう扱うことになっていたのか」


 若い研究員は少し考え、手元の記録へ目を落とした。


「確かに、再確認成立判定者が必要だったとしても、その人がいなければ判断できませんね」


「そうだ。しかも、判定が成立しただけでは状態変更を承認したことにならない。途中の手続きが欠けた場合、どの段階で止まるのかを知る必要がある」


 フェリクスは筆を取り、次の照会候補を書き出した。


 ただし、すぐに送るつもりはなかった。


 今回の回答には、保管部署が閲覧範囲を限定している理由も添えられていた。


 個別記録には、保護対象の状態や識別情報が含まれる可能性がある。


 そのため、共通規定の確認と個別事例の調査を混同しないよう、研究院側にも慎重な扱いが求められていた。


「……まずは今回の回答を整理して、ブラート殿へ伝えよう。そのうえで、追加照会が必要かどうか相談する」


 フェリクスが言うと、若い研究員は頷いた。


「分かりました。今回も、旧保養施設との関係は未確認として記載します」


「そうしてくれ。資料が少しずつつながって見えてきても、同じ施設で使われたという証拠がない以上、そこは変わらない」


 二人は報告書の作成を始めた。


 古い記録は、新しい答えを与えると同時に、まだ知られていない手続きの存在を浮かび上がらせていた。


     ◇


 塔の作業室では、アルとセリーが新しい試作品を作っていた。


 今度は布の見本を先に測り、その大きさに合わせて薄い台紙を切り出している。台紙には、以前の飾り台を作った際に余った木材の中から、特に薄くて反りの少ない部分を選んだ。


 アルは板を作業台へ固定し、木目に沿って慎重に削った。


 刃が進むたび、薄い木くずが丸まって落ちていく。


 セリーは少し離れた場所で見守りながら、布の端を折り込む位置を確かめていた。


「主様。台紙の角は、少し丸くした方がよいかもしれません。布を折り込むとき、角が鋭いと引っ掛かってしまいそうです」


「そうだね。ここは少し削っておこう。押さえ板の方も、角を丸くしたら出し入れしやすくなるかもしれない」


 アルは小刀を置き、紙やすりへ持ち替えた。


 木材の角を少しずつ整えると、指先へ触れる感触が柔らかくなっていく。


 その変化を確かめたセリーは、生成り色の布を台紙へ重ねた。


「これなら、布の端が直接溝へ触れずに済みそうです。ただ、まだ固定していませんので、実際に使えるかどうかは分かりません」


「うん。まずは仮に留めてみよう。もし布がずれるなら、別の方法を考えればいい」


 二人は薄い糸を使い、布の端を台紙へ仮留めした。


 セリーが糸を通す位置を決め、アルが台紙を支える。


 木工と裁縫。


 それぞれが慣れている作業は違うが、互いの手元を見ながら進めることで、少しずつ形になっていった。


「……できました。まだ仮留めですが、布は動かなくなりました」


 セリーがそう言うと、アルは台紙を持ち上げた。


 表から見ると、生成り色の布がきれいに張られている。


 裏側には糸が見えるものの、蓋へ収めれば外からは見えなくなるはずだった。


「いいね。これなら、刺繍を傷めずに取り外せそうだ」


「はい。ですが、台紙を外すときに糸が引っ掛からないか、もう少し確かめたいです」


 アルは頷き、朝から作っていた溝の試作品へ台紙を通した。


 最初は少し硬かったが、押さえ板の角度を変えると、途中まで滑らかに入った。


 しかし、最後の部分で台紙が引っ掛かり、布の表面に小さな皺が寄った。


「……あ、やっぱりここが難しいな」


 アルは無理に押し込まず、すぐに手を止めた。


 セリーも台紙を覗き込み、皺の位置を確認する。


「布そのものが引っ掛かったわけではなさそうですね。台紙の端が溝へ当たって、少し斜めになっているように見えます」


「なるほど。じゃあ、溝の幅だけじゃなくて、左右の高さも揃えないといけないんだ」


 アルは定規を当て、溝の深さを確かめた。


 左右でわずかな差がある。


 目で見るだけでは分からない程度だったが、薄い台紙を通すには十分な違いだった。


「……これか。最初に削った方が少し深いんだね」


「では、浅い方を少しだけ整えればよいのでしょうか」


「たぶんね。でも、削りすぎたら今度は緩くなるから、慎重にやってみる」


 アルは台紙を外し、浅い部分を少しずつ削った。


 一度削るごとに定規を当て、深さを確認する。


 その作業を何度か繰り返すうちに、左右の差が小さくなっていった。


 再び台紙を通すと、今度は最後まで収まった。


 布の表面にも、大きな皺はできていない。


「……入った」


 アルが思わず呟くと、セリーは嬉しそうに顔を上げた。


「はい。今度は、布もきれいなままです」


 二人は顔を見合わせ、自然に笑みを浮かべた。


 しかし、アルはそこで作業を終えなかった。


「次は外してみよう。入るだけじゃ駄目だからね」


「はい。私も、そこを確かめたいです」


 アルは押さえ板を慎重に引き抜いた。


 台紙は少し抵抗を感じさせながらも、途中で引っ掛かることなく外れた。


 セリーは布の表面を確認し、折り目や糸の状態を調べた。


「……大丈夫そうです。少なくとも、今の一度の出し入れでは、目立つ傷みはありません」


「よかった。じゃあ、何度か繰り返してみようか。使っているうちに緩くなるかもしれないし」


 二人は交代しながら、台紙を何度か出し入れした。


 アルが作業するときはセリーが布の状態を確認し、セリーが動かすときはアルが木材の溝を観察する。


 五度目の確認を終えたところで、二人は試作品を机へ置いた。


 台紙は少し滑らかに動くようになったが、自然に抜け落ちるほど緩くはなっていない。


「……今のところは大丈夫そうだね」


 アルは安堵したように息を吐いた。


 セリーは台紙を手に取り、表面の布をそっと撫でた。


「はい。これなら、刺繍を替える仕組みとして使えるかもしれません。もちろん、本番の木材でも同じようにできるかは、まだ分かりませんが」


「うん。今日は仕組みを確かめられたってところだね。箱そのものは、まだこれからだ」


 アルはそう答え、試作品を丁寧に並べた。


 完成には程遠い。


 それでも、昨日まで分からなかったことが、今日は一つ確かめられた。


 その小さな前進が、二人には嬉しかった。


     ◇


 王都の三〇八号室では、ヨアヒムが少年の体調を確認していた。


 少年はベッドの上へ上半身を起こし、膝の上に町の絵本を広げている。昨日まで何度も眺めていた橋のページではなく、今日は市場の店先が描かれたページを開いていた。


 ヨアヒムが声をかけると、少年は顔を上げた。


「先生。今日は、ここのお店のことを考えてたんだ」


 少年が指さしたのは、絵本の端に描かれた小さな焼き菓子店だった。


 店先には丸い菓子や細長いパンが並び、奥には大きな窯らしいものが見える。


「焼き菓子のお店ですね。何か気になるものがありましたか」


「うん。前に先生が、焼きたてのパンはいい匂いがするって言ってたでしょ。ぼく、どんな匂いなのか、ずっと考えてた」


 ヨアヒムは椅子を引き寄せ、少年の隣へ腰を下ろした。


 少年は絵本を少し持ち上げ、店先の絵を見せた。


「甘い匂いなのかな。それとも、あったかい匂い?」


 ヨアヒムは少し考えた。


 焼きたてのパンの香りを言葉で説明することは、意外に難しい。


 麦の香ばしさ。


 温かな生地の匂い。


 店によっては、砂糖や果物の甘い香りが混じることもある。


「そうですね。パンの種類によって違いますが、焼きたてのものには麦の香ばしい匂いがあります。甘いパンなら、砂糖や果物の香りもするでしょうね」


「……そっか。じゃあ、同じお店でも、いろんな匂いがするんだ」


「そうかもしれません。店先に並ぶものが違えば、香りも変わるでしょう」


 少年は嬉しそうに頷いた。


 しかし、しばらく絵本を眺めているうちに、その表情が少しだけ変わった。


「先生。ぼく、やっぱり一度でいいから、外のお店に行ってみたい」


 ヨアヒムは少年の顔を見つめた。


 その希望は、すでに担当者へ伝えてある。


 しかし、外出の可否はまだ決まっていない。


 医療面の確認も、生活支援面の調整も必要だった。


「はい。あなたがそう思っていることは、きちんと伝えています。ただ、実際に行けるかどうかは、まだ相談が続いているところです」


 ヨアヒムがそう答えると、少年は小さく頷いた。


「……まだ、決まってないんだね」


「そうです。ですが、希望を伝えたことが無駄になったわけではありません。今は、どうすれば安全に過ごせるかを確認している段階です」


 少年は絵本へ視線を落とした。


 ヨアヒムはすぐに別の話題へ移ろうとはしなかった。


 希望を伝えたあと、返事を待つことは簡単ではない。


 まして、少年にとって外の町は、絵本の中でしか十分に知らない場所だった。


「……先生」


「はい」


「もし行けなかったら、ぼくが行きたいって言ったことも、なくなっちゃうの?」


 その問いに、ヨアヒムは胸の奥が少し痛むのを感じた。


 少年は、外出できるかどうかだけを心配しているのではない。


 自分が何かを望んだことそのものが、否定されてしまうのではないかと不安に思っているのだろう。


 ヨアヒムは椅子を少し近づけ、少年と目線を合わせた。


「いいえ。行けるかどうかと、あなたが行きたいと思ったことは別です。もし今すぐ外出できないとしても、あなたの希望がなかったことにはなりません」


 少年はゆっくり顔を上げた。


「……ほんと?」


「本当です。あなたが町へ行ってみたいと思っていることは、これからも大切に扱います。今すぐ実現できるかどうかは別として、その気持ちを話してくれたことには意味があります」


 ヨアヒムは慎重に言葉を選んだ。


 安易な約束はできない。


 しかし、できないかもしれないからといって、希望を聞かなかったことにしてよいわけでもない。


 少年はしばらく黙っていたが、やがて小さく微笑んだ。


「……じゃあ、また話してもいい?」


「もちろんです。何度でも話してください。昨日と違うことを思いついたら、それも聞かせてください」


 少年は嬉しそうに頷いた。


 そして、絵本の市場のページへ目を戻した。


「じゃあ、今日はこのお店の話をもっと聞きたい。パンだけじゃなくて、ほかにも何か売ってるのかな」


 ヨアヒムは微笑み、絵本を一緒に覗き込んだ。


 窓の外では、午後の光が少しずつ傾いている。


 少年の希望は、まだ実現していない。


 けれど、その希望を口にできる時間は、確かにここにあった。


     ◇


 午後遅く、旧保養施設の西側壁面では、ガルムが観測記録を確認していた。


 リディアとトーマスが記した用紙には、今日の光の状態、観測時刻、三つの表示窓の見え方が整理されている。新しい発光や音は確認されておらず、受動計測器の数値にも特別な変化はなかった。


 ガルムは記録へ目を通し、最後の欄で手を止めた。


 そこには、トーマスが自分の言葉で書いた短い注記があった。


『補修部分の境目は、午前より午後の方が見えにくかった。光の条件による差の可能性があるが、原因は未確認』


 ガルムはその文章を読み、少しだけ頷いた。


「……いい記録だな」


 隣にいたトーマスは、少し驚いたように顔を上げた。


「ありがとうございます。ただ、特に何かを見つけたわけではありません」


「それでいい。見えたことと、考えられる理由を分けて書いてある。しかも、原因はまだ分からないと明記している」


 ガルムは用紙を机へ置いた。


「こういう記録なら、あとから別の人が読んでも、何が確認できたのか分かる。余計な結論を付け足していないところがいい」


 トーマスは少し照れたように笑った。


 リディアも記録へ目を向け、穏やかに頷いた。


「観測条件を残しておくことは大切です。もし今後、同じような見え方が確認された場合にも、比較できる材料になりますから」


 ガルムは頷き、窓の外へ目を向けた。


 旧保養施設の庭には、夕方の光が広がっている。


 建物の中では、職員たちが通常の仕事を続けていた。


 西側壁面の謎が残っていても、ここで暮らす人々の日常は続いている。


 その日常を守ることも、ガルムたちの役割だった。


「研究院から新しい資料が届いたとしても、こちらの方針は変えない。設備へ触れたり、何かを試したりする理由にはならないからな」


 ガルムが言うと、リディアは頷いた。


「はい。現場では、今までどおり受動観測だけを続けます」


 トーマスも真剣に頷いた。


 西側壁面は、今日も静かなままだった。


 その静けさに意味を与えるのではなく、確認できたことだけを残していく。


 それが、今の彼らにできることだった。


     ◇


 夕方、古の塔へブラートが訪れた。


 アルは作業室で道具を片付けていたが、エルから来客を知らされると、セリーと一緒に居間へ向かった。


 ブラートはいつもの落ち着いた表情で挨拶をしたものの、手にしている書類の量は普段より少なかった。


「アル様。本日は、研究院から新しい確認事項が届きましたので、その報告に参りました」


「ありがとう、ブラート。急ぎの対応が必要なもの?」


「いいえ。現時点で何かを操作したり、判断を変更したりする必要はありません。ただ、古代の記録様式について、これまで曖昧だった点が一つ明確になりました」


 アルは頷き、ブラートへ席を勧めた。


 セリーは二人分の茶を用意し、自分も少し離れた椅子へ腰を下ろした。


 ブラートは書類を開き、今回確認された二つの文章について説明した。


 一次確認記録者と再確認成立判定者は、原則として同一人物による兼任を認めない。


 そして、再確認成立の判定は、状態変更の実施承認を兼ねない。


 アルはその説明を聞き、しばらく考え込んだ。


「……つまり、確認の記録を作る人と、その再確認が成立したか判断する人は、基本的に分けられていたんだね」


「はい。ただし、例外の有無は確認されていません。また、再確認成立判定者が状態変更を承認する役割ではなかったことは分かりましたが、誰が承認する仕組みだったのかは不明です」


 ブラートは慎重に答えた。


 アルは書類へ目を落とした。


 古代の制度には、何かを保護するための判断が存在していた。


 その判断を延期したあと、再確認する仕組みもあった。


 そして、その再確認を成立させるためには、複数の役割が関わっていた可能性が高い。


 しかし、それらの役割が実際にどのような人々によって担われていたのかは、まだ分からない。


「ブラート。今回の資料で、少し気になることがあるんだ」


「何でしょうか」


「もし、一次確認記録者が記録を残したあと、再確認成立判定者がいなくなったら、どうなったんだろう。あるいは、担当者が交代したとき、前の記録がちゃんと引き継がれなかったら」


 ブラートは少し考えた。


「その点については、研究院でも次の確認候補として挙げているようです。ただし、現時点では、引き継ぎの手順がどのように定められていたか分かっていません」


「そうなんだね」


 アルは静かに頷いた。


 自分が王太子だった頃にも、担当者の交代や記録の引き継ぎは重要な問題だった。


 ある人が判断したことを、別の人が引き継ぐ。


 その際、何が確認済みで、何が未確認なのかが分からなければ、次の判断を誤る可能性がある。


 それは、古代でも同じだったのかもしれない。


「……記録って、残すだけじゃ足りないんだね」


 アルが呟くと、ブラートは静かに頷いた。


「はい。少なくとも、記録を使う人が何を読み取れるかは重要です。ただし、古代の制度がどこまでそれを想定していたかは、まだ確認できていません」


 セリーは二人の会話を聞きながら、少し考えていた。


 そして、穏やかに口を開いた。


「主様。ひとつ、よろしいでしょうか」


「もちろん。何か気になることがあった?」


「はい。もし再確認成立判定者が不在になった場合、記録は未完成のまま残ることもあったのでしょうか。そして、その記録をあとから見つけた人は、何をしてよいのか分からなくなることもあったのかもしれません」


 アルはその言葉を聞き、少しだけ目を見開いた。


 ブラートもセリーへ視線を向けた。


「……その可能性はあると思う。ただし、実際にそういう事例があったかどうかは分からないね」


 アルはそう答えた。


 セリーは頷き、続けた。


「はい。私も、あくまで可能性として考えています。ただ、記録を残した人が何を確認し、何をまだ確認できていなかったのか。それが分からなければ、あとから判断する人は困ってしまうのではないかと思いました」


 ブラートはその言葉を聞き、少しだけ表情を引き締めた。


「確かに、引き継ぎの手順が存在したかどうかは、制度を理解するうえで重要な点でしょう。研究院へは、共通規定の範囲で確認できるか相談してみます」


 アルは頷いた。


「うん。ただ、個別記録まで無理に求める必要はないよ。今は、制度の一般的な仕組みが分かれば十分だから」


「承知しました」


 ブラートは書類を閉じた。


 今回の情報は、旧保養施設の設備を操作する根拠にはならない。


 しかし、古代の制度が単純な一人の判断だけで成り立っていたわけではない可能性を示していた。


 その違いは、今後の調査で大切になるかもしれなかった。


     ◇


 ブラートが帰ったあと、アルはセリーと一緒に作業室へ戻った。


 机の上には、今日作った試作品が並んでいる。


 薄い台紙に布を留め、木の溝へ通す仕組みは、まだ完全ではないものの、実際に使える可能性が見えてきていた。


 アルはその試作品を手に取り、しばらく眺めた。


「……セリー。今日の研究院の話を聞いて、ちょっと思ったことがあるんだ」


「はい。どのようなことでしょうか」


「俺たちの箱も、今は二人で作ってるから、どこをどう直したか分かるでしょ。でも、もし何年もあとに誰かがこの箱を見つけたら、どうやって刺繍を替えるのか分からないかもしれない」


 セリーは少し考え、試作品へ目を向けた。


「……そうですね。押さえ板が裏側に隠れる形ですので、仕組みを知らなければ、無理に蓋を開こうとしてしまうかもしれません」


「うん。もちろん、これは古代の設備みたいな危険なものじゃないけど、それでも使い方が分からないと困るよね」


 アルは試作品を机へ置いた。


「だから、完成したら、小さな説明書を一緒に作ろうかなって思ったんだ。どうやって布を替えるのか、どこを無理に動かしちゃいけないのか。それを書いておけば、あとから見ても分かるかもしれない」


 セリーはその言葉を聞き、嬉しそうに微笑んだ。


「それは素敵ですね。私も、刺繍の図案を替えるときの注意点を書き添えたいです。糸を引っ張らないことや、布が傷んでいないか確かめることも、大切だと思います」


「じゃあ、それも二人で作ろう。箱だけじゃなくて、使い方まで一緒に考えるんだ」


「はい。ぜひ、そうしたいです」


 二人は顔を見合わせ、穏やかに笑い合った。


 古代の記録について考えていたことが、思いがけず自分たちの工作へつながった。


 しかし、それは不思議なことではないのかもしれない。


 何かを作ること。


 誰かがそれを使うこと。


 そして、使い方をあとから知る人がいるかもしれないこと。


 そのすべてを考えることも、物を作る楽しさの一部なのだろう。


     ◇


 夜の古の塔では、アルとセリーが居間の窓際に並んでいた。


 外には星が広がり、森の向こうには淡い月明かりが見える。昼間の風は少し弱まり、塔の中には穏やかな静けさが満ちていた。


 窓際の棚には、まるとそらが並んでいる。


 その隣には、アルが作った飾り台と、セリーが進めている花の刺繍が置かれていた。


 アルはその光景を眺めながら、今日の出来事を思い返していた。


 木箱の仕組みを一つ確かめられたこと。


 セリーと一緒に布の色を選んだこと。


 研究院から、古代の確認手続きについて新しい情報が届いたこと。


 そして、完成した箱には使い方の説明も残そうと決めたこと。


 どれも、今日一日の中で少しずつ積み重なった出来事だった。


「……セリー。今日は、いろいろ考えることが多かったね」


 アルがそう言うと、セリーは穏やかに頷いた。


「はい。ですが、私はとても楽しかったです。箱の仕組みも少しずつ分かってきましたし、主様と一緒に考える時間が増えましたから」


「俺もだよ。まだ完成してないけど、昨日よりちゃんと前に進んだ気がする」


 セリーは嬉しそうに微笑んだ。


「はい。明日は、箱の側面を作る準備もできるかもしれませんね」


「そうだね。でも、無理に進めなくてもいいよ。今日みたいに、気になるところを一つずつ確かめていこう」


「はい。私も、その方が嬉しいです」


 アルは窓の外へ目を向けた。


 古代の記録には、まだ多くの謎が残っている。


 誰が、何のために、どのような判断を残したのか。


 その判断が、誰へ引き継がれたのか。


 あるいは、引き継がれなかったものが存在したのか。


 答えは、まだ分からない。


 しかし、今日確認された資料によって、少なくとも一つのことが明らかになった。


 再確認が成立したことと、状態変更を承認することは、同じではない。


 その違いを理解することは、今後の調査で大切になるだろう。


 アルは隣に立つセリーへ目を向けた。


 彼女は穏やかな表情で、窓際の小さな鳥たちを眺めている。


 アルは自然に手を差し出した。


 セリーはその手を取り、優しく握り返した。


 二人はしばらく言葉を交わさず、静かな夜を過ごした。


 まだ完成していない木箱は、作業室に置かれている。


 明日になれば、また少しずつ形になっていくだろう。


 そして、その完成までの時間も、二人にとって大切な思い出になるはずだった。

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