第139話 木箱の蓋に残すもの
古の塔の朝は、夜の間に冷えた石壁がゆっくりと温まる時間から始まった。東の窓から差し込む日差しは食堂の床に細長い光を落とし、厨房では鍋の蓋がかすかに鳴っている。アルが階段を下りると、焼いた麦の香りに混じって、昨日の散歩で摘まずに眺めてきた野の花を思わせる、少し青い草の匂いが窓から流れ込んできた。
食卓ではセリーが焼きたてのパンを布の上へ移していた。アルの姿を見つけると手を止め、いつものように「おはようございます、主様」と微笑んだが、今日はそのあとに少しだけ言葉を探す間があった。
「昨日お話しした箱のことなのですが、朝食の前に一つだけ考えてしまいました。刺繍を蓋へ入れるのでしたら、完成したあとに図案を替えられる方が楽しそうだと思ったのです。でも、簡単に外れる作りでは、糸を取り出すたびに布が動いてしまうかもしれません」
「おはよう、セリー。俺も同じところで悩んでた。飾り台のときは板を一枚支えられればよかったけど、箱は毎日開けたり閉めたりするからね。見た目より先に、使って困らない形を考えた方がよさそうだ」
アルはパンを受け取りながら、昨夜二人で描いた図を思い出した。四角い箱の蓋には小さな刺繍をはめ込む予定で、木の枠を残すところまでは決めたものの、布の固定方法はまだ白紙だった。彼がそのことを口にすると、セリーは安心したように息をつき、スープを二人分の器へ注いだ。
「主様も同じことをお考えだったのですね。でしたら、今日は作る前に、実際に使うものを並べて確かめませんか。私が普段しまっている糸や針入れを持ってきますので、必要な大きさを一緒に決めたいです」
「それがいいね。作ったあとで入らなかったら悲しいし、何を入れたいかはセリーの方がよく分かってる。俺が勝手に決めるより、使う本人に教えてもらいたいな」
その言葉にセリーは小さく目を見開いた。彼女にとって物を整えることは長く主のための仕事であり、自分の使いやすさを誰かに尋ねられることは、今でも時折、胸の奥を不思議に揺らす。けれど今朝は答えに迷わず、「はい。私が使いたい形をお伝えします」と言って、自分の席に着いた。
食事の途中、アルは昨日の森の手前で見た紫色の花の話をした。セリーは花を摘まずに残した理由を、咲いている場所で見た姿を覚えておきたかったからだと説明し、アルはその感覚が少し分かる気がした。木彫りの鳥を二羽並べたときにも、出来上がった形だけでなく、二人が別々に木を削った時間までそこに残っているように思えたからだ。
「箱の刺繍も、昨日の花にする?」
「候補にはしたいです。でも、主様と一緒に作るものですから、私だけで図案を決めるより、お話ししながら選びたいと思っています。まるとそらのように、二人で見て嬉しくなるものがいいのです」
「じゃあ、今日は模様を決めきらなくてもいいね。木の方も、まずは失敗しても困らない端材で試そう。昨日は明日から作ろうって言ったけど、作るって、切ることだけじゃないんだな」
セリーは笑みを深くし、パンを小さくちぎった。アルはその様子を見て、昨日交わした約束が単なる工作の予定ではなく、互いの考えを持ち寄るための時間になっていることを嬉しく感じた。
◇
朝食後の作業室には、窓から斜めに光が差していた。壁際の棚には種類ごとに分けた木材が立てかけられ、作業台には定規、鉛筆、紙やすり、刃を布で包んだ小刀が並んでいる。アルは以前、セリーの刺繍図案を立てる小さな台を作った際に、少し削りすぎた板を捨てずに残していた。
セリーが持ってきたのは、何色もの糸を巻いた小さな札、布の切れ端、針を収めた蓋付きの細い容器だった。彼女は一つずつ台へ並べ、どれを一緒にしまいたいか説明した。アルは当初考えていた寸法では糸の札が斜めになってしまうことに気づき、設計図の横幅を少し広げた。
「針の容器は、箱の底で転がらないようにしたいね。仕切りを付けるか、細い溝を作るか……でも、仕切りを増やすと掃除が大変かな」
「針の容器だけは別にしておく方法もあります。糸と布を入れる箱にした方が、最初の作品としては作りやすいかもしれません。主様が難しいところを無理に引き受ける必要はありませんから」
アルは返事を急がず、容器を持ち上げて底の形を確かめた。針が散らばることを避けたいという実用上の理由もあったが、セリーが自分の道具を安全に扱う方法をすでに持っているなら、それを変える必要はない。二人は話し合い、箱には糸の札と小さな布を収め、針入れは今までどおり別に保管することにした。
次に問題になったのは蓋だった。アルは蝶番のような金具を使う案を出したが、手元の材料には適したものがなく、今から無理に加工するのは危うい。そこで、蓋を持ち上げて外す簡単な方式を考えたものの、刺繍を入れる部分の裏側に指が触れやすくなると分かった。
「ここを薄い板で覆えば、布を守れるかな。ただ、それだと図案を替えるたびに板を外さなきゃいけない」
「頻繁に替える必要はないと思います。季節ごとに違う模様を入れるというお話は素敵ですが、毎日交換するわけではありませんし、少し手間があっても、布が傷まない方が嬉しいです」
「なるほど。簡単に外せることと、安心して使えることは別なんだね。じゃあ、裏側から薄い押さえ板を差し込んで固定する形を試してみよう。釘を打たなくても済むかもしれない」
アルは端材の表面に鉛筆で線を引き、細い溝を一本削ってみた。力を入れすぎないよう木目に沿って刃を動かしたつもりだったが、途中で繊維が少し裂け、予定より広い傷になった。以前なら失敗を隠したくなったかもしれないが、今日はその板をセリーに見せ、どこで刃が引っ掛かったのかを一緒に確かめた。
「思ったより難しいな。角度が浅いと削れないし、深くすると木目に持っていかれる。これを本番の蓋でやらなくてよかった」
「傷のある部分を触ると、木目の向きが途中で変わっているようです。こちら側から削れば、少し違うでしょうか。私には木工の経験が多くありませんが、布でも織り目に逆らうと形が崩れることがあります」
「そうか、似てるところがあるんだね。じゃあ、逆側の端材でも試してみる。セリーは危ないから、削っている間は少し離れて見ていてくれる?」
「はい。ですが、主様も指を近づけすぎないでくださいね。先ほど、板を押さえる手が刃の進む方向へ寄っていました」
アルは指摘された手元を見下ろし、素直に頷いた。彼女が心配しているのは作業を止めたいからではなく、二人で楽しみにしている時間を怪我で台無しにしたくないからだろう。木を固定する位置を変えてから慎重に刃を進めると、今度は溝の縁が比較的きれいに残った。
セリーは試作品を手に取り、布の端を仮に折り込んでみた。まだ押さえ板はないため指で支えるしかなかったが、刺繍を見せる面と裏側の構造を別々に考えられることが分かり、二人は図面へ新しい線を書き足した。
「これなら、表から見えるのは布と木の枠だけになりそうですね。押さえ板は裏に隠れますし、布を替えるときだけ外せます」
「うん。ただし、きつすぎると板が抜けなくなるから、そこはもう一度試そう。今日のうちに本番を削るのはやめて、寸法が合うか確かめるところまでにしようかな」
セリーは残念そうには見えなかった。むしろ図面を見つめる目は明るく、まだ形にならない箱の中へ、これから使う糸を並べる姿を想像しているようだった。
◇
王立魔導研究院では、その日の午前中、フェリクスが前日に届いた限定回答を机の上へ広げていた。共通様式に記されていた二つの区分名――『一次確認記録者』と『再確認成立判定者』――は、見つかった説明欄から転記されたものであり、誰がその役割を担ったかを示す個別記録ではない。
向かいの席では若い研究員が、照会先へ返す質問文を下書きしていた。窓の外では研究院の中庭を職員が横切り、廊下の遠くから台車の車輪が石床を転がる音が聞こえてくる。研究員は一度筆を止め、フェリクスへ顔を向けた。
「先生、『再確認成立判定者』という名前だけを見れば、何かの最終判断をする人に思えます。ですが、その判断が記録の完成についてなのか、設備の状態変更についてなのか、区別できないんですよね」
「そうだ。言葉の印象だけで権限を広く見積もるのは危険だ。特に『成立』という語は、確認手続きが所定の条件を満たしたという意味でも使える。対象の状態を変更してよいと許可することとは、必ずしも同じではない」
「では、質問文では『成立判定者が変更を許可したか』と尋ねるより、『成立判定と状態変更承認は同一の手続きか』と聞く方が適切でしょうか」
「その方がいい。ただし、同一でなかった場合の権限名まで先回りして決めつけないようにしよう。回答できる範囲が共通様式の説明に限られている以上、まずはその説明文に区別があるかどうかを確認する」
フェリクスは若い研究員の下書きへ目を通し、二つの問いに分けるよう提案した。一つは、一次確認記録者と再確認成立判定者が同一人物でよいとされていたか。もう一つは、再確認成立の記載だけで状態変更を実施できたかどうかである。いずれも個別の保護対象、設備の場所、運用者の名前を尋ねない形に整えた。
「ここまで範囲を絞っても、回答が得られるとは限りませんね」
「そうだな。古い記録は欠けている部分が多いし、資料の保管場所が違えば、同じ言葉の説明が別の束に分かれていることもある。ただ、答えがない場合でも『確認できなかった』と残しておくことには意味がある」
若い研究員は頷いたものの、すぐには筆を動かさなかった。机の端には、過去の調査で作った一覧表があり、そこにはまだ空欄が多い。彼はその空欄を見つめてから、慎重に言葉を選んだ。
「最初は、区分名が分かれば仕組みも見えてくると思っていました。でも、名前が二つ見つかったことで、逆に分からないことが増えたような気がします」
「それは悪いことじゃない。以前は区別すべきことを一つにまとめて考えていた可能性がある。今は、記録する行為と、記録が成立したと判断する行為を分けて問えるようになった。分からない点が増えたのではなく、曖昧だった境界が見えるようになったんだ」
フェリクスはそう言いながら、共通様式の名称が書かれた別紙を引き寄せた。『保護判断経過記録』と『状態変更延期後の再確認記録』。二つの様式が同じ制度の中でどのように使われたかも、まだ十分には分かっていない。まして旧保養施設の西側壁面と関係するという証拠は、現時点では何も得られていなかった。
研究員は質問文を清書し、フェリクスの確認を受けて封筒へ収めた。送付する資料の表紙には、照会対象を共通様式の説明に限定する旨を改めて明記した。
◇
昼前、塔の作業室では、アルが端材で二つ目の溝を試していた。今度は木目の向きをよく見てから刃を入れたため、最初の試作よりも縁が崩れにくい。とはいえ、薄い押さえ板を通してみると途中で引っ掛かり、まだ滑らかに動くところまではいかなかった。
セリーは布の切れ端を数種類並べ、木の枠から見える色の違いを確かめていた。淡い青緑の布は落ち着いて見え、生成りの布は刺繍糸の色を選びやすい。彼女は二つを見比べたあと、すぐには決めずにアルへ声をかけた。
「主様。布の色を一つ選ぶなら、どちらがお好きでしょうか。私はどちらも気に入ってしまって、なかなか決められません」
「うーん、青緑はセリーらしい感じがするけど、生成りも木に合うね。実際に刺繍を入れたら印象が変わるだろうし、今日は決めなくてもいいんじゃないかな」
「そうですね。小さな見本を二つ作って、蓋に合わせてみることにします。完成前に選び直せると思うと、少し気持ちが楽になります」
アルは手を止め、セリーの表情を見た。以前の彼女は、何かを選ぶとき、正しい答えを探すように慎重になっていた。今も迷うことはあるが、その迷いを自分の楽しみとして口にできるようになったことが、アルには嬉しかった。
「セリーが二つとも気に入ってるなら、両方作ってもいいんだよ。布を替えられるようにするんだから、片方を捨てる必要はないし」
「……はい。そうですね。どちらか一つだけを選ばなければならないと思っていましたが、二つを持っていてもよいのですね」
「もちろん。箱だって、何を入れるか後で変わるかもしれない。俺たちが使うものなんだから、使い方も俺たちで決めればいいよ」
セリーは布をそっと重ね、作業台の端へ置いた。彼女が「ありがとうございます」と答える声には、礼儀だけではない柔らかな喜びが含まれていた。
アルはそのあと、押さえ板の端を紙やすりで少しずつ整えた。削りすぎれば固定できなくなるため、数回擦るごとに溝へ通し、動き方を確かめる。三度目の調整で板が最後まで収まったとき、二人は顔を見合わせた。
「入ったね。まだ少し硬いけど、これなら仕組みとしては使えそうだ」
「はい。布を入れても外れないか、次は確かめたいです。ただ、押さえ板を抜くときに無理な力が必要なら、もう少し工夫した方がよいかもしれません」
「そうだね。今日はここまでにして、午後は実際に布を挟んだ状態で試してみよう。昼食のあとに続ければ、焦らずできると思う」
アルが道具を片付け始めると、セリーは削りくずを集めるための小さな刷毛を持ってきた。二人で掃除をしながら、木材の切り方や布の厚さについて自然に言葉を交わす。完成品はまだないが、作業台の上には昨日より具体的な設計図と、失敗した端材、うまく動いた試作品が並んでいた。
◇
昼食を終えたころ、塔へブラートからの連絡が届いた。エルが通信を知らせると、アルは食器を拭いていた手を止め、セリーに一声かけてから居間へ向かった。
『アル。ブラートから、研究院の照会について補足の連絡です。新しい回答が得られたという内容ではありません。昨日確認された二つの区分名について、研究院が追加の質問を送る準備を終えたとの報告です』
「分かった。何を確かめる予定なのか、読ませてもらえる?」
『はい。確認事項は、二つの区分の兼任可否と、再確認成立判定が状態変更承認と同じ手続きだったかどうかです。個別記録や設備の所在地については、照会対象に含めていません』
アルは表示された文章を読み、机の端に置いていた記録帳を開いた。昨日、二つの役割名を知ったとき、彼もまた、判定者という言葉から何かの許可を想像しかけた。しかし、その想像が根拠のないものだと気づき、返信では現場の観測方法を変えないよう伝えていた。
「うん、その確認なら大事だと思う。名前だけで別人だと決めつけるのも危ないし、判定した人に何でも決める権限があったと思い込むのも違う。ブラートには、今の方針で問題ないと伝えてほしい」
『承知しました。追加の回答が届くまで、未確認事項として扱う旨も併記します』
「ありがとう、エル。それと、ガルムたちへ渡す情報には、現場の操作を認めるものではないって分かるようにしておいて。今までどおり、受動観測だけでお願いしたい」
『その条件は維持されています。今回の報告による観測手順の変更はありません』
通信を終えたアルは、窓の外へ目を向けた。庭の木々が風に揺れ、石畳には雲の影がゆっくりと流れている。古い制度の言葉を少しずつ知ることは必要だが、それを今ここにいる誰かの安全より優先するつもりはなかった。
居間へ入ってきたセリーは、アルの前に温かな飲み物を置いた。彼女は通信の内容をすべて知っているわけではないため、まず「お話は終わりましたか」と確かめてから、隣の椅子へ腰を下ろした。
「うん。研究院が、昨日分かった役割の名前について、もう少し詳しく確かめるんだって。まだ新しい答えが出たわけじゃないけど、聞くべきことが整理できたみたい」
「そうなのですね。主様が昨日おっしゃっていた、記録を作る役割と、再確認が成立したか判断する役割の違いでしょうか」
「そう。それが同じ人でもよかったのか、それとも別の人が必要だったのか。あと、再確認が成立したら、そのまま状態を変えていいことになったのかも分からないからね」
セリーは飲み物の湯気を見つめながら、しばらく考えた。彼女自身、古代の魔導具として作られた存在ではあるが、失われた制度の全体を知っているわけではない。だからこそ、知っていることと推測できることを混同しないよう、言葉を選んだ。
「私には、その制度がどのように運用されていたのか分かりません。ただ、何かを確かめることと、そのあとに何をしてよいかを決めることは、違うのかもしれないと思いました。私たちが箱を作るときも、板が溝へ入ると確かめただけでは、完成したとは言えませんから」
アルは思わず笑みを浮かべた。制度と木工では扱うものの重さが違うが、確認した事実の範囲を越えて結論を出さないという点では、確かに似ている。
「そうだね。今の箱だって、押さえ板が通っただけで、布を傷めないかどうかはまだ分からない。研究院も、確かめたところまでしか言わないようにしてるんだと思う」
「でしたら、午後の作業でも、一つずつ確かめていきましょう。私も、布を傷めずに替えられるかどうか、実際に試してみたいです」
「うん。そうしよう。研究院の返事を待つ間にも、俺たちにはできることがあるからね」
セリーは嬉しそうに頷き、湯気の立つ杯を両手で包んだ。アルも飲み物を口へ運び、温かな香りが広がるのを感じながら、作業室へ戻る前の短い休息を楽しんだ。
◇
旧保養施設の午後は、薄い雲に覆われた穏やかな空の下で過ぎていた。西側壁面のある区画では、リディアとトーマスが定められた観測位置に立ち、三つの表示窓と周囲の明るさを記録している。ガルムは少し離れた場所で、職員の通行が観測の妨げにならないよう動線を確認していた。
窓から入る光は午前より弱く、補修された壁面の境目も目立ちにくい。以前、角度によって線のように見えた部分についても、今日は特別な変化を示すものは確認されなかった。トーマスは観測用紙に時刻と光の状態を書き込み、表示窓の見え方を順に記録した。
「三つとも、確認できる新しい変化はありません。補修部分についても、前回と同じ条件で比較できる範囲では差が見つかりませんでした」
リディアは用紙を受け取り、時刻の欄と観測条件を確かめた。彼女は頷いたあと、トーマスが記した『変化なし』という言葉へ指を添えた。
「ここは『確認できる変化なし』と書きましょう。実際に何も起きていないことまで証明できたわけではありません。私たちがこの条件で観測し、何を確認できたかが伝わる形にしておきたいのです」
「分かりました。見えなかったことと、存在しなかったことを同じにしない、ということですね」
「はい。小さな違いですが、あとから記録を読む人にとっては大切です。今の私たちが使っている言葉の範囲を、後の人にも分かるようにしておきましょう」
トーマスは記録を修正した。ガルムは二人のやり取りを聞きながら、施設内の仕事が通常どおり続いていることへ意識を向けていた。廊下の向こうでは職員が水の入った容器を運び、遠くから扉の閉まる音が聞こえる。壁面の謎があるからといって、ここで暮らす人々の一日が調査だけで成り立っているわけではない。
「研究院から新しい区分名の話が来るかもしれんが、こちらは今の方法を変えない。記録の言葉が増えたからといって、壁に触れる理由にはならないからな」
ガルムが言うと、リディアは頷いた。外部確認札の挿入部には手を触れず、表示窓へ光を当てたり魔力を向けたりすることもしない。新たな資料が現場の何かと似て見えたとしても、同じものだと決めつけることは避けなければならない。
「はい。今の観測で分かることと、分からないことを残します。必要な判断が生じたときには、そのときの状況と権限を改めて確認するべきです」
「その方針で頼む。トーマスも、妙なものを見つけようとして無理に角度を変えたりするなよ。何も確認できない日が続いても、それで構わない」
「承知しました。今日の記録も、条件と結果を分けて整理します」
ガルムは二人の記録を確かめ、観測を終える時刻を告げた。西側壁面の三つの表示窓は、最後まで新しい反応を示さなかった。
◇
塔では午後の光が作業室の奥まで届き、木材の細かな粉が空気の中で淡く光っていた。アルは朝の試作品へ布の切れ端を挟み、押さえ板を通してみた。板は最後まで収まったものの、取り外すときに布の端が一緒に引っ張られ、折り目が少し乱れてしまった。
「うーん、やっぱりこのままじゃ駄目だね。布を替えるたびに端が擦れるなら、何度も使えないかもしれない」
セリーは乱れた布を手に取り、繊維の状態を確かめた。破れてはいなかったが、折り目に小さな皺が残っている。彼女は無理に伸ばそうとせず、布を机へ広げてからアルへ向き直った。
「押さえ板が布に直接触れるから、引っ張られてしまうのでしょうか。間に薄い紙か、別の布を挟む方法も考えられますが、厚くなると溝へ入らなくなるかもしれません」
「じゃあ、布の端を薄い台紙に留めて、その台紙を押さえる形はどうかな。刺繍そのものに板が触れないようにできれば、少し安心だと思う」
「それなら、刺繍を替えるときも、台紙ごと取り外せますね。布の端をどう留めるかは考える必要がありますが、今より傷みにくくできそうです」
アルは紙の切れ端を台紙に見立て、布を軽く折り込んで試した。薄い紙では頼りなく、少し力を入れると曲がってしまう。セリーは手元にあった厚手の布を重ねてみたが、今度は溝に収まらない。二人は材料を替えながら試し、最後に薄くて硬めの板を使う案を残した。
「今日は答えが出ないかと思ったけど、少なくとも、何が困るのかは分かったね。最初の試作品がうまくいかなかったおかげで、布の端を守る必要があるって気づけた」
「はい。失敗した部分を見ていると、次に何を考えればよいか分かるのですね。私は以前、うまくいかなかったものを早く直さなければと思うことが多かったのですが、今日は少し違う気持ちです」
アルは顔を上げ、セリーの言葉を待った。彼女は台紙に見立てた小さな板を指先で支え、考えを確かめるように続けた。
「主様と一緒に考えていると、すぐに正しい形を作れなくても、嫌ではありません。どうしてうまくいかなかったのかをお話しして、次の方法を試すことが楽しいのです」
「俺も同じだよ。一人だったら、失敗したところで少し落ち込んでたかもしれない。でも、セリーが違う見方を教えてくれるから、もう一度やってみようって思える」
セリーは嬉しそうに目を細めた。アルはその表情を見て、何かを完成させる喜びとは別に、途中の迷いや工夫を分け合えることの大きさを感じた。
作業はそこで一区切りとした。二人は試作品を捨てず、どこがうまくいかなかったかを小さな紙へ書き添えて保管した。次に作業を再開するとき、同じところから考え直さなくて済むようにするためだった。
◇
夕方の厨房では、セリーが夕食の支度を進め、アルが野菜を洗っていた。窓の外では日差しが傾き、庭の石畳に長い影が伸びている。昼間の木工で使った指先には少し疲れが残っていたが、アルは水を流しながら、作業室で交わした会話を思い返していた。
「今日は箱が完成しなかったけど、ずいぶん進んだ気がする。最初はただ四角い木箱を作ればいいと思ってたのに、使うときのことを考えると、いろいろ決めることがあるんだね」
「はい。ですが、私は今日の時間がとても好きでした。主様が私の使い方を聞いてくださって、私も自分の考えをお伝えできましたから」
「それならよかった。俺、セリーが使うものを作るんだから、セリーの好きなようにしてほしいんだ。もちろん、俺にも作れる範囲はあるけど、そこは一緒に考えればいいし」
セリーは包丁を置き、洗った野菜を受け取った。少し前までなら、主のために作られる道具について自分の希望を言うことに、遠慮があったかもしれない。今はその遠慮が消えたわけではないが、希望を伝えたときのアルの嬉しそうな顔を思い出せる。
「主様。あの箱が完成したら、最初に何を入れるか、もう決めています」
「えっ、そうなの? 糸の札かな。それとも、今使ってる布?」
「糸も入れたいのですが、最初に入れるものは別にあります。まだ秘密にしておいてもよろしいでしょうか。完成してから、お見せしたいのです」
アルは少し驚いたあと、笑った。セリーが自分から秘密を持ち、それを楽しそうに伝えてくれることが、何より嬉しかった。
「もちろん。じゃあ、完成するまで聞かないでおくよ。何が入るのか楽しみにしてる」
「ありがとうございます。主様が作ってくださる箱ですから、私にとって大切なものを入れたいと思っています」
セリーはそう言って、再び夕食の準備へ戻った。アルはそれ以上尋ねず、野菜を切る手元へ視線を戻したが、胸の内では小さな期待が膨らんでいた。
夕食後、二人は居間で温かな飲み物を手にした。窓際には木彫りの鳥、まるとそらが並び、その隣にはアルが贈った飾り台とセリーの刺繍図案が置かれている。まだ完成していない箱は作業室にあるが、その場所へ何か新しいものが増える未来を、二人とも自然に思い描いていた。
「セリー。今日の試作品、明日もう一度見直してもいいかな。布を台紙に留める方法を考えてから、本番の木を切りたいんだ」
「はい。私も、刺繍を入れる布の大きさをもう少し考えてみます。青緑と生成りの見本を作って、木の色と合わせてみたいです」
「いいね。じゃあ、明日も二人で相談しよう。急いで作るより、長く使えるものにしたいから」
セリーは頷き、杯を机へ置いた。それから、アルの隣へ少しだけ近づき、彼の手に自分の指を重ねた。アルはその手を握り返し、二人で窓の外の夜空を眺めた。
研究院では古い記録の言葉を確かめる作業が続き、旧保養施設では新しい変化を求めずに観測が重ねられている。それぞれの場所で、まだ分からないことを分からないまま扱う慎重さが必要だった。アルはそのことを忘れずにいながら、目の前にある穏やかな時間も、誰かの判断を待つだけのものにはしたくなかった。
セリーの手は温かく、窓際の小さな鳥たちは変わらず並んでいる。明日、木箱がどこまで形になるかは分からないが、二人で作る約束は確かに続いていた。




