第138話 まだ名前のない役割と、二人で選ぶ休日
古の塔の朝は、庭から聞こえる鳥の声と、厨房に漂う焼きたてのパンの香りから始まった。
アルが食堂へ入ると、窓際の花瓶には昨日と同じ白い花が飾られていた。花びらの一枚が少し外側へ反り返っていたものの、朝の光を受けた姿はまだ瑞々しく、食卓に置かれた小さな花瓶の周囲だけが柔らかく明るく見える。
セリーは厨房から温かなスープを運んできたところだった。アルに気づくと、盆を食卓へ置き、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「おはようございます、主様。今朝は少し冷えましたので、根菜を多めに使ったスープにいたしました。昨日よりも香草を控えめにしておりますが、お好みに合うでしょうか」
「おはよう、セリー。いい匂いだね。今日は野菜の甘い香りが強い気がする」
「はい。玉葱を先にゆっくり炒めてから煮込みましたので、その香りかもしれません。昨日、主様が野菜の食感を気に入ってくださったので、形が残るように煮込み時間も調整してみました」
アルは椅子へ腰を下ろし、スープを一口飲んだ。温かな汁が喉を通ると、少し冷えていた身体の内側からゆっくりと温まっていくように感じられる。
「うん、おいしい。昨日のスープも好きだったけど、これはまた違った感じでいいね。玉葱の甘さがあるから、香草が少なくても物足りなくない」
「ありがとうございます。実は、昨日の夜から少し考えていたのです。主様が野菜の食感を楽しんでくださったので、今日は香りよりも素材の味を大切にしてみたいと思いました」
セリーはそう言いながら、自分の席へ着いた。
以前の彼女なら、料理の評価を聞くと、最も適切な調理方法を一つに定めようとしていたかもしれない。しかし最近は、同じ材料でも違う味を楽しめることや、その日の気分によって好みが変わることを、自然に受け入れるようになっていた。
アルはパンをちぎりながら、ふと思いついたことを口にした。
「そういえば、今日は特に急ぎの予定がないんだよね。研究院から連絡が来るかもしれないけど、それを待つために一日中資料室にいる必要もないし」
「はい。ブラート様からは、新しい連絡が届いた場合にお知らせするとのことでした。主様ご自身が待機なさる必要はないと思います」
「それなら、今日は少し違うことをしてみようかな。最近、資料を読んだり木工をしたりする時間が多かったから」
セリーは興味深そうに顔を上げた。
「違うこと、ですか。何かお考えがあるのでしょうか」
「まだ決めてないんだ。庭を散歩するのもいいし、近くの森を歩くのもいい。久しぶりに町へ行くのも楽しそうだけど、今日は急に出かけるより、塔でゆっくりするのも悪くないかなって」
アルはそこまで話してから、セリーへ目を向けた。
「セリーはどうしたい?」
問いかけられたセリーは、少しだけ目を瞬かせた。
彼女はすぐに答えず、食卓の白い花へ視線を移した。何かを選ぶことには慣れてきたが、選択肢がいくつもあると、それぞれの楽しさを考えてしまう。
「……そうですね。私も、今日は主様とゆっくり過ごしたいと思います。ただ、いつもの庭だけではなく、少し離れた場所まで歩いてみたい気持ちもあります」
「じゃあ、森の手前の小道まで行ってみる? あそこなら遠くないし、途中で引き返すこともできる」
「はい。ぜひ、ご一緒したいです」
セリーは嬉しそうに微笑んだ。
アルも自然に笑みを返したが、そこで一つ思いついた。
「それと、せっかくだから昼食を持っていこうか。外で食べるのも楽しそうだし」
「それは素敵ですね。では、持ち運びやすいものを用意いたします。パンと野菜、それに果物があれば、外でも食べやすいと思います」
「ありがとう。でも、準備は俺も手伝うよ。二人で出かけるんだから、二人で用意したい」
セリーは一瞬だけ驚いた表情を浮かべ、それから穏やかに頷いた。
「……はい。それでは、主様にはパンを包んでいただいてもよろしいでしょうか。私は野菜と果物を用意しますので、一緒に籠へ詰めましょう」
アルは嬉しそうに頷いた。
今日の予定は、まだ細かく決まっていない。
けれど、二人で相談しながら決めること自体が、すでに楽しい時間になっていた。
◇
朝食を終えたあと、二人は厨房で昼食の準備を始めた。
セリーは保存していた野菜を取り出し、持ち運びやすい大きさに切り分けていく。アルは焼き上がったパンが十分に冷めていることを確かめてから、清潔な布で一つずつ包んだ。
籠の底には厚めの布を敷き、食器が動かないように小さな仕切りを入れる。
「こうして並べると、思ったよりたくさん入るね。二人分なら十分そうだ」
アルが籠を覗き込むと、セリーは果物を一つ持ち上げた。
「こちらも入れたいのですが、少し重くなるでしょうか」
「大丈夫だと思うよ。俺が持つし、遠くまで行くわけじゃないから」
「ですが、主様だけに持っていただくのは……」
セリーはそこまで言いかけ、少し考えてから言葉を変えた。
「……いえ。私も持ちたいと思っておりますので、途中で交代していただいてもよろしいでしょうか」
アルはその変化に気づき、穏やかに笑った。
「もちろん。じゃあ、行きは俺が持って、帰りはセリーにお願いしようかな」
「はい。それなら、私も嬉しいです」
セリーは果物を籠へ収め、布を丁寧に掛けた。
準備を終えた二人が玄関へ向かうと、エルから声がかかった。
『アル。外出予定を確認しました。塔の周辺環境に、現在確認されている危険な変化はありません。ただし、森の奥では地形が不安定な場所もありますので、予定されている小道から大きく外れないことを推奨します』
「ありがとう、エル。今日は森の奥へ入るつもりはないよ。散歩して、外で昼食を食べたら戻る予定だから」
『承知しました。通信機能は通常どおり使用できます。何か必要になりましたら、お知らせください』
アルは頷き、玄関の扉を開けた。
外へ出ると、朝の冷たい空気が頬に触れた。
庭には柔らかな日差しが広がっており、石畳の隙間から伸びた小さな草が風に揺れている。少し離れた場所では、木々の葉が朝日を受けて淡く輝いていた。
「今日は気持ちのいい天気だね。歩くにはちょうどよさそうだ」
「はい。風は少し冷たいですが、日差しが暖かいので、歩いているうちに過ごしやすくなると思います」
セリーはそう言いながら、アルの隣へ並んだ。
二人は庭を抜け、森の手前へ続く小道を歩き始めた。
◇
小道には、昨夜のうちに落ちたらしい葉がいくつも散らばっていた。
アルが歩くたびに、靴の下で乾いた葉が小さな音を立てる。道の脇には背の低い草花が咲いており、ところどころに露が残っていた。
セリーは周囲を眺めながら、時折足を止めていた。
「主様。こちらの花をご覧ください。庭で見かけるものと似ていますが、花びらの形が少し違います」
アルはセリーの隣へしゃがみ込み、小さな花へ目を向けた。
淡い紫色の花びらが五枚ほど開いており、中心には細かな黄色い部分が見える。
「本当だ。庭の花より、少し細長い感じがするね」
「はい。色も少し違います。刺繍にするなら、こちらの形も面白いかもしれません」
「セリーの刺繍、最近は花が増えてきたね。前は葉っぱの模様を作ってくれたけど、今は花びらの形もいろいろ考えてるんだ」
セリーは少し照れたように微笑んだ。
「はい。葉の模様も好きですが、花にはまた違った楽しさがあります。色の組み合わせを考えると、同じ形でも印象が変わりますので」
「なるほど。俺は木工でも、形を少し変えるだけで見え方が違うって感じたけど、刺繍も似てるところがあるんだね」
「そうかもしれません。主様が作ってくださった飾り台も、角の丸みや溝の傾きによって、図案の見え方が変わります」
アルはその言葉を聞き、少し嬉しくなった。
自分が作った飾り台を、セリーが日々使ってくれている。
それだけでも十分に嬉しいのに、彼女が道具の細かな部分まで見てくれていることが、さらに嬉しかった。
「……ありがとう。そう言ってもらえると、作った甲斐があったなって思うよ」
「私こそ、ありがとうございます。あの飾り台があるおかげで、図案を見ながら刺繍を進めやすくなりました。それに、使っていないときも、まるとそらの隣へ置いておけるので嬉しいです」
二人は顔を見合わせ、穏やかに笑い合った。
アルは立ち上がり、セリーへ手を差し出した。
セリーはその手を取り、ゆっくりと立ち上がった。
以前なら、立ち上がったところで手を離していたかもしれない。
しかし、今日はどちらからともなく、そのまま手をつないで歩き始めた。
アルは隣を歩くセリーへ目を向けた。
彼女は小道の先を眺めながら、楽しそうに微笑んでいる。
(……こうして歩くのも、ずいぶん自然になったな)
アルはそんなことを考えながら、握った手の温かさを感じていた。
王都で暮らしていた頃、誰かと手をつないで散歩することなど、ほとんど考えたことがなかった。
王太子としての立場や周囲の目を意識すれば、何気ない行動にも意味を求められる。
けれど、今は違う。
手をつなぎたいと思ったから、手をつないでいる。
それだけのことが、アルにはとても大切に思えた。
◇
昼前になると、二人は森の手前にある小さな開けた場所へ到着した。
そこには大きな木が一本立っており、枝の下には平らな草地が広がっている。木陰には少し冷たい空気が残っていたが、日当たりのよい場所は暖かく、遠くには塔の上部が見えていた。
「ここ、いいね。塔も見えるし、風も強くない」
アルは周囲を見渡しながら言った。
「はい。地面も比較的平らですので、ここなら落ち着いて食事ができそうです」
セリーはそう答え、持ってきた布を広げた。
二人は籠を置き、並んで腰を下ろした。
アルが包みを開くと、パンの香りがふわりと広がった。セリーは野菜と果物を取り出し、小さな皿へ分けていく。
「外で食べると、いつものパンも少し違って感じるね」
アルが一口食べると、セリーは嬉しそうに頷いた。
「はい。風の音や木々の香りがあるからでしょうか。食堂でいただくときとは、少し違う気持ちになります」
「そうだね。食堂も好きだけど、たまにはこういうのもいいな」
二人はゆっくりと昼食を楽しんだ。
食事の途中、近くの枝へ小鳥が一羽とまった。
小鳥は二人の様子をしばらく眺めていたが、やがて別の枝へ飛び移り、森の方へ姿を消した。
セリーはその様子を見送り、ふと思いついたように口を開いた。
「主様。まるとそらを作ったときのことを、覚えていらっしゃいますか?」
「もちろん。最初は、あんなに可愛い鳥になるとは思ってなかったけどね」
アルは笑いながら答えた。
「俺が作ったまるは、ちょっと丸すぎるかなって思ったけど、セリーが気に入ってくれたから、そのままにしたんだ」
「私は、あの丸い形がとても好きです。そらを作るときも、まると並べたときに違いが出るように考えました」
「うん。二羽並べると、ちゃんとそれぞれ違う鳥に見えるよね」
セリーは嬉しそうに微笑んだ。
「はい。私は、二羽が並んでいるところを見るのが好きです。別々に作ったものですが、一緒に置くと、同じ場所で過ごしているように見えますので」
アルはその言葉を聞き、少しだけ胸が温かくなった。
まるとそら。
小さな木彫りの鳥たちは、今も塔の窓際に並んでいる。
それは、二人がそれぞれの手で作ったものだった。
アルは少し考えてから、セリーへ目を向けた。
「……セリー。いつか、また一緒に何か作ろうか」
セリーは驚いたように瞬きをした。
「一緒に、ですか?」
「うん。今度は別々に作るんじゃなくて、一つのものを二人で作るんだ。俺が木の部分を作って、セリーが布や刺繍の部分を作るとか」
セリーはしばらく考え、それから嬉しそうに微笑んだ。
「……それは、とても楽しそうです。木と布を組み合わせるなら、小さな箱や飾り物も作れるかもしれませんね」
「そうだね。急いで決めなくてもいいし、何を作るか考えるところから一緒にやろう」
「はい。ぜひ、そうしたいです」
二人は顔を見合わせ、笑い合った。
まだ何を作るかは決まっていない。
しかし、二人で何かを作るという約束が、新しい楽しみになった。
◇
一方、王立魔導研究院では、フェリクスが昨日の補足説明について、追加の確認事項を整理していた。
資料室の机には、共通様式に関する記録が並べられている。
昨日確認された説明文には、延期判断を行った担当者のみの記録では、再確認記録を完結させてはならないと記されていた。
さらに、再確認の実施には、確認対象と確認権限の区分を明示する必要があるとされていた。
フェリクスはその二つの文章を読み返し、慎重に考えていた。
「……確認権限の区分が存在したとしても、それが人員の区分なのか、手続きの区分なのかはまだ分からない」
彼はそう呟き、机の上の紙へ目を落とした。
若い研究員が隣へ立ち、資料を覗き込んだ。
「先生。もし別の担当者が必要だったとしたら、その人の役割も記録されていたんでしょうか」
「可能性はある。ただし、今の段階では断定できない。まずは、共通様式にどのような区分名が存在したのかを確認する必要がある」
「では、次の照会では、担当者の人数ではなく、区分の名称を尋ねる方がよさそうですね」
フェリクスは頷いた。
「そうだな。人数を尋ねても、制度の意味が分からなければ判断を誤るかもしれない。区分名と、その区分がどの段階で使われていたかを確認する方がよいだろう」
研究員は納得したように頷き、記録用紙へ書き込んだ。
フェリクスはさらに、照会文の範囲を確認した。
個別の保護対象に関する情報は求めない。
設備の所在地や構造についても尋ねない。
あくまで、共通様式の項目と、その運用上の区分について確認する。
その範囲を守ることが、今の調査には必要だった。
「……急ぐ必要はありませんね」
若い研究員が言うと、フェリクスは穏やかに頷いた。
「そうだ。分からないことを一つずつ確認していけばいい。今は、制度の輪郭を少しずつ明らかにする段階だからな」
フェリクスは照会文を整え、担当部署へ送る準備を進めた。
◇
午後の旧保養施設では、リディアが受動観測の記録を確認していた。
西側壁面の三つの表示窓には、今日も新たな変化は確認されていない。
トーマスが午前に記録した内容も、以前の観測結果と大きく変わらなかった。
ガルムは記録用紙を眺めながら、少しだけ息を吐いた。
「今日も、特に変化はなしか」
「はい。少なくとも、確認できる範囲では新しい異常はありません」
リディアは落ち着いた声で答えた。
ガルムは頷き、窓の外へ目を向けた。
旧保養施設の庭には、穏やかな午後の光が広がっている。
建物の中では、職員たちがいつもの仕事を続けており、廊下の向こうからは控えめな足音が聞こえていた。
「……何も起きない日が続くのは、悪いことじゃないな」
ガルムがそう言うと、リディアは微笑んだ。
「はい。観測を続けることは大切ですが、何かが起きることを期待してしまうと、見え方にも影響するかもしれません」
「そうだな。だからこそ、今の方法を守る必要があるんだろう」
ガルムは記録用紙を閉じた。
新しい資料が届いたとしても、それだけで現場の設備へ触れてよいことにはならない。
その点は、これからも変わらない。
◇
夕方、アルとセリーは塔へ戻ってきた。
玄関を開けると、室内には昼間の暖かさが少し残っていた。外を歩いていた二人にとって、その空気は心地よく、アルは籠を置いてから大きく息を吐いた。
「楽しかったね。思ったより長く歩いたけど、疲れすぎることもなかったし」
「はい。私も、とても楽しかったです。小道の花や、木々の様子をゆっくり見ることができました」
セリーはそう答え、籠を厨房へ運んだ。
アルも後に続き、使った食器を取り出した。
「片付けも一緒にやろう。今日は準備から帰ってくるところまで、二人でやりたい気分なんだ」
セリーは少し嬉しそうに微笑んだ。
「はい。それでは、主様には食器を洗っていただいてもよろしいでしょうか。私は籠と布を片付けます」
「了解。任せて」
二人は並んで片付けを始めた。
水の流れる音と、食器が触れ合う小さな音が厨房へ響く。
アルは皿を洗いながら、昼間に話した約束を思い返していた。
二人で何かを作る。
まだ具体的なものは決まっていない。
けれど、そのことを考えるだけで、少し楽しくなる。
片付けを終えたあと、アルは居間へ戻り、窓際の棚を眺めた。
まるとそらは、いつもの場所に並んでいる。
その隣には、アルが作った飾り台と、セリーの刺繍図案が置かれていた。
アルは小さな鳥たちへ目を向け、穏やかに微笑んだ。
(……次は、どんなものを作ろうかな)
そのとき、背後からセリーの声が聞こえた。
「主様。先ほどのお話なのですが、少し考えてみました」
アルが振り返ると、セリーは小さな布を手にしていた。
「二人で作るものについてです。まだ決める必要はありませんが、木の枠に刺繍を合わせた小さな飾り物なら、私にも作れるかもしれません」
アルは興味深そうに目を輝かせた。
「それ、いいね。木の枠なら俺も作れそうだし、セリーの刺繍を入れたら、きっと綺麗になると思う」
「ありがとうございます。ただ、形や大きさは、もう少し考えてから決めたいです」
「もちろん。急がなくていいよ。今度、木材や布を見ながら相談しよう」
セリーは嬉しそうに頷いた。
「はい。楽しみにしています」
二人は並んで棚を眺めた。
そこには、これまで二人が作ったものが少しずつ増えている。
まるとそら。
飾り台。
刺繍の図案。
そして、これから一緒に作るかもしれない、新しい飾り物。
アルはその光景を眺めながら、胸の奥に温かなものが広がるのを感じた。
◇
夜、アルは資料室でブラートから届いた短い連絡を確認していた。
王立魔導研究院では、共通様式における確認権限の区分名について、追加照会の準備を進めているという。
まだ新しい回答は届いていない。
しかし、昨日の補足説明によって、調査の方向が少し整理されたことは確かだった。
アルは連絡文を読み終え、机の上へ置いた。
「……区分名、か」
誰が何を確認するのか。
どの段階で、どのような判断が必要だったのか。
古代の制度には、まだ分からない部分が多い。
けれど、今はその分からなさを無理に埋めようとは思わなかった。
アルは椅子から立ち上がり、資料室の灯りを少し落とした。
居間へ戻ると、セリーが窓際の棚の前に立っていた。
彼女はまるとそらの位置を少し整え、飾り台に置かれた刺繍図案を眺めている。
「セリー、まだ起きてたんだ」
アルが声をかけると、セリーは振り返った。
「はい。主様がお戻りになるまで、少し刺繍の図案を見ておりました。今日見つけた花の形も、いつか使ってみたいと思いまして」
「そっか。今日の花、綺麗だったもんね」
アルはセリーの隣へ立ち、棚を眺めた。
窓の外には、静かな夜の森が広がっている。
遠くの空には星が見え、塔の中には柔らかな灯りがともっていた。
「……今日は、いい一日だったね」
アルがそう言うと、セリーは穏やかに頷いた。
「はい。主様と一緒に歩いて、食事をして、いろいろなお話ができました。私にとって、とても大切な一日になりました」
アルはその言葉を聞き、少しだけ照れたように微笑んだ。
「俺もだよ。こういう日が、もっと増えたらいいな」
「……はい。私も、そう思います」
セリーはそう答え、そっとアルの手へ自分の手を重ねた。
アルはその手を握り返した。
二人はしばらく言葉を交わさず、窓の外を眺めていた。
古代の記録には、まだ答えの見つかっていない謎が残っている。
王都でも、旧保養施設でも、それぞれの人々が自分たちの役割を果たしている。
しかし、塔の中で過ごす時間は、誰かの判断を待つためだけのものではない。
アルとセリーが、自分たちで選び、楽しみ、少しずつ積み重ねていく時間でもある。
アルは隣に立つセリーへ目を向けた。
彼女は穏やかな表情で、棚に並ぶ小さな鳥たちを眺めていた。
その横顔を見ているうちに、アルは自然に微笑んだ。
(……明日も、何か楽しいことを見つけられたらいいな)
そう考えながら、アルは握った手を離さなかった。
セリーもまた、その手を優しく握り返していた。
窓際には、まるとそらが並んでいる。
その隣には、まだ完成していない刺繍の図案が置かれていた。
そして、二人の間には、新しく生まれた小さな約束があった。
いつか、二人で一つのものを作ること。
その約束がどんな形になるのかは、まだ分からない。
けれど、アルもセリーも、その未来を楽しみにしていた。
古の塔には、今日も穏やかな夜が訪れていた。




