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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第137話 古い記録に残された、もう一つの役割



 古の塔の朝は、昨夜の穏やかな時間をそのまま引き継いだような、静かな空気に包まれていた。


 東側の窓から差し込む朝日が食堂の床を照らし、磨かれた木製の椅子には淡い光が落ちている。厨房からは野菜を煮込む香りと、焼きたてのパンの匂いが漂っており、庭では小鳥たちが低い枝を行き来していた。


 アルは食堂へ入ると、窓際の小さな花瓶に新しい花が生けられていることに気づいた。


「おはよう、セリー。花、替えたんだね。昨日のものも綺麗だったけど、今日の花もいいな」


 食器を並べていたセリーは、アルの声に振り返った。


「おはようございます、主様。昨日の花はまだ元気でしたので、別の場所へ移しました。こちらは庭で見つけたものです。今朝は白い花がよく開いていましたので、食卓にも飾りたいと思いました」


 アルは花瓶へ近づき、小さな花びらを眺めた。


 細い茎の先に咲く花は、華やかというより素朴な印象だったが、朝の光を受けると柔らかな白さが際立っている。


「うん、食卓に合ってる。こういう花を選ぶのも、だんだん上手になってきたね」


「ありがとうございます。ですが、上手になったというより、私自身が好きだと思うものを見つけやすくなったのかもしれません」


 セリーは少し考えながら答えた。


「以前は、部屋に適した花の種類や配置を優先しておりました。今もそうしたことは考えますが、それだけではなく、見ていて嬉しいと思うものを選ぶようになりました」


「それ、すごくいいと思う。俺も最近、何かを選ぶときに、便利かどうかだけじゃなくて、自分が好きかどうかを考えるようになった気がする」


 アルがそう言うと、セリーは嬉しそうに微笑んだ。


「主様も、同じなのですね」


「うん。まあ、俺の場合は、まだ迷うことも多いけどね」


 二人は笑い合い、それぞれの席へ着いた。


 朝食は根菜のスープと焼きたてのパン、それに薄く切った果物だった。昨日より少し厚めに切られた野菜は、柔らかさを残しながらも歯触りがあり、アルはその違いを楽しみながら食事を進めた。


「今日の野菜、昨日とは少し違うね。こっちの方が食べ応えがある感じがする」


「はい。昨日は薄めに切りましたので、今日は少し厚さを戻してみました。煮込む時間も調整しましたが、食感はこちらの方がはっきりしていますね」


「どっちもおいしいけど、俺は今日の方が好きかな。野菜を食べてる感じがするし」


 セリーはその言葉を聞き、少し嬉しそうに頷いた。


「では、次に作るときは、今日の厚さを基準にしてみます。ただ、ほかの料理では薄い方が合う場合もあると思いますので、使い分けてみたいです」


 アルはパンを一口食べながら、彼女の話に耳を傾けた。


 毎日の食事も、こうして少しずつ変化していく。


 その変化を一緒に楽しめることが、アルには心地よかった。


     ◇


 朝食のあと、アルは居間へ戻り、窓際の棚に置かれた木製の飾り台を眺めていた。


 飾り台には、セリーが刺繍を進めている小さな花の図案が立てかけられている。生成り色の布には淡い青緑色の糸が使われ、三つの花が少しずつ形になり始めていた。


 アルはその刺繍を見つめながら、昨日の夜にセリーと交わした会話を思い出した。


 完成していないものを楽しむこと。


 何かを決めるまでの時間も、自分で選べること。


 そんな当たり前のことが、今のアルには新鮮に感じられる。


(……昔は、完成させることばかり考えていたのかもしれないな)


 王太子だった頃、アルは何かを始めると、その結果を求められることが多かった。


 政策の準備も、外交の調整も、王宮での仕事も、最終的には誰かへ成果を示さなければならない。


 もちろん、今でも物事を最後まで進めることは大切だと思っている。


 しかし、途中の時間を楽しむことも、決して無駄ではない。


 アルがそんなことを考えていると、棚に置かれていたエルから通知音が聞こえた。


『アル。王立魔導研究院から、ブラート様宛ての追加連絡が届いています。昨日確認された共通様式の項目について、補足説明があるようです』


 アルはエルへ目を向けた。


「昨日の四つの項目について?」


『はい。ただし、内容の詳細はまだ共有されていません。ブラート様からの連絡を待つ必要があります』


「分かった。ありがとう、エル」


 アルはそう答え、飾り台へ視線を戻した。


 昨日の報告では、古代の記録様式に四つの項目が存在することが確認された。


 延期時点の確認事項。


 未確認事項の区分。


 再確認を求める条件。


 再確認後の判断経過。


 いずれも、何を記録していたのかまでは分かっていない。


 その補足説明が届いたということは、少なくとも何か新しい情報が確認されたのだろう。


 しかし、急いで結論を出す必要はない。


 アルは窓の外へ目を向け、朝の光が広がる庭を眺めた。


 研究院からの連絡は、ブラートが内容を整理してから共有してくれるはずだ。


 それまでは、自分の予定を進めていても問題ない。


 アルはそう考え、作業机の上に置いていた木工道具を確認し始めた。


     ◇


 王立魔導研究院の資料室では、フェリクス・ハルトマンが新たに届いた補足資料を前に、慎重な表情を浮かべていた。


 昨日確認された四つの項目名について、保管部署が共通説明文の一部を追加で確認したという連絡だった。


 ただし、今回も閲覧できた範囲は限定されている。


 個別の保護対象に関する情報や、実際の記録内容は開示されていない。


 確認できたのは、記録様式の運用に関する短い説明文だけだった。


「……これは、少し興味深いですね」


 若い研究員が資料を読みながら呟いた。


 フェリクスは頷き、説明文へ目を落とした。


 そこには、次のように記されていた。


『状態変更延期後の再確認記録は、延期判断を行った担当者のみの記録をもって完結させてはならない』


 フェリクスはその一文を、ゆっくりと読み返した。


 延期判断を行った担当者だけでは、再確認記録を完結させられない。


 つまり、何らかの別の確認が必要だった可能性がある。


 しかし、それが別の担当者による確認なのか、別の部署による確認なのか、あるいは別の種類の情報による確認なのかは分からない。


「先生。これって、以前の『共同確認』と関係があるんでしょうか」


 若い研究員が尋ねると、フェリクスは少し考えた。


「関係している可能性はある。ただし、同じ手続きだと判断するには資料が足りない。今回の文は、延期後の再確認記録について述べている。以前確認された共同確認は、差し迫った危険がある場合の判断手順に関するものだった」


「なるほど。似た言葉が使われていても、同じ役割とは限らないんですね」


「そうだ。制度の中で異なる段階に置かれていた可能性もある」


 フェリクスは説明文の下にある注記へ目を向けた。


 そこには、さらに短い一文が記されていた。


『再確認の実施に際しては、確認対象および確認権限の区分を明示すること』


 若い研究員は、その文を読みながら首を傾げた。


「確認対象と確認権限の区分……。これは、誰が何を確認するかを分けるという意味でしょうか」


「そのようにも読める。ただ、確認対象という言葉が、保護対象そのものを指すのか、設備の状態を指すのか、あるいは記録上の確認事項を指すのかは分からない」


 フェリクスは慎重に答えた。


 研究院の仕事では、こうした曖昧な表現を一つずつ確かめる必要がある。


 古代の制度を現代の常識へ当てはめてしまえば、理解したつもりになってしまう。


 しかし、それでは本来の意味を見失うかもしれない。


「……少なくとも、延期判断を行った人だけで、すべてを終わらせる仕組みではなかった可能性がありますね」


 若い研究員が言うと、フェリクスは頷いた。


「そうだな。ただし、別の担当者が必ず関与したとまでは言えない。今は、記録を完結させるために追加の条件があったというところまでだ」


 フェリクスは机の上の紙を一枚取り、報告文を書き始めた。


 今回確認できた二つの文章をそのまま記載する。


 そして、そこから推測できることと、まだ確認できていないことを分けて整理した。


 特に、旧保養施設との関係は未確認であることを明記した。


 この資料がどれほど興味深くても、現場の設備を操作する根拠にはならない。


 フェリクスはその点を強調し、ブラートへ送る報告書を完成させた。


     ◇


 旧保養施設の西側壁面では、今日も受動観測が続けられていた。


 午前の観測を担当したトーマスは、三つの表示窓を決められた距離から確認し、周囲の光の状態と受動計測器の記録を照合していた。


 壁面には、以前と変わらない古い石材が並んでいる。


 補修された部分は周囲より少し色が明るく、見る角度によって境目が目立つことがある。


 しかし、今日の観測では、新たな発光や音、計測器の異常は確認されなかった。


 トーマスは記録用紙へ結果を書き込み、観測を終えた。


 詰所へ戻ると、ガルムとリディアが午後の観測予定を確認していた。


「お疲れさま、トーマス。今日の結果はどうだった?」


 ガルムが尋ねると、トーマスは記録用紙を差し出した。


「新しい異常はありませんでした。光の条件も比較的安定していたので、見え方の変化は少なかったと思います」


 ガルムは記録を確認し、頷いた。


「分かった。引き続き、同じ条件で記録してくれ」


 リディアは用紙の余白へ目を向けた。


「確認順序については、何か負担を感じるところはありましたか?」


「今日は特にありませんでした。ただ、最後の確認で少し目が疲れたので、次回は途中で短い休憩を入れてもいいかもしれません」


 トーマスが答えると、リディアは穏やかに頷いた。


「もちろんです。観測のために無理をする必要はありません。休憩を入れた場合は、そのことも記録しておきましょう」


 トーマスは少し安心したように微笑んだ。


 以前は、観測を途中で止めることに抵抗があった。


 しかし、今は無理をして続けるよりも、落ち着いて確認できる状態を保つことが大切だと理解している。


 ガルムはその様子を見ながら、静かに頷いた。


 観測の目的は、何かを発見することだけではない。


 何も起きていない日を、何も起きていないと記録することも重要だった。


 そして、観測する人間の負担を減らすことも、継続のためには必要だった。


「午後の観測も、無理のない範囲で進めよう。何か気になることがあれば、すぐに報告してくれ」


 ガルムがそう言うと、トーマスとリディアは頷いた。


 西側壁面は、今日も静かなままだった。


     ◇


 同じ頃、王都の三〇八号室では、ヨアヒムが少年と一緒に町の絵本を眺めていた。


 少年は昨日から、橋の描かれたページを何度も開いている。


 川の上に架けられた石橋には、荷物を運ぶ人や、買い物帰りらしい人々が描かれていた。


 少年はその絵を指さし、少し楽しそうに尋ねた。


「先生。この橋って、歩くとどんな感じなの?」


 ヨアヒムは絵を眺め、少し考えた。


「石でできた橋なら、足元はしっかりしていると思います。ただ、場所によっては石の継ぎ目があったり、少し傾斜がついていたりすることもありますね」


「へえ……。じゃあ、川の音も聞こえる?」


「橋の高さや川の流れによるでしょうね。水が速く流れている場所なら、音がよく聞こえるかもしれません」


 少年は目を輝かせ、絵本の川へ視線を落とした。


「ぼく、川の音って、ちゃんと聞いたことあるのかな」


 その言葉に、ヨアヒムは少しだけ表情を曇らせた。


 少年の過去については、まだ分からないことが多い。


 本人の記憶も、すべてが明確なわけではない。


 だから、聞いたことがあるとも、ないとも、簡単には答えられなかった。


「……どうでしょう。覚えていないこともあるかもしれませんね」


 ヨアヒムは穏やかに答えた。


「でも、これから新しく知ることはできます。絵本で見ることもできますし、川の音について話を聞くこともできます」


 少年は少し考え、頷いた。


「そっか。じゃあ、今度、川の音の話も聞きたいな」


「もちろんです。私が知っている範囲でよければ、いくらでもお話ししますよ」


 ヨアヒムがそう答えると、少年は嬉しそうに微笑んだ。


 昨日、少年が町へ行きたいと話した希望は、担当者へ伝えられている。


 しかし、外出できるかどうかはまだ決まっていない。


 ヨアヒムはそのことを理解していた。


 だからこそ、少年が今ここで楽しめることを、一つずつ増やしていきたいと思っていた。


     ◇


 午後の古の塔では、ブラートが新しい報告書を持って資料室を訪れていた。


 アルは机の前に座り、セリーは少し離れた場所で刺繍の図案を整理している。


 窓から入る光は柔らかく、机の上に広げられた紙の端を明るく照らしていた。


「アル様。研究院から、昨日の記録様式について補足説明が届きました」


 ブラートはそう言って、報告書を差し出した。


 アルは受け取り、内容へ目を通した。


 延期判断を行った担当者のみの記録では、再確認記録を完結させてはならない。


 再確認の実施に際しては、確認対象と確認権限の区分を明示すること。


 その二つの文章を読み、アルは少し考え込んだ。


「……つまり、延期した人が、あとから一人で『もう大丈夫』って決める仕組みではなかった可能性があるんだね」


「その可能性はあります。ただし、別の担当者が必ず必要だったのか、別の種類の確認が必要だったのかは、まだ分かっていません」


 ブラートは慎重に答えた。


 アルは頷き、報告書へ視線を戻した。


「確認対象と確認権限を分けるっていうのも、気になるね」


「はい。誰が何を確認できるのかを明確にする仕組みだった可能性があります。ただ、具体的な区分は不明です」


「なるほど……。同じ人が全部を判断できるわけじゃなかったのかもしれないんだ」


 アルはそう呟き、少しだけ息を吐いた。


 古代の制度には、保護対象の状態を直接確認できない場合の判断手順が存在していた。


 その中には、状態変更を延期するという考え方もあった。


 そして、延期後の再確認には、何らかの追加条件が設けられていた可能性がある。


 しかし、それが旧保養施設の設備と関係しているかどうかは、まだ分からない。


 アルはその点を意識しながら、報告書を机へ置いた。


「ブラート。今回の資料も、現場の観測方法を変える理由にはならないよね」


「はい。研究院も、その点を明確にしています。現時点では、記録様式の運用に関する一般的な情報が増えたにすぎません」


「分かった。それなら、旧保養施設の方針は今までどおりでお願い」


 アルがそう言うと、ブラートは頷いた。


「承知しました。管理側で資料を整理し、現場には必要な安全条件だけを共有します」


 アルは少し安心したように微笑んだ。


 研究院から届く資料は、少しずつ古代の制度の輪郭を明らかにしている。


 しかし、輪郭が見えてきたからといって、中身まで理解できたわけではない。


 そこを間違えないようにしたかった。


 セリーは二人の会話を聞きながら、静かに考えていた。


 彼女自身も、古代の魔導具として長い時間を経てきた存在だ。


 しかし、だからといって、すべての古代制度を知っているわけではない。


 自分が知らないことを、知っているように扱うべきではない。


 そのことは、アルと同じように大切にしたいと思っていた。


「主様。ひとつ、よろしいでしょうか」


 セリーが声をかけると、アルは顔を上げた。


「もちろん。何か気になることがあった?」


「今回の資料では、再確認記録を完結させるために、延期判断を行った担当者以外の条件が必要だった可能性があります。ですが、その条件が満たされなかった場合、記録はどのように扱われていたのでしょうか」


 アルは少し考えた。


「……それも、まだ分からないね」


「はい。もし条件が満たされないまま長い時間が経った場合、判断が保留された状態で残り続けることもあったのかもしれないと思いました」


 ブラートはその言葉を聞き、少しだけ表情を引き締めた。


「その可能性はあります。ただし、実際にそのような事例が存在したかどうかは確認されていません」


「はい。あくまで可能性として考えています」


 セリーは穏やかに答えた。


 アルは報告書へ視線を戻した。


 何かを延期する。


 そのあと、再確認する。


 しかし、再確認の条件が満たされなかったら、どうなるのか。


 それは、確かに気になる点だった。


「……研究院には、その部分の一般的な説明が残っているかどうか、確認してもらってもいいかもしれないね」


 アルが言うと、ブラートは頷いた。


「承知しました。ただし、個別記録ではなく、共通規定の範囲で照会する形にします」


「うん。それでお願い」


 アルはそう答え、報告書を丁寧に揃えた。


     ◇


 ブラートが帰ったあと、アルは資料室の窓際へ移動した。


 外では、午後の光が少しずつ傾き始めている。


 庭の木々は穏やかな風に揺れ、遠くの森には薄い影が広がっていた。


 アルは窓枠へ軽く手を置き、今日確認された資料の内容を思い返した。


(……延期した判断を、誰が確かめ直すのか。それを決めることも、大切だったのかもしれないな)


 王太子だった頃、アルは多くの判断を求められていた。


 自分が決めるべきこともあれば、専門家の意見を聞くべきこともあった。


 しかし、すべての責任を自分で背負おうとしていた時期もあった。


 そのことが正しかったのかどうか、今でも簡単には答えられない。


 ただ、今は少し違う考え方ができるようになっている。


 分からないことは、分からないと言っていい。


 自分だけで判断できないことは、別の人へ確認してもいい。


 そして、答えを出すまでに時間が必要なら、その時間を取ることもできる。


 アルはそんなことを考えながら、窓の外を眺めていた。


 しばらくすると、背後から控えめな足音が聞こえた。


「主様。少し休憩なさいますか?」


 振り返ると、セリーが小さな盆を持って立っていた。


 盆の上には二人分の茶器と、薄く焼いた菓子が並んでいる。


 アルは自然に微笑んだ。


「ありがとう。ちょうど少し考え事をしてたところなんだ」


「でしたら、お茶を飲みながらでもよろしいでしょうか」


「もちろん。セリーも一緒に飲もう」


 二人は窓際の小さな机へ移動し、向かい合って腰を下ろした。


 セリーが茶を注ぐと、柔らかな香りが部屋へ広がる。


 アルは茶器を手に取り、温かさを確かめながら一口飲んだ。


「……おいしいね。今日は少し香りが違う気がする」


「はい。以前購入した茶葉を、少しだけ混ぜてみました。主様のお好みに合うか、試してみたかったのです」


「うん、好きだよ。いつものお茶もいいけど、こういうのも落ち着くね」


 セリーは嬉しそうに微笑んだ。


 アルは茶器を置き、少し考えながら口を開いた。


「……セリー、さっきの話なんだけど」


「はい。再確認の条件についてでしょうか」


「うん。もし何かを延期したあと、その判断を確かめ直す人がいなかったら、どうなるんだろうって考えてたんだ」


 セリーは静かに耳を傾けた。


 アルは少し言葉を探しながら続けた。


「昔の俺だったら、そういう状況を見つけたら、自分が何とかしなきゃって思ったかもしれない。でも、今は、まず何が分かってないのかを整理する方が大切なんじゃないかって思うんだ」


 セリーは少し考え、穏やかに頷いた。


「主様は、以前よりも、ご自身だけで答えを出そうとなさらなくなったのかもしれませんね」


「そうかな」


「はい。もちろん、主様が何も決めなくなったという意味ではありません。必要なことは決めていらっしゃいますし、分からないことについては、確認する方法を考えていらっしゃいます」


 アルはその言葉を聞き、少しだけ目を伏せた。


 セリーの言葉は、いつも穏やかだった。


 しかし、その穏やかさの中には、彼女自身の考えがある。


 アルはそのことを、最近ますます嬉しく感じていた。


「……ありがとう。セリーにそう言ってもらえると、少し安心するよ」


「私も、主様がご自身のお考えを話してくださることが嬉しいです」


 二人は顔を見合わせ、穏やかに微笑んだ。


 窓の外では、夕方の光が庭を照らしている。


 古代の記録について考える時間も大切だが、こうしてお茶を飲みながら話す時間も、アルには同じくらい大切だった。


     ◇


 夕方、リューネの共同相談窓口では、エルザが新しい説明文の試案を職員たちへ見せていた。


 昨日まとめた文章は、以前の希望を参考にしながらも、今回の希望を本人へ確認するという内容だった。


 職員の一人は、その文章を読みながら少し考え込んだ。


「これなら、前回と違う方法を選びたい人も、言いやすくなるかもしれませんね」


 エルザは頷いた。


「そう思うの。ただ、実際に使ってみないと分からない部分もあるから、まずは職員同士で読み合わせをして、分かりにくいところがないか確認したいの」


 別の職員が手を挙げた。


「ひとつ気になるんですが、前回の希望を覚えていない人には、どう説明すればいいでしょうか」


 エルザは少し考えた。


「その場合は、前回の選択を思い出してもらうことを優先しなくていいと思うわ。今日、どの方法が分かりやすいかを選んでもらえれば、それで十分じゃないかしら」


「なるほど。前回の記録は、あくまで参考なんですね」


「ええ。以前と同じ方法を選んでもいいし、違う方法を選んでもいい。そのことが自然に伝わるようにしたいの」


 職員たちは頷き、試案へいくつかの意見を書き込んだ。


 エルザはそれらを確認しながら、少しだけ安心した。


 まだ正式な制度ではない。


 しかし、こうして複数の人と意見を出し合うことで、少しずつ使いやすい形へ近づいている。


 エルザはそのことを嬉しく感じていた。


     ◇


 夜の古の塔では、アルとセリーが居間の窓際に並んでいた。


 外には星が見え始めており、森の向こうには淡い月明かりが広がっている。昼間の暖かさは少し残っていたが、窓を開けると冷たい風が入ってくるため、二人は窓を閉めたまま外を眺めていた。


 窓際の棚には、まるとそらが並んでいる。


 その隣の飾り台には、セリーが今日進めた花の刺繍が置かれていた。


 生成り色の布の上には、淡い青緑色の茎と、小さな花びらが少しずつ形を作っている。


 アルはその刺繍を眺め、嬉しそうに微笑んだ。


「今日も少し進んだね。花びらの形が、昨日よりはっきりしてる」


 セリーは頷き、飾り台へ視線を向けた。


「はい。今日は花びらの縁を少し整えてみました。まだ完成ではありませんが、思っていた形に近づいてきています」


「いいね。完成するのが楽しみだな」


「ありがとうございます。ただ、今は作っている時間も楽しみたいと思っています」


 アルはその言葉を聞き、穏やかに微笑んだ。


 完成することだけが大切なのではない。


 途中の時間を楽しむことも、自由の一つなのだろう。


 アルはそう考えながら、セリーへ目を向けた。


「……セリー、今日もありがとう」


 セリーは少し驚いたように瞬きをした。


「主様。何か、お礼をいただくようなことをしましたでしょうか」


「うん。おいしいご飯も作ってくれたし、お茶も用意してくれた。それに、今日も一緒に過ごしてくれたから」


 セリーはその言葉を聞き、少しだけ頬を緩めた。


「……私も、主様と一緒に過ごせて嬉しかったです」


 アルは自然に手を差し出した。


 セリーはその手を見つめ、そっと自分の手を重ねた。


 二人は静かに手を握り合い、窓の外の星を眺めた。


 古代の記録には、まだ分からないことが多い。


 誰が、何のために、どのような判断を残したのか。


 その判断を、誰が確かめ直すことになっていたのか。


 答えは、まだ見つかっていない。


 しかし、今日確認された短い説明文は、古代の制度に新しい輪郭を与えた。


 そして、塔の中では、アルとセリーが自分たちの時間を過ごしている。


 誰かに命じられたわけではない。


 何かを急いで完成させなければならないわけでもない。


 ただ、今日を楽しみ、明日もまた自分たちで選んでいく。


 アルは窓際の飾り台へ目を向けた。


 そこには、まだ完成していない花の刺繍が置かれている。


 完成していないからこそ、これからどんな形になるのかを楽しみにできる。


 そのことが、今のアルにはとても大切に思えた。


(……答えがまだ見つからなくても、確かめる方法を考えることはできる。だけど、今はこの時間も大切にしたいな)


 アルはそう考えながら、隣に立つセリーへ目を向けた。


 彼女は穏やかに微笑み、握った手を離そうとはしなかった。


 アルも、その手を握り続けた。


 窓の外では、夜の森が静かに広がっている。


 塔の中には、二人だけの穏やかな時間が流れていた。


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