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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第144話 小さな箱に残すものと、選ばれなかった道の記録


 朝食の席で、アルはいつもより少し長く、窓の外を眺めていた。


 昨日までの雨はすっかり上がり、古の塔を取り囲む森には穏やかな朝日が差し込んでいる。濡れた枝から落ちる水滴が時折光を反射し、庭の草花も久しぶりの日差しを受けて、どこか生き生きとして見えた。


 向かい側では、セリーが温かな茶を用意している。食卓には焼きたてのパンと野菜のスープが並び、いつもと変わらない静かな朝が流れていた。


「主様。今日は作業室で、昨日の続きでしょうか」


 セリーが尋ねると、アルは窓から視線を戻した。


「うん。昨日固定した二枚の板がちゃんと落ち着いていれば、残りの側板も組み合わせたいと思ってる。ただ、その前に一つ確認しておきたいことがあるんだ」


「確認したいこと、ですか?」


「箱の底板だよ。側面を全部組んでから底を付ける方法もあるけど、今の作り方だと、先に底板を入れる溝を作っておいた方がよさそうなんだ。昨日、片付けながら気づいてさ」


 アルは少し困ったように笑った。


「危うく、側面を全部固定してから、底板をどう入れるか悩むところだったよ」


 セリーは一瞬驚いた顔をしたあと、柔らかく微笑んだ。


「それでしたら、固定する前に気づけてよかったですね。私は蓋の刺繍を交換する仕組みばかり考えていて、底板の取り付け方までは十分に確認できていませんでした」


「俺も同じだよ。蓋の仕組みがうまくいきそうで、そっちに気を取られてた。だから今日は、残りの側板を組む前に、箱全体の順番を確かめようと思う」


 セリーは頷き、茶の入った杯をアルの前へ置いた。


「承知しました。では、朝食が終わりましたら、私も設計図を確認いたします。主様が考えた方法を、実際に使う側からも見てみたいです」


「助かるよ。俺は作る方に集中すると、どうしても使い勝手を見落としそうになるからね」


 アルがそう言うと、セリーは少し考え込んだ。


「ですが、主様。私も作る側として考えたいと思っています。使うのが私だからというだけではなく、主様と一緒に作っているものですから」


 アルは手にしていた杯を置き、彼女の顔を見た。


 セリーの声は穏やかだったが、その言葉には、以前よりもはっきりとした意思が感じられた。


「……そうだね。ごめん。使う側と作る側って分ける必要はなかったな」


「謝っていただくことではありません。ただ、私も木箱を作る時間が好きなのです。ですから、難しいところも、できるだけ一緒に考えたいと思っています」


「うん。じゃあ、今日は二人とも作り手だ。もちろん、失敗する可能性も二人分あるけど」


 アルが冗談めかして言うと、セリーは口元をほころばせた。


「その場合は、失敗した理由も二人で確かめましょう。昨日のように、次の方法を見つけられるかもしれません」


 朝食の席に、自然な笑い声が広がった。


 アルはパンを一口食べ、温かなスープを飲んだ。


 かつて王宮で暮らしていた頃、朝食の時間はその日の予定を確認するためのものだった。誰と会い、どの書類へ目を通し、どの場面でどのように振る舞うべきか。食事そのものより、食卓で交わされる報告の方が重要だったことさえある。


 今は違う。


 今日の予定は、小さな木箱の底板をどう取り付けるかという相談だった。


 それを自分で決められることが、アルには嬉しかった。


(……こういう朝を、俺はずっと欲しかったのかもしれないな)


 その思いを口にする代わりに、アルはセリーが焼いてくれたパンをもう一口食べた。


「今日のパンもおいしいね。外側が少し香ばしくて、すごく好きだよ」


 セリーは嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとうございます。昨日より焼き時間を少しだけ調整してみたのです。主様のお口に合ったようで安心しました」


 アルはもう一度パンを眺め、それから何気なく言った。


「いつか、セリーと一緒に町のパン屋を巡ってみるのも楽しそうだね。ここで作るのとは違う味も、いろいろあるだろうし」


 セリーは少し驚いたように瞬きをした。


「主様と、町のパン屋へ……ですか?」


「うん。もちろん、急いで行く必要はないけど。食べてみたいものを選んで、気に入ったら作り方を想像してみたりさ。そういう一日も楽しそうだなって」


 セリーはしばらく考えたあと、静かに頷いた。


「……はい。私も、行ってみたいです。主様と一緒に選んだパンを、どこか景色のよい場所で食べられたら、とても素敵だと思います」


 アルは微笑んだ。


「じゃあ、いつか行こう。今度は仕事でも調査でもなく、ただ楽しむために」


 セリーはその言葉を大切に受け取るように、両手で杯を包んだ。


 約束された日時はない。


 行き先も、まだ決まっていない。


 それでも、二人で楽しみにできる未来が一つ増えたことが、彼女には嬉しかった。


     ◇


 作業室へ移動すると、アルは最初に、昨日固定した二枚の側板を確認した。


 接合部分はしっかりと落ち着いており、木栓の周囲にも目立ったずれはない。定規を当てて角度を確かめると、ほぼ予定どおりの直角が保たれていた。


 セリーも反対側から板を見つめ、内側へ指先を添えた。


「主様。昨日の接合部分は、問題なさそうですね。内側にも、布が引っ掛かるような突起はありません」


「よかった。じゃあ、今日はここを基準にして、残りの板の位置を考えよう」


 アルは設計図を広げ、底板を示す線を指さした。


 当初は側面の下へ底板を取り付けるつもりだったが、それでは箱を持ち上げたときに、底板へ掛かる力を接合部分だけで受けることになる。


 小さな箱なので、すぐに壊れるとは限らない。


 しかし、刺繍糸や布を入れて何度も持ち運ぶことを考えると、できるだけ丈夫にしておきたかった。


「底板の端を側板の内側へ少し差し込む形にしたいんだ。そのための浅い溝を、まだ固定していない板に作っておけば、底板を支えやすくなると思う」


 セリーは設計図を覗き込み、少し考えた。


「ですが、昨日固定した二枚の板には、まだその溝がありませんね。今から加工しても大丈夫でしょうか」


「そこが問題なんだよね。固定したまま削ろうとすると、角のところが難しい。だから、いきなり本番へ手を入れずに、まずは端材で溝の深さを試そうと思う」


 アルは道具箱から細い刃の付いた工具を取り出した。


 セリーは底板に使う予定の木材を持ち上げ、厚みを確かめた。


「溝が深すぎると側板が薄くなりますし、浅すぎると底板を十分に支えられませんね。先に底板の厚みを揃えた方がよいでしょうか」


「うん。そっちが先だね。底板を仕上げてから、それに合わせて溝を作る方が間違いが少なそうだ」


 二人は作業の順番を変更した。


 まず底板の厚みと寸法を整える。


 次に端材で溝の深さを試す。


 その結果を確認してから、昨日固定した二枚の板を含め、四枚すべての側板へ加工を施す。


 そして最後に、底板を差し込みながら残りの側面を組み合わせる。


 セリーはその順番を紙へ書き留め、作業台の端へ置いた。


「主様。昨日の記録と一緒に保管しておきますね。途中で別の作業をすることになっても、どこまで進めたか分かるように」


「ありがとう。作ってる途中だと、頭の中では覚えてるつもりでも、あとから順番が曖昧になることがあるからね」


 アルは底板を手に取り、表面を指先でなぞった。


 木目は比較的まっすぐで、大きな節もない。


 ただ、一か所だけ、触れるとわずかにざらつく部分があった。


「ここは、もう少し磨いた方がいいな。糸や布が触れる場所だから、引っ掛かりがないようにしたい」


「では、私が磨いてもよろしいでしょうか。主様は溝の試作を進めてください」


 アルは少し考え、頷いた。


「お願いするよ。でも、削りすぎないように気をつけてね。厚みが変わると、また溝を合わせ直さないといけなくなるから」


「はい。表面のざらつきを整える程度にいたします」


 二人はそれぞれの作業へ取り掛かった。


 アルは端材へ浅い溝を作り、底板の切れ端を差し込んでみる。最初の試作では溝がわずかに狭く、木材を押し込もうとすると抵抗があった。


 彼は無理に力を加えず、少しずつ削って幅を調整した。


 一方、セリーは底板の表面を丁寧に磨いていた。


 布を傷めないことを意識しながら、木目に沿って磨き、時折柔らかな布で表面を確かめる。ざらつきがなくなったところで、彼女は板を持ち上げ、光の当たり方を変えて仕上がりを確認した。


「主様。こちらは、ひとまず整いました。触れてみていただけますか」


 アルは工具を置き、差し出された底板へ手を伸ばした。


 指先を滑らせると、先ほどまで感じられた細かな引っ掛かりがなくなっている。


「うん。すごく滑らかになったね。これなら布を入れても安心できそうだ」


「ありがとうございます。ですが、角の部分は、箱へ組み込む前にもう一度確認した方がよさそうです」


「そうだね。組んでからだと手が届きにくくなる場所もあるし、今のうちにできるところは整えておこう」


 アルは底板を受け取り、端材の溝へ差し込んだ。


 今度は無理な力を加えなくても、板が自然に収まった。


 横へ軽く動かしてみても、大きながたつきはない。


「……これなら、いけそうだ」


 セリーは試作品を覗き込み、少し嬉しそうに微笑んだ。


「はい。昨日の接合部分と同じように、先に試しておいたことが役に立ちましたね」


 アルは頷き、溝の寸法を紙へ書き加えた。


 しかし、本番の板へ工具を当てる直前、彼はもう一度手を止めた。


「……セリー。一つだけ確認していい?」


「はい。何でしょうか」


「この箱、完成したら長く使ってほしいと思ってる。でも、もし使ってみて不便なところがあったら、遠慮なく言ってほしいんだ。俺が作ったからって、無理して使う必要はないから」


 セリーは少し驚いたように目を見開いた。


 アルは作業台へ目を向けたまま、言葉を続けた。


「今は二人で考えてるけど、実際に使ってみないと分からないこともあると思う。仕切りの位置とか、蓋の開けやすさとか。だから、完成したら終わりじゃなくて、必要なら直していきたいんだ」


 セリーはしばらく黙っていた。


 彼女にとって、アルが自分のために何かを作ってくれることは、それだけで嬉しい。


 以前なら、多少使いにくいところがあっても、主が作ってくれたものだからと、そのまま使い続けようとしたかもしれない。


 しかし、今のアルは、そうすることを望んでいない。


 彼は完成したものを大切にしてほしいのではなく、セリーが自分の暮らしの中で、心地よく使えることを望んでいる。


(……主様は、私が喜ぶことだけではなく、私が困ったときに言葉にできることも、大切にしてくださるのですね)


 セリーはゆっくり頷いた。


「承知しました。では、完成したあとも、使ってみて気づいたことがあればお伝えします。ですが、主様も、作っている途中で気になることがありましたら、遠慮なくおっしゃってください」


「俺も?」


「はい。主様が私のために無理をなさることも、私は望んでおりません。二人で作っているのですから、二人とも気持ちよく続けられることが大切だと思います」


 アルは一瞬言葉に詰まり、それから小さく笑った。


「……そうだね。俺も、無理しないようにするよ」


 セリーは満足そうに微笑んだ。


 その笑顔を見て、アルは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


 彼女はもう、ただ自分の指示を待つ存在ではない。


 自分の望みを伝え、相手のことも考え、必要なら違う意見を口にする。


 その変化を、アルは心から嬉しく思っていた。


     ◇


 王都から離れた旧保養施設の一室では、ナディアが小さな机を片付けていた。


 窓際には、以前少年が作った紙の『みち』が置かれている。


 一度傷んだ部分は修復され、あとから加えた二本目の枝道も、そのまま残されていた。


 少年は椅子へ腰を下ろし、紙の道をじっと眺めている。


 ナディアは机の上へ新しい紙を一枚置き、少年へ声をかけた。


「今日は、何か作ってみたいものはある?」


 少年はすぐには答えなかった。


 彼は古い紙の道を見つめ、それから新しい紙へ目を移した。


「……これ、まだある?」


 少年が指さしたのは、以前から大切にしている木製の札だった。


 表には『帰』とも『還』とも読める文字があり、裏には入れ子になった四角と斜めの線が刻まれている。


 ナディアは頷いた。


「あるよ。いつもの場所にしまってある。見たい?」


 少年は少し考えてから、小さく頷いた。


 ナディアは棚から木製の札を取り出し、机の上へ置いた。


 少年は札へ手を伸ばしたものの、すぐには持ち上げなかった。


 指先で縁をなぞり、表の文字を見つめている。


「……これ、かえるって読むの?」


 ナディアは一瞬、答え方を考えた。


 札の文字は、はっきりと判読できる状態ではない。


 以前から『帰』または『還』に見えると記録されているが、どちらであるかは確定していない。


「そう読めるかもしれないけれど、まだ分からないんだ。『帰る』という字にも、『還る』という字にも似ているから」


 少年は首を傾げた。


「……ちがうの?」


「意味が近いところもあるけれど、使い方が違うこともあるよ。ただ、この札に書かれた文字がどちらなのか、今は決められないんだ」


 少年は札を見つめたまま、しばらく黙っていた。


 ナディアは急かさず、彼が次の言葉を探すのを待った。


 やがて少年は、紙の『みち』へ目を向けた。


「……みち、ふたつある」


「うん。最初の道と、あとから作った枝道があるね」


「こっち、かえる?」


 少年は古い方の道を指さした。


 ナディアはその指先を見つめ、すぐに意味を決めつけないよう注意した。


「その道が、どこかへ帰る道なのかってこと?」


 少年は少し考え、首を横に振った。


「……わかんない」


「そっか。分からないんだね」


 ナディアは穏やかに答えた。


 少年はもう一度、二本の道を見比べた。


 そして、今度は新しい紙へ手を伸ばした。


「……もうひとつ、つくる」


 ナディアは少し驚いた。


 これまでも少年は、紙を使って道を作ってきた。


 しかし、今日は新しい紙を自分から選び、もう一つ作りたいと伝えている。


「新しい道を作りたいんだね。今ある紙につなげる? それとも、別の紙に作る?」


 少年は二枚を見比べ、しばらく考えた。


 それから、新しい紙を自分の方へ引き寄せた。


「……べつ」


「分かった。じゃあ、別の紙に作ろう」


 ナディアは必要な道具を机の端へ置き、少年が手を伸ばしやすい位置を整えた。


 少年は紙の中央へ細い線を引いた。


 最初の線は少し曲がっていたが、彼は消そうとせず、そのまま続きを描いた。


 ナディアは横から見守りながら、必要なときだけ道具を渡した。


 やがて、紙には一本の道ができた。


 以前の『みち』とは違い、枝分かれはしていない。


 しかし、途中に小さな丸が一つ描かれていた。


「ここは、何かな?」


 ナディアが尋ねると、少年は丸を見つめた。


「……とまる」


「止まる場所なんだね」


 少年は頷いた。


 ナディアは少し考えてから、もう一度尋ねた。


「ここで止まったら、その先へ進むかどうかを考えるの?」


 少年はすぐには答えなかった。


 しばらく紙を眺めたあと、小さく頷いた。


「……うん。まだ、きめない」


 ナディアはその言葉を聞き、胸の奥に静かな驚きを覚えた。


 少年は、道の先を描かなかった。


 描けなかったのではなく、今は決めないと伝えた。


 その違いを、ナディアは大切にしたかった。


「分かった。じゃあ、この道はここまでにしておこうか」


 少年は頷き、鉛筆を置いた。


 ナディアは紙を片付けようとして、手を止めた。


「この紙、どうしたい? 前の『みち』と一緒にしまう? それとも、今日はここへ置いておく?」


 少年は少し考え、新しい紙を古い紙の隣へ置いた。


「……ならべる」


「うん。並べておこう」


 ナディアは二枚の紙が重ならないよう、机の上に並べた。


 古い道には、あとから加えられた枝道がある。


 新しい道には、途中で止まる場所がある。


 どちらも、少年が自分で選んで作ったものだった。


 ナディアは記録用紙を取り出し、今日の出来事を書き留めた。


 新しい紙を本人が選択。


 既存の作品とは別に作成。


 途中に停止地点を描き、その先について『まだ、きめない』と発言。


 ただし、それが過去の経験や施設の設備と関係するかどうかは不明。


 彼女は最後の一文を、特に慎重に記した。


 少年の言葉には意味がある。


 しかし、その意味を大人の側で勝手に決めてしまえば、彼が伝えようとしたものを歪めることになる。


 ナディアは記録を閉じ、少年へ微笑みかけた。


「今日は、新しい道ができたね」


 少年は二枚の紙を見つめ、少しだけ口元を緩めた。


「……うん」


 その返事は短かったが、ナディアには十分だった。


     ◇


 王立魔導研究院では、フェリクスが新たな資料を前に、難しい顔をしていた。


 前日に確認された『確認担当者変更時の記録継承』の一節について、追加の照合作業が進められていた。


 確認済みの文言は、担当者が変更される際、既確認事項、未確認事項、判断保留の理由を区分して継承記録へ記載するよう求めるものだった。


 しかし、今回の調査で見つかったのは、その続きではなかった。


 同じ共通規定の別の箇所に、記録の扱いに関する短い注意文が残されていたのである。


 若い研究員は資料を机へ置き、フェリクスへ説明した。


「先生。こちらは『記録継承』の本文そのものではありません。ただ、記録を受け取る側の扱いについて、関連する可能性がある文言です」


 フェリクスは頷き、資料へ目を落とした。


 そこには、次のように記されていた。


『継承記録の受領は、記載された判断の追認を意味しない』


 フェリクスはその一文を読み、しばらく黙っていた。


 受領と追認は違う。


 記録を受け取ったからといって、そこに書かれた判断を正しいと認めたことにはならない。


 それは、これまで確認されてきた古代の規定とも、考え方の上では通じるものがあった。


 再確認成立の判定は、状態変更の実施承認を兼ねない。


 一次確認を記録した者と、再確認成立を判定する者は、原則として別である。


 そして今回、継承記録を受け取ることと、以前の判断を追認することも区別されていた。


「……古代の制度は、行為と判断をかなり細かく分けていたようだな」


 フェリクスが呟くと、研究員は頷いた。


「はい。ただ、この文言がすべての継承記録に適用されるものだったのか、それとも特定の条件下での注意だったのかは、まだ分かりません」


「そのとおりだ。前後の文章が欠けている以上、適用範囲までは判断できない」


 フェリクスは資料の写しを取り、既存の記録と並べた。


 それぞれの文言には共通する考え方が見える。


 しかし、似ているからといって、一つの制度としてすべてを結びつけてよいわけではない。


 彼は新しい紙へ確認事項を書き出した。


 継承記録の受領と判断の追認は、少なくとも確認された文言上では区別されている。


 ただし、適用範囲は未確認。


 記録を受け取った者に再確認義務があるかどうかも不明。


 そして、個別施設で実際にどう運用されていたかは、依然として分からない。


「……先生」


 若い研究員が、少し迷ったように声をかけた。


「もし、誰かが記録を受け取っただけで、以前の判断を認めたことにはならないのだとしたら……記録が引き継がれたあと、判断が宙に浮いたままになることもあったのでしょうか」


 フェリクスは顔を上げた。


 研究員の疑問は、もっともだった。


 しかし、その問いへ答えるには、まだ情報が足りない。


「可能性としては考えられる。ただし、それを制度上の欠陥だったと決めることも、意図的な安全措置だったと決めることもできない。判断を保留したあと、どのような条件で再確認を行うのかが分からないからな」


 研究員はゆっくり頷いた。


「……そうですね。保留する理由があっても、再開する条件が分からなければ、制度全体の意味は判断できません」


「そのとおりだ。だから、次に確認すべきなのは、保留の解除条件と、記録を受け取った側の権限だろう」


 フェリクスは筆を取り、追加照会の項目を整理した。


 その作業を終えたところで、彼は机の端に置かれた古い報告書へ目を向けた。


 そこには、かつての保養施設に関する資料が含まれている。


 施設の閉鎖。


 記録の欠落。


 番号で管理されていた者たちの存在。


 そして、いまだに確かな説明が得られていない複数の事実。


 フェリクスは報告書へ手を伸ばしかけたが、途中で止めた。


 今確認しているのは、あくまで古代の共通規定である。


 その制度が旧保養施設に適用されていたという証拠は、まだない。


(……似た言葉があるだけで、関係があると決めつけるわけにはいかない)


 彼は報告書を元の場所へ戻し、ブラートへ送る文書の作成を始めた。


 新たに確認された一文。


 その意味を読み取れる範囲。


 そして、まだ分からないこと。


 それらを明確に区別した報告は、夕方までにまとめられた。


     ◇


 三〇八号室では、ヨアヒムが少年へ新しい説明をしていた。


 昨日、少年は焼きたてのパンの香りを施設内で体験してみたいと伝えている。


 ただし、パンを食べられるかどうかは別の確認が必要であり、香りを確かめるだけでもよいかについて、本人の希望を改めて確認していた。


 今日、医療職員と厨房の担当者から、一定の条件を満たせば実施を検討できるという返答が届いた。


 しかし、それはまだ最終的な許可ではない。


 ヨアヒムはその違いを、少年へ丁寧に説明することにした。


「焼きたてのパンの香りについて、少し進展がありました」


 少年は絵本から顔を上げた。


「ほんと?」


「はい。厨房の方にも相談したところ、焼き上がったパンを短時間だけお部屋の近くへ運ぶ方法なら、準備できる可能性があるそうです。ただし、実際に行う前には、体調や安全面について最後の確認が必要になります」


 少年は目を輝かせたが、すぐに少し考え込んだ。


「……じゃあ、まだ決まったわけじゃないんだね」


「そうです。でも、昨日よりは具体的な方法が見えてきました」


 ヨアヒムは頷き、机の上へ簡単な説明を書いた紙を置いた。


 そこには、実施する場合の条件が分かりやすい言葉でまとめられていた。


 パンを食べることは、まだ決まっていない。


 香りを確かめる時間は短くする。


 途中で嫌になったり、体調が悪くなったりしたら、すぐに中止する。


 そして、実施するかどうかは、準備が整ったあとに本人へもう一度確認する。


 少年は紙をゆっくり読み、最後の行で顔を上げた。


「……先生。ぼくが、やっぱりやめたいって言ったら、どうなるの?」


「その日は行いません。準備してくださった方がいても、あなたが無理をして続ける必要はありません」


「でも、パンを焼いてくれた人が、がっかりしない?」


 ヨアヒムはその問いを聞き、少しだけ胸が痛んだ。


 少年は、自分の希望を伝えられるようになってきた。


 しかし、誰かが自分のために準備してくれた場合、その期待へ応えなければならないと感じることがあるらしい。


 それは、彼がこれまでどのような経験をしてきたのかを想像させる問いだった。


 ただし、ヨアヒムはその背景を勝手に決めつけなかった。


「準備してくださる方には、途中で中止する可能性があることも、最初から伝えておきます。ですから、あなたがやめたいと言ったとしても、それは約束を破ることにはなりません」


 少年はヨアヒムを見つめた。


「……ほんとに?」


「はい。あなたが安心して試せることの方が大切です。もしその日には難しいと思ったら、別の日に考えることもできます」


 少年はしばらく黙っていた。


 それから、膝の上に置いた絵本へ視線を落とした。


 絵本の中には、焼きたてのパンが並ぶ店が描かれている。


 少年はその絵を指先でなぞり、小さく息を吐いた。


「……ぼく、やってみたい。怖いっていうより、どんな匂いなのか、すごく気になるんだ」


 ヨアヒムは微笑んだ。


「分かりました。その希望を、関係する方へ伝えます」


「でも、食べられないのは、ちょっと残念」


「そうですね。その気持ちも、一緒に伝えておきましょう」


 少年は少し驚いた顔をした。


「残念ってことも?」


「はい。香りを知りたいという希望と、食べられないことを残念に思う気持ちは、どちらもあなたのものですから」


 少年はしばらく考え、それから小さく笑った。


「……そっか。どっちも言っていいんだね」


 ヨアヒムは頷いた。


 少年はその後、窓の外へ目を向けた。


「先生。パンの匂いを知ったら、町へ行きたい気持ちがもっと強くなるかもしれない」


「そうかもしれませんね」


「それでも、いい?」


 ヨアヒムは少年の目を見て答えた。


「もちろんです。町へ行きたいという希望は、今も別に記録されています。今回の体験ができたとしても、それで外出の希望が取り消されることはありません」


 少年は安心したように微笑んだ。


「よかった。じゃあ、いつか本当のパン屋さんの前を歩いてみたいな」


「その希望も、引き続き大切に扱います。ただ、外出についてはまだ許可が出ていませんので、今は約束できないことを理解してください」


「うん。分かってる。でも、忘れないでくれたら嬉しい」


 ヨアヒムは静かに頷いた。


「忘れないように、きちんと記録しておきます」


 少年は絵本を閉じ、枕元へ置いた。


 その横には、赤い布に包まれた手紙がある。


 二十三通のうち、開かれたのは一通だけ。


 残る二十二通は、今も封をされたままだった。


 ヨアヒムは手紙へ目を向けたものの、何も尋ねなかった。


 少年が今日話したいのは、パンの香りと町へ行く希望についてだった。


 手紙を開くかどうかは、別の問題である。


 その区別を、彼は守りたかった。


     ◇


 午後の古の塔では、木箱の側板へ底板用の溝を作る作業が進んでいた。


 アルは端材で確かめた寸法をもとに、昨日固定した二枚の板へ慎重に工具を当てている。


 角の近くは作業しにくかったが、固定具の位置を変え、無理に刃を進めないよう注意しながら、少しずつ溝を整えた。


 セリーはその隣で、削り屑を集めながら作業の進み具合を確認していた。


「主様。こちらの溝は、底板の厚みと合っているように見えます。ですが、奥の角だけ、少し削り残しがあるかもしれません」


 アルは手を止め、細い木片を当てて確かめた。


「……本当だ。ここだけ、少し狭いね。無理に押し込む前に気づけてよかった」


 彼は工具を持ち替え、角の部分を慎重に整えた。


 やがて底板の切れ端が自然に収まるようになり、二人は次の板へ作業を進めた。


 すべての側板へ溝を作り終えた頃には、午後の日差しが作業台の端まで伸びていた。


 アルは道具を置き、肩を軽く回した。


「……思ったより時間が掛かったね。でも、ここまでできれば、あとは組み合わせるだけかな」


 セリーは四枚の側板を見比べ、少し考えた。


「主様。組み合わせる前に、一度接着せずに仮組みしてみませんか。底板がきちんと収まるか、四隅の位置が合うかを確かめたいです」


「そうだね。ここまで来てから寸法が合わないって分かったら大変だし」


 二人は作業台の中央へ側板を並べ、底板を溝へ差し込んだ。


 最初の二枚は問題なく収まった。


 しかし、三枚目を合わせたところで、底板の端がわずかに引っ掛かった。


 アルは手を止め、板を外した。


「……ここだけ、少し抵抗があるね。溝の深さが違うのかな」


 セリーは底板の端を確かめ、首を傾げた。


「溝の深さは揃っているように見えます。ですが、底板の角がほんの少しだけ大きいのかもしれません」


 アルは定規を当て、底板の寸法を測り直した。


 すると、一か所だけ、予定よりわずかに長く残っている部分があった。


「……ああ、ここだ。磨いたときには気づかなかったけど、切り出した寸法が少しだけ違ってたんだね」


 セリーは底板を受け取り、該当する部分を見つめた。


「では、そこを整えれば収まりそうですね。側板の溝を広げる前に確認できてよかったです」


「うん。原因が底板の方なら、溝を広げちゃうと逆に緩くなるかもしれないからね」


 アルは底板の端を少しずつ削り、再び仮組みを試した。


 今度は四枚の側板が自然に組み合わさり、底板も溝の中へ収まった。


 セリーは箱の内側を覗き込み、嬉しそうに微笑んだ。


「……主様。箱の形になりましたね」


 アルも思わず笑みを浮かべた。


「うん。まだ固定してないけど、ちゃんと箱に見えるね」


 四枚の側板と底板が組み合わさり、作業台の上には小さな木箱の形が現れていた。


 蓋はまだ完成していない。


 側面も、これから接合部分を固定する必要がある。


 それでも、昨日まで平らな木板だったものが、ようやく一つの形になった。


 アルは少し離れた位置から眺め、セリーへ尋ねた。


「どうかな。大きさは、思ってたとおり?」


 セリーは箱の内側へ手を入れ、糸巻きを取り出す動作を試した。


 そのあと、昨日持ってきた布の見本を軽く畳み、底へ置いてみる。


「はい。普段使う分の糸と布なら、十分に収まりそうです。持ち運ぶときにも、これくらいの大きさがちょうどよいと思います」


「よかった。じゃあ、この寸法で進めよう」


 二人は仮組みした板を一度外し、接合部分を整えた。


 木栓の位置を確かめ、必要な箇所へ接着用の材料を使い、底板を溝へ収めながら側面を順番に組み合わせていく。


 最後の板を合わせるときには、二人とも自然に息を潜めていた。


 アルが木栓の位置を合わせ、セリーが反対側から板を支える。


 わずかな抵抗があったものの、角度を調整すると、板は予定した位置へ収まった。


 アルは固定具を取り付け、四隅の角度を確かめた。


 どこにも大きな隙間はない。


 底板も、溝の中で安定している。


「……できた。少なくとも、箱本体の組み立てはここまで進んだね」


 アルがそう言うと、セリーはしばらく完成しかけた木箱を見つめていた。


 彼女は何かを言おうとして口を開き、しかしすぐには言葉が出てこなかった。


 アルはその様子に気づき、少し心配そうに尋ねた。


「セリー? どこか気になるところがあった?」


 セリーはゆっくり首を横に振った。


「いいえ。そうではありません。ただ……本当に、形になってきたのだと思いまして」


 彼女は箱の側面へ、そっと指先を近づけた。


 まだ固定したばかりなので触れない方がよいと分かっているのか、手は途中で止まった。


「最初は、刺繍を交換できる蓋があったら素敵だと思っただけでした。それが、主様と相談して、木板を選んで、失敗したところを直して……こうして箱になっていくのですね」


 アルは彼女の隣へ立ち、同じように箱を眺めた。


「うん。俺も、ここまで作れるとは思ってなかったよ。途中で何度もやり直したけど、その分、どう作ったかをちゃんと覚えてる気がする」


 セリーは静かに頷いた。


「……私は、この箱を大切に使いたいです。完成したあとも、今日までのことを忘れないように」


 アルは柔らかく微笑んだ。


「ありがとう。でも、もし傷が付いたり、壊れたりしても、気にしすぎないでね。使うために作ってるんだから。直せるところは、また一緒に直せばいい」


 セリーはその言葉を聞き、少し驚いたようにアルを見つめた。


 そして、穏やかに微笑んだ。


「……はい。そのときも、主様と一緒に考えたいです」


 アルは頷き、固定具が動かないことを確かめた。


 今日は、ここまでにすることにした。


 箱本体は組み上がったが、接合部分が十分に落ち着くまでは動かせない。


 蓋の仕上げや内部の仕切り、刺繍を交換する仕組みの最終調整は、明日以降の作業になる。


 それでも、二人にとっては大きな前進だった。


     ◇


 夕方、ブラートのもとへ王立魔導研究院からの報告が届いた。


 彼は執務室の机へ書類を広げ、フェリクスが新たに確認した文言を読んでいた。


『継承記録の受領は、記載された判断の追認を意味しない』


 ブラートはその一文を読み、しばらく考え込んだ。


 古代の制度では、確認、再確認、承認、そして記録の継承が、それぞれ異なる意味を持っていた可能性がある。


 しかし、今回の文言だけで制度全体を説明することはできない。


 彼は報告書の注記へ目を向けた。


 適用範囲は未確認。


 継承後の判断権限も未確認。


 個別施設との関係は不明。


 ブラートはそれらを確認し、書類を閉じた。


「……受け取ったことと、認めたことは違う、か」


 彼は小さく呟いた。


 その考え方は、古代の制度だけに限らず、現在の行政にも通じるものがある。


 誰かから報告を受け取ったこと。


 その内容を理解したこと。


 そして、その判断を自分の責任で承認したこと。


 それらを混同すれば、責任の所在は曖昧になる。


 ブラートはかつて王宮で働いていた頃のことを思い出した。


 上から届く命令。


 途中で書き換えられる報告。


 誰が最初に判断したのか分からないまま、手続きだけが進められていくこと。


 それらの記憶が、胸の奥へ重く沈んだ。


(……あの頃、誰が何を決めたのかを、もっと確かめるべきだったのかもしれない)


 しかし、彼はすぐに自分の考えを整理した。


 過去への後悔と、今調べている古代の制度は別の問題である。


 似た構造を感じたからといって、両者に直接の関係があるわけではない。


 ブラートは深く息を吐き、アルへ送る報告文を作成した。


 新たに確認された文言を正確に伝えること。


 適用範囲が未確認であることを明記すること。


 そして、研究院には引き続き、記録継承後の権限と再確認保留の条件について調査を依頼すること。


 その三点を整理し、報告を送信した。


     ◇


 夜の古の塔では、夕食を終えたアルとセリーが居間で過ごしていた。


 作業室には、今日組み上げた木箱本体が固定具を付けたまま置かれている。まだ動かせないため、二人は何度も見に行くことを控え、明日の朝までそのままにしておくことにしていた。


 アルは椅子へ腰を下ろし、ブラートから届いた報告を読み返していた。


 セリーはその隣で、生成り色の布へ刺繍を進めている。


 葉の形は少しずつ整い、枝の曲がり方も以前より自然になっていた。


 アルは報告を閉じ、セリーへ顔を向けた。


「……セリー。今日の研究院の報告、少し考えさせられる内容だったね」


 セリーは針を止め、アルを見た。


「継承記録を受け取ったことは、その判断を認めたことにはならない、という文言ですね」


「うん。誰かが残した記録を読むことと、その人の判断を正しいと認めることは別なんだって、改めて思ったよ」


 アルは少し考え、言葉を続けた。


「俺も昔、王宮でたくさんの報告を受け取ってた。でも、全部を自分で確かめられたわけじゃない。誰かが確認したことを信じて、次の判断へ進めたこともあった」


 セリーは静かに耳を傾けていた。


「もちろん、全部を一人で確認するなんて無理だったと思う。でも、だからこそ、どこまで確認できていて、何がまだ分からないのかを、もっと大事にするべきだったのかもしれない」


 アルはそう言ってから、少し苦笑した。


「……今さら考えても、昔のことが変わるわけじゃないんだけどね」


 セリーはしばらく黙っていた。


 それから、刺繍枠を膝の上へ置き、穏やかに口を開いた。


「主様。過去の判断を、今の知識だけで評価することは難しいと思います。ですが、今そうして考えていらっしゃることには、意味があるのではないでしょうか」


 アルは彼女を見た。


「意味、か」


「はい。主様は、今は誰かの意思を確かめることを大切になさっています。私の希望も、ほかの方の希望も、できるだけ本人の言葉で知ろうとしてくださいます」


 セリーは少しだけ微笑んだ。


「それは、過去を変えることではありません。ですが、これからの選択を変えることには、つながると思うのです」


 アルはしばらく言葉を失った。


 セリーの言葉は、彼を慰めるためだけのものではなかった。


 彼女自身が、これまでの経験から考え、選んだ言葉だった。


「……ありがとう、セリー。そう言ってもらえると、少し気持ちが軽くなるよ」


 セリーは静かに頷いた。


「私も、主様と一緒に考えることで、以前とは違う選び方ができるようになりました。ですから、これからも、お互いに気づいたことを伝え合えたら嬉しいです」


「うん。俺も、そうしたい」


 アルは椅子の肘掛けへ置いていた手を、そっとセリーの方へ伸ばした。


 セリーはその手を見つめ、自然な動きで指を重ねた。


 以前なら、触れてよいかどうかを確かめるだけで、長い時間が必要だった。


 今は、相手の様子を見ながら、自分から手を重ねることができる。


 その変化を、二人は言葉にせずとも感じていた。


 しばらくして、セリーが小さく口を開いた。


「主様。今日、木箱の形ができたとき、少し不思議な気持ちになりました」


「不思議な気持ち?」


「はい。まだ完成していないのに、すでに大切なものができたように感じたのです。木箱そのものだけではなく、作っている間に考えたことや、主様とお話ししたことも、一緒に残っているような気がして」


 アルはその言葉を聞き、穏やかに微笑んだ。


「……分かる気がするよ。完成したものを見るだけじゃなくて、どうやって作ったかを覚えてると、きっともっと大切に思えるんだろうね」


 セリーは頷いた。


「はい。ですから、完成したら、最初に入れたいものをお見せしたいと思っています」


 アルは少しだけ目を丸くした。


「……秘密にしてたもの?」


「はい。まだ、もう少しだけお待ちいただきたいのですが」


 セリーはそう言って、少し照れたように視線を落とした。


 アルはその様子を見つめ、柔らかく笑った。


「もちろん。セリーが見せたいと思ったときでいいよ。俺も楽しみにしてる」


 セリーは嬉しそうに微笑んだ。


 窓の外では、夜の森に静かな風が吹いていた。


 遠い王都では、一人の少年が焼きたてのパンの香りを知る日を待っている。


 別の施設では、もう一人の少年が、新しい紙に途中で止まる道を描いた。


 研究院では、古代の記録を引き継ぐ意味が少しずつ明らかになっている。


 そして古の塔では、小さな木箱が、ようやく形になり始めていた。


 それぞれの場所で、まだ決まっていないことがある。


 誰かの代わりに決めてしまえば、簡単に先へ進めることもあるのかもしれない。


 けれど、アルはもう、その速さを求めていなかった。


 自分で選ぶために必要な時間を、誰かから奪わないこと。


 分からないことを、分からないまま確かめ続けること。


 そして、大切な人と一緒に、今日できたことを喜ぶこと。


 アルはセリーの手を握りながら、そんな時間をこれからも積み重ねていきたいと思っていた。

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