第134話 保留された記録には、続きがある
古の塔の作業室には、朝から木材を磨く音が響いていた。
窓の外では、薄い雲の間から差し込む日差しが庭の木々を照らしている。昨夜のうちに少し雨が降ったらしく、石畳にはまだ湿った色が残っていたが、風は穏やかで、窓を細く開けておくにはちょうどよい気温だった。
アルは作業台の前に座り、数日前から作っている小さな木製の飾り台を手に取っていた。
セリーへの贈り物として作り始めたものだ。
最初はただの木片だったが、今では角が丸く整えられ、上面には紙や薄い板を立てかけるための溝が設けられている。左右の形にはわずかな違いが残っているものの、手で触れて危険なささくれはなく、昨日試した薄い板も安定して立つようになっていた。
「……よし。これなら、もう少しで完成かな」
アルは木片を窓の光へかざし、表面に残った細かな削り跡を確かめた。
まだ少しざらつく場所がある。
特に、溝の内側は指先が届きにくく、磨き残しができやすかった。
アルは小さく切った研磨用の紙を細い木片へ巻きつけ、溝の内側を慎重に磨いていった。
以前なら、こうした細かな作業は得意な人に任せていたかもしれない。
王太子だった頃、アルが何かを必要とすれば、担当者が用途に合ったものを探して用意してくれた。特別な品が必要な場合には、職人へ依頼することもできたし、完成品を選ぶために何種類もの見本が運ばれてきたこともあった。
けれど、今は自分で木片を削っている。
手元が狂えば形が変わるし、作業を急げば仕上がりも荒くなる。
それでも、不思議と面倒だとは思わなかった。
(セリーは、俺のために栞を作ってくれたんだよな。あのとき、どんなことを考えながら縫っていたんだろう)
アルは机の端に置いてある書物へ目を向けた。
その中には、セリーが作ってくれた生成り色の栞が挟まっている。
淡い青緑色の糸で描かれた葉の模様は、塔の窓から見える木々を参考にしたものだと聞いていた。
アルはあの栞を受け取ってから、読書のたびに使っている。
塔には読んだ場所を記録できる魔導具もあるが、最近は書物を閉じるとき、栞を挟むという動作そのものが楽しみになっていた。
便利だから使っているというより、使いたいから使っている。
それが、自分でも少し面白かった。
『アル。研磨作業の進行状況を確認してもよろしいでしょうか』
作業台の端に置かれていたエルから、落ち着いた声が聞こえた。
「うん。だいぶ形になってきたよ。あとは仕上げをどうするか考えてるところ」
『表面保護を行うのであれば、木材の質感を維持できる処理方法が複数あります。ただし、塗布後の乾燥時間と、接触する紙材への影響を考慮する必要があります』
アルは飾り台を机へ置き、少し考えた。
「栞とか刺繍の図案を置くかもしれないから、色が移るようなものは避けたいな。できれば、木の手触りも残しておきたい」
『それでしたら、紙材との接触に適した処理を候補として提示できます。最終的な選択はアルにお任せします』
「ありがとう。まずは候補を見せてもらえる?」
エルが示したのは、塔の保管庫にある一般的な木工用の仕上げ材だった。
魔力を付与するような特別な加工ではなく、木材の表面を保護するためのものらしい。
アルはそれぞれの特徴を確認し、乾燥後に布や紙へ影響が出にくい方法を選んだ。
ただし、いきなり贈り物へ使うことはしなかった。
余っていた木片へ少量を塗り、仕上がりを確かめることにしたのである。
「……こういう試し方なら、失敗しても本番の方を削り直さなくて済むね」
『適切な判断です。なお、試験片と本体では木目の状態が異なるため、完全に同一の仕上がりになるとは限りません』
「そこまで同じじゃなくても大丈夫だよ。変なべたつきが残らないかとか、色が大きく変わらないかが分かればいいから」
アルは小さく笑いながら、試験用の木片を作業台の端へ置いた。
乾くまでには時間がかかる。
その間に、昨日から気になっていた研究院の資料を確認することにした。
◇
王立魔導研究院では、古代資料の保管部署から届いた返答をめぐり、朝から小さな打ち合わせが行われていた。
今回の返答は、以前提出した追加照会に対する正式な閲覧許可ではない。
保管部署が、照会内容に該当する資料の有無を調べた結果を伝える、予備的な通知だった。
研究員たちは会議机へ資料を広げ、記載された分類を一つずつ確認していた。
「担当者の資格については、まだ回答できないそうだね」
若い研究員が言うと、向かいの同僚が頷いた。
「うん。ただ、共同確認と承認手順が、必ずしも同じ記録として保存されていたわけではないことは分かった」
通知には、古い資料群の中に、判断の経過を記録するための様式が存在することが記されていた。
その分類名は『保護判断経過記録』。
さらに、同じ分類に属する索引の中には、『状態変更延期後の再確認記録』という名称も確認できたという。
研究員はその文字を見つめ、手元の紙へ慎重に書き写した。
「延期したあとにも、何らかの記録を残す仕組みがあった可能性があるんだね」
「そうだな。ただし、実際にどんな内容を書いていたのかは、まだ分からない。今回分かったのは、そういう名称の記録様式が存在したということだけだ」
「それでも、重要だと思う」
若い研究員は頷いた。
古い手順書には、確認できない場合や既存記録との不一致がある場合、状態変更を延期するという原則が残されていた。
しかし、延期したあとに何をすべきだったのかは、これまで確認できていなかった。
もし再確認のための記録様式が存在したのなら、古代の制度は、単に判断を先送りするだけではなかったのかもしれない。
もちろん、名称だけでそう断定することはできない。
研究員はその注意点を、記録用紙へ明記した。
「問題は、この様式がどの設備で使われていたのか分からないことだね」
同僚が別の紙を示した。
「保管部署の説明では、様式自体は複数の資料群から参照されているらしい。つまり、特定の施設専用だったとは限らない」
「それなら、旧保養施設との関係はまだ判断できないね」
「うん。それに、様式の存在と、実際に正しく運用されていたかどうかも別だ」
研究員たちはしばらく黙って資料を見つめた。
古い制度について調べていると、文章の整った手順書や、細かく分類された記録が次々に現れる。
それらを見ると、当時の制度が十分に機能していたように感じてしまうことがある。
だが、制度が存在することと、それが守られていたことは同じではない。
記録を残すための様式があっても、空欄のまま提出されたかもしれない。
必要な確認が行われなかった可能性もある。
逆に、記録に残っていない場所で、担当者たちが慎重に判断していたことも考えられる。
現在の研究員たちには、そのどれも確定できなかった。
「……追加で閲覧を求めるなら、様式の項目名までかな」
若い研究員が言うと、同僚は少し考えた。
「保護対象を特定する欄があるかもしれないから、そこは保管部署と相談した方がいい。個別の記録を求めず、共通様式の構造だけを確認できないか尋ねよう」
「そうだね。対象の情報を知らなくても、何を記録する仕組みだったのかは分かるかもしれない」
研究員は新しい照会文を作り始めた。
目的は、古代の制度を現在の設備へそのまま適用することではない。
判断を延期したあと、何を記録し、何を確認し直す仕組みだったのかを知ることだった。
その違いを明確にするため、文章は何度も読み直された。
◇
旧保養施設の西側壁面では、午前の観測が終わろうとしていた。
空には薄い雲が広がっており、建物の外壁へ落ちる光は昨日よりも弱い。石材の補修跡にはところどころ色の違いが見られたが、観測者たちは、その違いを新しい異常として扱わないよう注意していた。
トーマスは定められた位置から表示窓を確認し、記録用紙へ結果を書き込んだ。
三つの表示窓に明確な発光はない。
受動計測器にも、通常の範囲を外れる変化は認められなかった。
以前報告された直線状の見え方についても、新しい独立確認は得られていない。
観測を終えて詰所へ戻ると、リディアが記録を整理していた。
「お疲れさまです。今日の観測はどうでしたか?」
「新しい異常はありませんでした。確認順序も、今日は昨日と同じ方法で問題ありませんでした」
トーマスは報告用紙を差し出した。
リディアは内容へ目を通し、観測結果の欄と、観測者自身の負担を記録する欄が分けて書かれていることを確認した。
「ありがとうございます。最近は、その二つを分けて書けるようになりましたね」
「はい。前は、観測がやりやすかった日は、何となくよい結果が出たように感じてしまっていたんです。でも、壁の状態が変わったわけじゃないですから」
トーマスは少し照れくさそうに笑った。
リディアも穏やかに頷いた。
「そうですね。観測者の負担が減ることと、設備の状態が変化することは別の問題です。どちらも大切ですが、混ぜてしまうと記録の意味が分からなくなります」
彼女は報告用紙を机へ置き、別の記録を取り出した。
「ただ、ひとつ確認したいことがあります。昨日、別の隊員が、補修跡を見たときに少し迷ったと記録しているんです」
トーマスは用紙を覗き込んだ。
そこには、補修跡の一部がいつもより暗く見えたものの、天候による影響かどうか判断できなかったと書かれていた。
「……これは、異常として報告した方がよかったんでしょうか」
「いいえ。本人は判断できなかったと書いていますし、受動計測器にも変化はありません。ほかの観測者による独立確認も得られていませんから、今の段階で異常と断定する必要はありません」
リディアは少し考えてから続けた。
「ただし、分からなかったという記録を消す必要もありません。後から同じ条件で似た見え方が報告された場合、比較する材料にはなります」
トーマスは頷いた。
以前なら、異常か正常かをはっきりさせなければならないと思っていたかもしれない。
しかし、観測の中には、その場では判断できないものもある。
そうした記録を無理にどちらかへ分類してしまえば、後から確かめる機会を失う可能性があった。
「では、判断できなかった理由も残しておく方がいいんですね」
「はい。ただし、記録を残すために無理な追加観測を行う必要はありません。通常の安全な範囲で確認できたことだけを、正確に残してください」
リディアの言葉に、トーマスは真剣な表情で頷いた。
その後、二人は観測方法の試験についても確認した。
確認順序を柔軟にする試みは、観測者の負担を減らす点で一定の手応えがあったものの、すべての隊員に同じ方法が合うわけではない。
また、試験を始めてからまだ十分な期間が経っていないため、正式な運用方法を決める段階ではなかった。
リディアはそれらを整理し、ガルムへ提出する報告書へ記載した。
西側壁面は、今日も静かなままだった。
しかし、観測する人々の記録は、少しずつ丁寧になっていた。
◇
リューネの共同相談窓口では、エルザ・ノイマンが新しい説明方法の試験記録を確認していた。
午前中の相談が一段落し、窓口の奥には紙をめくる音と、職員たちが小声で確認を交わす声が聞こえている。
エルザの机には、利用者の希望を記録した用紙が何枚も並んでいた。
説明方法を選べることについては、肯定的な意見が少しずつ増えている。
しかし、その一方で、職員たちが対応に迷った事例も出てきていた。
特に多かったのは、以前の希望をどこまで引き継ぐかという問題だった。
前回は書面で説明してほしいと言っていた人が、今回は口頭だけでよいと希望することがある。
反対に、以前は詳しい説明を必要としなかった人が、今回は最初から聞き直したいと言うこともあった。
その違いを、職員が勝手に矛盾と判断してはいけない。
エルザはそう考えていたが、実際の窓口では、記録の扱いに迷う場面があった。
「エルザさん、少しお時間をいただけますか」
若い担当者が声をかけてきた。
彼は一枚の用紙を持っていたが、その表情には少し困惑が見える。
「もちろんです。どうしましたか?」
「昨日の相談について、記録の書き方を確認したいんです。利用者の方が、前回とは違う説明方法を希望されたので、その理由を聞くべきか迷ってしまって」
エルザは用紙を受け取り、内容へ目を通した。
記録には、利用者が前回は書面を希望し、今回は口頭での説明を選んだことが書かれていた。
その下には、担当者が理由を尋ねようとしたものの、本人が少し困った様子を見せたため、それ以上聞かなかったと記されている。
「理由を聞かなかったのですね」
「はい。以前の希望と違うので、確認しなければならないと思ったんですが……その方が、どうして説明しなければいけないのかとおっしゃって」
担当者は申し訳なさそうに続けた。
「その場では、今日の希望を確認して対応しました。でも、後から考えると、記録として不十分だったのではないかと思ってしまって」
エルザは少し考えたあと、穏やかに首を横へ振った。
「私は、適切な対応だったと思います。本人が今日の説明方法を明確に希望されているなら、以前と違う理由まで必ず聞く必要はないでしょう」
「でも、理由が分からないと、次回の担当者が困ることもあるのではないでしょうか」
「そうですね。だから、以前の希望と今回の希望を、それぞれ記録しておけばいいと思います」
エルザは用紙の該当欄を指で示した。
「前回は書面を希望した。今回は口頭を希望した。その事実が分かれば、次回の担当者は、今回もどちらがよいか本人に確認できます。理由を知らなければ対応できないわけではありません」
担当者はしばらく考えていた。
やがて、少し安心したように頷いた。
「……そうですね。私は、記録に空白があることを気にしすぎていたのかもしれません」
「空白があること自体が、必ずしも問題なのではありません。何を確認し、何を確認していないのかが分かることの方が大切です」
エルザは微笑んだ。
「ただし、必要な同意や説明を省いてよいという意味ではありません。そこは今までどおり、内容に応じて確認しましょう」
「はい。分かりました」
担当者は用紙を受け取り、受付へ戻っていった。
エルザはその背中を見送りながら、机の上に置いた試案へ目を向けた。
以前の希望と異なる場合も、理由を説明せず変更できる。
その考え方を、もっと分かりやすい文章にする必要がある。
ただし、制度として正式に採用する前には、利用者と職員の双方から意見を聞かなければならない。
エルザは新しい文案を書き始めた。
『前に選んだ方法と違ってもかまいません。今、分かりやすいと思う方法を選んでください』
書き終えたあと、彼女は少し考えた。
これなら、以前の案よりも分かりやすいかもしれない。
けれど、実際に使う人がどう感じるかは、まだ分からない。
エルザはその文案を正式な書類へ移さず、試験用の資料へ挟んだ。
改善は続いている。
しかし、急いで完成させる必要はなかった。
◇
午後、塔の資料室へ戻ったアルは、ブラートから新しい連絡を受け取った。
王立魔導研究院が、古代の保護判断制度に関する追加の索引情報を確認したという。
アルは椅子へ腰を下ろし、届いた文書を読み始めた。
そこには、『保護判断経過記録』と『状態変更延期後の再確認記録』という二つの名称が記されていた。
「……延期したあとにも、記録があったんだね」
アルが言うと、ブラートは慎重に頷いた。
「正確には、そのような名称の記録様式が存在したことが確認された、という段階です。実際にどの施設で使われていたか、どのような内容が記録されていたかについては、まだ分かっていません」
「なるほど。様式があったからって、必ず使われていたとは限らないか」
「はい。また、旧保養施設との関連も確認されていません」
アルは文書を机へ置き、少し考えた。
昨日、自分が気になっていたのは、状態変更を見送った判断が、そのまま放置されることはなかったのかという問題だった。
今回見つかった名称は、その疑問に関係しているように思える。
しかし、名称だけでは答えにならない。
アルはそのことを理解していた。
「研究院は、次に何を確認する予定なの?」
「個別の保護対象情報へ踏み込まず、共通様式の項目名だけを確認できないか、保管部署へ問い合わせるそうです」
「そっか。それなら、今は返事を待とう」
アルは頷いた。
ブラートは資料の端を揃えながら、少し考えた。
「アル様。今回の情報について、旧保養施設の管理側へ共有する必要はありますか?」
アルはすぐには答えなかった。
新しい資料が見つかったこと自体は、調査に関わる人々へ知らせておきたい。
しかし、名称だけの情報を現場の観測者へ伝えた場合、何かを見つけなければならないという意識につながる可能性もある。
以前、補修跡の直線状の見え方について、先に情報を聞いた観測者が、無意識に同じ場所へ注意を向けてしまったことがあった。
その経験を、アルは忘れていなかった。
「ガルムには共有していいと思う。ただ、現場の観測手順を変える必要はないって、はっきり伝えたい」
「承知しました。管理側への参考情報として扱い、観測者への追加指示にはしない形ですね」
「うん。今回の資料は、壁に何があるかを示しているわけじゃないから」
ブラートは頷き、連絡文の作成に取りかかった。
アルは机の上の資料を見つめた。
古い制度の中に、判断を延期したあとで再確認する仕組みがあった可能性。
それは、これまでの調査で見えていなかった部分だった。
ただし、制度の存在だけで、当時の人々が正しく守られていたと考えることはできない。
アルはそのことを、何度も自分へ言い聞かせるように考えていた。
(仕組みがあったことと、その仕組みが誰かを守れたことは、別なんだよな)
王太子だった頃、アル自身も制度を信じていた。
正しい手順を踏めば、公平な判断が行われる。
必要な記録が残されていれば、あとから問題を確かめられる。
そう考えていた。
しかし、彼は身に覚えのない罪を着せられ、王太子の地位を追われた。
その過程では、書類も証言も、権限を持つ者の判断も存在していたはずだった。
それでも、真実が守られたわけではない。
アルは椅子へ背を預け、しばらく目を閉じた。
過去の出来事を思い返すと、今でも胸の奥に重たい感覚が残る。
けれど、以前のように、すべてを取り戻したいとは思わなかった。
王太子の地位へ戻ることよりも、今の自由な暮らしを守りたい。
そして、もし誰かが同じように、制度の中で自分の意思を失いかけているのなら、その人が自分で選べるようにするための方法を考えたい。
アルはゆっくり目を開けた。
窓の外には、穏やかな午後の光が広がっている。
今できることは、資料を丁寧に確認し、分からないことを勝手に埋めないことだった。
◇
王都の三〇八号室では、少年が絵本を開いていた。
ヨアヒムが持ってきた、町の様子を描いた本である。
市場や橋、家々の並ぶ通りが描かれたページを、少年は何度も眺めていた。
今日は、橋のあるページを開いている。
川の両側には家が並び、橋の上には荷物を持った人や、手をつないで歩く親子が描かれていた。
少年はその絵を見つめながら、隣に座るヨアヒムへ尋ねた。
「この人たちは、橋を渡ったらどこへ行くの?」
ヨアヒムは絵を覗き込んだ。
「それぞれ違う場所へ行くのでしょうね。仕事へ向かう人もいるでしょうし、買い物へ行く人もいると思います」
「……行く場所って、自分で決めるの?」
その問いに、ヨアヒムは少し考えた。
「自分で決められることもありますし、仕事や約束によって行く場所が決まっていることもあります。ただ、どこへ行きたいかを考えることはできますよ」
少年はゆっくり頷いた。
そして、橋の向こうに描かれた小さな店を指さした。
「ぼくは、あのお店に行ってみたい」
「焼き菓子のお店のようですね」
「うん。どんな匂いがするのかな」
少年は絵本へ顔を近づけた。
紙に描かれた店先には、小さな焼き菓子が並んでいる。
ヨアヒムはその様子を見つめながら、以前少年が町へ行ってみたいと話していたことを思い出した。
外出について、今すぐ約束できる状況ではない。
それでも、少年の希望を聞き流すつもりはなかった。
「焼きたてのお菓子なら、甘い香りがするかもしれませんね」
ヨアヒムが答えると、少年は少し嬉しそうに笑った。
「……いつか、行けるかな」
その声は、以前よりも少しだけはっきりしていた。
ヨアヒムは少年の顔を見つめ、慎重に答えた。
「今すぐできるとは言えません。でも、あなたが行ってみたいと思っていることは、きちんと伝えていきます」
少年はしばらく考えたあと、頷いた。
「うん。じゃあ、ぼくも覚えておく」
ヨアヒムはその言葉を聞いて、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
少年は再び絵本へ目を落とし、橋の向こうの店を眺め始めた。
その表情には、まだ見たことのない町への静かな憧れが浮かんでいた。
◇
夕方、古の塔の作業室では、アルが木製の飾り台の仕上がりを確認していた。
朝に試した仕上げ材は、余った木片の上で十分に乾いていた。
表面には不自然なべたつきがなく、木の色も大きく変わっていない。
アルは乾いた布で軽く拭き、紙を当てても跡が付かないことを確かめた。
「……これなら、大丈夫そうだな」
彼は飾り台を手に取り、最後に残っていた細かな部分を磨いた。
角の形には、やはり少し違いがある。
けれど、指先で触れたときの感触は滑らかで、机へ置いたときにもぐらつかなかった。
上面の溝へ薄い板を立てると、以前よりも安定している。
アルは少し離れた位置から眺め、満足そうに頷いた。
「……よし。形はこれで完成にしよう」
ただし、仕上げ材を塗ったあとには乾燥時間が必要になる。
今日は本体へ薄く塗るところまで進め、セリーへ渡すのは明日にしようと決めた。
アルは小さな刷毛を持ち、木目に沿って丁寧に塗り始めた。
作業を終えると、飾り台を風通しのよい場所へ置き、道具を片づけた。
完成したものを眺めていると、少しだけ緊張してきた。
(セリーは、喜んでくれるかな)
もちろん、彼女が何を受け取っても喜ぶと決めつけるつもりはない。
気に入らなければ、無理に使ってもらう必要もない。
それでも、自分が考えて作ったものを渡すのだから、喜んでもらえたら嬉しい。
アルはそんな気持ちを抱えながら、作業室の扉を閉めた。
◇
夜の居間には、穏やかな灯りがともっていた。
アルはセリーと向かい合って座り、夕食後のお茶を飲んでいた。
窓際の棚には、まるとそらが並んでいる。
机の上には、セリーが新しく考えている花の刺繍図案が置かれていた。
アルはその図案を眺めながら、少し笑った。
「昨日より、花びらが増えた?」
セリーは嬉しそうに頷いた。
「はい。三つの花を少し違う形にしてみました。同じ模様を繰り返すより、それぞれに違いがある方が楽しいと思いまして」
「いいね。全部同じじゃないところが、自然な感じがする」
アルが答えると、セリーは微笑んだ。
「ありがとうございます。まだ何を作るかは決めていませんが、図案を考えるだけでも楽しいです」
アルは頷いた。
セリーが自分の楽しみを見つけ、少しずつ広げていることが嬉しかった。
しばらくして、セリーがふと顔を上げた。
「主様。木工の方は、いかがでしょうか」
アルは少し照れくさそうに笑った。
「今日、形は完成したよ。あとは仕上げ材が乾けば大丈夫だと思う」
セリーの表情が明るくなった。
「そうなのですね。では、もうすぐ拝見できるのでしょうか」
「うん。明日には渡せると思う」
アルは頷いた。
セリーは嬉しそうに微笑んだが、すぐに何かを尋ねることはしなかった。
完成するまで秘密にしておきたいというアルの希望を、彼女は尊重している。
そのことが、アルにはありがたかった。
「楽しみにしています」
セリーが静かに言うと、アルは少し照れながら答えた。
「うん。気に入ってもらえたら嬉しいな」
セリーはその言葉を聞き、少しだけ首を傾げた。
「主様。私は、何をいただくか分からない今の時間も、とても楽しいです」
「そうなの?」
「はい。主様が何を考えて作ってくださっているのか、想像するだけで嬉しくなります」
アルは思わず笑った。
「それなら、明日まで楽しみにしてて」
「はい」
セリーも柔らかく微笑んだ。
二人はそのあと、花の図案について話を続けた。
アルは書物の中に挟んだ栞を取り出し、セリーが作った葉の模様と、新しく描いている花の模様を見比べた。
セリーはそれを見て、少し嬉しそうに目を細めた。
窓の外では、夜の森が静かに広がっている。
王都では、古い制度の中に残された記録様式が新しく確認されていた。
旧保養施設では、観測者たちが分からないことを無理に断定せず、記録を続けている。
リューネの町では、利用者の希望が変わることを前提に、説明方法の見直しが進んでいた。
それぞれの場所で、誰かが判断を急がず、必要なことを確かめようとしている。
アルもまた、今日、自分で選んだ時間を過ごしていた。
古い資料を読み、分からないことを記録し、セリーへの贈り物を少しずつ完成させた。
そのどれも、誰かに命じられたことではない。
自分が大切だと思ったから、続けていることだった。
アルは窓際の二羽の木彫りへ目を向けた。
まるとそらは、今日も静かに並んでいる。
明日には、そこへ新しい木製の飾り台が加わるかもしれない。
ただし、それをどこへ置くのか、何に使うのかは、受け取ったセリーが決めればいい。
アルはそう考えながら、温かいお茶を一口飲んだ。
隣では、セリーが新しい図案へ小さな花びらを描き足している。
その横顔を見つめながら、アルは明日を少し楽しみにしていた。




