第133話 記録に残された空白と、選ばなかった理由
古の塔の資料室に、朝の光がゆっくりと差し込んでいた。
高い窓から見える森は、夜の間に降りた露を残している。枝先で揺れる葉の隙間から鳥の声が聞こえ、机の上に積まれた古い書物の背表紙には、窓枠の影が細長く落ちていた。アルはその光を眺めながら、昨日ブラートと整理した資料をもう一度確かめていた。
王立魔導研究院から届いた古代の保護判断手順に関する情報は、以前よりも詳しくなっている。しかし、分かったことが増えたからといって、旧保養施設の西側壁面に何があるのかが明らかになったわけではなかった。
保持状態に異常が生じた場合、外部から見える徴候だけで対象の状態を断定しないこと。既存の記録と現在の状態が一致しない場合、原則として状態変更を延期すること。そして、保持を続けること自体が差し迫った危険を生む場合には、保護判断担当と設備管理担当による共同確認が必要だったこと。
それらは重要な情報だったが、アルには、ひとつ気になっていることがあった。
(共同確認が必要だったのは分かった。でも、確認した結果、何もしないと決めた場合はどうなるんだろう)
危険な設備を操作するには、慎重な判断が必要になる。
それは理解できる。
しかし、危険があるかもしれない状況で、状態を維持するという選択もまた、誰かに影響を与える可能性があった。
何もしないことが、必ずしも何も決めていないことにはならない。
アルは机の上の紙を一枚取り、そこへ短い文章を書き加えた。
『状態変更を見送る判断についても、理由と再確認の条件が記録されていたのか』
書き終えてから、彼は少し考えた。
今までの調査では、どうすれば安全に状態を変更できるのかという問題に注意が向きがちだった。もちろん、実際に操作するための方法を探しているわけではないが、古い手順書を読む以上、承認や禁止の条件が気になるのは自然なことだった。
けれど、状態変更を見送ったあと、その判断を誰が見直すのかという問題もある。
昨日は危険が確認されなかったとしても、明日も同じとは限らない。
だからといって、毎日無理に新しい判断を下す必要もない。
アルは紙の端を指で押さえながら、以前の自分ならどう考えただろうかと思い返した。
王太子として政務を担当していた頃、保留という判断は珍しくなかった。資料が足りない案件は追加調査へ回し、関係部署の意見が一致しない場合には、結論を急がないよう指示したこともある。
しかし、そのあとに何が起きたのか、すべてを自分で確かめられたわけではなかった。
保留した案件が、適切な時期に再検討されたのか。
担当者が変わっても、保留した理由は伝わっていたのか。
当時は仕組みがあることを当然と思っていたが、今になって考えると、そこにも人の判断が必要だったのだろう。
扉を叩く音が聞こえたのは、そんなことを考えていたときだった。
「アル様、少しよろしいでしょうか」
ブラートの声だった。
「うん、入って。ちょうど相談したいことがあったんだ」
アルが答えると、ブラートは数枚の資料を抱えて入ってきた。彼は机の上の空いている場所を確認してから書類を置き、アルが手元に広げていた紙へ視線を向けた。
「研究院への追加照会でしょうか」
「そう。状態を変えないと決めた場合、その判断をどう扱っていたのかが気になってね」
ブラートは書き込まれた文章を読み、しばらく考えた。
「確かに、現在確認できている資料では、状態変更を延期する条件は示されていますが、延期した判断をいつ、どのように見直すかについては明確ではありません」
「だよね。保留したまま忘れられるのも困るし、逆に、何も変わってないのに毎回同じ判断を繰り返すのも負担になる」
「その点は、現在の旧保養施設の観測にも関係するかもしれません。ただし、古代の制度と現場の運用を同一視しないことが前提になります」
アルは頷いた。
ブラートは机の向かいへ腰を下ろし、持参した資料を一枚取り出した。
「実は、研究院から追加照会を提出したという連絡がありました。保護判断担当と設備管理担当の資格や、共同確認と承認手順の関係について、索引の範囲で確認を求めているそうです」
「もう問い合わせてくれたんだね」
「はい。ただ、返答には時間がかかる見込みです。閲覧できる範囲が限定されていますので、照会の内容そのものについても確認が必要だそうです」
アルは資料を受け取り、内容を読み進めた。
研究院の担当者たちは、知りたいことを増やしながらも、許可された範囲を越えないよう慎重に調査を続けている。
その姿勢には、アルも安心していた。
「じゃあ、俺が気になったことも追加で伝えてもらえるかな。ただし、今の照会に無理に組み込まなくていい。まずは、確認できる範囲なのか聞いてもらえれば十分だよ」
「承知しました。状態変更を見送った判断の記録と、再確認の条件についてですね」
「うん。それと、分からなければ分からないままでいいってことも伝えておいて」
ブラートは静かに頷いた。
アルは書類をまとめながら、窓の外へ目を向けた。
森の向こうには、今日も穏やかな空が広がっている。
古い制度を調べることは、過去の誰かが何を考えていたのかを知ろうとすることでもある。
けれど、残された文章だけで、その人たちの意図をすべて理解できるわけではない。
アルはそのことを、忘れないようにしたかった。
◇
塔の居間では、セリーが小さな木製の鳥を手に取っていた。
窓際の棚に並んでいた二羽のうち、彼女が持っているのは自分で作った「そら」だった。少し上を向いた姿勢の鳥は、昨日よりも柔らかな光を受けており、翼の部分に残った細かな削り跡まで見える。
セリーは指先で表面を確かめ、以前アルが作った「まる」へ視線を移した。
丸い胴体に短い首を持つその鳥は、やはり本物の鳥とは少し違う形をしている。それでも、二羽を並べて眺める時間は、彼女にとってすっかり楽しみのひとつになっていた。
昨日、アルは作業室で何かを作っていた。
自分への贈り物だということは聞いているが、完成するまで秘密にしておきたいと言われたため、セリーはそれ以上尋ねていない。
気にならないわけではなかった。
むしろ、何を作っているのだろうと考えるたび、胸の奥に温かいものが広がるような感覚があった。
(主様が私のために何かを考えてくださっている。その時間があるというだけで、こんなにも嬉しいのですね)
セリーは「そら」を棚へ戻し、少し離れた場所から二羽を眺めた。
アルから贈り物を受け取ること自体は、これまでにもあった。
生活に必要なものや、塔で使う道具を用意してもらったこともある。
しかし、今回は少し違う。
仕事のためでも、塔の維持のためでもない。
アルが自分のために何かを作りたいと思い、時間を使ってくれている。
そのことが、セリーには嬉しかった。
ただ、完成したものを受け取ったとき、自分がどんな反応をするのかは分からない。
彼女は以前、主の望む反応を返すことを当然としていた。
何かを与えられれば礼を述べ、必要なものなら適切に管理する。
それが自分の役割だと考えていた。
今は、違う。
嬉しければ嬉しいと伝えたいし、驚いたなら驚いたと伝えたい。
もし使い方が分からなければ、尋ねてもいいのだと思えるようになっている。
セリーはその変化を、静かに受け止めていた。
そんなとき、廊下からアルの足音が近づいてきた。
セリーが振り返ると、アルは資料を数枚抱えて居間へ入ってきた。
「おはよう、セリー。まるとそらを見てたの?」
「はい。今朝は光の当たり方が綺麗でしたので、少し眺めていました」
アルは棚へ目を向け、二羽の鳥を見つめた。
「本当だ。昨日より、そらの翼がよく見えるね」
「はい。削った跡も見えますが、それも含めて気に入っています」
セリーが答えると、アルは嬉しそうに笑った。
「俺も、まるの形は今のままでいいかなって思ってる。直そうか迷ってたけど、見慣れてくると、これがまるらしい気がして」
「私もそう思います。もし形を変えてしまったら、少し寂しく感じるかもしれません」
アルはその言葉に頷き、棚の前へ立った。
「じゃあ、まるはこのままにしよう。最初に作ったものだしね」
セリーは微笑んだ。
二人はしばらく並んで木彫りを眺めていたが、やがてアルが手元の資料を持ち直した。
「午前中は研究院への追加連絡をまとめるつもりなんだ。そのあと、昨日の木工を少し進めたいと思ってる」
セリーは顔を上げた。
「昨日の続きですね。完成を楽しみにしています」
「ありがとう。でも、まだ少し時間がかかるかもしれない」
「急がなくて大丈夫です。主様が作りたいと思える形になるまで、ゆっくり進めてください」
その言葉に、アルは少し照れくさそうに笑った。
「うん。そうするよ」
セリーはアルの表情を見つめながら、自分も今日の時間をどう使おうかと考え始めた。
新しい刺繍の図案を描くのもいい。
庭の花を眺めるのも楽しそうだ。
あるいは、町で購入した糸の残りを使って、小さな布飾りを作ってみるのもよいかもしれない。
やりたいことがいくつも思い浮かぶ。
以前なら、予定が決まっていない時間をどう扱えばよいのか迷っていた。
今は、その迷いさえ少し楽しかった。
◇
王立魔導研究院では、古い保護判断手順に関する追加照会の内容が確認されていた。
閲覧許可が出た設備管理資料には、いくつかの重要な原則が残されている。しかし、共同確認と承認手順の具体的な関係は分からず、担当者の資格や権限についても不明な部分が多かった。
研究員は机の上へ広げた照会文を読み返し、同僚へ声をかけた。
「今回の問い合わせ、少し整理し直した方がいいかもしれない」
同僚は書類から顔を上げた。
「どの部分だ?」
「担当者の資格について、直接本文を求める形になっているところだよ。個別の保護対象に関する情報が含まれている可能性があるなら、最初から索引の有無だけを尋ねた方がよさそうだ」
同僚は頷き、照会文を受け取った。
「確かに、その方が保管部署も判断しやすいかもしれないな。閲覧できない資料を無理に求めていると思われるのも避けたい」
「うん。私たちが知りたいのは、制度上どんな担当区分があったのかということだから」
研究員は別の紙へ新しい文章を書き始めた。
古い制度の担当者がどのような資格を持っていたのか。
共同確認と承認は同じ段階だったのか、それとも別々の手続きだったのか。
状態変更を見送った場合、その理由や再確認の条件を記録する仕組みが存在したのか。
それらを、個別の保護対象情報へ踏み込まずに確認できるかどうか。
研究員は慎重に言葉を選んだ。
しばらくして、同僚が一つの箇所を指さした。
「ここに『承認者の人数』ってあるけど、これは今の段階で聞く必要があるかな」
研究員はその部分を読み返した。
「……確かに、まだ早いかもしれない。そもそも承認が一段階だったのかどうかも分からないからね」
「そうだな。人数を聞くと、最初から特定の仕組みを想定しているようにも見える」
研究員は頷き、その項目を削除した。
資料を調べる際には、何を知りたいかを明確にすることが大切だ。
しかし、知りたいことを先に決めすぎると、その答えに合う情報ばかり探してしまう危険もある。
研究員たちは、今回の調査でそのことを何度も意識していた。
以前、古い分類名と現在の施設の名称が似ていることから、同じ設備に関する記録ではないかと考えたことがあった。
だが、資料を確認するにつれて、同じ言葉が複数の設備や制度で使われていた可能性も見えてきた。
似ているからといって、同じものだとは限らない。
その慎重さは、調査を遅くしているようにも感じられたが、誤った結論を出すよりはよほどよかった。
「……こうして見ると、分からないことを分からないままにしておくのも、仕事の一部なんだな」
同僚が呟くと、研究員は少し笑った。
「そうだね。でも、ただ放っておくわけじゃない。何が分からないのかを記録して、確認できる方法があるか探すんだ」
二人は照会文を完成させ、保管部署へ提出した。
返答が届くまで、どれほど時間がかかるかは分からない。
それでも、今回の問い合わせは、以前よりも少し整理されたものになっていた。
◇
リューネの共同相談窓口では、エルザ・ノイマンが利用者から寄せられた意見を整理していた。
新しい説明方法の試験を始めてから、職員たちは毎日のように小さな発見をしている。
説明を受ける方法を選べることを喜ぶ人もいれば、選択肢が多いと迷ってしまう人もいる。
以前の希望を継続したい人もいれば、相談内容が変わるたびに最初から説明を受けたい人もいた。
エルザは机の上に並べた記録を見つめ、少し考え込んだ。
(誰にとっても同じように使いやすい書類を作るのは、難しいのね)
だからといって、諦めるわけにはいかない。
大切なのは、すべての人へ同じ方法を押しつけないことだ。
しかし、職員が毎回複雑な判断をしなければならない仕組みでは、窓口の負担が大きくなり、かえって説明の質が不安定になる可能性もある。
エルザは記録用紙へ視線を落とした。
そこには、ある利用者から寄せられた意見が書かれていた。
『前に決めたことを、毎回最初から聞かれるのは面倒。でも、何も聞かれなくなるのも不安』
エルザはその一文を読み返した。
相反するように見える希望だったが、本人にとっては矛盾していないのだろう。
毎回すべてを説明してほしいわけではない。
けれど、自分の知らないところで何かが変わるのは嫌だ。
そういうことなのだと思った。
そのとき、受付の若い担当者が声をかけてきた。
「エルザさん。昨日の相談について、少し確認していただきたいことがあります」
「はい。どうしましたか?」
担当者は一枚の記録用紙を差し出した。
「説明方法を途中で変更された方が、今日もう一度来られたんです。昨日は書面も見たいとおっしゃっていたのですが、今日は口頭だけで大丈夫だそうで……」
エルザは記録を受け取り、内容を確認した。
「なるほど。では、今日の希望を優先してよいと思います」
「ただ、昨日の希望と違うので、記録をどう扱えばよいか迷ってしまって」
担当者は少し困った顔をした。
エルザはしばらく考えてから、穏やかに答えた。
「昨日の希望を消す必要はありません。昨日は書面も必要だったけれど、今日は口頭で十分だった。その両方を記録しておけばいいと思います」
「変更した理由も聞いた方がいいでしょうか」
「本人が話したいなら聞いてもいいですが、必ず理由を説明していただく必要はないと思います」
エルザは記録用紙の端を指で示した。
「昨日と今日で希望が違うこと自体は、問題ではありません。相談内容や気分によって、必要な説明方法が変わることもあるでしょうから」
担当者は少し安心したように頷いた。
「分かりました。では、今日の希望を新しく記録します」
「はい。それと、次回も同じ方法でよいかどうかは、必要な範囲で確認してください」
担当者が受付へ戻ったあと、エルザは記録を机へ置いた。
人の希望は、いつも同じとは限らない。
以前の判断を尊重することと、今の希望を聞かないことは違う。
その当たり前のことを、制度の中でどう表現するか。
エルザは新しい書類案へ、もう一つの項目を書き加えた。
『以前の希望と異なる場合も、理由を説明せず変更できます』
書き終えたあと、彼女は少し考えた。
この一文も、実際に使う人には分かりにくいかもしれない。
だから、すぐに正式な文面へ採用するのではなく、職員たちと相談し、利用者の意見を聞いてみよう。
エルザはそう決め、書類案をまとめた。
◇
旧保養施設の西側では、リディアが観測記録の整理を進めていた。
試験的に導入した柔軟な確認順序については、少しずつ記録が集まっている。
観測者によって使いやすい方法が違うことは、すでに分かっていた。
ただし、確認順序を変えたことによって観測結果そのものが改善したのかどうかは、まだ判断できない。
リディアはその点を意識しながら、記録を比較していた。
そこへ、トーマスが新しい報告用紙を持って入ってきた。
「リディアさん、午前の観測記録です。表示窓と受動計測器に新しい異常はありませんでした」
「ありがとうございます。確認順序についてはどうでしたか?」
「私は昨日と同じ順番で行いました。途中で迷うこともなく、落ち着いて確認できたと思います」
トーマスは少し考えてから続けた。
「ただ、ほかの隊員は、今日は別の順番の方がやりやすかったそうです。日によって違うこともあるんですね」
リディアは頷いた。
「そうですね。体調や周囲の状況によって、集中しやすい方法が変わることもあると思います」
「では、毎回同じ順番に固定しない方がいいのでしょうか」
「そこは、まだ決めなくてよいと思います。固定した方が落ち着く人もいれば、状況に合わせて変えたい人もいるでしょうから」
リディアは記録用紙を机へ置いた。
「大切なのは、観測対象を見落とさず、安全な範囲で確認できることです。順番を変えること自体を目的にしてはいけません」
トーマスは頷いた。
以前の彼なら、よい方法を一つ見つけて、それを全員へ広めたいと考えていたかもしれない。
しかし、今は少し違う。
観測する人が違えば、必要な工夫も違う。
それを理解したうえで、安全を守る仕組みを考えることが大切なのだと思えるようになっていた。
「……分かりました。今日の記録にも、その点を残しておきます」
トーマスが答えると、リディアは微笑んだ。
「お願いします。それから、以前の直線状の見え方については、引き続き特別な確認を増やさないようにしてください」
「はい。通常の観測範囲で確認していますが、新しい独立確認はありません」
「それで十分です」
リディアは頷いた。
西側壁面の三つの表示窓は、今日も静かだった。
受動計測器にも、明確な異常は現れていない。
以前報告された直線状の差異についても、新しい確証は得られていなかった。
だからこそ、今は無理に何かを探す必要はない。
リディアは記録をまとめ、ガルムへ提出するための報告書を作り始めた。
◇
午後、アルは塔の作業室で木製の飾り台を手に取っていた。
昨日から作り始めたものだが、まだ完成には至っていない。
表面は少しずつ滑らかになってきたものの、上面へ設ける予定の溝は、まだ途中までしか削れていなかった。
アルは木片を作業台へ置き、定規で位置を確かめた。
紙や小さな板を立てかけられるようにするためには、溝の深さと角度をある程度揃える必要がある。
ただ、完全に正確な寸法へ仕上げることが目的ではない。
セリーが好きなものを置けるように、使いやすい形にしたかった。
アルは小さな刃物を持ち、慎重に木材を削り始めた。
木の繊維に沿って刃を動かすと、細い削り屑が作業台へ落ちていく。
途中で少し角度がずれたため、アルは手を止め、溝の形を確かめた。
「……うーん。思ったより難しいな」
独り言を漏らしながら、彼は木片を持ち上げた。
溝の片側が、わずかに深くなっている。
このままでも紙を立てることはできるかもしれないが、薄い板を置くと傾いてしまう可能性があった。
アルは少し考え、もう一度定規を当てた。
(ここを無理に削り直すより、全体の角度を少し変えた方がよさそうだな)
最初の設計にこだわりすぎると、かえって形が崩れるかもしれない。
それなら、今できている形を生かしながら調整した方がよい。
アルは慎重に刃を動かし、溝の片側を少しずつ整えていった。
作業室には、木材を削る静かな音が続いた。
しばらくして、エルが近くの机から声をかけてきた。
『アル、作業の進捗はいかがですか』
アルは顔を上げた。
「少しずつ進んでるよ。ただ、溝の角度が思ったより難しくてね」
『寸法精度を優先する場合、補助治具の使用を推奨します』
「補助治具?」
『刃物の角度を一定に保つための道具です。塔内の設備で作成可能です』
アルは少し考えた。
自分で作ることにこだわりたい気持ちはある。
しかし、必要な道具を使うことまで避ける理由はない。
「それなら、使ってみようかな。自分で削ることは変わらないしね」
『承知しました。安全性を優先した簡易型をご用意します』
エルの返答に、アルは頷いた。
少しして、作業台の近くに小さな補助具が用意された。
刃物の動きを一定の角度へ導くためのもので、木片を固定したまま使えるようになっている。
アルは使い方を確認し、慎重に作業を再開した。
先ほどよりも刃の角度が安定し、溝の形が少しずつ整っていく。
「……なるほど。これは便利だな」
『適切な道具を使用することは、制作の主体性を損なうものではありません』
エルが淡々と答えた。
アルは思わず笑った。
「それ、今の俺が考えてたことと同じだよ」
『そうでしたか』
「うん。全部一人でやらなきゃ、自分で作ったことにならないわけじゃないもんね」
アルは木片を持ち上げ、溝の形を確かめた。
まだ仕上げは必要だが、紙を立てるための基本的な形はできていた。
試しに薄い板を差し込んでみると、少し傾きながらも、倒れずに立っている。
「……よし。これなら、もう少し調整すれば使えそうだ」
アルは嬉しそうに微笑んだ。
完成までは、あと少し。
ただし、急いで仕上げるつもりはなかった。
セリーへ渡すときには、自分が納得できる形にしたかった。
◇
夕方、塔の居間では、アンナマリーが研究院から届いた資料の整理を手伝っていた。
アルとブラートが午前中に確認した内容をもとに、今後の照会で必要になりそうな項目を分類している。
机の上には、古い保護判断制度に関する記録が並んでいた。
アンナマリーはそのうちの一枚を手に取り、少し考えた。
「アル。ひとつ気になったことがあるのだけれど」
「何?」
アルが顔を上げると、アンナマリーは資料の一節を指さした。
「状態変更を延期する場合の記録について、あなたが追加照会を考えたでしょう。それを読んでいて思ったのだけれど、昔の制度では、何もしないと決めた理由も残していたのかしら」
「俺も、そこが気になったんだ」
アルは頷いた。
「状態を変えるには承認が必要だったとしても、変えないと決めた場合に何も記録しなくていいとは限らないからね」
アンナマリーは静かに頷いた。
「そうね。もし誰かが危険を訴えていたのに、確認できないという理由だけで延期されたのなら、その判断を後から見直せる仕組みが必要だったかもしれない」
ブラートも資料へ目を向けた。
「ただし、現時点ではそのような事例が存在したかどうかも不明です。あくまで制度上の可能性として考える必要があります」
「ええ。そこは分けて考えましょう」
アンナマリーは頷いた。
アルは二人の会話を聞きながら、少し考え込んだ。
古い制度の中で、誰が何を守ろうとしていたのか。
その目的が、後の時代にどのように受け継がれたのか。
そして、どこかで変わってしまったのか。
まだ分からないことは多い。
しかし、だからこそ、残された記録を丁寧に読み解く必要があるのだろう。
「……研究院から返事が来るまでは、今の資料を整理しておこうか」
アルが言うと、ブラートは頷いた。
「はい。照会内容と既存資料の関係を整理しておけば、次の情報が届いた際にも確認しやすくなります」
アンナマリーも微笑んだ。
「それなら、私も手伝うわ。今日はまだ少し時間があるもの」
「ありがとう。助かるよ」
三人は机へ向き直り、資料の整理を続けた。
窓の外では、夕方の光が少しずつ柔らかくなっていた。
◇
夜、アルはセリーと一緒に居間で過ごしていた。
窓際の棚には、まるとそらが並んでいる。
机の上には、セリーが作った栞を挟んだ書物が置かれ、その隣では彼女が新しい刺繍の図案を描いていた。
アルは書物を閉じ、セリーへ声をかけた。
「今日、木工が少し進んだよ」
セリーは顔を上げた。
「そうなのですね。完成が近づいているのでしょうか」
「うん。あと少し調整すれば、形にはなりそう。でも、最後の仕上げはもう少し考えたいかな」
アルは少し照れくさそうに笑った。
「セリーが使いやすいものにしたいからね」
セリーは柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます。主様が私のことを考えてくださっているだけでも、とても嬉しいです」
アルはその言葉に少し照れながら、机の上の栞へ目を向けた。
「俺も、セリーが栞を作ってくれたとき、同じように思ったよ」
セリーは少し驚いたように目を瞬かせた。
「……そうなのですか?」
「うん。もちろん、栞そのものもすごく気に入ってる。でも、それ以上に、セリーが俺のために何を作ろうか考えてくれたことが嬉しかったんだ」
アルは穏やかに微笑んだ。
セリーはしばらく彼を見つめていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……私も、同じ気持ちです」
その声には、静かな喜びが滲んでいた。
二人はしばらく顔を見合わせ、それから自然に笑った。
窓の外には、夜の森が広がっている。
塔の中には、穏やかな灯りがともっていた。
古い資料の調査は続いている。
王都では、過去の制度について新しい照会が行われている。
旧保養施設では、安全を守りながら観測を続ける人々がいる。
リューネの町では、住民が自分に合った説明を選べるよう、制度の見直しが進んでいる。
それぞれの場所で、誰かが考え、選び、行動している。
アルもまた、今日、自分で選んだ時間を過ごしていた。
誰かに命じられたわけではなく、誰かを喜ばせたいと思って始めた小さな木工。
その時間は、今の彼にとって大切なものになっていた。
セリーは机の上の図案を一枚持ち上げ、アルへ見せた。
「主様。こちらの模様は、いかがでしょうか」
アルは紙を覗き込んだ。
そこには、小さな花が三つ並んだ図案が描かれている。
「綺麗だね。前に見せてくれたときより、花びらの形が少し変わった?」
「はい。描いているうちに、こちらの方が好きだと思いまして」
「そっか。いいと思うよ」
アルは微笑んだ。
セリーも嬉しそうに頷いた。
二人はそのあとも、しばらく図案を眺めながら話を続けた。
塔の窓際では、まるとそらが静かに並んでいる。
まだ完成していない贈り物も、これから作られる布飾りも、どんな形になるのかは分からない。
けれど、二人はその時間を楽しんでいた。
正しい答えを最初から知っている必要はない。
考えながら、選びながら、少しずつ形にしていけばいい。
古い塔での暮らしは、今日もそんな小さな選択の積み重ねによって、穏やかに続いていた。




