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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第132話 贈り物に必要なのは、正しい答えではなくて



 古の塔の朝は、窓を開ける音から始まった。


 夜の間に冷えた空気が部屋の隅に残っていたものの、東側の窓から差し込む日差しは柔らかく、庭の木々には小鳥が集まっていた。遠くの枝で鳴く声に混じって、風が葉を揺らす音が聞こえてくる。


 アルは居間の机へ一冊の書物を置き、表紙の端から覗いている淡い青緑色の布へ目を向けた。


 セリーが作ってくれた栞だった。


 生成り色の布には、青緑色の糸で小さな葉が刺繍されている。昨夜、何度も眺めてから書物に挟んだため、今朝になってもその位置はすぐに分かった。


 アルは栞をそっと引き抜き、指先で布の縁を確かめた。


 細かな縫い目は驚くほど丁寧だったが、それ以上に嬉しかったのは、模様の形が完全に左右対称ではないことだった。風に揺れる枝を思わせる葉の向きには少しずつ違いがあり、眺める角度によって表情が変わる。


(セリーが自分で考えて、自分で選んで作ってくれたんだよな)


 昨日、彼女が栞を差し出したときの表情を思い出す。


 完成したものを見せる前に、必要だから作ったのではなく、自分が作りたいと思ったから作ったのだと説明してくれた。


 あの言葉は、アルにとって栞そのものと同じくらい大切だった。


 彼女が自分の希望を伝えることに、以前ほど迷わなくなっている。


 もちろん、まだ何かを頼むときには遠慮が見えることもあるし、主と従者という長い習慣が、簡単に消えるわけではない。


 それでも、少しずつ変わってきていることは確かだった。


「……さて、どうしようかな」


 アルは栞を書物へ戻し、窓際の棚を見た。


 そこには、先日二人で作った木彫りの鳥が並んでいる。


 アルが作った丸い鳥の「まる」と、セリーが作った少し上向きの鳥の「そら」だ。


 昨夜、アルはセリーに、自分も何かを作って渡したいと伝えていた。


 その気持ちは今朝になっても変わっていない。


 ただ、何を作るかについては、まだ決められずにいた。


 木彫りなら、道具も材料もある。


 布を使うなら、セリーの裁縫道具を借りることもできるだろう。


 塔には古い魔導具の加工設備もあるため、少し手を加えれば、光る飾りや動く小物だって作れるかもしれない。


 しかし、アルはそのどれにも、すぐには手を伸ばせなかった。


(何を渡したら喜ぶかって、考えてみると難しいな)


 セリーが何を必要としているかなら、ある程度分かる。


 塔の管理に使う道具や、日常生活で便利なものについても、相談すれば候補を挙げられるだろう。


 けれど、今回作りたいのは、彼女の仕事を楽にするための道具ではない。


 セリーが自分のために持っていたいと思えるものだった。


 アルは棚の前に立ち、二羽の木彫りを見つめた。


 どちらも完成度の高い作品ではない。


 それでも、二人で過ごした時間が形になっているというだけで、特別なものになっている。


 そのことを考えたとき、アルは少しだけ笑った。


「……まずは、作ってみるしかないか」


 まだ何を作るか決めたわけではなかったが、机の上に置いていた小さな木片を手に取った。


 贈り物に必要なのは、最初から完璧な答えを知っていることではないのかもしれない。


 相手のことを考えながら、少しずつ形を探していけばいい。


 アルはそう考え、朝食の準備を始めるために部屋を出た。


     ◇


 食堂へ入ると、セリーが朝食を並べているところだった。


 温めたパンと野菜のスープ、薄く焼いた卵料理が二人分用意されている。窓際には小さな花瓶が置かれ、庭で摘んだらしい白い花が数輪飾られていた。


 アルは椅子を引きながら、花瓶へ目を向けた。


「今日は花があるんだね。庭で摘んできたの?」


「はい。朝、窓を開けたときに綺麗だと思いまして。食堂にも少し飾りたくなったので、庭のものを数輪いただきました」


 セリーは花瓶の位置を少し直した。


「もし食事の邪魔になるようでしたら、別の場所へ移します」


「全然。むしろ、いいと思うよ。朝から少し明るい感じがする」


 アルが答えると、セリーは嬉しそうに微笑んだ。


 以前なら、彼女は花を飾る前に、塔の管理上必要かどうかを考えていたかもしれない。


 今は、自分が綺麗だと思ったから飾ることができる。


 その変化をアルは嬉しく感じていたが、わざわざ口にして彼女の行動を評価するようなことはしなかった。


 セリーが自由に選んだことを、毎回特別な成長として扱う必要はない。


 それが当たり前の日常になっていく方が、きっといい。


 二人は席に着き、朝食を食べ始めた。


 スープには細かく刻んだ香草が入っており、いつもより少し爽やかな香りがする。


「この香り、昨日までと違うね」


 アルが尋ねると、セリーは頷いた。


「先日、町で購入した香辛料を少量使ってみました。以前食べた煮込み料理の風味を参考にしたのですが、同じ味を再現するより、塔で普段作る料理に合うよう調整してみたくなりまして」


「なるほど。俺はこっちの味も好きだな。野菜の甘さが残ってるし、朝でも食べやすいよ」


「ありがとうございます。次は、別の野菜でも試してみたいと思います」


 セリーは自分の皿へ目を向け、少し考えた。


「ただ、香辛料の量はもう少し減らしてもよいかもしれません。後味が少し強いようにも感じますので」


「そうかな。俺はちょうどいいと思うけど、セリーが気になるなら次は変えてみようか。今日の味と比べられるし」


 アルが言うと、セリーは柔らかく笑った。


「はい。では、次は少し違う配合にしてみます」


 食事を進めるうちに、アルは今日の予定を伝えた。


「午前中は資料室で、研究院から届いた内容を整理しようと思ってる。そのあと、少し木工をやってみたいんだ」


 セリーは顔を上げた。


「木工ですか。先日の鳥とは別のものを作られるのでしょうか」


「うん。まだ決めてないけどね。昨日、セリーに何か作りたいって言っただろう? そのために、ちょっと練習してみようかなって」


 アルは照れくささを隠すようにパンを手に取った。


 セリーは一瞬だけ驚いたように目を瞬かせ、それから嬉しそうに微笑んだ。


「……そうでしたね。主様が何を作られるのか、とても楽しみです」


「期待しすぎないでね。まるを作ったときみたいに、予定と違うものができるかもしれないから」


「それでも構いません。主様が私のために考えてくださることが、嬉しいのです」


 セリーの言葉に、アルはパンを持つ手を止めた。


 彼女は穏やかな表情のまま、特別なことを言ったつもりもないようにスープへ視線を戻している。


 アルは胸の奥が温かくなるのを感じた。


(……そういうことを自然に言うようになったんだよな)


 嬉しさと照れくささが入り混じり、何と返せばいいのか少し迷った。


 結局、アルは小さく笑って頷いた。


「うん。じゃあ、楽しみにしてて」


 セリーはその返事を聞いて、また嬉しそうに微笑んだ。


 食堂の窓からは朝の光が差し込み、花瓶に挿した白い花の影が、二人の間のテーブルへ細く伸びていた。


     ◇


 王立魔導研究院では、限定閲覧によって得られた資料の整理が続いていた。


 閲覧できた範囲は設備管理に関する部分に限られており、保護対象の個別情報や、対象を特定できる記録については、引き続き閲覧が認められていない。


 研究員たちは、その制限を前提に、確認できた記述を分類していた。


 机の中央には、古い手順書から抜き出した文章と、それぞれの出典を示す記録が並べられている。


 そのうちの一枚には、以前から注目していた記述があった。


『保持状態の継続によって対象に差し迫った危険が生じると判断される場合は、保護判断担当および設備管理担当による共同確認を要する』


 研究員はその一文を指で示した。


「この『共同確認』という言葉について、もう少し慎重に整理したい」


 向かいに座る同僚が顔を上げた。


「何か気になることがあるのか?」


「うん。私たちはこれまで、二つの担当が確認する仕組みだと考えていた。でも、実際には『共同確認』の具体的な方法が書かれていない」


 研究員は別の資料を机へ寄せた。


「たとえば、両方の担当が同じ場で判断するのか、それぞれが別々に確認した結果を照合するのか。それによって、制度の意味は少し変わると思う」


 同僚は頷き、記録を読み返した。


「確かにそうだな。承認手順という分類もあるけど、共同確認と承認が同じ段階なのか、それとも別なのかは分からない」


「そう。だから、共同確認があれば状態変更を認められる、という解釈は避けたい」


 研究員は紙の余白へ注意書きを加えた。


 古い制度の中に複数の担当が関わる仕組みがあった可能性は高まっている。


 しかし、それだけで具体的な操作条件を確定することはできない。


 また、保護判断担当と設備管理担当という名称が、当時どのような権限を持つ役職だったのかも不明だった。


「追加で照会するなら、担当者の資格に関する索引が必要かもしれないな」


 同僚が提案した。


「ただ、そこには保護対象の個別情報が含まれている可能性もある。閲覧範囲を越えないようにしないと」


「うん。今回は、担当部署や承認段階の分類だけを確認できないか問い合わせよう」


 研究員は頷いた。


 彼らが知りたいのは、誰が保護されていたのかという個人情報ではない。


 どのような判断を経て、状態変更が認められていたのかという制度上の仕組みだった。


 もちろん、その仕組みを知ることが、現在の施設で何かを操作する許可につながるわけではない。


 むしろ、判断の前提がどれほど多かったのかを理解するための調査だった。


 研究員は照会文を作成し、内容を同僚と確認した。


 その文章には、現在閲覧できる資料だけでは共同確認と承認の関係が不明であること、担当者の資格や権限を示す索引の有無を知りたいこと、個別の保護対象情報は求めないことが明記されていた。


 書類を提出したあと、研究員は椅子へ背を預けた。


「……少しずつだけど、調べるべきことが整理されてきたね」


 同僚は頷いた。


「そうだな。ただ、分からない部分があるからって、無理に埋めようとしないことも大切なんだろう」


「うん。そこは忘れないようにしたい」


 窓の外では、研究院の中庭を職員たちが行き交っていた。


 古い資料の中に残された言葉は、まだ現在の誰かの行動を直接変えるものではない。


 それでも、知らないまま判断してはいけないことがあると教えてくれる。


 研究員はそう考えながら、次の整理作業へ取りかかった。


     ◇


 リューネの共同相談窓口では、新しい説明方法の試験が三日目を迎えていた。


 正式な申請書は従来のものを使用したまま、説明の仕方だけを利用者の希望に合わせて変えるという試みである。


 エルザ・ノイマンは受付の奥にある机で、前日までの記録を確認していた。


 試験に協力した利用者の反応は、決して一様ではない。


 最初から書面を読んでおきたい人もいれば、職員に一項目ずつ説明してほしい人もいる。


 説明方法を選べることを歓迎する声がある一方、選択肢が増えたことで、かえって何を選べばよいか迷うという意見もあった。


 エルザはそれらを読み返し、少し考え込んだ。


(選べることが増えれば、必ず楽になるとは限らないのね)


 本人の意思を尊重するために選択肢を増やしても、その選択自体が負担になってしまえば、本来の目的から離れてしまう。


 だからといって、職員が勝手に最適な方法を決めてしまうのも違う。


 エルザは記録用紙へ視線を落とした。


 そのとき、受付の若い担当者が声をかけてきた。


「エルザさん。少し相談してもよろしいでしょうか」


「もちろんです。何かありましたか?」


 担当者は一枚の記録用紙を持っていた。


「先ほど来られた方が、説明方法を選ぶこと自体が面倒だとおっしゃっていました。以前から利用されている方で、毎回同じ説明を受ける必要はないと思っていらっしゃるようです」


「なるほど。その方は、どのような方法を希望されましたか?」


「必要な変更があったときだけ説明してほしいそうです。ただ、それでよいと決めてしまうと、後から本人が不安になることもあるのではないかと思いまして」


 エルザは少し考えた。


「その方が、何について説明を省いてよいと考えているのかは確認しましたか?」


「はい。以前と同じ相談内容については、毎回詳しく聞く必要はないそうです。ただ、新しい情報を確認する場合や、扱いが変わる場合には説明してほしいと」


「それなら、その希望をそのまま記録するのがよいと思います」


 エルザは穏やかに答えた。


「もちろん、必要な説明まで省くわけにはいきません。でも、本人が繰り返し聞きたくないと希望している部分については、その負担を減らす方法を考えられるはずです」


 担当者は頷いた。


「では、次回からは変更点を中心に説明する形でよろしいでしょうか」


「はい。ただし、その方法を続けたいかどうかは、本人がいつでも変えられるようにしておきましょう」


 担当者は少し安心したように微笑んだ。


「分かりました。ありがとうございます」


 彼が受付へ戻ったあと、エルザは新しい記録欄を考え始めた。


 説明方法を選ぶ項目とは別に、以前の希望を継続するかどうかを簡単に確認できる仕組みがあれば、利用者の負担を減らせるかもしれない。


 ただし、それも一度決めたら変更できないものにしてはいけない。


 エルザは紙へいくつかの案を書き、まだ結論を出さずに机の端へ置いた。


 制度を作ることは、正しい答えを一度決めることではない。


 使う人の声を聞きながら、必要に応じて直していくことなのだろう。


     ◇


 旧保養施設では、ガルムが午前の観測報告を確認していた。


 西側壁面の三つの表示窓には、明確な発光は認められていない。


 受動計測器にも異常はなく、以前報告された直線状の差異についても、新たな独立確認は得られていなかった。


 リディアは机の向かいに座り、試験中の観測方法について説明していた。


「現在のところ、観測者によって使いやすい順序が違うことは確認できています。ただ、どの方法が最もよいかを決めるには、まだ記録が足りません」


 ガルムは頷いた。


「無理に一つへまとめる必要はない。安全に観測できることが第一だ」


「はい。観測対象や禁止事項は変えずに、確認の順序だけを調整しています」


 リディアは記録を一枚めくった。


「ただ、ひとつ気になる点があります。確認順序を自由に選べることを、負担に感じる隊員もいるようです」


「前にも似た話があったな」


「はい。そのため、本人が使いやすい順序を決めておき、必要がなければ毎回変更しなくてもよい形を考えています」


 ガルムは少し考えたあと、頷いた。


「それならいいだろう。ただし、試験の結果として記録しておけ。後から誰かが、全員同じ順番で観測していたと思い込まないようにな」


「承知しました」


 リディアは記録用紙へ追記した。


 観測方法を変えることと、観測対象へ働きかけることは違う。


 今回の試験は、あくまで観測者の負担を減らし、見落としを防ぐためのものだった。


 西側壁面へ近づく位置を変えたり、表示窓へ光を当てたり、古い挿入部へ触れたりすることは認められていない。


 また、保持状態や冷却に関わる設備にも変更を加えていなかった。


 ガルムは資料を閉じ、窓の外へ目を向けた。


 建物の向こうには、静かな西側の壁が見えている。


 あの壁の向こうに何があるのかは、まだ分からない。


 けれど、分からないことを理由に危険な確認を行うつもりはなかった。


「……研究院から新しい情報が届いたら、また整理が必要になるかもしれんな」


 ガルムが呟くと、リディアは頷いた。


「はい。ただ、資料が増えたからといって、現場でできることが増えるとは限りません」


「そのとおりだ」


 ガルムは短く答えた。


 彼らにとって大切なのは、古い謎を一日でも早く解くことではない。


 施設にいる人々の安全を守りながら、確認できる事実を積み重ねることだった。


     ◇


 昼食を終えたアルは、塔の作業室へ向かっていた。


 手には小さな木片と、先日町で購入した木工用の定規を持っている。


 作業室には、古い魔導具の整備に使う設備と、日常的な修理に使う道具が並んでいた。窓際には小さな作業台があり、木材を削る際にはそこを使うことにしている。


 アルは道具を並べ、木片を机へ置いた。


 何を作るかについては、午前中の資料整理の合間にも考えていた。


 最初に思いついたのは、小さな箱だった。


 セリーは裁縫を楽しむようになっているため、糸や針をしまう箱なら使ってもらえるかもしれない。


 しかし、彼女はすでに自分の裁縫道具を持っている。


 わざわざ新しい箱を作っても、使い道がない可能性があった。


 次に考えたのは、木製の飾りだった。


 先日作った鳥と同じように、棚へ置いて楽しめるものなら、仕事のための道具にならずに済む。


 ただ、同じものばかり作るのも少し違う気がした。


 アルは木片を手に取り、しばらく考えた。


(セリーが喜びそうなものを作りたい。でも、何が喜ばれるかって、俺が勝手に決めていいことなのかな)


 そう考えたところで、アルは小さく笑った。


 相手への贈り物なのだから、ある程度は自分で考える必要がある。


 何が欲しいか直接聞くのも悪くないが、今回は少し驚かせたい気持ちもあった。


 ただし、相手が喜ぶことを決めつけてはいけない。


 渡したあとで、使うかどうかを選ぶのはセリー自身だ。


 アルはそのことを意識しながら、木片へ鉛筆で簡単な線を引いた。


 作ろうと思ったのは、小さな木製の飾り台だった。


 机の上に置ける程度の大きさで、上面には小さな溝を設ける。


 そこへ紙や薄い板を立てかければ、絵や図案を飾ることができる。


 セリーが裁縫の図案を置いてもいいし、気に入った絵を飾ってもいい。


 何も置かず、ただの木製の飾りとして使うこともできる。


 用途を一つに決めないものなら、彼女自身が好きな使い方を選べるのではないか。


 アルはそう考え、木片を固定した。


 まずは表面を整え、角を少し丸くする。


 鳥を作ったときよりも単純な形なので、今回は上手くいくかもしれない。


 そう思いながら作業を始めたが、最初の角を削ったところで、思っていたより難しいことに気づいた。


 木材の繊維に沿って刃を動かさなければ、表面がささくれてしまう。


 さらに、左右の角を同じように丸くするつもりが、片方だけ少し大きく削れてしまった。


「……あれ?」


 アルは木片を持ち上げ、左右を見比べた。


 定規を使って確かめると、確かに片方の角が少し小さくなっている。


 完全に失敗したわけではないが、最初に考えていた形とは違っていた。


 アルはしばらく木片を眺めたあと、苦笑した。


「まるのときと同じだな」


 それでも、今回はすぐに削り直さなかった。


 左右が少し違っていても、飾り台として使えないわけではない。


 むしろ、角を丸くすること自体は、手に触れたときの感触を柔らかくするためだった。


 アルは指先で表面を確かめ、危険なささくれがないか確認した。


 それから、少しずつ紙やすりをかけていく。


 作業室には、木材を擦る静かな音が続いた。


 窓から差し込む午後の日差しが、作業台の上へ細長い影を落としている。


 アルは何度か手を止めながら、形を整えていった。


 途中で、エルが近くの机から声をかけてきた。


『アル、何を作っているのですか』


 アルは顔を上げた。


「セリーへの贈り物だよ。まだ途中だけどね」


『木製の小型台座のように見えます』


「うん。紙とか小さな飾りを置けるようにしようと思ってる」


 エルは少し間を置いた。


『その用途であれば、塔内の加工設備を使用した方が寸法精度を高められます』


 アルは思わず笑った。


「それは分かってる。でも、今回は自分で作ってみたいんだ」


『効率を優先しない制作、ということですね』


「そういうことになるかな。上手く作れるかは分からないけど、自分で考えて作る時間も大事にしたいんだ」


 エルは少し考えるように沈黙した。


『理解しました。では、必要な場合のみ加工上の注意をお伝えします』


「ありがとう。危ないことをしそうになったら教えて」


『承知しました。ただし、左右の角の寸法差については、すでに確認されています』


 アルは木片を見下ろした。


「……そこは、もう分かってるよ」


『そうでしたか』


 エルの淡々とした返答に、アルは思わず笑ってしまった。


 作業室には再び木材を磨く音が響き始めた。


 アルは小さな飾り台を手に取り、少しずつ形を整えていく。


 完成までは、まだ時間がかかりそうだった。


     ◇


 夕方、セリーは居間で新しい刺繍の図案を考えていた。


 机の上には数枚の紙が広げられ、それぞれに小さな花や葉の模様が描かれている。


 先日作った栞が思いのほか楽しかったため、今度は別の模様にも挑戦してみたくなったのだ。


 ただし、何を作るかはまだ決めていない。


 布の飾りにするのか、小さな袋にするのか、それとも別のものにするのか。


 セリーは図案を見比べながら、少しずつ考えていた。


 そのとき、作業室から戻ってきたアルが居間へ入ってきた。


「お疲れさま、セリー。何か新しいものを考えてるの?」


 セリーは顔を上げた。


「はい。先日の栞が楽しかったので、別の刺繍もしてみたいと思っています。ただ、まだ何を作るかは決めていません」


「いいね。模様を考えるところから楽しそうだ」


 アルは彼女の向かいへ座り、机の上の紙を眺めた。


 小さな花の模様。


 葉を組み合わせた模様。


 細い線を重ねた幾何学的な模様。


 どれも丁寧に描かれているが、形は少しずつ違っている。


「セリーは、どれが一番好き?」


 アルが尋ねると、セリーは少し考えた。


「……今は、この花の模様が気に入っています」


 彼女は小さな花が三つ並んだ図案を指さした。


「最初は葉の模様を描いていたのですが、途中で花を入れたくなりまして。まだ完成形ではありませんが、眺めていると楽しい気持ちになります」


「そっか。じゃあ、その気持ちを大事にしていいと思うよ」


 アルは微笑んだ。


 セリーは嬉しそうに頷いた。


「はい。そうしてみます」


 しばらく二人で図案を眺めていると、セリーがふとアルの手元へ視線を向けた。


「主様。今日は木工をされていたのですよね」


「うん。まだ完成してないけど、少し進んだよ」


「そうですか。……拝見してもよろしいでしょうか」


 セリーは尋ねてから、少しだけ首を傾げた。


 アルは苦笑した。


「完成するまで秘密にしておこうかなって思ってるんだ」


 その言葉に、セリーは一瞬だけ驚いたあと、柔らかく微笑んだ。


「では、楽しみに待っています」


「うん。あんまり期待しすぎないでね」


「主様が何を作られるのか考える時間も、楽しいですから」


 セリーはそう言って、再び図案へ目を向けた。


 アルはその横顔を見つめながら、少し照れくさくなった。


 贈り物を作ること自体も楽しい。


 けれど、完成を楽しみにしてくれる人がいることは、それ以上に嬉しいのかもしれない。


     ◇


 夜、アルは自室へ戻る前に、作業室へ立ち寄った。


 机の上には、まだ完成していない木製の飾り台が置かれている。


 表面は少しずつ滑らかになってきたが、上面の溝はまだ作っていない。


 左右の角も、よく見ると少し形が違っている。


 アルはそれを手に取り、窓から入る月明かりの中で眺めた。


(……完璧じゃなくても、いいのかもしれないな)


 セリーが作ってくれた栞も、最初の下絵とは少し違う形になったと言っていた。


 それでも、アルはその違いを含めて気に入っている。


 同じように、この飾り台も、作っている途中で形が変わるかもしれない。


 それを無理に直すのではなく、自分がよいと思える形へ整えていけばいい。


 アルは木片を机へ戻し、道具を片づけた。


 明日も少しずつ作業を進めよう。


 急いで完成させる必要はない。


 セリーが自分のために時間をかけて栞を作ってくれたように、アルも彼女のことを考えながら作りたいと思っていた。


 作業室の灯りを落とす前に、アルはもう一度木片を見た。


 まだ名前もない、小さな飾り台。


 それがどんな形で完成するのかは、作っているアル自身にも分からない。


 けれど、完成したときには、きっとセリーへ渡したいと思えるものになっているはずだった。


 アルは静かに扉を閉め、廊下へ出た。


 塔の中には穏やかな夜の空気が流れている。


 遠くの部屋では、セリーがまだ図案を考えているのかもしれない。


 アルはそのことを思い浮かべ、少しだけ微笑んだ。


 古い塔には、まだ知らない秘密が数多く残されている。


 王都では、過去の制度を調べる人々がいる。


 旧保養施設では、安全を守りながら観測を続ける人々がいる。


 リューネの町では、住民が自分に合った方法を選べるよう、制度を直そうとする人々がいる。


 それぞれの場所で、誰かが考え、選び、行動している。


 アルもまた、自分で選んだ時間を過ごしていた。


 誰かに命じられた仕事ではなく、誰かを喜ばせたいと思って始めた、小さな木工の時間。


 その時間が、今の彼にとって大切な自由のひとつになっていた。

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