第131話 知らないままで、決めてはいけないこと
朝食の片づけが終わった頃、古の塔の資料室には、窓から差し込む柔らかな光が広がっていた。
秋へ向かう季節の空気は少しずつ澄み始め、開け放した窓からは、塔を囲む木々の葉が擦れ合う音が聞こえてくる。大きな机の上には、王立魔導研究院から届いた資料の写しが数枚と、ブラートが整理した照合記録が並べられていた。
アルは椅子へ腰を下ろし、昨日確認した古い手順書の一節をもう一度読み返していた。
『保持状態の継続によって対象に差し迫った危険が生じると判断される場合は、保護判断担当および設備管理担当による共同確認を要する』
文章そのものは、それほど長くない。
しかし、そこに含まれている意味を考えると、簡単に読み流せるものではなかった。
(設備を守ることと、その中にいるかもしれない誰かを守ることは、必ずしも同じじゃない。だから、別々の立場から確認する必要があったのかもしれないな)
アルは紙の端を指先で押さえ、向かいに座るブラートへ目を向けた。
「ブラート。この資料にある『保護判断担当』って、当時はどういう人たちだったんだろう。医療関係者なのか、それとも別の資格が必要だったのかな」
ブラートは手元の記録を確認してから、慎重に答えた。
「現時点では分かりません。名称だけを見るなら、保護対象の状態や意思を確認する役割だった可能性があります。しかし、担当者の資格や権限を示す部分は、今回閲覧できた資料には含まれていません」
「そうだよね。今の俺たちが似たような役割を用意したとしても、それが昔の制度と同じだとは限らないか」
「はい。ただ、現在の安全方針を考える際の参考にはできます。重要なのは、古い制度をそのまま再現することではなく、現在の関係者が何を確認でき、何を判断できるのかを明確にすることだと思います」
ブラートの言葉に、アルは頷いた。
王太子だった頃、彼は多くの決裁書類へ目を通してきた。担当部署から上がってきた報告を読み、必要に応じて追加説明を求め、最終的に署名するという仕事を何度も経験している。
だが、今考えると、署名欄に名前があるという理由だけで、すべてを理解したことにはならなかった。
当時は責任を果たそうと必死だったし、周囲もアルに決断を求めていた。けれど、その決断によって影響を受ける人々が何を望んでいたのか、十分に確かめられなかったこともあったのではないか。
アルは資料を閉じずに、少しだけ椅子へ背を預けた。
「もし保護対象が自分の意思を伝えられる存在だったら、その人の希望を聞く仕組みも必要だったはずだよね」
「その可能性は高いと思います。ただし、古い資料には対象種別を問わず適用される場合があると記されています。すべての対象が言葉で意思を伝えられたとは限りません」
「うん。そこも難しいところだな」
ブラートは頷き、別の紙を机の中央へ寄せた。
そこには、以前確認された原則が記されている。
『確認不能は不在を意味せず。応答不能は拒否不存在を意味せず』
アルはその一文を見つめた。
応答がないからといって、何をしてもよいわけではない。
確認できないからといって、何も存在しないと決めてはいけない。
古代の技術者たちが、どのような経験を経てこの原則へ辿り着いたのかは分からない。それでも、少なくとも誰かが、確認できないものを安易に扱うことの危険を理解していたのだろう。
「……この言葉を残した人たちは、何かを守ろうとしていたんだろうね」
アルが呟くと、ブラートは少し考えてから答えた。
「そうかもしれません。ただ、その目的が後の時代にも正しく守られたかどうかは、別の問題です」
アルは静かに頷いた。
帰還管理に関する古い制度が、長い年月の中で、本来の意思尊重から離れた運用へ変わっていった可能性を、彼らはすでに知っている。
よい目的で作られた仕組みでも、使う人や時代が変われば、別のものになってしまうことがある。
それを忘れずに調べなければならなかった。
◇
同じ頃、塔の別室では、セリーが小さな布飾りの仕上げを進めていた。
机の上には、町で自分の意思で選んだ淡い青緑色の糸と、生成り色の布が広げられている。窓から入る光の中で、細い針が布を行き来するたび、刺繍の模様が少しずつ整っていった。
彼女が作っているのは、アルに渡すための小さな栞だった。
最初は、自分が気に入った糸を何に使おうかと考えていただけだった。けれど、資料室で古い書物を読むアルの姿を思い浮かべたとき、ふと、栞を作ってみたいと思ったのである。
塔には、書物を傷めないための道具が十分に揃っている。
もちろん、魔導具を利用すれば、読んでいる場所を記録することも難しくない。
だから、この栞は必要不可欠なものではなかった。
それでも、セリーは作りたかった。
(主様が使ってくださるかどうかは、分かりません。それでも、私はこれをお渡ししたいと思っています)
セリーは針を止め、布に浮かび上がった模様を確かめた。
青緑色の糸で描いたのは、塔の窓から見える木の枝と、小さな葉を組み合わせた飾りだった。複雑な図案ではないが、葉の向きや間隔を少しずつ変えることで、風に揺れているような柔らかさを出している。
最初に描いた下絵とは、少し違う形になっていた。
以前のセリーなら、下絵と異なる部分を修正しようとしたかもしれない。
けれど今は、途中で生まれた形を気に入っていた。
そのことが、彼女自身にも不思議だった。
作業を続けていると、開けた窓から小鳥の声が聞こえてきた。
セリーは顔を上げ、枝から枝へ飛び移る鳥を見つめた。
居間の棚には、アルが作った「まる」と、自分が作った「そら」が並んでいる。
どちらも本物の鳥のようには飛べないし、町で見た木製玩具のように歩くこともできない。
それでも、二人にとって大切なものになっていた。
(何かの役に立つから大切なのではなく、私たちが作ったから大切なのですね)
セリーは小さく微笑み、再び針を持った。
栞の完成まで、あと少しだった。
◇
旧保養施設の西側では、午前の観測が静かに進んでいた。
建物の外壁には古い補修の跡が残り、場所によって石材の色合いが異なっている。三つの表示窓は従来どおりの位置にあり、周囲の受動計測器にも、これまでの観測と明確に異なる値は現れていなかった。
トーマスは既定の観測位置に立ち、用紙へ時刻を書き込んだ。
少し離れた場所では、別の隊員が周辺壁面を確認している。
今回の試験では、全員が完全に同じ順番で確認することを求められていない。
既存の観測対象を見落とさないことを前提に、それぞれが無理なく確認できる順序を試し、その際に感じた負担も記録することになっていた。
トーマスは表示窓を確認したあと、周辺壁面へ視線を移した。
以前報告された直線状の差異については、特定の場所を凝視するのではなく、普段の観測の範囲内で確認する。
今日も、はっきりした変化は見られなかった。
彼は用紙へそのまま記録した。
観測を終えて詰所へ戻ると、ガルムが机の前で報告を待っていた。
「どうだった」
「表示窓、受動計測器ともに新しい異常はありません。西側の補修跡についても、独立して確認できる変化はありませんでした」
トーマスは用紙を差し出した。
「それと、今日の確認順序は、私には前より使いやすかったです。ただ、別の隊員は途中で少し迷ったと書いています」
ガルムは用紙を受け取り、内容へ目を通した。
「その隊員は、何に迷ったんだ?」
「周辺壁面を先に見るか、受動計測器を先に確認するかです。順番を自分で選べることが、かえって気になったそうです」
「なるほどな」
ガルムは椅子へ腰を下ろし、少し考えた。
「だったら、その隊員は自分のやりやすい順番を決めておけばいい。毎回考え直す必要はねえだろう」
「はい。リディアさんとも、そのように話しました」
トーマスが答えると、ガルムは頷いた。
「大事なのは、余計なことを考えずに観測できることだ。手順に人を合わせるんじゃなく、人が安全に観測できるように手順を使え」
その言葉に、トーマスは少し驚いた。
以前の自分なら、よい手順を作れば全員が同じように使えるはずだと考えていたかもしれない。
けれど、実際に試してみると、人によって見やすい順序も、落ち着いて確認できる方法も違っていた。
「……分かりました。試験記録にも、その点を残しておきます」
「頼む。あと、無理に成果を出そうとするなよ」
ガルムは用紙を机へ置いた。
「何も変わっていないなら、それが今日の結果だ。壁に何か見つけなきゃ仕事にならないわけじゃねえ」
トーマスは頷いた。
詰所の窓からは、静かな西側の建物が見えている。
あの壁の向こうに何があるのか、まだ分からない。
けれど、分からないからこそ、見えたものを正確に残す必要がある。
トーマスは新しい記録用紙を手に取り、次の観測に備えた。
◇
施設の別棟では、ナディアが子供と一緒に紙細工を眺めていた。
机の上には、以前破れてしまったあとに修復した紙の「みち」が置かれている。そこには、後から描き加えられた二本目の枝道も残っていた。
子供は椅子に座り、紙の端を指先で軽く押さえている。
ナディアはその様子を見守りながら、今日は何をしたいか尋ねた。
「絵を描いてもいいし、前に作ったものを眺めるだけでもいいわ。ほかにやりたいことがあれば、それでも大丈夫よ」
子供はしばらく紙を見つめてから、顔を上げた。
「……このままでいい」
「分かったわ。じゃあ、今日はこのままにしておきましょう」
ナディアは頷き、机の端に置いていた色鉛筆を少し離した。
子供は紙細工を見つめたまま、指先で二本の道をなぞるような動きをした。ただし、実際に紙へ強く触れることはなく、描き足そうとする様子もない。
ナディアは何かを尋ねかけ、思い直した。
以前、この子は「先生は、決めたら変えなかった」と話していた。
そして、「さいごが、ほんと」という言葉も残している。
その意味を、ナディアはまだ理解できていない。
けれど、子供が何かを見つめるたびに、過去の言葉と結びつけて質問するのは違うように思えた。
今、この子は紙細工をこのままにしておきたいと言った。
それなら、その希望を尊重すればいい。
「お茶を持ってくるわね。戻るまで、ここにいても大丈夫?」
ナディアが尋ねると、子供は小さく頷いた。
彼女は紙細工を動かさず、部屋の外へ出た。
廊下を歩きながら、ナディアは以前の自分を思い返していた。
子供が何かを話してくれるたびに、その言葉の意味を知りたくなった。
もちろん、今も知りたい気持ちはある。
しかし、知りたいと思うことと、相手に答えを求めることは同じではない。
(この子が話したくなるまで待つことも、私にできることのひとつなのかもしれない)
ナディアはそう考えながら、温かい飲み物を用意した。
◇
王都の一室では、ヨアヒムが小さな包みを机の上へ置いていた。
包みの中に入っているのは、町の様子を描いた薄い絵本だった。
先日、三〇八号室の少年が、家や店、道の様子が分かる本を見たいと希望していた。ヨアヒムはその言葉を忘れず、許可された範囲で探していたのである。
絵本は、子供向けの簡単なものだった。
表紙には石畳の通りと、店先に並ぶ果物、行き交う人々が描かれている。
ヨアヒムは一度ページをめくり、内容を確認した。
市場、橋、広場、住宅街。
どれも特別な場所ではない。
だが、少年が求めていたのは、そうした普通の町の景色だった。
ヨアヒムは本を閉じ、三〇八号室へ向かった。
扉を軽く叩くと、中から少年の声が返ってきた。
「どうぞ」
ヨアヒムが入ると、少年は窓際の椅子に座っていた。
膝の上には、以前から読んでいる植物の本が開かれている。
「今日は、頼まれていた本を持ってきました」
ヨアヒムが包みを見せると、少年は顔を上げた。
「町の本?」
「はい。探していたものと少し違うかもしれませんが、家やお店、道の絵が載っています」
少年は本を受け取り、慎重に表紙を眺めた。
そこに描かれた人々の姿へ、指先を近づける。
「……こんなに、人がいるんだ」
「市場の絵ですからね。実際の町でも、時間や場所によって人の数は変わります」
ヨアヒムが答えると、少年はゆっくりページを開いた。
最初に現れたのは、朝の市場の様子だった。
果物を並べる店主、荷物を運ぶ人、買い物をする親子。
少年は一人ひとりを確かめるように眺めた。
「この人たちは、みんな何かを買いに来たの?」
「買い物の人もいますし、売るために来た人もいます。荷物を届ける仕事をしている人もいるでしょう」
「……じゃあ、みんな違うことをしてるんだね」
「そうですね」
少年はしばらく黙って絵を見つめていた。
やがて、道の端に描かれた小さな子供を指さした。
「この子は、何をしてるの?」
ヨアヒムは絵を覗き込んだ。
そこには、母親らしい女性の手を握りながら、店先の焼き菓子を見つめる子供が描かれていた。
「お菓子を見ているようですね。買ってもらえるかどうか、考えているのかもしれません」
「……買わなくても、見ていていいの?」
ヨアヒムは少し驚いた。
少年の問いは、単に絵の説明を求めるものではなかった。
「もちろんです。お店によって決まりはありますが、見てから買うかどうか決めることは、珍しいことではありません」
少年は小さく頷いた。
そして、もう一度絵へ視線を落とした。
「ぼくも、見てみたいな」
その声は静かだった。
ヨアヒムはすぐに何かを約束することはしなかった。
少年の生活には、まだ多くの制限がある。
外へ出ることについても、本人の希望だけで決められる状況ではなかった。
けれど、希望を口にしたことまで否定する必要はない。
「町へ行ってみたいのですね」
ヨアヒムが確かめると、少年は頷いた。
「うん。お店がどんなふうに並んでるのか、見たい」
「分かりました。その希望は、きちんと覚えておきます」
少年はヨアヒムの顔を見た。
「……覚えておくだけ?」
ヨアヒムは胸の奥に小さな痛みを覚えた。
しかし、できるかどうか分からないことを、できると約束するわけにはいかなかった。
「今すぐ連れていけるとは言えません。でも、あなたがそう望んでいることを、なかったことにはしません」
少年は少し考えたあと、再び絵本へ目を向けた。
「……うん」
その返事が納得によるものなのか、それとも今はそれ以上聞かないと決めただけなのか、ヨアヒムには分からなかった。
彼は少年の隣へ椅子を運び、絵本を一緒に眺めることにした。
少年が次に開いたページには、小さな橋と、その下を流れる川が描かれていた。
「この橋は、歩いて渡れるの?」
「はい。人が通るための橋ですね」
「川の向こうにも、家があるんだ」
「町によっては、川の両側に家が並んでいることもあります」
少年は絵本を少し自分の方へ引き寄せ、ページの隅まで丁寧に眺めた。
ヨアヒムはその横顔を見守った。
少年が本を求めた理由を、すべて理解できたわけではない。
それでも、今この子が知りたいと思っているのは、部屋の外にある普通の暮らしなのだと感じられた。
◇
午後の塔では、研究院から新しい補足連絡が届いていた。
アルは資料室でブラートと内容を確認し、必要な部分をアンナマリーにも共有することにした。
今回の連絡は、古い手順書の新たな本文ではない。
研究院が限定閲覧の範囲を整理する過程で、資料同士の関係について確認できたことをまとめたものだった。
「なるほど。三つの分類が同じ手順群に属していることは確認できたけど、個別の設備へどう適用されたかは分からないんだね」
アルが言うと、ブラートは頷いた。
「はい。また、共同確認という記述があるからといって、必ずしも二人だけで判断したという意味ではありません。複数部署の確認や、別の承認段階が存在した可能性もあります」
「つまり、まだ分からない部分が多いってことか」
「そのとおりです」
アルは苦笑した。
「調べれば調べるほど、分からないことが増える気がするな」
ブラートは少しだけ表情を緩めた。
「ただ、以前は何が分からないのかも分かりませんでした。現在は、確認すべき項目を少しずつ分けられています」
その言葉に、アルは頷いた。
確かに、以前は西側保持区画という名称すら、どこまで関係しているのか分からなかった。
今も同一性は確認できていないが、少なくとも古代の保護判断制度が、外部確認不能時の扱いを慎重に定めていたことは見えてきている。
その一方で、古い制度が現在の施設へ適用できるとは限らない。
それを忘れなければ、調査の進展は意味のあるものになるだろう。
「ブラート、研究院にはお礼を伝えておいて。それと、現地へ共有する内容は、ガルムたちが必要以上に意識しないよう整理したい」
「承知しました。観測者へ直接伝える情報と、管理側で保持する情報を分ける形ですね」
「うん。新しい資料が見つかったからって、壁の見え方が変わるわけじゃないから」
ブラートは頷き、連絡文の作成に取りかかった。
アルは窓の外へ目を向けた。
塔の周囲には穏やかな午後の景色が広がっている。
遠くの森を渡る風が、木々の梢をゆっくり揺らしていた。
調査は続いている。
けれど、今日すぐに何かを決める必要はない。
そう考えられることが、今のアルには大切だった。
◇
夕方、リューネの共同相談窓口では、エルザが試験的に使った説明方法について、職員たちから報告を受けていた。
午前中に来た利用者の一人は、書面を先に読んでから口頭で質問する方法を選んだ。
別の利用者は、長い文章を読むよりも、一項目ずつ説明してもらう方が分かりやすいと話した。
さらに、途中で説明方法を変更した人もいた。
その人は最初、口頭での説明を希望していたが、確認する内容が多くなったため、途中から書面も見たいと申し出たという。
「途中で変えてもいいと書いてあったので、言いやすかったそうです」
若い担当者が報告すると、エルザは嬉しそうに頷いた。
「それはよかったですね。変更できると分かっているだけでも、安心につながるのかもしれません」
「はい。ただ、説明方法を選ぶ項目そのものが、少し分かりにくいという意見もありました」
「なるほど。そこも直す必要がありますね」
エルザは報告を記録した。
試験はまだ始まったばかりだ。
これだけで新しい方法が正しいと決めることはできない。
それでも、利用者が自分に合った説明を選び、必要に応じて変えられるという考え方は、少しずつ形になり始めていた。
エルザは机の上の試案を見つめた。
書類は、人を管理するためだけのものではない。
本人が何を望み、何を望まないのかを、関係者が取り違えないための道具でもある。
その役割を忘れなければ、まだ改善できることは多いはずだった。
◇
日が傾き始めた頃、セリーはようやく栞を完成させた。
生成り色の布を二枚重ね、その間へ薄い芯を入れている。端は細かく縫い合わせ、青緑色の糸で描いた葉の模様が、柔らかな曲線を作っていた。
セリーは完成した栞を手に取り、何度か角度を変えながら確かめた。
大きさは、普段アルが使っている書物に合わせてある。
厚みも、ページを傷めないよう控えめにした。
ただ、完成したものを眺めているうちに、少し不安になった。
(主様は、喜んでくださるでしょうか。必要なものではありませんし、塔にはもっと便利な道具があります)
そう考えたところで、セリーは自分の思考に気づいた。
必要だから作ったのではない。
自分が作りたいと思ったから作ったのだ。
そして、アルに渡したいと思っている。
それだけで十分な理由になるはずだった。
セリーは栞を小さな布袋へ入れ、資料室へ向かった。
扉の前で一度立ち止まり、軽く叩く。
「主様。少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか」
中からアルの声が返ってきた。
「もちろん。入っていいよ」
セリーが扉を開けると、アルは机の上の資料を片づけているところだった。
彼は彼女の姿を見ると、自然に微笑んだ。
「どうしたの? 何かできた?」
その問いに、セリーは少し驚いた。
「……お分かりになるのですか?」
「いや、何となく。今日はずっと楽しそうだったから」
アルは笑った。
セリーは小さく頷き、布袋を両手で持った。
「はい。以前、町で購入した糸を使って、作っていたものが完成しました」
「そっか。見せてもらってもいい?」
「はい。ただ、その前にひとつお伝えしたいことがあります」
アルは椅子から立ち上がり、彼女へ向き直った。
セリーは少しだけ息を整えた。
「これは、主様に必要だと判断して作ったものではありません。私が作りたいと思い、主様にお渡ししたいと思ったものです」
アルは静かに彼女を見つめた。
その言葉が、セリーにとってどれほど大切なのか、すぐに理解できた気がした。
「うん。ありがとう。セリーがそう思ってくれたことが嬉しいよ」
セリーは布袋から栞を取り出し、両手で差し出した。
「よろしければ、受け取っていただけますか」
アルは慎重に栞を受け取った。
淡い青緑色の糸で描かれた葉の模様が、夕方の光を受けて柔らかく浮かび上がっている。布の端は丁寧に縫い合わされ、指先で触れると、細かな仕事の積み重ねが感じられた。
「……すごいな」
アルは思わず声を漏らした。
「これ、セリーが全部作ったんだよね」
「はい。図案も自分で考えました」
「すごく綺麗だよ。葉っぱが風に揺れてるみたいだ」
セリーの表情が、少しずつ明るくなった。
「塔の窓から見える木を参考にしました。主様が資料を読まれるときに、使っていただけたらと思いまして」
アルは栞を眺めながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
塔には、もっと便利な道具がある。
読んでいる場所を記録する魔導具だって使える。
けれど、この栞はそれらとは違う。
セリーが自分で糸を選び、何を作るか考え、アルへ渡したいと思って作ったものだった。
「ありがとう、セリー。大切に使うよ」
アルがそう言うと、セリーはほっとしたように微笑んだ。
「喜んでいただけて、嬉しいです」
アルは机の上に置いていた書物を手に取り、途中まで読んでいたページへ栞を挟んだ。
それから本を閉じ、表紙の端から少しだけ覗く青緑色の糸を見つめた。
「ほら、ちょうどいい大きさだ」
セリーはその様子を見て、嬉しそうに目を細めた。
「はい。よかったです」
アルは書物を机へ置き、彼女へ向き直った。
「セリー」
「はい」
「今度は俺も、何か作って渡したいな」
セリーは少し驚いた。
「主様が、私にですか?」
「うん。何がいいかは、まだ分からないけど」
アルは少し照れくさそうに笑った。
「セリーが喜んでくれそうなものを、自分で考えてみたい」
セリーはしばらく彼を見つめていた。
そして、ゆっくり微笑んだ。
「……楽しみにしています」
その声には、いつもの丁寧さの中に、隠しきれない喜びが滲んでいた。
◇
夜の塔では、夕食を終えたアルとセリーが居間で過ごしていた。
窓際の棚には、二羽の木彫りの鳥が並んでいる。
丸い「まる」と、少し上を向いた「そら」。
どちらも特別な力を持たない、小さな木の置物だった。
アルは椅子に座り、セリーからもらった栞を挟んだ書物を開いていた。
ページをめくるたびに、栞の青緑色が少しだけ目に入る。
それが嬉しくて、アルは何度か手を止めてしまった。
セリーは向かいの椅子で、新しい裁縫の図案を考えている。
今度は何を作るのか、まだ決めていないらしい。
アルは書物を閉じ、彼女へ声をかけた。
「セリー。今日の栞、本当にありがとう」
セリーは顔を上げた。
「何度もお礼をいただいてしまいましたね」
「うん。でも、何度でも言いたいくらい嬉しいんだ」
アルが笑うと、セリーも柔らかく微笑んだ。
「では、私も何度でもお伝えします。主様が喜んでくださって、私も嬉しいです」
アルは少し照れくさくなり、栞を挟んだ書物へ目を落とした。
古い塔には、まだ知らない秘密が数多く残されている。
王都では、古代の保護判断制度を調べる人々がいる。
旧保養施設では、危険を避けながら観測を続ける人々がいる。
そして、別の場所では、外の世界を知りたいと願う子供たちがいる。
アルは、そのすべてを知っているわけではない。
知らないことも、決められないことも、まだ多い。
けれど、知らないまま誰かの人生を決めてしまうことだけは、避けたいと思っていた。
(俺にできることは、何でも決めることじゃない。必要なときに一緒に考えて、相手が選べるものを増やしていくことなんだろうな)
アルは窓の外へ目を向けた。
夜空には、雲の切れ間から星が見えている。
セリーが隣へ来て、同じ空を見上げた。
「主様。明日は、どのように過ごされますか」
アルは少し考えてから、微笑んだ。
「まずは、セリーに渡すものを考えようかな」
セリーは驚いたように目を瞬かせ、それから嬉しそうに笑った。
「では、私は楽しみに待っています」
「うん。まだ何も決まってないけどね」
「それでも、楽しみです」
二人は顔を見合わせて笑った。
窓際の棚では、まるとそらが静かに並んでいる。
机の上には、セリーが自分の意思で作った栞が挟まれた書物が置かれていた。
古い塔での暮らしは、今日も少しずつ形を変えている。
それは誰かに命じられた変化ではなく、二人が自分で選びながら積み重ねてきたものだった。




