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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第130話 守るための判断は、誰のものか



 王立魔導研究院に届いた一通の通知は、朝の定例確認を終えようとしていた研究員たちの手を止めた。


 差出人は、古い保護判断資料を共同保管している部署だった。これまで何度も照会を重ねてきた相手であり、研究員たちは返答が届くたびに、期待と慎重さの入り混じった気持ちで封を開けていた。


 今回の通知には、これまでとは少し違う文言が記されていた。


『設備管理に関する資料の限定閲覧を許可する。ただし、保護対象の個別情報および対象を特定し得る記録については、引き続き閲覧対象外とする』


 研究員はその一文を読み直し、隣の同僚へ紙を差し出した。


「……許可が出た」


 同僚は通知を受け取り、慎重に目を通した。


「全部じゃないけど、設備管理の部分は読めるんだな」


「うん。ただし、対象を特定できる情報は除外される。それに、資料の状態によっては、読めない部分もあるらしい」


 通知の末尾には、閲覧できる資料の一覧と、写しを取得する際の条件が記されていた。


 研究員は机へ広げた一覧を確認し、その中に見覚えのある分類名を見つけた。


『保持状態異常時の一次確認』


『外部確認不能時の代替判断』


『状態変更を伴う緊急対応の承認手順』


 いずれも、前回の索引照会で存在が確認されたものだった。


 ただし、今回は分類名だけではない。


 それぞれの資料について、保存されている範囲と、閲覧可能な箇所が示されていた。


「まずは一次確認からだね」


 研究員が言うと、同僚は頷いた。


「緊急対応の方が気になるけど、順番を飛ばすと前提を間違えるかもしれない」


「そう。そもそも、何を異常と判断していたのかが分からないままでは、後の手順も理解できないから」


 二人は必要な手続きを済ませ、閲覧室へ向かった。


 そこには、古い資料を傷めないようにするための専用机と、写しを確認するための閲覧装置が用意されていた。


 担当者から説明を受け、研究員たちは指定された資料を開く。


 最初に現れたのは、設備保持状態の異常を確認するための手順だった。


 ただし、本文は完全ではなかった。


 古い記録媒体から移された際に欠損した箇所があり、一部の文字は判読できない状態になっている。


 それでも、研究員たちは慎重に読み進めた。


『保持状態の異常を認めた場合、外部徴候のみをもって対象状態を断定してはならない』


 その一文に、研究員は目を留めた。


「……やっぱり、外から見えるものだけで判断しないという原則がある」


 同僚も頷いた。


「前に見つかった資料と似ているな」


「うん。でも、同じ資料かどうかはまだ分からない」


 研究員は続く文章へ視線を移した。


『既存記録、保持状態、外部徴候の照合を行い、不一致が認められる場合は、状態変更を延期すること』


 ここまでは、以前の欠損資料から読み取れた内容と近かった。


 しかし、その先には新しい記述が残っていた。


『ただし、保持状態の継続によって対象に差し迫った危険が生じると判断される場合は、保護判断担当および設備管理担当による共同確認を要する』


 研究員は息を止めるようにして、その一文を読み直した。


「共同確認……」


 同僚が呟く。


「少なくとも、この資料では、一人で決めることを前提にしていないらしい」


「そうだね。ただ、これがすべての設備に適用されたとは限らない」


 研究員は慎重に答えた。


 それでも、重要な情報であることは間違いなかった。


 古い制度には、保持状態を変えるべきかどうかについて、複数の立場から判断する仕組みが存在していた可能性がある。


 設備を守る立場。


 保護対象を守る立場。


 その両方が関わることを求めていたのだ。


 研究員は資料の番号を記録し、次のページへ進んだ。


     ◇


 同じ頃、古の塔では、アルが朝食を終えたあと、居間の窓際に置かれた二羽の木彫りの鳥を眺めていた。


 一羽は丸く、もう一羽は少し細身だった。


 どちらも、先日アルとセリーが作ったものである。


 アルの作った鳥は、相変わらず鳥らしさに少し欠けていたが、見慣れてくると不思議と愛着が湧いていた。


「……名前を付けてもいいかもしれないな」


 アルが呟くと、隣で食器を片づけていたセリーが顔を上げた。


「木彫りの鳥に、ですか?」


「うん。せっかく作ったし」


 セリーは少し考えた。


「よいと思います。ただ、私の作った鳥にも名前を付けるのでしょうか」


「それはセリーが決めていいよ」


「では、少し考えてみます」


 セリーは微笑んだ。


 アルは丸い鳥を手に取り、角度を変えながら眺めた。


 名前を付けるとなると、かえって難しい。


 可愛らしい名前がいいのか、それとも少し変わった名前がいいのか。


 考えているうちに、セリーが静かに声をかけた。


「主様。今日は、資料整理の予定でしたね」


「うん。研究院からの返事が来ていれば確認したいけど、まだかな」


「現時点では、新しい連絡は届いていません」


「そっか。じゃあ、午前中は別の作業を進めようかな」


 アルは木彫りの鳥を棚へ戻した。


 そのとき、セリーが少し迷うような表情を浮かべた。


「どうしたの?」


「……主様。私は、今日は少し別のことをしてみたいと思っています」


 アルは顔を上げた。


「何かやりたいことがあるの?」


「はい。以前、町で購入した糸を使って、小さな布飾りを作っているのですが……」


 セリーはそこで少し言葉を止めた。


「完成するまで、主様には見せずに作業を進めたいと思っています」


 アルは思わず笑った。


「もちろん。秘密のやつだね」


「はい」


「じゃあ、今日は別々に作業しようか。俺も資料室でやることがあるし」


 セリーは嬉しそうに頷いた。


「ありがとうございます」


「お礼を言うことじゃないよ。セリーがやりたいことなんだから」


 アルがそう言うと、セリーは少しだけ目を細めた。


「……はい。そうですね」


 彼女は小さな裁縫道具を持ち、居間の奥へ向かった。


 アルはその背中を見送りながら、少しだけ考えた。


 以前のセリーなら、自分の作業を後回しにしてでも、主の予定を優先していたかもしれない。


 今は、自分のやりたいことを伝え、別の時間を過ごすことを選んでいる。


 それは、アルにとって嬉しい変化だった。


     ◇


 リューネの町では、エルザが新しい説明書類の試案を作っていた。


 前日の相談をきっかけに、共同窓口の職員たちは書類の見直しを始めている。


 ただし、すぐに正式な書類を変更するわけではない。


 まずは、利用者がどこで困っているのかを確認し、説明方法を選べる仕組みを試すことになっていた。


 エルザは机へ三種類の説明案を並べた。


 一つは、従来の文章をできるだけ簡単な言葉へ置き換えたもの。


 一つは、口頭で説明する際に使う短い確認項目。


 そしてもう一つは、説明を受ける方法について本人の希望を聞くための案だった。


「これで十分でしょうか」


 若い担当者が尋ねると、エルザは少し考えた。


「十分かどうかは、実際に使ってみないと分かりません。ただ、以前よりは選べる余地が増えたと思います」


「では、今日から試しますか?」


「はい。ただし、正式な申請書はこれまでどおり使います。説明の方法だけを試す形にしましょう」


 担当者は頷いた。


 エルザは試案の一枚を手に取り、最後の項目を読み直した。


『説明の方法は、途中で変更できます』


 その一文は、彼女が特に大切にしたかった部分だった。


 最初に選んだ方法が合わなければ、変えていい。


 途中で分からなくなったら、もう一度聞いていい。


 誰かに急かされて決める必要もない。


 そうした当たり前のことを、制度の中でも当たり前にしていきたかった。


     ◇


 旧保養施設では、ガルムが観測手順の試験報告を確認していた。


 試験を始めてから、まだ日数は浅い。


 それでも、観測者の反応にはいくつかの違いが見られていた。


 特定の場所へ注意が偏りにくくなったという隊員がいる一方、確認項目を意識することで、かえって落ち着かなくなるという隊員もいた。


 ガルムは報告を読み終え、リディアへ顔を向けた。


「今のところ、続けても問題はなさそうか?」


「はい。ただし、全員に同じ方法が合うわけではありません」


「それは分かってる」


 ガルムは頷いた。


「無理に統一するつもりはない。観測の質が落ちるなら、やめればいい」


 リディアは少し安心したように頷いた。


「では、もう少し記録を集めます」


「頼む」


 ガルムは資料を閉じた。


 西側壁面の状態に、新たな明確な変化は確認されていない。


 表示窓の発光も、受動計測器の異常もない。


 以前報告された直線状の見え方についても、新しい独立確認は得られていなかった。


 だからこそ、今は急ぐ必要がない。


 ただし、何も起きていないからといって、注意を怠るつもりもなかった。


 ガルムは窓の外へ目を向けた。


 古い施設の壁は、今日も静かだった。


     ◇


 午後、王立魔導研究院では、限定閲覧で確認した資料の整理が進んでいた。


 研究員たちは、古い手順書の中から設備管理に関する部分だけを抜き出し、現在の調査へ直接適用できるかどうかを慎重に検討していた。


 ただし、今回の資料には、重要な制限がある。


 対象となる設備の番号が分からない。


 保護対象の種類も不明。


 さらに、共同確認を求める記述があるものの、その具体的な担当者の資格や判断基準は、欠損した部分に含まれている可能性があった。


「塔へ送るなら、そこを強調しないといけないな」


 同僚が言うと、研究員は頷いた。


「うん。今回の資料は、昔の制度の考え方を知るためのものだ。現地で何かを操作するための指示書じゃない」


「でも、共同確認の原則は参考になるかもしれない」


「そうだね。ただし、それも現在の安全方針と照らし合わせて判断する必要がある」


 研究員は連絡文を作成した。


 そこには、今回確認された記述と、その限界が明確に記されている。


 保持状態の異常を外部徴候だけで判断しないこと。


 既存記録との不一致がある場合、状態変更を延期すること。


 保持状態の継続が差し迫った危険を生じる場合には、保護判断担当と設備管理担当による共同確認を要するという記述が存在すること。


 ただし、対象設備や保護対象の種類は不明であり、現在の旧保養施設との同一性も確認されていないこと。


 研究員は最後に、現地での開口、保持解除、内部器操作を正当化するものではないと明記した。


 文面を確認し、塔へ送付する。


 その作業を終えたとき、研究員は少しだけ肩の力を抜いた。


 ようやく、欠けていた資料の一部へ近づけた。


 しかし、それは謎が解けたという意味ではない。


 むしろ、古い制度が想像以上に慎重な判断を求めていた可能性が、少しずつ見えてきたのだった。


     ◇


 夕方、塔へ届いた研究院からの連絡を確認したアルは、アンナマリーとブラートへ声をかけた。


 二人はちょうど別の資料整理を終えたところだったため、居間へ移動して内容を確認することになった。


 セリーも同席し、机の中央へ研究院からの連絡文を広げる。


「……共同確認、か」


 アルは資料の一文を読み直した。


 保持状態の継続によって対象に差し迫った危険が生じる場合、保護判断担当と設備管理担当による共同確認を要する。


 その記述は、これまでの欠損資料にはなかった部分だった。


「少なくとも、この資料では、設備の状態を変える判断を一人に任せていなかった可能性があるんだね」


 アルが言うと、ブラートが頷いた。


「はい。ただし、対象設備が不明ですので、現在の施設へそのまま適用できるわけではありません」


 アンナマリーは資料を見つめた。


「それでも、考え方としては大切ね。設備を守る人と、保護対象を守る人では、見ているものが違うでしょうから」


「うん」


 アルは頷いた。


「どちらか一方だけで決めると、見落とすことがあるかもしれない」


 セリーが静かに口を開いた。


「主様。以前の資料には、確認できないことを不在と判断してはならないという原則がありました」


「そうだね」


「今回の資料も、その考え方と矛盾しないように思います」


 アルは少し考えた。


「うん。ただ、同じ制度の一部だと確定したわけじゃない。そこは分けておこう」


 セリーは頷いた。


 アンナマリーはアルの横顔を見つめながら、静かに言った。


「昔のあなたなら、こういう資料を見つけたら、自分が最終的に判断しなければならないと思ったかもしれないわね」


 アルは少し驚いた。


「……そうかもしれない」


 王太子だった頃、彼は多くの判断を求められてきた。


 担当者が調べ、複数の部署が確認し、最後に王太子や国王が決める。


 その仕組みの中で、アルは責任を負うことが当然だと思っていた。


 だが、今は違う。


 自分がすべてを決める必要はない。


 むしろ、誰かを守るための判断だからこそ、一人で抱え込むべきではないと思っている。


「今の方針は変えなくていいと思う」


 アルが言うと、三人は彼へ視線を向けた。


「現場で危険が確認されていない以上、壁には触れない。保持状態も変えない。ただし、本当に差し迫った危険が確認された場合には、現場の人たちと保護や医療の担当者が一緒に判断する」


 ブラートは頷いた。


「既存の方針と一致しています」


「うん。今回の資料で、急に何かを変える必要はないよ」


 アンナマリーも静かに頷いた。


 セリーはアルの横顔を見つめていた。


 以前の彼なら、誰かを守るために自分が決めなければならないと考えたかもしれない。


 けれど今のアルは、誰かを守るために、決める権限を一人で抱え込まないことを選んでいる。


 それは、彼がこの塔で少しずつ身につけてきた変化だった。


     ◇


 夜、塔の居間では、アルが窓際の棚に置かれた木彫りの鳥を眺めていた。


 丸い鳥と、少し細身の鳥。


 どちらも、先日セリーと一緒に作ったものだ。


 アルは自分の作品を手に取り、少し笑った。


「……やっぱり、鳥には見えないな」


 その声に、セリーが顔を上げた。


「私は好きですよ」


「ありがとう。でも、名前を付けるなら、鳥っぽくない名前の方がいいかもしれない」


 セリーは少し考えた。


「では、主様が最初に思いついた名前にしてみてはいかがでしょうか」


「最初に思いついた名前?」


「はい。正しい名前を探す必要はありませんから」


 アルは少し考えた。


 そして、丸い木彫りを見つめながら、ぽつりと言った。


「……まる」


 セリーは瞬きをした。


「まる、ですか?」


「うん。見たまんまだけど」


 セリーは小さく笑った。


「とても似合っていると思います」


「じゃあ、こっちはまるにしよう」


 アルは木彫りを棚へ戻した。


「セリーの鳥は?」


 セリーは自分の作った鳥を手に取り、しばらく眺めた。


 少し上を向いた姿勢の、小さな木彫りだった。


「……そら、にします」


「そら?」


「はい。空を見上げているように見えるので」


 アルは微笑んだ。


「いい名前だね」


 セリーは嬉しそうに頷いた。


 二羽の木彫りは、窓際の棚へ並べられた。


 まると、そら。


 どちらも特別な力を持たない、ただの木彫りだった。


 けれど、アルにとっては大切なものだった。


 自分たちで作り、自分たちで名前を付けた。


 それだけで、十分だった。


 アルは隣にいるセリーへ目を向けた。


「セリー」


「はい」


「今日は、自分のやりたいこと、できた?」


 セリーは少し驚いたあと、微笑んだ。


「はい。とても楽しかったです」


「そっか。よかった」


「主様は?」


「俺も、やりたいことができたよ」


 アルは窓際の二羽を見つめた。


 古い塔には、まだ知らない秘密が眠っている。


 王都では、過去の制度を調べる人たちがいる。


 旧保養施設では、危険を避けながら観測を続ける人たちがいる。


 リューネの町では、住民のための制度を少しずつ直そうとする人たちがいる。


 それぞれの場所で、誰かが考え、選び、行動している。


 アルは、そのすべてを自分が決める必要はないと思っていた。


 誰かが自分で選べること。


 必要なときには、ほかの誰かと一緒に考えられること。


 そして、何も起きていない夜には、好きな人と並んで小さな木彫りを眺められること。


 それが、今のアルにとって大切な自由だった。


 セリーは窓際の棚を見つめ、穏やかに微笑んだ。


「主様。明日は、そらの翼を少し磨いてもよろしいでしょうか」


「もちろん。俺も、まるの形を少し直そうかな」


「ですが、主様は今の形も気に入っていらっしゃるのでは?」


「うん。だから、直すかどうかは明日考えるよ」


 セリーは楽しそうに笑った。


「それも、よいと思います」


 アルも笑った。


 窓の外には、静かな夜が広がっている。


 古い塔の中で、二人が作った小さな鳥は、並んで空を見上げていた。

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