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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第135話 贈り物に込めた、言葉にならない気持ち


古の塔の朝は、昨夜の雨が残した湿り気を含んだ、穏やかな空気に包まれていた。


森から吹き込む風は少し冷たかったが、窓の外に広がる空は明るく、雲の切れ間から差し込む日差しが庭の石畳を照らしている。朝食を終えたアルは、セリーが食器を片づけるのを手伝ってから、作業室へ向かっていた。


今日は、少し楽しみにしていることがある。


数日前から作り続けていた木製の飾り台が、ようやく完成したのだ。


昨夜、仕上げ材を塗ったあと、風通しのよい場所へ置いて乾燥させていた。今朝、エルに確認してもらったところ、表面の乾燥は十分に進んでおり、通常の使用で問題になる状態ではないという。


アルは作業室の扉を開け、窓際の台に置いてある飾り台へ近づいた。


小さな木製の台は、朝の光を受けて柔らかな色合いを見せている。


上面には、紙や薄い板を立てかけるための溝があり、角は丸く整えられていた。職人が作ったものと比べれば、左右の形にわずかな違いがあり、溝の深さも完全には揃っていない。


それでも、アルはその仕上がりを気に入っていた。


「……うん。これなら、渡しても大丈夫そうだ」


アルは飾り台を手に取り、指先で表面を確かめた。


ささくれはなく、仕上げ材のべたつきも残っていない。


試しに薄い板を立てかけると、少し傾きながらも安定している。


アルは満足そうに頷いた。


(セリーは、どんな反応をするかな)


喜んでくれたら嬉しい。


けれど、使い道が思いつかなかったとしても、それはそれで構わないと思っていた。


自分が作りたいと思ったから作ったものだ。


受け取ったセリーが、どう使うかを自由に決めてくれればいい。


アルはそんなことを考えながら、飾り台を柔らかな布で包んだ。


そのとき、作業台の端に置かれていたエルから声が聞こえた。


『アル。贈答品の準備は完了しましたか』


「うん。あとはセリーに渡すだけだよ」


『承知しました。なお、贈答時の演出について補助が必要であれば、複数の方法を提案できます』


アルは思わず笑った。


「演出って、そんな大げさなものじゃないよ。ただ、作ったものを渡したいだけだから」


『理解しました。では、特別な演出は行いません』


「ありがとう。普通に渡すのが一番いいと思う」


アルは布に包んだ飾り台を抱え、作業室を出た。


廊下には、朝の静かな空気が流れている。


遠くから、セリーが居間で何かを片づけている音が聞こえてきた。


アルは少しだけ歩調を緩めた。


不思議なことに、今になって少し緊張している。


王太子だった頃、贈り物を用意する機会は何度もあった。


公式な祝いの品や、外交上の贈答品。


相手の身分や立場、慣習に合わせて選ぶ必要があり、贈る品にはそれぞれ意味があった。


けれど、今回の贈り物には、そうした決まりはない。


ただ、セリーが喜んでくれたらいいと思って作ったものだ。


だからこそ、どんな顔をして渡せばいいのか、少し迷ってしまう。


(……まあ、変に考えすぎても仕方ないか)


アルは小さく息を吐き、居間へ向かった。


◇


居間では、セリーが窓際の棚を整えていた。


棚の上には、アルが作った丸い木彫りの鳥「まる」と、セリーが作った少し上を向いた鳥「そら」が並んでいる。


二羽の間には、ほんの少しだけ隙間が空いていた。


セリーはその位置を確かめながら、柔らかく微笑んだ。


最初に木彫りを作ったときには、こんなふうに毎朝眺めるようになるとは思っていなかった。


しかし、今では居間へ来るたび、自然と目が向くようになっている。


形の違う二羽が並んでいる姿を見ると、あの日、アルと一緒に木材を削った時間を思い出す。


上手に作ることよりも、作る時間そのものが楽しかった。


そのことが、セリーには新鮮だった。


以前の彼女なら、作業の成果を基準にして評価していたかもしれない。


しかし、今は少し違う。


完成したものが不格好でも、そこに楽しかった記憶が残っている。


その価値を、セリーは大切にしたいと思っていた。


そんなとき、廊下からアルの足音が聞こえてきた。


「セリー、今ちょっといいかな?」


振り返ると、アルが柔らかな布に包まれた何かを抱えて立っていた。


セリーはその姿を見て、少しだけ目を見開いた。


「はい。もちろんです、主様」


アルは居間へ入り、机の近くまで歩いてきた。


そして、少し照れくさそうに笑った。


「この前から作ってたものなんだけど、ようやく完成したから……受け取ってもらえるかな」


セリーは一瞬、言葉を忘れた。


アルが作業室で何かを作っていたことは知っている。


自分への贈り物だということも聞いていた。


それでも、実際に目の前へ差し出されると、胸の奥に温かいものが広がっていく。


「……はい。ありがとうございます」


セリーは両手を差し出し、布に包まれた品を受け取った。


アルは少し緊張した様子で、その手元を見つめている。


「開けてみて」


セリーは頷き、布をゆっくりと広げた。


中から現れたのは、小さな木製の飾り台だった。


丸く整えられた角。


柔らかな木目。


上面には、紙や薄い板を立てかけられるように、細い溝が設けられている。


セリーはしばらく、その品を見つめていた。


「……主様。これは……」


「紙とか、小さな板を立てておける台なんだ。セリー、最近刺繍の図案を描いてるでしょ? 机に置くとき、見やすくなるかなって思って」


アルは少し照れながら説明した。


「もちろん、別のものを飾ってもいいし、使わなくても大丈夫。セリーが好きなようにしてくれたら嬉しいな」


セリーは、ゆっくりと飾り台を持ち上げた。


表面には、手作業で整えられた跡が残っている。


完全に左右対称ではない。


しかし、指先で触れると滑らかで、丁寧に磨かれていることが分かった。


アルが時間をかけて作ってくれたのだ。


自分のために。


その事実を実感した途端、セリーは胸の奥がいっぱいになるような感覚を覚えた。


(……主様は、私が図案を描いているところを見て、これを作ろうと思ってくださったのですね)


仕事のためではない。


塔の管理のためでもない。


自分が楽しんでいることを、アルが覚えていてくれた。


そして、その時間がもっと楽しくなるようにと考えてくれた。


セリーは飾り台を胸の前で大切に持ち、アルを見つめた。


「……とても、嬉しいです」


その声は、普段よりも少し柔らかかった。


アルはほっとしたように笑った。


「よかった。気に入ってもらえるか、ちょっと心配だったんだ」


「はい。とても気に入りました」


セリーはそう答えたあと、少し考えてから続けた。


「主様。ひとつ、お願いしてもよろしいでしょうか」


「もちろん。何?」


「今、使ってみてもよいですか?」


アルは嬉しそうに頷いた。


「うん。ぜひ」


セリーは机へ向かい、昨日描いていた花の図案を持ってきた。


そして、飾り台の溝へ紙を立てかける。


紙は少し後ろへ傾きながら、安定して立った。


セリーは椅子へ腰を下ろし、いつもの位置から図案を眺めた。


「……見やすいです」


彼女は少し驚いたように呟いた。


「これなら、刺繍をするときにも図案を確認しやすいと思います」


アルはその様子を見て、嬉しそうに笑った。


「よかった。角度が少し難しかったんだけど、ちゃんと使えそうだね」


「はい。ありがとうございます、主様」


セリーは図案を飾り台へ置いたまま、もう一度アルを見つめた。


その瞳には、穏やかな喜びが浮かんでいた。


◇


王立魔導研究院では、古代の『保護判断経過記録』に関する追加照会の準備が進んでいた。


保管部署から届いた予備的な通知によって、『状態変更延期後の再確認記録』という様式が存在したことは確認されている。


しかし、その内容については、まだ閲覧許可が下りていなかった。


研究員たちは、個別の保護対象に関する情報を求めず、共通様式の項目だけを確認できないか検討していた。


「……この部分、もう少し慎重な書き方にした方がよさそうだね」


若い研究員が照会文を指さした。


向かいに座る同僚は、その箇所へ目を向けた。


「『延期理由の記載欄』という表現か」


「うん。まだ、そういう欄が存在したかどうか分からないから」


同僚は少し考え、頷いた。


「確かに。こちらが先に項目を決めつけるのは避けた方がいいな」


二人は文章を修正した。


確認したいのは、状態変更を延期したあとに、どのような情報を記録する仕組みが存在したのかという点だった。


延期の理由。


再確認の条件。


担当者の役割。


そのような項目があったかもしれないが、現時点ではどれも確定していない。


研究員たちは、推測を推測のまま扱うことを意識していた。


「……それにしても、古い制度は複雑だね」


若い研究員が小さく息を吐いた。


「複雑だったのか、残された資料が断片的だから複雑に見えるのか。それも、まだ分からないな」


同僚は穏やかに答えた。


若い研究員は少し笑った。


「そうだね。分からないことが多いと、つい何か一つの答えにまとめたくなる」


「でも、そこで急ぐと、間違った関係を作ってしまうかもしれない」


二人は頷き合い、照会文の確認を続けた。


今回の問い合わせが、すぐに新しい答えをもたらすとは限らない。


それでも、何を知っていて、何を知らないのかを整理することには意味があった。


◇


リューネの共同相談窓口では、エルザ・ノイマンが職員たちと説明方法の試験について話し合っていた。


机の上には、これまでに寄せられた利用者の意見がまとめられている。


書面で説明を受けたい人。


口頭で確認したい人。


途中で説明方法を変えたい人。


以前の希望を引き継ぎたい人。


その時々で、改めて選びたい人。


希望はさまざまだった。


「……今回の試験で分かったのは、説明方法を選べること自体は歓迎されているという点ですね」


エルザが言うと、若い担当者が頷いた。


「はい。ただ、選択肢が多いと迷ってしまう方もいらっしゃいました」


「そうですね。ですから、最初からすべてを選んでいただく必要はないと思います」


エルザは試案の一節を示した。


「まず、説明を受ける方法を選べることを伝える。そのうえで、必要に応じて変更できると説明する。最初から細かい条件を決めるのではなく、相談の途中でも選べるようにするんです」


職員たちは頷いた。


ただし、その方法にも課題はある。


相談内容によっては、正式な同意や記録が必要になる場合がある。


説明方法を自由に選べることと、必要な手続きを省略できることは違う。


エルザはその点を、改めて確認した。


「今回の試験は、あくまで説明の方法を改善するためのものです。正式な同意の手続きそのものを変更するわけではありません」


「はい。その点は、窓口でも注意して説明しています」


若い担当者が答えた。


エルザは頷き、次の資料を取り出した。


そこには、利用者から寄せられた意見が記されている。


『前と違う方法を選んでも、理由を聞かれない方が安心する』


エルザはその一文を読み上げた。


「これについては、私も大切な意見だと思っています」


職員の一人が少し考えた。


「ただ、理由を聞かなければ、次回の対応に困ることもありませんか?」


「場合によってはあるかもしれません。でも、本人が理由を話したくないなら、無理に聞く必要はないと思います」


エルザは穏やかに答えた。


「前回は書面、今回は口頭。その事実を記録しておけば、次回はまた本人へ確認できます」


職員たちはしばらく考え、それぞれの意見を交わした。


すぐに結論が出る問題ではなかった。


しかし、以前よりも、利用者の希望をどう扱うべきかについて具体的な話ができるようになっていた。


エルザはその変化を、少し嬉しく感じていた。


◇


旧保養施設の西側壁面では、ガルムがリディアから報告を受けていた。


試験的に導入した柔軟な確認順序については、観測者の負担を減らす効果が見られる一方、全員に同じ方法が適しているわけではないことが分かっている。


ガルムは報告書へ目を通し、慎重に頷いた。


「……なるほど。現時点では、正式な運用変更を決める段階ではないということだな」


「はい。観測結果そのものに明確な変化はありませんし、試験期間もまだ十分ではありません」


リディアは落ち着いた声で答えた。


「ただ、観測者が自分に合った確認順序を選べることで、負担が減ったという意見は出ています」


「それなら、試験は続けてもよさそうだな」


ガルムは頷いた。


しかし、すぐに正式な方針を決めるつもりはなかった。


現場の安全を守るためには、観測者の負担を減らすことも大切だ。


ただし、方法を変えることで見落としが増えてしまっては意味がない。


「引き続き、観測結果と観測者の負担は分けて記録してくれ」


「承知しました」


リディアは頷いた。


ガルムは報告書を閉じ、窓の外へ目を向けた。


西側壁面は、今日も静かなままだ。


表示窓に新しい発光はなく、受動計測器にも明確な異常は現れていない。


以前報告された直線状の見え方についても、新しい独立確認は得られていなかった。


だからこそ、無理に何かを探す必要はない。


ガルムはそう考えながら、次の観測予定を確認した。


◇


午後、古の塔では、セリーが贈られた飾り台を使って刺繍を進めていた。


机の上には、淡い青緑色と生成り色の糸が置かれている。


セリーは図案を飾り台へ立てかけ、布へ針を通していた。


以前は図案を机へ置いていたため、刺繍をするたびに視線を下げる必要があった。


しかし、今は少し顔を上げるだけで模様を確認できる。


その違いは小さなものだったが、作業を続けるうちに便利さを実感していた。


「……とても使いやすいですね」


セリーは小さく微笑んだ。


アルが自分のために考えてくれたもの。


その道具を使いながら、自分の好きなものを作っている。


それが、何より嬉しかった。


しばらくして、アルが居間へ入ってきた。


「セリー、使ってくれてるんだね」


セリーは顔を上げ、嬉しそうに頷いた。


「はい。とても便利です。図案が見やすくなりました」


「よかった。ちゃんと役に立ってるなら嬉しいな」


アルは机の近くへ歩いてきた。


セリーは刺繍の途中だった布を少し持ち上げ、アルへ見せた。


「こちらも、少し進みました」


布には、小さな花の模様が縫われ始めていた。


淡い青緑色の糸で描かれた茎の先に、生成り色の花びらが少しずつ形を作っている。


「綺麗だね。昨日の図案が、もう布の上にできてる」


アルが感心したように言うと、セリーは少し照れたように微笑んだ。


「まだ途中ですが、形になっていくのが楽しいです」


「うん。分かる気がする。俺も木工をしてるとき、少しずつ形ができていくのが楽しかったから」


二人は顔を見合わせ、自然に笑った。


アルはセリーの隣へ椅子を運び、少し離れた位置へ腰を下ろした。


「邪魔じゃなければ、少し見ててもいい?」


「もちろんです、主様」


セリーは頷き、再び針を動かし始めた。


アルはその手元を眺めながら、糸が布へ通されていく様子を見つめていた。


針が布を抜けるたび、小さな模様が少しずつ完成していく。


その作業は静かで、見ているだけでも落ち着くものだった。


しばらくして、セリーがふと口を開いた。


「主様。私、最近思うことがあるのです」


「何?」


アルが顔を上げると、セリーは少し考えながら答えた。


「以前は、何かを作るとき、完成したものが役に立つかどうかを最初に考えていました」


彼女は手元の布へ視線を落とした。


「けれど、今は作っている時間そのものが楽しいと思えるようになりました」


アルは静かに頷いた。


「うん。俺も同じだよ」


セリーは微笑んだ。


「主様と一緒に暮らすようになってから、そういう時間が増えました」


その言葉に、アルは少し照れくさそうに笑った。


「俺も、セリーと一緒だから楽しいことが増えたと思う」


セリーは顔を上げた。


そして、少しだけ目を細めた。


「……嬉しいです」


二人の間には、穏やかな沈黙が流れた。


窓の外では、午後の光が庭を照らしている。


森からは、鳥の声が聞こえていた。


アルはセリーの手元へ視線を戻し、刺繍が少しずつ進んでいく様子を眺めた。


特別な出来事が起きているわけではない。


しかし、今のアルにとって、こうした時間はとても大切だった。


◇


夕方、アンナマリーとブラートが塔を訪れた。


王立魔導研究院からの連絡について、今後の整理方針を確認するためだった。


アルは二人を資料室へ案内し、届いている情報を机へ広げた。


『保護判断経過記録』。


『状態変更延期後の再確認記録』。


新しく確認された二つの名称について、ブラートが改めて説明した。


「現時点で確認できているのは、記録様式の名称と、複数の資料群から参照されていた可能性です。具体的な記載項目や運用方法については、まだ不明です」


アンナマリーは資料へ目を通し、静かに頷いた。


「つまり、延期した判断を見直す仕組みがあった可能性はあるけれど、実際にどう使われていたのかは分からないのね」


「そういうことだね」


アルは頷いた。


「それに、旧保養施設で使われていたかどうかも分からない。今は、古代の制度を理解するための情報として扱うつもりだよ」


アンナマリーは少し考えた。


「その方がよさそうね。名称だけで関係があると決めてしまうと、現場の判断にも影響するかもしれないもの」


ブラートも頷いた。


「ガルム殿へは、参考情報として共有する予定です。観測方法を変更する根拠にはしないことも明記します」


三人はその方針を確認した。


そのあと、アンナマリーは机の上の資料を見つめながら、少しだけ表情を和らげた。


「……ところで、アル。今日は何だか嬉しそうね」


アルは少し驚いた。


「え? そうかな」


「ええ。資料の話をしているときも、いつもより表情が柔らかい気がするわ」


ブラートも少しだけ口元を緩めた。


「私も、そう感じておりました」


アルは二人を見比べ、少し照れくさそうに笑った。


「……実は、セリーへの贈り物が完成したんだ」


アンナマリーの表情が明るくなった。


「あら。それはよかったわね」


「うん。木製の飾り台なんだけど、喜んで使ってくれてるんだ」


アルは嬉しそうに答えた。


アンナマリーはその表情を見つめながら、静かに微笑んだ。


以前のアルは、誰かのために何かをすることを、責任や義務と結びつけて考えることが多かった。


もちろん、昔から優しい人だった。


けれど、王太子という立場にあった頃は、誰かのために行動することが、そのまま国や制度への責任につながっていた。


今のアルは違う。


ただ、セリーが喜んでくれたことを嬉しそうに話している。


その姿を見て、アンナマリーは少し安心した。


「……素敵ね。きっと、セリーも嬉しかったでしょう」


「うん。そうだといいな」


アルは照れながら笑った。


ブラートはその様子を見つめ、静かに頷いた。


王太子だった頃のアルを知る二人にとって、その変化は小さなものではなかった。


しかし、今はそれを大げさに言葉にする必要はない。


アルが自分で選んだ暮らしの中で、穏やかに笑っている。


それだけで十分だった。


◇


夜、古の塔の居間には、温かな灯りがともっていた。


アルとセリーは、窓際の棚の前に並んで立っていた。


まるとそらの隣には、今日アルが贈った木製の飾り台が置かれている。


セリーはその上へ、小さな花の図案を立てかけていた。


アルは少し離れた位置から眺め、満足そうに笑った。


「うん。ここに置くのもいいね」


セリーは頷いた。


「はい。使わないときも、こうして飾っておきたいと思いまして」


「そっか。気に入ってもらえてよかった」


アルは柔らかく微笑んだ。


セリーはその横顔を見つめ、少しだけ考えた。


自分のために作られたもの。


自分で使い道を決められるもの。


そして、使わないときにも眺めていたいと思えるもの。


そのすべてが、今の彼女にとって大切だった。


「主様」


セリーが静かに呼ぶと、アルは顔を向けた。


「何?」


「……本当に、ありがとうございます」


その声には、深い感謝が込められていた。


アルは少し照れながら笑った。


「どういたしまして。俺も、作ってよかったよ」


セリーは微笑んだ。


そして、少し迷ったあと、そっとアルの手へ自分の手を重ねた。


アルは一瞬驚いたが、すぐにその手を優しく握り返した。


二人は何も言わず、しばらく並んでいた。


窓の外では、夜の森が静かに広がっている。


塔の中には、穏やかな時間が流れていた。


古い資料の調査は、まだ続いている。


王都では、新しい記録様式の確認が進められている。


旧保養施設では、安全を守りながら観測を続ける人々がいる。


リューネの町では、住民が自分に合った説明方法を選べるよう、試験と改善が重ねられていた。


それぞれの場所で、誰かが考え、迷い、選んでいる。


アルもまた、今日、自分で選んだ時間を過ごしていた。


誰かに命じられたわけではない。


義務として求められたわけでもない。


ただ、大切な人が喜んでくれたら嬉しいと思い、小さな木製の飾り台を作った。


その贈り物は、今、セリーの選んだ場所に置かれている。


アルは隣に立つセリーへ目を向けた。


彼女もまた、穏やかに微笑んでいる。


その表情を見ていると、胸の奥が温かくなった。


(……こういう時間が、ずっと続いたらいいな)


アルはそう思いながら、握った手へ少しだけ力を込めた。


セリーも、それに応えるように指を重ねた。


窓際では、まるとそらが静かに並んでいる。


その隣には、新しい木製の飾り台。


塔での暮らしに、またひとつ、大切なものが増えた。


そして二人は、その小さな喜びを分かち合いながら、穏やかな夜を過ごしていた。


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