第127話 塔の暮らしに増えたもの
朝の塔には、いつもとは少し違う音が響いていた。
中庭へ続く扉の向こうから聞こえてくるのは、木材を軽く叩く音と、金具が触れ合う小さな響きだった。まだ朝食の時間には早く、東の空がようやく明るくなり始めた頃だというのに、セリーはすでに中庭で何かをしているらしい。
アルは寝室の窓を開け、冷たい朝の空気を吸い込んだ。
昨夜、二人で手を繋ぎながら話したことを思い出す。
セリーは、主の世話や保護とは関係なく、自分自身の望みとしてアルに触れたいと思うようになったと話していた。そして、これからも自分の望みが分かったときには伝えたいと言ってくれた。
その言葉が、アルには嬉しかった。
ただ、嬉しかったからといって、彼女の行動すべてを自分との関係へ結びつけるつもりはない。
今朝のセリーは、アルが起きる前から自分のやりたいことを見つけて動いている。
それもまた、アルが大切にしたい変化だった。
着替えを済ませて中庭へ向かうと、セリーは昨日作った箒の支えの前にしゃがみ込んでいた。
支えの横には、小さな木片と金具が並べられている。
「おはよう、セリー」
アルが声をかけると、彼女は振り返った。
「おはようございます、主様。お目覚めでしたか」
「うん。何してるの?」
「昨日作った支えを少し改良できないかと思いまして」
セリーは箒を一本持ち上げ、支えへ立てかけた。
確かに倒れはしない。
しかし、箒の柄が触れる部分には少し余裕があり、風が強い日には横へ動く可能性があった。
「ここへ小さな留め具を付ければ、もっと安定すると思ったんです」
「なるほど。昨日はそこまで考えてなかったな」
「昨日の時点では、必要だと分かりませんでした」
セリーは穏やかに答えた。
「ですが、今朝もう一度見てみたら、少し気になりました」
アルは支えの前へしゃがみ、木片を手に取った。
「いいと思う。これなら材料も足りそうだね」
「はい。ただ、主様を起こしてまでお手伝いいただく必要はないと思い、先に準備だけしていました」
「そっか」
アルは少し笑った。
「じゃあ、今から手伝ってもいい?」
セリーは一瞬だけ目を丸くした。
それから、嬉しそうに頷く。
「はい。お願いします」
二人は並んで作業を始めた。
朝の光が少しずつ強くなり、石畳の上へ長い影が伸びていく。セリーが木片を押さえ、アルが金具の位置を確かめると、昨日よりも手際よく作業が進んだ。
ただし、急ぐ必要はなかった。
朝食までにはまだ時間がある。
何かを完成させなければならない期限もない。
アルは木片の角を少し削りながら、ふと尋ねた。
「セリー、こういう作業って、昔から好きだった?」
セリーは少し考えた。
「以前は、好きかどうかを考えたことがありませんでした」
「そうなんだ」
「塔の維持に必要な作業であれば行いましたし、必要がなければ行いませんでした」
彼女は手元の木片を見つめた。
「ですが、今は、必要かどうかだけではなく、作ってみたいと思うことがあります」
アルは削る手を止めた。
「それって、いい変化だと思う」
「はい。私も、そう思います」
セリーは微笑んだ。
アルは再び作業へ戻った。
朝の塔で、二人は小さな道具を作っている。
それは古代魔導具の謎を解くこととは何の関係もない。
けれど、アルには、その時間がとても大切なものに思えた。
◇
旧保養施設では、リディアとトーマスが新しい観測手順の試験準備を進めていた。
前日までに、観測者の注意が西側壁面の一か所へ偏りやすくなっていることが確認されている。
そこで、従来の観測対象を確認する順序を緩やかに整理し、特定の場所ばかりを見続けないようにする方法が検討されていた。
ただし、今回も試験である。
正式な観測手順として固定するわけではない。
「確認順序を決めると、今度は順番を守ることに意識が向きませんか?」
トーマスが尋ねた。
リディアは頷く。
「その可能性はあります。だから、厳密な順序ではなく、確認漏れを防ぐための補助として扱いたいと思っています」
「じゃあ、順番を間違えても問題ない?」
「はい。観測対象を見落とさなければ、順番そのものに意味を持たせる必要はありません」
トーマスは手元の紙へ書き込んだ。
表示部。
周辺壁面。
受動計測器。
音の有無。
その他、自然に認識した変化。
最後に、観測者自身の注意が特定箇所へ偏っていなかったかを記録する欄を設けた。
「これでどうでしょう」
トーマスが紙を差し出す。
リディアは目を通し、少し考えた。
「悪くありません。ただ、最後の欄は毎回必ず書かせる必要がありますか?」
「え?」
「注意が偏っていないかを意識しすぎると、かえって観測中に自分の注意ばかり気にする可能性があります」
トーマスは紙を見つめた。
「……確かに」
「気づいたときだけ記録する形でもよいと思います」
「じゃあ、任意記入にします」
トーマスは書き直した。
その様子を見ていたガルムが、机へ近づいてくる。
「どうだ?」
「試験案はまとまりました」
リディアが答える。
「ただし、今回も観測者の負担や注意の偏りが増えるようなら、すぐに見直します」
「分かった」
ガルムは紙を受け取り、目を通した。
「前よりずいぶん簡単になったな」
「はい。必要な部分だけ残しました」
「いいんじゃねえか」
トーマスは少し嬉しそうに笑った。
ガルムはその表情を見てから、付け加える。
「ただし、これも使ってみてからだ」
「分かってます」
トーマスは頷いた。
以前の番号板の試験を経験したことで、彼は自分の案がそのまま採用されることだけを成功だとは考えなくなっていた。
役に立つ部分が残ればいい。
邪魔になる部分があれば変えればいい。
それを実際に経験できたことは、若い隊員にとって大きな学びだった。
◇
王立魔導研究院では、共同保管部署からの追加回答が届いていた。
前日に照会した『保護判断・緊急時代替手順』という保管区分について、研究員たちは慎重に確認を進めていた。
回答には、資料の所在に関する情報が記されている。
ただし、本文そのものの開示ではない。
『該当区分には、設備保持状態の異常、外部確認不能、緊急時代替判断に関する資料が含まれる』
研究員はその一文を読み、同僚へ顔を向けた。
「少なくとも、設備側の資料はあるらしい」
「そうだな」
同僚も頷く。
「でも、全部が設備の話とは限らない」
「うん」
続く文章には、資料群の一部が保護対象の状態判断と関連している可能性が記されていた。
ただし、その対象が人なのか、他の生物なのか、知性を持つ魔導具なのか、あるいは設備そのものなのかは、索引だけでは判断できない。
「また同じところに戻ってきたな」
同僚が苦笑する。
「そうだね」
研究員は資料を机へ置いた。
しかし、今回は以前と違う点もあった。
緊急時代替手順という保管区分が存在すること。
そして、その中に設備保持状態の異常へ対応する資料が含まれていること。
少なくとも、古い制度が状態維持を無条件に続けるだけの仕組みではなかった可能性は、少しずつ強まっている。
「この資料、閲覧申請できるかな」
同僚が尋ねる。
「設備管理に関する部分だけなら、可能性はある」
研究員は回答の末尾を確認した。
そこには、閲覧申請に必要な条件が記されていた。
対象範囲の限定。
利用目的の明示。
個人情報や保護対象情報を含む部分へのアクセス禁止。
取得した資料の再配布制限。
「条件は厳しいな」
「でも、妥当だと思う」
研究員は頷いた。
「今必要なのは、誰が保護されていたかじゃない。どんな場合に状態維持が危険と判断され、どういう手順で対応したのかだ」
「じゃあ、その範囲で申請する?」
「うん」
二人は申請書の作成を始めた。
資料の所在が分かったからといって、すぐに中身を読めるわけではない。
けれど、少なくとも次に何をすべきかは明確になった。
◇
塔では、午前の作業を終えたアルとセリーが食堂へ戻っていた。
新しく取り付けた留め具のおかげで、箒の支えは昨日より安定している。
セリーは完成したものを何度か確認し、満足そうに頷いていた。
「これなら、風が強い日も大丈夫そうだね」
アルが言う。
「はい。ただし、実際に強い風が吹いたときの状態はまだ確認できていません」
「そこまで言うと、なんだか研究院の報告みたいだな」
セリーは少し首を傾げた。
「そうでしょうか?」
「うん。『現時点では問題なし。ただし強風時の安定性は未確認』って感じ」
アルが真面目な声で言うと、セリーは少し驚いたあと、小さく笑った。
「では、そのように記録しておきましょうか」
「いや、そこまでしなくていいよ」
「冗談です」
アルは目を丸くした。
「セリー、最近そういうの上手くなったね」
「主様がよくなさるので、少し覚えました」
「俺の影響か」
「はい」
セリーは楽しそうに微笑んだ。
アルはその表情を見ながら、ふと考えた。
彼女は古代の魔導人形として作られ、長い年月を塔で過ごしてきた。
けれど今は、ただ与えられた役割を果たすだけではなく、自分で何かを作りたいと思い、冗談を言い、アルと過ごす時間を楽しんでいる。
その変化は、誰かに命令されたものではない。
彼女自身が選んできたものだった。
「セリー」
「はい」
「今度、町へ買い物に行かない?」
セリーは少し驚いたように瞬いた。
「町へ、ですか?」
「うん。材料も少なくなってきたし、何か作りたいものが増えたときに困らないように」
アルは少し考えてから続ける。
「それに、たまには二人で出かけたいなって」
セリーはしばらく黙っていた。
その沈黙に、アルは急いで言葉を重ねなかった。
彼女が考える時間を待つ。
やがて、セリーが口を開いた。
「……行きたいです」
アルの顔が自然に緩む。
「そっか」
「はい。主様と一緒に、町を歩いてみたいです」
「じゃあ、近いうちに行こう」
セリーは嬉しそうに頷いた。
「楽しみにしています」
アルも微笑んだ。
町へ出かける。
それだけの予定だった。
けれど、二人にとっては少し特別な約束になった。
◇
午後、アンナマリーとブラートが塔を訪れた。
いつものように資料室へ向かおうとした二人だったが、中庭の新しい箒の支えを見て足を止めた。
「また何か変わってる」
アンナマリーが笑った。
「昨日作ったやつを改良したんだ」
アルが答える。
「今日は留め具を付けた」
ブラートが支えを見て頷く。
「確かに、以前より安定していますね」
「でしょ?」
アルは少し得意そうだった。
アンナマリーはその様子を見て、微笑んだ。
「本当に楽しそうね」
「楽しいよ」
アルは迷わず答えた。
「何かを作るのって、思ったより面白いんだな」
アンナマリーは少し考えた。
「昔は、そういうことをする時間がなかったものね」
「うん。自分でやる必要もなかったし」
王太子だった頃、身の回りの道具が壊れれば、誰かが修理してくれた。
必要なものがあれば、担当者へ伝えれば用意された。
それが当然の生活だった。
今は違う。
必要なものを自分で考え、材料を集め、失敗しながら作る。
その過程が楽しい。
「ここへ来てから、知らなかったことが増えた気がする」
アルが言うと、アンナマリーは首を傾げた。
「知らなかったことが増えた?」
「ああ、違う。知らなかったことに気づくようになった、かな」
アンナマリーは少し笑った。
「それなら分かるわ」
セリーが隣で頷いた。
「私も、同じように感じます」
アルは彼女を見る。
「セリーも?」
「はい。以前は考えなかったことを、今は考えるようになりました」
アンナマリーは二人を見比べた。
それから、穏やかに微笑む。
「二人とも、ここでいろいろ変わってるのね」
アルは少し照れたように笑った。
セリーもまた、静かに頷いた。
◇
資料室では、旧保養施設からの観測手順試験案について確認が行われた。
アルは内容を読み、ガルムたちが現場で考えた方法であることを確認すると、そのまま試験を任せることにした。
「今回は、俺たちが細かく口を出す必要はないと思う」
ブラートが頷く。
「現場側で観測条件の変更履歴を管理する方針です」
「うん。それなら十分だ」
アンナマリーは資料を見ながら言った。
「ただ、試験結果が出たら、以前の番号板のときと同じように良かった点と悪かった点を両方残してほしいわね」
「それは伝えておこう」
アルは頷いた。
そのあと、研究院からの追加連絡を確認したが、まだ新しい回答は届いていなかった。
欠損した手順書の続きも、現時点では不明のままだ。
アルは資料を閉じた。
「今日はここまでかな」
アンナマリーが少し驚いたように顔を上げる。
「もう終わり?」
「うん。今すぐ調べられることは一通り確認したし」
「そうね」
アンナマリーは微笑んだ。
「無理に仕事を増やす必要はないわ」
ブラートも資料をまとめ始めた。
そのとき、アルがふと思い出したように言った。
「そうだ。近いうちにセリーと町へ買い物に行こうと思ってる」
アンナマリーの手が止まった。
「……二人で?」
「うん」
アルは頷いた。
「材料とか日用品とか見に行こうかなって」
アンナマリーは少しだけセリーへ視線を向けた。
セリーは静かに微笑んでいる。
「いいじゃない」
アンナマリーは穏やかに答えた。
「楽しんできなさい」
「うん」
アルは嬉しそうに笑った。
アンナマリーはそれ以上、何も尋ねなかった。
ただ、二人の距離が少しずつ変わっていることを感じていた。
◇
夕方、三〇八号室では、少年がヨアヒムへ一つのお願いをしていた。
「先生、違う本も見たい」
少年は植物図鑑を膝に置いたまま言った。
「どんな本がいい?」
ヨアヒムが尋ねる。
少年は少し考えた。
「町の本」
「町?」
「うん。家とか、お店とか、道とかがあるやつ」
ヨアヒムは頷いた。
「絵が多い本がいい?」
「うん」
「じゃあ、探してみよう」
少年は嬉しそうに笑った。
ヨアヒムはその表情を見ながら、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
少年は以前より、自分から希望を伝えるようになっている。
それがすべての問題の解決を意味するわけではない。
けれど、今日の少年は自分で読みたい本を選ぼうとしていた。
「明日、持ってきてくれる?」
「見つかればね」
「見つからなかったら?」
「そのときは、別の本を探すか、もう少し待つか、一緒に考えよう」
少年は頷いた。
「分かった」
ヨアヒムはその約束を覚えておくことにした。
◇
夜、塔の居間には静かな時間が流れていた。
アルは窓際の椅子へ座り、セリーはその隣で小さな布袋を縫っている。
町へ出かけるときに使うものらしい。
「それ、買い物用?」
アルが尋ねる。
「はい。小さな道具や金具を入れられるようにしようと思いまして」
「便利そうだね」
「主様の分も作りましょうか?」
「いいの?」
「はい。必要でしたら」
アルは少し考えた。
「じゃあ、お願いしようかな」
セリーは嬉しそうに頷いた。
「承知しました」
針が布を通る小さな音が続く。
アルはその様子を眺めながら、今日の出来事を思い返していた。
朝は中庭の道具を改良した。
昼は資料を整理した。
午後にはアンナマリーたちと話し、セリーと町へ行く約束をした。
大きな事件は起きていない。
古い施設の謎も解けていない。
それでも、今日という一日は確かに進んでいた。
「セリー」
「はい」
「町へ行くの、楽しみ?」
セリーは針を止め、アルを見る。
「はい。とても」
「俺も」
アルは微笑んだ。
「何か見たいものある?」
セリーは少し考えた。
「まだ決めていません。ただ、主様と一緒にいろいろ見て回りたいです」
「じゃあ、急がず歩こう」
「はい」
セリーは微笑み、再び針を動かした。
アルは窓の外へ目を向ける。
夜空には星が広がっている。
塔の外には、まだ知らないものがたくさんある。
けれど、今のアルにとって大切なのは、すべてを知ることではなかった。
誰と、どんな時間を過ごしたいのか。
何を見て、何を感じたいのか。
それを自分で選べることが、何より嬉しかった。
◇
同じ夜、王立魔導研究院では、設備資料に限定した閲覧申請が正式に受理されていた。
ただし、受理されたことと閲覧が許可されたことは別である。
申請内容は審査へ回され、保護対象に関わる情報が含まれていないか確認されることになった。
研究員は受理通知を読み、静かに息を吐いた。
「ようやく、次の段階だな」
同僚が言う。
「そうだね」
研究員は頷いた。
まだ本文は読めない。
欠損した手順書の続きが本当に残っているかも分からない。
それでも、調べるための道筋は少しずつ整ってきた。
研究員は通知を保管し、机の上の資料を片づけ始めた。
塔では、アルとセリーが町へ出かける約束をしている。
旧保養施設では、観測者たちが新しい方法の試験を準備している。
王都では、古い記録の所在を追う作業が続いている。
それぞれの場所で、それぞれの時間が進んでいた。
そして、古い塔の暮らしには、また一つ新しい楽しみが増えていた。




