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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第126話 開かない扉の、その手前で


 塔の中庭に、久しぶりに穏やかな朝日が差し込んでいた。


 夜の間に冷えた石畳はまだ少し湿っていたが、東側の壁に沿って伸びる日差しは柔らかく、植え込みの葉に残った露を小さく輝かせている。アルは食堂の窓からその景色を眺めながら、焼きたてのパンへ蜂蜜を塗っていた。


 昨日、王立魔導研究院から届いた資料には、まだ答えの出ていない一文があった。


『保持状態の継続が直ちに危険を生じる場合を除き……』


 状態を変えないことが安全とは限らない。だからといって、現在の旧保養施設が危険な状態にあると確認されたわけでもない。


 その区別を忘れないようにしながら、アルはパンを口へ運んだ。


「主様、蜂蜜を少し多く塗られましたね」


 向かいに座っていたセリーが、アルの手元を見て言った。


「そうかな?」


「いつもの一・五倍ほどです」


「そこまで分かるの?」


「正確に計量したわけではありませんが、見た目ではそのくらいかと」


 アルはパンを見下ろした。


 確かに、蜂蜜が端から少し垂れそうになっている。


「……今日は甘いものが食べたかったんだよ」


「それなら、よろしいと思います」


 セリーは微笑み、アルの前へ小皿を寄せた。


「ただ、机へ垂らす前にこちらをお使いください」


「ありがとう」


 アルは素直に皿を受け取り、パンをその上へ移した。


 以前のセリーなら、食事の栄養や主の健康状態を先に確認していたかもしれない。もちろん今もアルの身体を気遣っているが、最近は彼が何を食べたいと思ったのかにも目を向けるようになっていた。


 それは、アルにとって嬉しい変化だった。


「そういえば、今日は何か予定ある?」


 アルが尋ねると、セリーは少し考えた。


「午前中は食料庫の整理をするつもりです。そのあと、中庭の椅子に使った補修材の残りを確認したいと思っています」


「椅子、またどこか悪くなった?」


「いいえ。今のところ問題はありません。ただ、残った材料を別の用途へ使えるか確認しておきたくて」


「なるほど」


 アルは頷いた。


「じゃあ、俺は午前中に昨日の資料を整理するよ。午後は空いてるから、何か手伝うことがあったら言って」


 セリーは少し首を傾げた。


「主様は、ご自身の予定を優先なさっても構いません」


「うん。でも、手伝いたいと思ったから」


 その返事を聞いて、セリーは小さく笑った。


「では、必要になりましたらお願いします」


 アルは残りのパンを食べながら、窓の外へ目を向けた。


 今日も、塔での暮らしは続いていく。


 古い施設の謎も、王都に残された問題も、何一つ終わっていない。それでも朝食を楽しむことや、誰かの仕事を手伝いたいと思うことまで、後回しにする必要はなかった。


     ◇


 旧保養施設では、ガルムが夜間観測の引継ぎを受けていた。


 昨夜も、表示部に明確な発光は確認されなかった。


 音もなく、受動計測器の数値は通常範囲内に収まっている。西側壁面の直線状の見え方についても、新たな報告はなかった。


 ただし、夜勤者の一人が気になることを記録していた。


『西側壁面を確認する際、以前より補修材の境界へ注意が向きやすくなった』


 ガルムはその一文を読み、顔を上げた。


「これは、昨夜の観測者本人が書いたのか?」


「はい」


 引継ぎを担当していた隊員が答える。


「直線状の差異が報告されてから、どうしてもその辺りを気にしてしまうそうです」


「見えたものは?」


「特にありません」


「なら、そこは分けて残せ」


 ガルムは記録用紙を指で軽く叩いた。


「壁に変化があったんじゃなく、観測者の注意の向きが変わった。そういう報告だ」


「承知しました」


 隊員が退室すると、リディアが別の資料を持って入ってきた。


 手にしているのは、これまでの観測者ごとの報告を整理した一覧だった。


「隊長、少しご相談があります」


「何だ?」


「壁面の直線状の見え方が報告されてから、観測者の視線が西側へ偏る傾向があります」


 ガルムは眉を寄せた。


「どのくらいだ?」


「正確な時間を計測したわけではありません。ただ、複数の勤務者が自分の注意の偏りを申告しています」


「なるほどな」


 リディアは一覧を広げた。


「現状では観測位置も計測器も変えていません。しかし、人間の注意が変われば、同じ場所から見ていても実質的な観測条件は変わります」


 ガルムはしばらく考えた。


 新しい線らしいものが報告された。


 それを知った者が、次の勤務で同じ場所を気にする。


 当然の反応だった。


 だが、そこばかり見ていれば、別の場所で起きた小さな変化を見逃すかもしれない。


「観測者へ『気にするな』って言っても無理だろうな」


「はい。意識しないようにすると、かえって意識してしまう可能性があります」


「じゃあ、どうする?」


 リディアは一枚の紙を差し出した。


「観測対象を増やすのではなく、従来の確認順序を明文化する方法を考えています」


 ガルムは紙を受け取った。


 そこには、表示部、周辺壁面、受動計測器、音の有無といった従来の確認対象が並んでいる。


 ただし、細かな秒数や視線の固定時間は書かれていない。


「順番だけか?」


「はい。厳密な時間指定をすると、今度はその順序に注意を奪われる可能性があります。まずは、観測者がどこか一か所へ偏りすぎていないかを自分で確認できる程度に留めたいと考えています」


 ガルムは頷いた。


「悪くねえ。ただし、これも試験だな」


「そのつもりです」


「トーマスにも見せろ。前の番号板で分かったことがあるだろう」


「はい」


 リディアは資料をまとめた。


 ガルムは窓の外へ視線を向ける。


 古い西側壁面は、今日も変わらずそこにある。


 見つけたいものがあるからといって、見つけたい場所だけを見るわけにはいかない。


 それもまた、観測を続けるために必要な注意だった。


     ◇


 王立魔導研究院では、欠損資料の所在確認に小さな進展があった。


 共同保管部署から返ってきたのは、本文そのものではなく、古い移管記録の番号だった。


 研究員は机へ資料を広げ、隣の同僚と照合を始めた。


「この番号、前にも見たことがある気がする」


 同僚が呟く。


「どこで?」


「保護行政側の移管台帳だと思う。確か、設備資料の一部が別部署へ移された記録に……」


 研究員は別の保管箱から台帳の写しを取り出した。


 古い紙の端は傷み、文字の一部が薄くなっている。それでも移管番号の列は比較的はっきり残っていた。


 二人は番号を追い、やがて一つの記載で手を止めた。


『保護判断手順補助資料――共同保管移管』


 その横には、別の番号が記されている。


「一致してる」


 同僚が言った。


「いや、完全一致じゃない」


 研究員は慎重に答えた。


「先頭の分類番号は同じだけど、末尾が違う。親資料と子資料の関係かもしれないし、同じ移管単位に入っていただけかもしれない」


「でも、追える番号は増えたな」


「そうだね」


 研究員は二つの番号を別々に控えた。


 そのうえで、共同保管部署へ追加照会を作成する。


 求めるのは、資料本文ではない。


 移管番号同士の関係。


 そして、欠損した手順書の続きが同じ保管単位に含まれているかどうか。


 個人の医療記録や保護対象の身元情報には踏み込まない。


 今の研究院に許されているのは、あくまで設備・行政資料の照合までだった。


「これ、塔へ知らせる?」


 同僚が尋ねた。


 研究員は少し考える。


「まだ早いと思う。番号が似ているだけでは、何の資料か確定していない」


「じゃあ、照会結果を待つ?」


「うん。少なくとも、同じ保管単位なのかどうかは確かめたい」


 同僚は頷いた。


 研究員は照会文を送信し、机の上の資料を元の順序へ戻した。


 少しずつ、古い記録の所在が見えてきている。


 ただし、その先に何が書かれているのかは、まだ誰にも分からなかった。


     ◇


 塔の資料室では、アルが古い図面を眺めていた。


 西側壁面の三つの表示窓。


 その下に記されていた『外部確認札挿入部』という文字。


 そして、研究院側から届いた『外部状態確認部』『確認札』『状態表示窓』などの用語。


 似ている。


 関係している可能性もある。


 しかし、同じ設備だと証明されたわけではない。


 アルは図面の横へ、昨日ブラートが作成した整理表を置いた。


 施設同一性未確認。


 設備同一性未確認。


 手順同一性未確認。


 保持対象不明。


 確認札の機能未確定。


 その文字を見ていると、以前よりも多くのことが分かっているはずなのに、まだ何も知らないような気分になる。


(いや、そんなことはないか)


 アルは椅子へ背を預けた。


 少なくとも、勝手に開けてはいけない理由は以前より明確になった。


 確認札らしいものがあっても、使えば安全だとは限らない。


 表示窓が光っても、内部の状態を断定できない。


 応答がなくても、何かの不存在や許可を意味するわけではない。


 そして、状態を変えないことにも危険が生じる場合があると分かった。


 どれも答えではない。


 けれど、判断を誤らないための材料にはなっている。


「主様」


 扉の方からセリーの声がした。


 アルが振り返ると、彼女は小さな木箱を抱えて立っていた。


「食料庫の整理が終わりました。こちらの材料について、ご相談してもよろしいでしょうか?」


「もちろん」


 アルは資料を閉じ、机の端へ寄せた。


 セリーが持ってきた箱には、木片や補修用の金具が収められている。


 中庭の椅子を修理した際に残ったものだった。


「これをどうするの?」


「小さな棚を作れないかと思っています」


「棚?」


「はい。中庭の道具を置くためのものです」


 セリーは箱の中から短い木片を取り出した。


「今は箒や小さな道具を壁際へ立てかけていますが、風が強い日は倒れることがあります。簡単な棚があれば、整理しやすくなると思いました」


 アルは少し驚いた。


「いいね、それ」


「ただ、材料が足りるか分かりません」


「じゃあ、一緒に見てみようか」


 アルが立ち上がると、セリーは嬉しそうに頷いた。


 資料室の机には、まだ答えの出ない古い図面が残っている。


 けれど、今は目の前に作れるものがあった。


 アルはセリーと並んで中庭へ向かった。


     ◇


 午後の中庭には、木を削る小さな音が響いていた。


 アルは作業台代わりにした古い机の前へ座り、セリーはその隣で木片の長さを確認している。


 材料は思ったより少なかった。


 大きな棚を作るには足りない。


 しかし、箒を立てかけるための低い支えと、小さな道具を置く台なら作れそうだった。


「全部を一度に作らなくてもいいか」


 アルが言う。


「はい。まず必要な部分だけ作り、足りないところは後日考えればよいと思います」


「それなら、今日は箒の支えだけにしよう」


 セリーは頷き、木片を並べ直した。


 アルが金具の位置を確認し、セリーが木材を押さえる。


 古い椅子を修理したときとは違い、今回は壊れたものを元へ戻す作業ではない。


 新しいものを作る。


 そのことが、アルには少し新鮮だった。


「セリー、こういうの好き?」


 作業の途中で尋ねる。


「こういうの、とは?」


「何かを作ること」


 セリーは少し考えた。


「好きだと思います」


「どうして?」


「完成したものを使う場面を考えるのが楽しいからです」


 アルは手を止め、彼女を見る。


「なるほど」


「椅子を修理したときも、主様と一緒に座れることを考えていました」


 セリーは木片へ視線を落とした。


「今回も、道具が倒れなくなれば、中庭を使いやすくなると思います」


「じゃあ、完成したら毎日使えるな」


「はい」


 セリーは微笑んだ。


「主様と作ったものが、塔の暮らしの中へ増えていくのは嬉しいです」


 アルは胸の奥が温かくなるのを感じた。


 修理した椅子。


 今作っている道具の支え。


 どちらも大した魔導具ではない。


 けれど、二人が一緒に考え、一緒に手を動かしたものだった。


「俺も嬉しいよ」


 アルはそう答え、再び作業へ戻った。


 しばらくして、低い木製の支えが完成した。


 箒を立てかけると、以前より安定している。


 セリーは少し離れて眺め、それから満足そうに頷いた。


「よい出来だと思います」


「うん。ちゃんと使えそうだ」


 アルは箒を一度外し、もう一度立てかけた。


 倒れない。


 それを確認してから、二人は顔を見合わせて笑った。


     ◇


 夕方、アンナマリーとブラートが塔を訪れた。


 二人は中庭を通りかかった際、新しく作られた箒の支えに気づいた。


「これ、どうしたの?」


 アンナマリーが尋ねる。


「セリーと作った」


 アルが答えると、彼女は少し驚いたように目を丸くした。


「二人で?」


「うん。椅子の修理で余った材料を使って」


 アンナマリーは支えを眺めた。


 簡素な作りだが、箒は安定して立っている。


「いいじゃない。ちゃんと役に立ってる」


「でしょ?」


 アルは少し得意そうに笑った。


 その表情を見て、アンナマリーは一瞬黙った。


 王太子だった頃のアルなら、こんな小さな道具を作ったことを、これほど嬉しそうに話しただろうか。


 もちろん、昔の彼にも穏やかな時間はあった。


 けれど、その多くは公務の合間に与えられた休息であり、自分で選んだ日常とは少し違っていたように思う。


「……本当に、ここでの暮らしが好きなのね」


 アンナマリーが言う。


 アルは少し考え、それから頷いた。


「うん。好きだよ」


 セリーが隣で微笑む。


 アンナマリーは二人を見比べた。


 最近、アルの表情は以前より柔らかい。


 セリーもまた、ただ主の世話をするだけではなく、自分の望みを言葉にするようになっている。


 二人の間に何があったのか、アンナマリーは詳しく知らない。


 けれど、今の二人がこの塔で過ごす時間を大切にしていることは、十分に伝わってきた。


「それなら、よかったわ」


 アンナマリーは微笑んだ。


 アルは少し照れたように笑い、資料室へ案内するため歩き出した。


     ◇


 資料室では、旧保養施設から届いた新しい観測方法の試験案が共有された。


 リディアが提案したのは、観測対象を確認する順序を緩やかに整理する方法だった。


 視線を一か所へ集中させすぎない。


 ただし、厳密な時間指定はしない。


 位置表現も、判断できない場合は無理に細分化しない。


「番号板の試験で分かったことを使ってるんだな」


 アルが言う。


 ブラートが頷く。


「はい。現場側で試験案を作成し、現在の観測方法と比較する予定です」


「俺たちに承認を求めてる?」


「いいえ。共有です」


 その返事を聞いて、アルは少し笑った。


「なら、現場に任せよう」


 アンナマリーが資料を確認する。


「試験期間も固定していないのね」


「途中で問題が出た場合は、すぐに見直せるようにしているそうです」


 ブラートが答えた。


「それならいいと思うわ」


 セリーは資料を見ながら尋ねる。


「観測方法を変えることで、以前の記録と比較しにくくなることはありませんか?」


「あると思う」


 アルが答える。


「だから、いつから何を変えたかを残すんだろうね」


 ブラートも頷いた。


「変更前後の条件を区別することで、比較できる部分とできない部分を明確にする方針です」


 セリーは納得したように頷いた。


 そのあと、話題は研究院からの追加連絡へ移った。


 ただし、今日は新しい回答は届いていない。


 欠損資料の続きも、まだ確認されていなかった。


「待つしかないか」


 アルが言うと、アンナマリーが少し笑った。


「待っている間にできることはあるでしょう?」


「そうだな」


 アルは窓の外へ目を向けた。


 中庭には、今日作ったばかりの箒の支えがある。


 調査とは何の関係もない。


 けれど、確かに今日一つ、新しいものが増えた。


     ◇


 夜、三〇八号室の少年は、窓辺で植物図鑑を読んでいた。


 ヨアヒムが様子を見に来ると、少年は本を閉じずに顔だけを上げた。


「先生」


「どうした?」


「これ、明日も読んでいい?」


 少年は図鑑を持ち上げた。


「もちろん」


「ここに置いててもいい?」


「いいよ。読みたいときに読めるようにしておこう」


 少年は嬉しそうに頷いた。


 以前なら、何かを手元に置くことにも許可を求めるのをためらっていた。


 今も、すべてを自由に決められるわけではない。


 けれど、今日の少年は自分から希望を伝えた。


 ヨアヒムはそのことを特別に褒めたり、意味づけたりしなかった。


 ただ、図鑑を置ける場所を一緒に確認した。


「ここなら、手が届くな」


「うん」


 少年は本を窓辺の小卓へ置いた。


 それから、少し考える。


「明日、違う本も見たいかも」


「どんな本?」


「まだ分かんない」


「じゃあ、明日考えよう」


 少年は頷いた。


 今日はそれで十分だった。


     ◇


 夜更けの塔では、アルとセリーが居間で過ごしていた。


 窓の外には星が見え、中庭の木々は静かに揺れている。


 茶卓の上には、今日使った木片の寸法を書いた紙が置かれていた。


「主様」


 セリーが隣から声をかける。


「ん?」


「今日、楽しかったです」


 アルは彼女を見る。


「棚作り?」


「はい。正確には、箒の支えですが」


「そうだった」


 アルは笑った。


「俺も楽しかったよ」


 セリーは少し考えた。


「また、何か作りたいです」


「いいね。次は何を作ろうか」


「まだ決めていません」


「じゃあ、必要なものが見つかったら考えよう」


「はい」


 二人はしばらく窓の外を眺めた。


 そのあと、セリーがそっとアルの手元へ視線を落とす。


「主様」


「うん」


「今日は、手を握りたいです」


 アルは微笑んだ。


「俺も」


 セリーが手を差し出し、アルが重ねる。


 掌が触れ、指がゆっくり重なった。


 以前より自然な動きだった。


 セリーは握った手を見つめながら、小さく息を吐く。


「不思議です」


「何が?」


「以前は、主様のお身体に触れることは、介助や保護のための行動でした」


 アルは黙って聞いていた。


「今は、そうではないときにも触れたいと思います」


「うん」


「それが、私自身の望みだと分かるようになりました」


 アルの胸が温かくなる。


「俺は、それが嬉しい」


 セリーは少し照れたように微笑んだ。


「主様は、私の望みを聞くと嬉しいのですね」


「そうだよ」


「では、これからも、私が何かを望んだときにはお伝えします」


 アルは彼女の手を優しく握り返した。


「うん。俺も、自分の気持ちはちゃんと伝える」


 二人はそのまま、しばらく手を繋いでいた。


 調査はまだ続いている。


 古い施設の扉は開かれていない。


 その向こうに何があるのかも分からない。


 けれど、アルは今夜、自分が何を大切にしたいのかを少しだけはっきり感じていた。


 知りたいことは、たくさんある。


 守りたいものも、たくさんある。


 それでも、今ここにある暮らしを犠牲にしてまで、すべての答えを急ぐ必要はない。


 セリーの手の温かさを感じながら、アルは静かに笑った。


     ◇


 同じ夜、王立魔導研究院には共同保管部署から短い返答が届いていた。


 照会した二つの移管番号について、親資料と子資料の関係ではないことが確認された。


 ただし、同一の移管単位に含まれていた可能性は高いという。


 さらに、欠損した手順書の続きについて、別の保管区分に関連資料が残されている可能性が示された。


 その区分は、通常の設備管理資料ではなかった。


『保護判断・緊急時代替手順』


 研究員はその見出しを読み、しばらく黙っていた。


 緊急時。


 その言葉が、欠損した一文とどう関係するのか。


 保持状態を続けることが危険な場合。


 そのとき、誰が何を判断したのか。


 まだ分からない。


 研究員は資料番号を控え、追加照会の準備を始めた。


 塔には、まだ知らせていない。


 旧保養施設でも、今夜の観測は静かに続いている。


 古い扉は、今日も開かれなかった。


 けれど、その扉を開かない理由を確かめるための記録は、少しずつ増え続けていた。

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