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微子の憂鬱  作者: 日和見


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帰還

微子の憂鬱 第9話  西伯・姫昌きしょう羑里ゆうりの地に幽閉されて、実に七年の歳月が流れた。 しゅうによる血の滲むような貢物工作、そして時の流れによる商王朝の油断。すべてが姜子牙きょうしがの描いた絵図通りに進み、ついに姫昌に「放免」の沙汰が下った。 朝歌ちょうかの門を出る馬車に乗り込みながら、姫昌は静かに目を閉じた。 思えば、長きにわたる試練の七年だった。朝歌への召喚、怒号の飛び交う詰問、そして羑里での幽閉。何と言っても、姜子牙という稀代の怪物との出会い。 脳裏をよぎるのは、微子びし妲己だっきによって「羹」にされた愛息・伯邑考はくゆうこうの笑顔だ。あえて道化を演じ、我が子の肉を食らって見くびらせることで、辛うじて生き延びた。油断させることには成功したが、今でも思い出すだけで胸が張り裂けそうになる。 だが、あの暗闇の檻を救ってくれたのは、姜子牙が紹介してくれた箕子きしとの対話だった。二人で大いに語らい、偶にくる姜子牙の奇抜な着想も採り入れることで、ついに新たなる世界の理『八卦はっけ』は完成を見た。(……さぁ、周へ帰ろう。我が故郷へ。そして、次なる天命を果たすために) 動き出した馬車の中で、姫昌の瞳には静かな、しかし決して消えない復讐と革命の炎が宿っていた。 ――同じ頃。 王都・朝歌にある、選ばれた貴族や有力者しか立ち入れない高級な社交場。その一室の帳の奥で、姜子牙は微子と対面していた。 目の前には、極上の酒と贅を尽くした肴。姜子牙は微笑を浮かべ、微子の杯に酒を注ぎながら、低く甘い声で語りかける。「微子様。あの一連の西伯への策謀……。思い返せば、そのすべてが時期と言い、手法と言い、実に見事、万全でございました。あの大王(帝辛)の心を操り、妲己様を動かした手腕。天下広しといえど、微子様をおいて他に誰ができましょうや」 姜子牙は、微子が過去に仕掛けた陰謀を一つ一つ紐解き、過剰なまでに持ち上げた。 あの大王(帝辛)から「生首の褒美」という最悪の脅迫を受け、夜も眠れぬ恐怖を味わった微子にとって、その言葉は極上の救いだった。「それに比べて……宰相の比干ひかん様の対応の不味さは、目を覆いたくなるばかりです。綺麗事ばかりで、微子様のせっかくの先見の明を理解できぬとは。商王朝の重鎮たちも、形ばかりで中身が伴いませぬな」 比干の無能さをあげつらい、微子の「正しさ」だけを全肯定する言葉。 微子は身体の震えを抑えられなかった。(……この男だ。この男だけが、私の努力を、私の知性を、私という存在を正しく理解してくれている……!) 士たるもの、己を知る人のために死す。 今、微子には誰にも言えない秘密があった。あの恐怖の夜以来、不安を埋めたい妲己と、弟・帝辛への激しい劣等感からくる「当て擦り」の欲求が重なり、二人は越えてはならない一線を越え、泥沼の不倫関係に溺れていたのだ。(大王にバレたら、今度こそ私の首が飛ぶ……!) そんな極限のスリルと孤独に苛まれる微子にとって、目の前で優しく微笑む「呂牙(姜子牙)」という男は、暗闇に差し込む唯一の光であり、救世主そのものだった。「呂牙殿……。私を分かってくれるのは、本当に君だけだ……」 微子は気付いていなかった。 比干や周囲への不満を肯定され、甘やかされるうちに、自分がどれほど深く、目の前の「姜子牙」という男に精神を依存し始めているかを。 そして――微子はさらに知る由もなかった。 命がけだと思っている妲己との密通が、実は弟・帝辛にすべて筒抜け(・・・)であることを。『――兄上と妲己が肌を重ねている? ふっ、構わんさ。それで、あの愛おしい妲己の心が少しでも安らぎ、幸せだというのならな。そのまま泳がせておけ』 そう言って、すべてを知りながら不気味に黙認している最凶の王。 商王朝の破滅を企む姜子牙。 その二人の怪物の掌の上で、自分がただの哀れな蜘蛛の糸に絡め取られていることなど、依存の快楽に蕩けきった微子の濁った眼には、もう何も見えてはいなかった。(第9話 終)

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