師父
微子の憂鬱 第10話 羑里から西伯・姫昌が奇跡の帰還を果たしたという歓喜は、瞬く間に周の全土へと伝播していった。民も兵も、偉大なる主の無事を涙を流して祝った。 ――しかし。その歓喜は、すぐに別の「驚きと困惑」へと塗り替えられることになる。「おい、見たか……? 姫昌様が、また渭水の畔へ向かわれたぞ」「ああ。帰国されて以来、毎日毎日だ。まるで恋しい待ち人でもいるかのように、あそこに一台の代車(荷車)を置いたまま、熱心に通っておられる」 民たちは遠巻きにその様子を眺め、首を傾げていた。7年もの地獄の幽閉を耐え抜いた聖人が、政務もそこそこに、川辺で一体何をしているのか、と。 そして、その日はついに訪れた。「な、なんだ、あれは……!?」「嘘だろ!? 姫昌様が……ご自身で、車を引いておられるぞ!」 街中がひっくり返るほどの騒動が巻き起こった。 渭水の畔から戻ってきた姫昌は、あろうことか自ら代車の梶棒を握り、身体を傾けて泥を進んでいたのだ。長年の幽閉で衰えたはずの老躯で、必死に、しかし一歩一歩を噛み締めるように車を轢いている。 そして、その粗末な代車の上に乗っているのは――身なりの知れぬ、一人の若者(姜子牙)であった。「姫昌様! 一体何をされておられるのですか!」「そのような卑しき者を乗せて、主みずから車を引くなど、あってはなりませぬ!」 周りの民や家臣たちが、驚きと悲しみの声をあげて車の周りに殺到する。だが、姫昌はそれらの雑音を一切耳に入れない。ただ前だけを見据え、時折、車上の若者へ細心の注意を払うように振り返るだけだった。「――師父。乗り心地はいかがかな? 少し揺れるが、どうか我慢してくだされ」 息を切らしながらも、姫昌の声には至高の敬意が籠もっていた。 その言葉を聞いた周囲の者たちは、言葉を失って絶句した。あの高潔なる西伯姫昌が、どこの誰とも分からぬ若者を「師」と仰ぎ、平伏せんばかりの態度を取っているのだ。「……天下を動かすには、相応の重みが必要でございます。姫昌殿、あなたの引いたこの歩みこそが、新たな国の礎となりましょう」 車上の姜子牙は、冷徹な、しかし確信に満ちた瞳で姫昌を見下ろし、静かに告げた。 二人の間に流れる、常人には不可侵の圧倒的な空気感。 車がそのまま政庁の門へと差し掛かると、並み居る兵士たちもその異様な気迫に圧倒され、止めることさえできなかった。彼らにできるのは、武器を握り直し、ただ黙って周りを固めて見守ることだけだった。 主のあまりに狂信的で尊大な姿に、周の民たちの嘆きと戸惑いの声が、朝霧の街を包み込んでいく。「嗚呼、姫昌様……! 一体何が、あなたをそこまで駆り立てるのですか……!」 民の涙を乗せて、代車はゆっくりと、しかし確実に商王朝を圧し潰すための歴史の坂道を登り始めていた。(第10話 終)




