羹
微子の憂鬱 第5話
周の長子・伯邑考が朝歌に到着し、商への朝貢を願い出た。
馬車に積まれた見事な財宝の数々に、帝辛は機嫌よく滞在を認め、父・姫昌との面会を許した。
「西伯の長子よ。我が商は今、東方遠征という国家の大事を控えている。周の急速な勢力伸長を座視するわけにはいかぬゆえ、今すぐの放免は叶わぬが……其方の忠義、しかと受け取った」
玉座からの帝辛の言葉は理路整然としており、一国の王としての威厳に満ちていた。伯邑考もまた、その政治的判断に深い理解を示し、深く頭を下げて退室した。
誰もが、このまま穏便に話が進むと信じていた。
――だが、宮殿の闇に潜む微子と妲己の二人が、ついにその牙を剥いた。
「ふふ……これで『聖人』の化けの皮が剥がれるわ」
秘密裏に拉致された伯邑考は、二人の手によってあまりにも凄惨な方法で殺害された。その肉は無残に切り刻まれ、どろりとした温かい「羹(あつもの:肉スープ)」へと姿を変えられたのだ。
コンコン、と羑里の檻にその器が届けられる。
漂う肉の匂い。その瞬間、姫昌はすべてを理解した。目の前にあるのは、愛する我が子の肉だということを。
(……ああ、邑考よ)
張り裂けんばかりの絶望が胸を襲う。しかし、姫昌は一瞬たりとも表情を変えなかった。狂うことも、涙を流すこともせず、ただ静かに、知らぬ振りをしてその羹を口へと運んだ。一滴も残さず、我が子を己の体へと還すように。
その様子を隠れて見ていた微子と妲己は、手を取り合って下卑た笑い声をあげた。微子は満足げに檻の前に姿を現し、歪んだ笑みを浮かべて言い放った。
「くっくっく……どうだ姫昌、その羹は美味しかったか? ――それはな、お前の最愛の息子、伯邑考の肉だ!」
「な、何だと……!? 邑考、邑考ォォォ!!」
真実を告げられた姫昌は、突如として激しく取り乱し、床に這いつくばって泣き叫んだ。髪を振り乱し、見っともなく涙を流して絶叫するその姿は、かつての聖人の面影など微塵もない、ただの哀れな老いぼれだった。
「ははは! 何が聖人だ! 我が子の肉とも知らずに貪り食うとはな! 実に見事な見せ物だったぞ!」
微子は完全に勝ち誇り、胸のすくような満足感に満たされてその場を立ち去った。
しかし――それこそが姫昌の狙いだった。
あえて相手の思惑通りに動き、見くびられること。商の警戒を解き、周の未来を生き残らせるための、血を吐くような「狂態の演技」であった。
市井でその顛末を耳にした姜子牙は、怒りのあまり顔を激しく歪ませた。肉を刻む包丁を粉々に砕かんばかりに握りしめ、低く呪わしげに呟く。
「微子……お前という男は。お前が今、この手で、六百年続いた商王朝崩壊の鐘を鳴らしたのだ……!」
一方。事後報告を受けた王・帝辛は、玉座で一人、くつくつと低く笑っていた。
「――ああ。兄上(微子)と妲己は、何と愚かで、醜く……そして、愛おしいのか」
帝辛はすべてを察していた。二人がやらかした凄惨な悪行も、それがもたらす破滅的な未来も。だが、その顔にあるのは怒りではなく、底知れない愉悦だった。
「ふはは、見えるぞ。報告を受けた二人の叔父上の反応がな。箕子は苦虫を噛み潰したような顔で『王族の品格が云々』と苦言を呈し、比干は顔を真っ赤にして激怒するだろう。……ならば、この私が、世界で唯一人、兄上たちを称賛してやろうではないか。盛大な褒美も遣わそう、最高の『喜劇』の対価としてな!」
狂った兄と側室を、さらに狂った王が笑って称える。
(第5話 終)




