姬昌の覚悟
微子の憂鬱 第4話 狂気に憑りつかれた微子の足は、後宮へと向いていた。 狙うは、東方の諸侯から献上されたばかりの稀代の美姫――妲己。現在、弟である帝辛が最も深く寵愛を注いでいる女であった。「……お初にお目にかかります、妲己様」 微子は妲己の前に進み出ると、恭しく頭を下げた。そして、帝辛の耳を傾けさせる力を持つ彼女の耳元で、静かに、しかし確実に効く「言葉の毒」を囁き始めた。「巷では、羑里にいる西伯・姫昌を『天命を受けた本物の聖人』などと崇める不届き者がおるようです。大王(帝辛)の威光を脅かす、忌々しい噂だとは思いませぬか? ……もし奴が本当に何でも見通す聖人ならば、いかなる悲劇が身に降りかかろうとも、すべてを事前に察知して取り乱すことなどないはず。――試してみたくはありませぬか?」 微子の言葉の毒は、退屈を嫌う美姫の好奇心をじわじわと侵食していく。 ただし、微子は抜け目なかった。これが宰相の比干らの耳に入れば、たちまち計画は水泡に帰す。「くれぐれも、比干叔父上らには秘密に。奴らにバレては面倒なことになりますゆえ……」 念を押し、闇の中で秘密裏に計画を進行させていく微子。自分の仕掛けた完璧な罠に、胸の中で暗い優越感を覚えていた。 ――だが。微子は決定的なことを見落としていた。 彼がどれほど隠密に動こうとも、朝歌の裏社会を牛耳る「知謀の怪物」の目を欺くことはできなかった。「……微子の奴、とんでもないことを企みおったな」 すべてを察知した姜子牙は、すぐさま羑里の砦へと赴いた。 檻の中にいる姫昌に対面すると、周囲を警戒しながら早口で事実を告げた。「西伯、時間がない。微子が妲己を動かし、お前の長子(伯邑考)を狙った最悪の罠を仕掛けようとしている。今すぐ手回しをして、息子がこの朝歌の地に入る前に、西方へ引き返させ、避難させるべきだ。俺の網を使えば今からでも間に合う!」 姜子牙の緊迫した提案。 しかし、それを聞いた姫昌は、驚くことも、取り乱すこともなかった。それどころか、静かに首を横に振ったのだ。「……いや。姜子牙殿、その提案は断る」「なっ……何故だ!? このままではお前の息子が死ぬのだぞ!」 思わず声を荒らげる姜子牙に対し、姫昌は凍りつくほど冷徹な、しかし澄んだ瞳で理由を語り始めた。「大王(帝辛)は聡明だ。我が周の動きを常に警戒している。ここで私が息子の到着を妨害し、不自然に逃がせば、大王は『周が朝歌の情報を盗み見ている』と確信し、我が国へ牙を剥くだろう。万が一、微子の計画が実行されるというのなら……私はそれを受け入れねばならん。すべては周の国を、民を危険に晒さないためだ」 絶句する姜子牙に、姫昌はさらに続けた。「それに……微子のような『持たざる小党』は、自分の計画が阻まれたと知れば、さらに憎悪を募らせる。暴発した奴が次は何をし出すか分からん。狂人の刃は、いなすよりも、一度まともに受け止めて折るしかないのだ」 息子の命を、国の安全のための「生贄」として差し出す――聖人という名の、あまりにも非情で巨大な合理性。 その圧倒的な覚悟に圧され、さしもの姜子牙もこれ以上言葉を続けることができず、静かに引き下がるしかなかった。 だが、この時の決断を。 姫昌が選んだあまりにも残酷な運命の行き着く先を、姜子牙は――のちの世に至るまで、生涯激しく後悔し続けることになるのであった。(第4話 終)




