姜子牙
微子の憂鬱 第3話 大国・商の王都である朝歌。 その賑やかな喧騒の裏には、無数の「目」と「耳」が張り巡らされていた。それらを一手に束ねる一人の男がいた。 男の名は、姜子牙。 長年、商王朝と西北方の国境で血で血を洗う戦いを続けてきた「姜族」の指導者である。 彼は正体を隠し、朝歌をはじめとする主要都市で肉屋や酒屋をいくつも経営していた。市井に紛れてあらゆる噂を吸い上げる一方、その稀代の頭脳から導き出される的確な予言は「天才占い師」として商の有力者たちの間でも知れ渡っている。商の心臓部で静かに牙を研ぐ、知謀の怪物であった。「――西伯・姫昌が、羑里に幽閉されたか」 店先で肉を捌きながら、姜子牙は冷徹な瞳を細めた。 彼はすぐに行動を起こした。羑里の砦の看守たちに手際よく賄賂を掴ませ、遠目から幽閉された姫昌の様子を観察したのだ。 檻の中にいるというのに、姫昌の佇まいには一切の卑屈さがなかった。静かに座して天を仰ぐその姿には、王者の風格すら漂っている。(ほう……あれが西伯か。面白い男だ) 姜子牙の胸に、強い興味が湧き起こる。 彼は羑里の砦に肉を卸す立場を利用し、門番の目を盗んで、少しずつ、少しずつ姫昌と言葉を交わし始めた。商を揺るがす二つの巨大な頭脳が、檻の隙間で静かに交錯していく。 ――その頃。 豪奢な自邸の執務室で、微子は激しい怒りと不満を爆発させていた。「なぜだ……! なぜ弟(帝辛)は、姫昌を殺さなかったのだ!?」 ガシャーン、と机の上の高価な青銅器を床に叩きつける。 微子は人一倍努力し、己の財貨を惜しみなく使って姫昌を朝歌に引っ張り出したのだ。すべては西方の脅威を根絶やしにするためだった。「例え諸侯の反感を買おうが、事ここに至れば処断あるのみ! それなのに比干の叔父上も綺麗事ばかりを並べ立ておって……!」 さらに微子の神経を逆撫でしたのは、羑里での姫昌の処遇だった。 幽閉とは名ばかりで、まるで貴人を迎えるかのような手厚い扱いを受けているという。「なぜだ! なぜ奴の心を折り、卑屈に頭を下げさせようとしない!? あんな生ぬるい檻では、奴の威信は高まるばかりではないか!」 孤立感と焦燥感。微子の心は完全に闇へと追い詰められていた。 そこへ、青ざめた表情の部下が、新たな知らせを持って飛び込んできた。「微子様! 西方の周より、姫昌の長子・伯邑考が朝歌に向かっているとの情報が入りました! 山のような財宝を積んだ馬車を従えているとのこと。おそらく、父の解放を大王へ願い出るつもりです!」「……何だと?」 微子の動きが止まった。 息子が、宝を持って、父親を助けにやってくる。 その瞬間、微子の脳裏に、どす黒く、そして完璧な悪魔の閃きが走り抜けた。「……ふっ、ふふふ。あはははは!」 静まり返った部屋に、微子の狂ったような笑い声が響く。先ほどまでの怒りは消え失せ、その顔には残酷な愉悦の笑みが浮かんでいた。「そうか……。わざわざ向こうから、最高の『素材』が飛び込んでくるわけか。――ああ、実に良いことを思いついたぞ」 微子は暗く、深く嗤う。 この歪んだ執念が、周と商の運命を決定づける「最悪の惨劇」を引き起こすとも知らずに。(第3話 終)




