献身
微子の憂鬱 第38話
――私は周の政庁へと全力で飛び込んだ。 最近の私は、顔を見せれば門番たちが右から左へと、すぐに執務室まで通してくれるほどの「忠臣」待遇である。 扉を押し開けて飛び込んだ室内の奥。そこには、連日の苦戦の影響からか、見る影もなく顔色を悪くした四男の周公旦が、竹簡の山に埋もれて座っていた。「旦殿、大丈夫か! 随分と顔色が悪いぞ!」 私が駆け寄って声をかけると、旦は力なく顔を上げ、蚊の鳴くような小さな声で弱音を漏らした。「……情けないが、前線から届く戦況報告が、どれも芳しくなくてね。私のやり方が間違っていたのだろうか……」(ああ、駄目だこれは。完全に心が折れかけてやがる!) 私は内心で凄まじい冷や汗を流した。 おいおい、この男がここで潰れたら周は終わりだ。武庚がここに攻めてきたら、私の命が一番危ないんだぞ!(――いや、待て。ここで計画を変更する。そう、優秀な私ならば、この程度の戦況の変化、いくらでも軌道修正ができるのだよ!) 私はガタガタ震える膝を叩いて立ち上がると、必死で己の脳内を都合よく変換し、旦の前に膝を突いた。「旦殿! 確かに最近の私は、あなたに『摂政としての独断も必要だ』と背中を押し続けた。だが、ここはいったん立ち止まるべきだ。……今こそ、二号の重臣である召公奭殿の元へ赴き、協力を呼び掛けようでは在りませんか!」「……召公奭殿にか? だが、彼は私の厳格な方針を独裁だと批判して、完全に決裂しているのだぞ。今さら私から頭を下げろというのか……!」 旦の、周の皇族としての「矜持」が邪魔をするのか、彼は酷く顔を歪めて渋りやがった。 お前、今の状況が本当に分かっているのか!? プライドなんかで死なれてたまるか!「旦殿! 誰のために頭を下げるというのです! 幼い姫誦(成王)様のためなのだ! 辛いかも知れんが、ここは泥を啜ってでも頭を下げような! ――あの幼き王を守れるのは、この天下であなた一人だけなんだから!!」涙ながらの(実際は自分の命が惜しいだけの)必死の説得。 私のその『気高い献身』に魂を揺さぶられたのか、周公旦はついに重い腰を上げた。 後日。周公旦と召公奭の、劇的な和解が成された。 決裂していたはずの召公軍の大軍が南より怒涛の勢いで前線へと到着し、崩壊寸前だった周軍の戦線は、奇跡的な膠着状態へと改善されたのだ。「よし、戦況の傾きは止まった。だが、これだけではまだ足りん。ここでもう一押しだ!」 私はすぐさま、次の矢を放つべく周公旦の元へと向かった。 目指すは、東方で専守防衛に徹し、攻め寄せる諸侯を返り討ちにし続けている、あの国だ。「旦殿、東方の『斉』に、周のために攻勢に出てもらうよう要請するのです!」「な……呂望先生にか!? 私が自らの手で、兵も持たせずに都から追い出したあの先生に、今さら助けを求めろというのか!」 自分で追放した手前、旦は本当に、この世の終わりかと思うほど嫌そうな顔をした。 だが、ここで引く私ではない。私は、これ以上ないほど冷酷で、気高い「決めゼリフ」を彼に突きつけてやった。「歯がゆいかも知れんが、呂望にも頭を下げて攻勢に出てもらうのだ! そうすれば、都の本隊、南の召公軍、そして東方の斉軍による『三方向からの大包囲網』が完成する!」 私は旦の目を真っ直ぐに見据え、言い放つ。「すべては幼い姫誦様のためなんだ。頭など、必要ならいくらでも下げよう! それとも周公旦殿……貴方の掲げた『正義』とは、その程度の覚悟しか無かったのか!?」「……っ!!」 旦は言葉を失い、己の覚悟の甘さを恥じるように、拳をきつく握りしめて項垂れた。 ――後日、周の朝廷からの懇願を受け、東方の『斉』がついに全軍をもって攻勢に出た。 解き放たれた化け物の軍勢は凄まじかった。斉軍がひとたび動けば、反乱軍に加担していた東方の国々が、文字通り塵の吹き飛ぶような速度でどんどん陥落していく。(……おいおいおい、強すぎるだろ。化物め……!) 私は戦況報告を見ながら、あまりの理不尽なまでの軍略の冴えに、改めて呂望への恐怖で肌を粟立てるのだった。 だが、これで盤面は完全にひっくり返った。 包囲され、じり貧になっていくのは、今度こそ武庚たちの側だ。「あはは、やはり私は天才だ! 優秀な私の軌道修正によって、周は救われたのだからな!」 冷たい風が吹く宮廷の陰で、私は迫り来る本当の終焉へ向けて、邪悪な高笑いを響かせるのだった。




