武庚
微子の憂鬱 第35話 ――殷。 六百年続いた偉大なる商王朝が敗れ、降伏した後、周から私に与えられた新たな国名がそれであった。 商の首都であった朝歌を含む、四分割された旧領の一部。そこを諸侯として治めることになったのは、周の連中が商の遺民たちの反発を恐れ、彼らを慰撫するためだけに用意した、哀れな操り人形の座に過ぎない。 その座に甘んじながら、私はあの日、燃え盛る宮殿の奥へと消えていった父・帝辛との、最期の対話を今でも毎日のように思い出していた。『私をどれほど恨んでくれても構わぬ。――だが、一つだけお願いだ。我が商の「祖霊」に恥じることだけは、断じてしてくれるなよ』『――必ずや』 そう胸を張って誓ったあの日。 私は家族や供回り、そして父が残してくれた誇り高き親衛隊の生き残り五千人を引き連れて降伏した。だが、それからというもの、私は周の悪逆非道な行為を、ただ冷めた目で、歯を食いしばって見届けることしかできなかったのだ。 投降したにもかかわらず、満身創痍の悪来を多勢に無勢でなぶり殺しにした周兵たちの残虐さ。 父の愛した寵姫・妲己を寄ってたかって蹂躙し、無残に首を跳ねた奴らの醜悪な本性。 さらに奴らは、民や官吏を飢えさせないために、父の命で鹿台の食糧や財貨を配ったに過ぎない忠臣・費仲を、「国を傾けた悪臣」という汚名を着せて平然と処刑したのだ。(これが、奴らの言う『天命』か。これが、周の掲げる『正義』か。――笑わせるな、奴らの性根は、何一つ変わってなどいない) 腹の底で黒い炎を燃やす私に対し、商の旧領に封じられた三人の諸侯――管叔鮮、蔡叔度、霍叔処は違っていた。 彼らは周の皇族でありながら、商の遺民たちを心から大切に扱い、熱心に国を治めていた。現地の民心のことで、私に頻繁に相談に訪れ、意図を同じくして必死に努力を重ねていたのだ。 私は商の後継者として、彼らのその真摯な姿勢に感謝し、これまで協力を惜しまなかった。 ――だが、初代王・姫発が死に、都で摂政の座に就いた四男・周公旦。 あの男の性根だけは、完全に腐りきっていた。 都から無理難題を押し付け、難癖をつけ、現地の民を救おうとする三人の兄や弟たちの邪魔を、何かに付けて執拗に繰り返してくるのだ。 私は民の命を守るため、これまで屈辱に耐えて踏みとどまってきた。だが、三監の彼らも、もはや限界が近いのだろう。「武庚殿。都の旦は完全に独裁を企んでいる。このままでは我ら兄弟も、商の遺民たちも生きてはゆけぬ」「どうか、我らの『盟主』になってはくれないか。共に兵を挙げ、周公旦の手から幼き成王を救い出すのだ」 最近では、彼らからそれとなく挙兵への打診が続いている。 周の兄弟の歪み、国を割る内戦の足音。(祖霊に恥じないためにも、近々、心を決めねばならんな……) 私は朝歌の空を見上げ、静かに闘志を研ぎ澄ました。 周公旦を排除し、商の誇りを取り戻す。その戦いが始まれば、私は決して容赦はしない。 安全な都で商人面をして善人ぶって立ち回っている、あの最悪の男に対してもだ。(微子啓……。我が父を、我が国を内側から裏切り、今また周の犬となって媚びを売る、あの卑劣な叔父の男だけは……) 私の瞳に、冷酷極まりない暗い殺意が宿る。(――あの男だけは、この手で、絶対に殺す!) 歴史の歯車が激しく軋みをあげる。 微子が仕掛けた「言葉の毒」は、彼の想像を遥かに超えた、商の怨念という名の怪物を目覚めさせようとしていた。




