疑義
微子の憂鬱 第32話 呂望から盗み取った人心掌握の技術。 それを実践する最初の舞台として、私は商の旧領を取り囲む三つの国――管、蔡、霍の地を選んだ。「管叔鮮殿、お久しぶりです。この度、商の旧領と周の都・鎬京の間を行き来する商隊を組み、商いをさせていただくことになりました、微子啓です」 私は元商のまとめ役である管叔鮮の前に立ち、どこまでも実直な態度で、深く頭を下げた。「実を言いますと、都の周公旦殿からは『現地の些細なことでも都へ伝えるように』と言い含められて、この商いの許可をいただきました。つまるところ、私は旦殿の目と耳です。ですが、もし鮮殿から都への伝言や、ご兄弟へのお手紙などがございましたら、いつでもお気軽にお申し付けください。喜んでお運びいたします」 ――ここを間違えてはいけない。 下手に隠して後から露見すれば、一瞬でスパイとして首を刎ねられる。最初から「私は旦殿の偵察要員ですよ」と堂々と正直に伝えるからこそ、相手は私に警戒を解き、逆に信頼を寄せるのだ。 私は同じように蔡叔度や霍叔処の元にも律儀に挨拶へと赴いた。 三人の国々の間を行き来し、彼ら兄弟たちの連絡係すらも買って出ることで、私は着実に彼らの「不可欠な身内」としての信用を積み上げていった。 当然、都に帰れば周公旦への報告を欠かさない。 もたらす情報はすべて紛れもない事実。だが、ほんのわずかに、職人技のような精密さで「角度」を付けて旦に伝える。「鮮殿たちは、都(豊京)の特産品を大変求めておいででした。旦殿、ご兄弟のために昔馴染みの品々を贈られては如何かな? きっと喜ばれますよ」 どこまでも基本は「親切な善人」の演技を貫く。旦は私の細やかな心遣いに深く感謝し、私への信頼をさらに強めていく。 そうして数ヶ月が経った頃、管叔鮮がふと私に政治の悩みを漏らした。 商の東方遠征から帰還したものの、行き場を失い、現地で溢れかえっている大量の兵士たちの処遇に困り果てている、というのだ。 私は、待ってましたとばかりに、極上の優しい笑みを浮かべて助言を与えた。「なるほど、それは大変ですな。ですが鮮殿、解決は簡単では有りませんか。貴方はこの管の国の君主なのですからね。商の時代のような高給は約束できないと事前に伝えた上で、彼らをあなたの兵として雇い入れれば良いのです。……私もそうですが、人はただの施しで飢えを凌ぐより、誇りある仕事をして生活する方を選びますよ」「おお……! 民を飢えさせぬための、見事な知恵だ。感謝する、微子殿!」 鮮は私の言葉に酷く感動し、早速復員兵たちの大量雇用へと動き出した。 私は感謝されながら穏やかに退出し、その足で、すぐさま鎬京の周公旦の元へと向かった。 王宮の密室。私は少しだけ声を潜め、困惑したような表情を作って旦に告げる。「――周公旦殿。管叔鮮殿が、商の時代の生き残りの兵士たちを、今、大量に雇い入れて囲い込んでおります」 旦の顔が、一瞬で強張るのが分かった。私は、あくまで「ただの事実の報告」という体を崩さずに、最悪の『角度』を付けて言葉を添えた。「戦も終わったというのに、元敵国の正規兵をこれほどの規模で集めるなど……一体、どのような理由があるのでしょうか。現地の民たちも、何やら不穏な気配を感じて怯えているようでして、念のためご報告を……」「兄上が、商の兵を、大量に……?」 旦の瞳の奥に、昏い猜疑の火が灯る。 嘘だけは、何があっても絶対に吐かない。 もたらすのは100%の真実。だからこそ、私の言葉に間違いはないと、誰もが信じ込む。(うふふ、本当に儚い兄弟仲だな、お前たちは) 都へ、前線へ、私が運ぶ「角度のついた真実」という名の毒によって、周の兄弟たちの間に、決して消えない決定的な亀裂が少しずつ、確実に積み重なっていく。 その破滅の秒読みを、私は宮廷の陰から、うっとりと見つめるのだった。




