再起
微子の憂鬱 第30話 あの日、論功行賞の天幕から惨めに引きずり出され、すべてを失った。 ――あれから、二年。 私はわずかな微禄びろくのみを与えられ、周囲の嘲笑を浴びながら、息を潜めて質素に暮らしていた。 だが、天は私を見捨ててはいなかった。 私の元に、極上の朗報が飛び込んできたのだ。「何と……姫発きはつが死んだか! さらに、あの忌々しい呂望ろぼうまでもが、兵も持たされず東方の敵地へ、身内だけで追放されただと!?」 自らの部屋の片隅で、私は溢れ出そうになる歓喜を必死に噛み殺した。 終わりだ、呂望。私を捨て駒にして裏切った罰が、さっそく当たったのだ。因果応報とはこのことか。「あの化け物が居なくなるというのなら……ここからは私の時間だ」 私はかつて商しょうの宮廷で張り巡らせていた古い人脈や伝つてを使い、密かに情報を集め始めた。 周の連中は忘れているのだろう。私が、あの絶世の毒婦・妲己だっきらさえも影で操り、賢者・比干ひかんを殺害せしめ、六百年続いた巨大な商を内側から狂わせた本物の陰謀家であることを。標的は決まった。 今や周の全権を握る周公旦しゅうこうたんか。あるいは、その重臣たる召公奭しょうこうせきか。「武庚ぶこうの小童に盗まれた、我が商の国……何としても、この手で取り返さねばならん。ああ、忙しくなるぞ……!」 認めよう。 私は、あの化け物(呂望)に深く依存しすぎていた。 論功行賞で惨めに切り捨てられたあの日から、二年。 私は暗い自室に籠もり、出会いの瞬間からこれまでの出来事を、血を吐くような思いで一つずつ思い返していた。 なぜ、私はあそこまであの呂望の言葉を信じ込んでしまったのか。 なぜ、商しょうを裏切るという破滅の道へと、自ら進んで足を踏み入れてしまったのか。 私は震える手で筆を握り、自らの愚行の歴史と、呂望のすべての言動を事細かに竹簡へと書き留めていった。そうして出来上がった山のような竹簡を、血眼になって見直し、分析を開始する。「……なるほど。そういうことだったのか、呂望」 書き連ねた文字を睨みつけるうち、私の脳裏に冷徹な事実が浮かび上がってきた。「奴は、決して嘘は言わない。だが、もたらす情報の『角度』を変えるのだ。相手が望む方向、受け入れやすい形へと巧妙に事実を歪めて提示する。頭から否定するのではなく、まずは肯定から入る」 だが、それだけではない。 ただおべっかを使い、都合の良い話ばかりでは、いつか必ず発覚して信用を失う。「奴の恐ろしいところは、時にはあえて私に不都合な事実をしっかりと伝え、『一緒に解決策を練りましょう』と寄り添ってくる点だ。これでは誰だって、奴を唯一無二の友人だと信じ込んでしまう……!」 情報の角度を変え、少しずつ、確実に相手の認識を歪めていく。「性格が悪いな、呂望。底が知れんほどの悪党だ」 吐き捨てながらも、私は肌が粟立つような興奮を覚えていた。 実際にその手法で完璧に操られ、国まで失った私だからこそ、その技術がどれほど有効で、どれほど恐ろしい「最強の武器」であるかを身をもって知っている。「良い手本だ。……参考にさせてもらい、私自身を鍛え上げるとしよう」 私は冷たい笑みを浮かべ、呂望の手法を己の血肉へと変えていった。 それと並行して、私は財貨と時間を掛けて集めた周の朝廷内部の情報を精査していた。 建国の覇者・姫発が世を去り、今や周は不安定の極みにある。 狙うべきは二人。周公旦しゅうこうたんか、あるいは召公奭しょうこうせきか。 どちらの懐に飛び込み、どちらの認識を歪めるべきか。 集まった情報を徹底的に分析した結果、私の狙いは、一人の男へと定められた。「――喜べ、周公旦」 幼き成王のため、生真面目すぎるほどの義務感から、孤独に、頑なに摂政としての激務をこなしている男。 誰も信じられず、周囲との軋轢あつれきに心を磨り減らしているあの哀れな男こそ、今の私にとって最高の苗床だ。「誰も貴方を理解してくれず、苦しいだろう? 誰もが貴方を ――ならば周公旦、私が貴方の『心の清涼剤(唯一の理解者)』になってあげよう」 かつて呂望が私にしたように。 今度はこの私が、最悪の「言葉の毒」を優しく、甘く、周公旦の耳元へと染み込ませていく番であった。




