追放
微子の憂鬱 第29話 ――激動の牧野の戦いから、わずか二年。 新たな王朝・周を打ち立て、これからという最高の瞬間に、初代王・姫発は急逝した。崩御の後、彼には「武王」の諡が奉られる。 二代目となる周の王座には、姫発の息子である姫誦が就いた。 しかし、新王はあまりにも幼い。 混迷を極める朝廷の全権を握ったのは、摂政の座に就いた武王の弟――周公旦であった。 権力を掌握した旦の動きは、恐るべき速さだった。 彼は即座に宮廷内への根回しを完了させると、ある非情な人事を言い渡した。「最高軍師・姜子牙を、東方の地へ封じる」 斉の地。それは一見、領地を与えられた栄転のようにも見えた。 だが、その実態はあまりにも冷酷だった。東方は未だ、周に従わぬ敵勢力が蠢く最前線。にもかかわらず、旦は周の兵力を一切出さず、姜子牙の母体である姜族の兵を動かすことすら禁じたのだ。 同行を許されたのは、姜子牙の一族である呂氏と、わずかな供回りのみ。 兵も持たせず敵地の真ん中へ赴けという沙汰――それは栄転などではない。体裁を繕った「追放」、あるいは「死刑宣告」に等しかった。 これほど無茶な人事が、なぜ都で通ってしまったのか。 そこには、かつて先代・姫昌が姜子牙を最高軍師として連れてきた当時の、古い遺恨があった。『異民族の男など信用できるか』『なぜあの者をそこまで特別扱いするのだ』 当時、古参の家臣たちは猛反発し、それを姫昌が無理やりねじ伏せて納得させたという経緯がある。都の重鎮たちの根底には、未だに姜子牙への不信と嫉妬がくすぶっていたのだ。周公旦はその冷めやらぬ火種を巧みに煽り、見事に根回しを成功させたのである。 だが、当の姜子牙は、表情一つ変えずにその沙汰を受け入れた。 争う姿勢すら見せず、静かに赴任の支度を始める。(いま私と旦がここで争えば、建国直後で不安定な周は内側から崩壊する。そうなれば……私が姫昌殿や姫発殿と共に血を流して築き上げてきたすべてが、無に帰す) かつて商を微子を使い内側から破滅させ、自らの手で興したこの周王朝。 これ以上の破滅を見たくないという老軍師の最期の矜持が、彼を無言で立ち去らせた。 しかし、この強引な人事が、都から離れた前線の諸侯たちに知れ渡った時――凄まじい激震が走った。 周公旦の根回しが届いていなかった東方の前線。そこを治める管叔鮮らは、一報を聞いて激怒した。「あの生意気な弟(旦)めが……! 俺たちの偉大な師父になんて仕打ちをしてくれたんだ!」 鮮たちにとって、姜子牙は亡き姫発と共に熱心に教えを乞うた、絶対的な「師」である。「建国の最大功臣である師父への答えが、これか……!」「摂政となった自分の地位を脅かす邪魔者を、追い出したに過ぎぬ!」 前線の兄弟たちの間で、現政権への決定的な不信と怒りが爆発する。 一方、静かに都を去っていく姜子牙の背中を、周公旦は王宮の遥か高みから冷ややかに見下ろしていた。 見送る旦の唇が、無音で言葉を紡ぐ。(――姜子牙。貴方がかつて、我が身可愛さに商を裏切った微子殿にしたのと、全く同じですよ) あの日、論功行賞の天幕で、大功を立てた微子を冷酷に使い捨て、引きずり出させたのは姜子牙だ。(恨むなら、自分の功績に溺れ、他者を引きずり下ろしてきた己の過去を恨みなさい。……因果は巡るのです、呂望先生) 偉大なる軍師の追放。 それが、周王朝を揺るがす最大の激震――「三監の乱」の、決定的な引き金になることを、まだ誰も知らなかった。




