飛廉
微子の憂鬱 第28話 ――二年。 それは、かつて商の大王・帝辛と交わした、命懸けの約束の期間であった。『例えこの朝歌が滅びようとも、北方だけは二年は守り通せ。北の防衛線が崩れ、異民族に一斉に侵攻されることだけは絶対に防がねばならぬ。それが、我ら商が天下の主に就いて以来の絶対の義務だ』 王都・朝歌が包囲される直前、帝辛から兵の半分を託され、北方の防衛へと赴いた将軍・飛廉。彼は主君の言葉通り、身を粉にして北の地を異民族の脅威から守り抜き、約束の二年を全うしてついに帰還した。 周による論功行賞が行われてから、すでに一年と少しが過ぎた頃のことである。 しかし、約束を果たして故郷の土を踏んだ彼を待っていたのは、あまりにも残酷な現実であった。 敬愛する主君・帝辛の自害。 そして、自らの最愛の息子であり、商の最期を支えた猛将・悪来の壮絶な戦死。「……遅すぎた、か。大王、悪来……俺は、約束を守ったぞ……」 変わり果てた朝歌の街並みを前に、飛廉はただ呆然と立ち尽くすほかなかった。 そんな彼の前に、一人の青年が現れる。帝辛の息子であり、今は周の諸侯としてこの地を治める武庚であった。「飛廉将軍。……どうか、私にお力をお貸しいただけないでしょうか」 武庚は深く頭を下げ、かつて国を支えた名将へ仕官を乞うた。 だが、飛廉の瞳に宿る武人の色は冷ややかだった。「断る。……お前様に仕えるということは、間接的に周へ仕えるということだ。大王は、周が取って代わることを『中華の内部の政権交代にすぎん』と仰った。だが、俺の身体には商の血しか流れていねぇ。周の犬になることだけは、御免被る」 真っ直ぐな拒絶。 並の王であれば激怒する一言だったが、武庚はそれ以上追及せず、あっさりと引き下がった。「――分かりました。無理を言ってすまなかった」 そのあまりに綺麗な引き際に、飛廉はふと目の前の青年の瞳の奥を見た。 そこには、ただ周に屈しただけの敗北者の色などなかった。決して消えない昏い炎――周に対する複雑な思いと、底知れない「含み」が隠されている。(なるほどな。大王の血筋だ、ただで転ぶ珠じゃねぇか……) 飛廉が内心で合点がいったその時、武庚が一つだけ条件を口にした。「せめて、周の都へ寄り、挨拶だけでもしてきてはくれないか。将軍の身の安全のためでもある」「……周に対する義理を通せ、ってことか。分かったよ。漢の筋道ってやつだ、仕方ねぇ、行くとするか」 気が進まないながらも、飛廉は重い腰を上げ、周の都・鎬京へと向かった。周の王宮に到着した飛廉は、新たなる天下の覇者・姫発との面会に臨んだ。「飛廉将軍。どうだろう、我が周に仕え、その武勇を天下のために振るってはくれまいか」 案の定、姫発からは熱心な仕官の誘いを受けた。 だが、飛廉の答えは最初から決まっている。「ありがてぇお話ですが、俺の主君は生涯でただ一人。帝辛様だけです」 一言の下に断った。王の目の前での不敬とも取れる発言に、周囲の側近たちが色めき立つ。 しかし、姫発はただの勝者ではなかった。大きく片手を挙げて制すると、朗らかに笑ったのだ。「……見事な忠義だ。ならば、その頑なな態度を責めることはすまい。それどころか将軍、貴殿が敬愛する帝辛と、息子・悪来の葬儀を執り行うが良い。周がその許しを与えよう」 それだけではない。姫発は、その葬儀費用の一切を周が負担するとまで言い放ったのである。「話のわかる奴じゃねぇか……」 敵ながら天晴れな器量。飛廉の胸に、新王・姫発に対する微かな、しかし確かな敬意が芽生えた。大王が「中華の政権交代にすぎん」と言った意味が、この男の器を見て少しだけ理解できた気がした。 こうして、亡き主君と息子の葬儀は、周の庇護のもとで厳かに執り入られた。 白煙の向こうへ旅立つ二人の魂を見送り、飛廉の肩の荷は、ようやく静かに下りたのだった。 そんな彼の耳に、ひとつの風の噂が届く。 かつて商を支えた智者・箕子殿が、遺民を引き連れて遥か東の地(朝鮮半島方面)へと旅立った、という報せだった。 それを聞いた飛廉は、かつて北方防衛の要として共に民を支えた賢者の姿を思い浮かべ、一人静かに不敵な笑みを浮かべた。「あの箕子殿が、東の果てで商の知恵を残すってんなら……じゃあ、俺は西に行くぜ」 東へ向かった智者に対し、武人は西へと歩を進める。 目指すは、新興の周王朝の力が決して及ばない、遥か彼方の未開の荒野。大王が懸念していた、異民族たちが蠢く外の世界だ。周が天下の主としての義務を怠るなら、今度は俺が外側から睨みを利かせてやる。 商の誇りと、愛する者たちとの約束を胸に抱いたまま、飛廉の新たなる放浪の旅が、今、始まった。 ――この時、周の誰もが、そして飛廉自身さえもまだ知る由はなかった。 商の忠臣たる彼が西へと運んだ「不屈の武の血脈」が、かの地の過酷な環境で牙を研ぎ続け、やがて数百年の時を経て、ひとつの巨大な国家を形作ることを。 その国の名は、「秦」。 飛廉の末裔たちが興したその西方の覇者は、後に天下を統一し――彼を仕官の誘いで侮ったこの「周王朝」を、跡形もなく完全に滅ぼし尽くすことになるのだが、それはまだ、遥か未来の物語である。




