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微子の憂鬱  作者: 日和見


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箕子

微子の憂鬱 第25話 王都・朝歌ちょうかの陥落とともに、六百年続いた偉大なるしょうの命脈は尽きた。 大王・帝辛ていしんは燃え盛る宮殿を枕に自害して果て、生き残った親衛隊の兵たちも、しゅうからの降伏勧告を一切無視し、主の眠る宮殿の残骸を守って一人残らず笑顔で全滅したという。(……悪来あくらいほどの稀代の英雄を、むざむざ討ち取ってしまったのは頂けない。だが、戦場ゆえに仕方のないことか) 私は軍師として戦後処理の雑務をこなしながら、市井の噂に耳を傾けていた。 帝辛の寵姫・妲己だっきは、贅沢三昧を尽くした挙句に比干ひかんを殺害し、国が傾くと商を捨てて逃げ出そうとしたところを、王兄・微子びしに捕らえられて処刑されたという。微子の保身の嘘を真実として受け止めていた私からすれば、自業自得の毒婦の末路、首を刎ねられて当然の女であった。「――そんなことよりも、今は幽閉されている箕子きし殿の救出が最優先だ」 私は足早に宮殿の檻へと向かった。 箕子には、個人的な深い友誼がある。羑里ゆうりの地で傷ついた姫昌きしょう殿を慰め、私と共に『八卦はっけ』を開発してくれた多大なる恩義もある。どうか無事であってくれ、と祈るような気持ちで檻の扉を開け放った。「箕子殿! 無事で在られるか!」「……ああ、呂望ろぼう殿か。ご覧の通り、私は至って健康ですよ」 暗がりの檻の中から、賢者はいつものように穏やかな笑みを浮かべて立ち上がった。しかし、私の背後に控える周の軍勢と、私が纏う最高軍師の衣を目にした瞬間――箕子の顔が、かすかに歪んだ。「……なるほど。その格好。呂望……貴方が、あの周の『姜子牙きょうしが』であったか」 静かな一言。私は胸を突かれ、即座に深く頭を下げようとした。「箕子殿、長きにわたり正体を騙し続けていたこと、心よりお詫び申し上げます。私は――」「止めなされ、姜子牙よ」 箕子は私の言葉を静かに遮り、淡々と告げた。「我々商と、貴方方姜きょう族は、長年血で血を洗う争いを続けてきた。我が国は、捕らえた姜族の捕虜を尽く神への生贄に変えてきたのだ。貴方が商を、我が一族を骨の髄まで恨んで当然であり、復讐のために身分を隠して朝歌に潜むのも、当然の理にすぎん」 箕子の言葉は理路整然としており、王族としての至高の器に満ちていた。 だが……私は見逃さなかった。檻の中にいたあの頃、私を「比類なき知己」として見つめていた彼の瞳から、自分に対する『敬意』が、今この瞬間、完璧に、冷酷に消え失せたことを。(……当然だ。私はこの男を欺き、彼の愛した国を内側から破滅させたのだからな) 私は心の中でそう自分を納得させ、沸き上がる孤独を噛み殺して、一人の軍師として事務的に頭を下げた。「……箕子殿。どうか、周の新たなる君主、姫発きはつ殿と面会していただきたい。天下の民のため、あなたの智慧が必要なのです」「分かりました。相成りましょう」 箕子はあっさりとそれを了承した。 その後、箕子は新王・姫発の元へ赴き、亡き帝辛との密約通り、一ヶ月もの途方もない時間を掛けて、商が蓄積してきた「王朝運営のノウハウ」のすべてを授け尽くした。国が滅びようとも、天下の民が飢えぬようにという、賢者の最期の義務であった。 すべての引き継ぎを終えた後、姫発は最上級の爵位をもって「我が周の諸侯に」と熱心に誘ったが、箕子はその栄誉をあっさりと蹴り飛ばした。 そして――商の滅亡を生き延びた一部の希望者たちを引き連れ、果てしない東方の果てへ向けて、先の見えない亡命の旅路へと去っていった。 朝歌の城門から、ゆっくりと遠ざかっていく箕子の馬車。 その小さくなっていく偉大な賢者の背中を、新王朝の最高権力者となった私は、ただ遠目から黙って見送ることしかできなかった。 天下を手に入れ、完璧な勝利を収めたはずの私の口からは――もはや、去りゆく友の行く末を案じる、いかなる惜別の言葉をかけることさえも、叶わなかったのである。(第28話 終)

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