牧野の戦い開戦
微子の憂鬱 第23話 王都・朝歌の目前に広がる牧野の荒野。 天を衝くほどの砂塵の向こうから、六百年続いた偉大なる商王朝の息の根を止めるべく、反商連合の大軍勢が地響きを立てて押し寄せていた。 その数、総勢七万。 姫発が率いる周の精鋭二万。それに並び立つ南の大国・召の軍勢二万。西北の荒野から駆けつけた申公率いる姜族の騎馬隊一万。さらに、周の威光に恐れ戦いて参集した周辺諸侯軍二万。 対する商軍は、総勢五万。 帝辛の直属である親衛隊一万。飛廉を北方に派遣した後に残された、首都防衛の最後の砦である正規軍一万。にわかに集められた徴兵軍一万。そして、辛うじて商への義理を保つ諸侯軍二万。 数の上では七万対五万。商軍が死に物狂いで籠城すれば、東方遠征軍の帰還まで持ちこたえられる可能性が僅かに残された盤面。 ――だが、対峙する両軍の静寂を切り裂き、その中央の泥土を踏みしめて、一人の男が姿を現した。 王兄、微子啓。 居並ぶ兵たちが息を呑んだ。その姿は、きらびやかな王族の衣ではなく、粗末な布を纏った「犯罪者」の格好であった。両手を後ろに固く縛られ、泥にまみれ、両軍の全兵士が見守るド真ん中で、微子はこれ見よがしに膝を突いた。 そして――喉が張り裂けんばかりの大音声で、天下へ向けて語り始めた。「――商の兵たちよ、諸侯の戦士たちよ、よく聞いてくれ! 商の王・帝辛は、古き神々との神聖なる契約を破り、ただ独断専行のみで物事を決めて天下を狂わせた! 終わりのない過酷な労役、不当に跳ね上がった高い税、そして無謀な東方遠征の軍役により、我らが故郷の民は疲弊しきっている!」 微子の目から、大粒の涙が溢れ落ちる。自分が「国を救う悲劇の正義の英雄」であると信じ切った、完璧な陶酔の涙だった。「あ奴は、その歪んだ暴政を諌めた高潔なる比干叔父上を惨殺し、最高賢者である箕子叔父上をも冷たい檻へ幽閉した! 挙句の果てには、この私をも王宮から放逐したのだ! ――翻って、周を見よ! 周の地には今や善政が行き渡り、民は富み、天下の諸侯が正義を慕って集まっている! 何方に天命があり、何方に正義があるか、もはや明白であろう! 皆の胸に聞いてくれ! 何方が、真の正義か!!」 どよめきが、津波のように商の陣営を駆け抜けた。 王の兄が、罪人の姿で「我が国に正義はない」と叫んだのだ。この完璧に仕組まれた工作(演出)により、周軍の士気は天下の正義を得たとして爆発的に跳ね上がる。 対して、商の陣営からは、致命的な「崩壊」の音が鳴り響いた。 商の徴兵軍一万を指揮していた微子の実弟・微仲が、兄の叫びに応じるようにして一歩前に踏み出したのだ。「……この微仲、兄上に続き、天命ある周にお味方いたす!」「な……ッ!?」 微仲の離反。それを皮切りに、戦意を完全に喪失した商の諸侯軍二万もまた、雪崩を打ったように商の陣営を裏切り、周軍の側へと合流していった。 わずか一瞬にして、五万の軍勢は二万へと激減。 裏切り者を引き連れた反商連合十万の軍勢が、剥き出しの牙となって、残された二万の商軍を完全包囲する。 圧倒的な敗北の現実。 しかし、本陣の車上でそれを見つめる王・帝辛の顔には、怒りも絶望もなかった。ただ、すべてを予測していたかのように、底知れぬ無表情のまま冷淡に口を開く。「……やはりな。見事な配牌だ、姜子牙」 帝辛はすぐさま、傍らに控える親衛隊の将を呼び寄せた。「親衛隊の一万の内、半分である五千を、ただちにこれより朝歌の街へと戻せ。私が時間を稼ぐ間に、先に下した『敗戦処理』を完璧に終わらせるのだ。急げ」「だ、大王! しかし、これでは手勢が五千と、正規軍の一万しか残りませぬ! これではあまりにも……!」「構わぬ。――残った一万五千の命、ここで使い切る。全軍、武器を構えよ。これより、我らの最期の仕事に取り掛かるぞ!」 世界に拒絶された孤高の天才王が、残された僅かな手勢と共に、十万の敵へ向けて剣を抜いた。 六百年続いた偉大なる商王朝の終焉を告げる、血煙に塗れた「牧野の戦い」の火蓋が、今、最悪の形で切って落とされた。(第23話 終)




