準備
微子の憂鬱 第21話 王都・朝歌の防衛線が内側から崩壊し、滅亡へのカウントダウンが冷酷に刻まれる中。 玉座に座る帝辛は、取り乱すこともなく、淡々と迫り来る終焉を迎え撃つための「配牌」を進めていた。 商の北方が辛うじて安定していたのは、王朝への忠誠ではない。半分以上が、賢者・箕子個人に対する諸侯や民の支持であった。その箕子を形だけとはいえ幽閉した今、北方諸侯の商に対する反感や離反は、もはや避けられない。「だが、放置するわけにはいかぬ」 帝辛は、親衛隊の名将・飛廉を呼び出した。「飛廉。首都を守る数少ない正規軍二万の内、一万を其方に預ける。さらに退役した軍人を中心とした徴兵軍一万を合わせ、計二万の軍勢で大急ぎで北方へ向かえ。穀物や財宝などの物資も多く持たせる。贈り物で慰撫できるなら、手を尽くして地域を安定させよ」 飛廉は驚き、目を見開いた。首都が手薄なこの状況で、兵の半分を持って行けというのか。「大王……! しかし、それでは朝歌の護りが!」「構わぬ。――例えこの朝歌が滅びようとも、北方だけは二年は守り通せ。我が商王朝が周などの他の諸侯に取って代わられようとも、それは中華の内部の政権交代にすぎん。だが、北の防衛線が崩れ、異民族に一斉に侵攻されることだけは絶対に防がねばならぬ。それが、我ら商が天下の主に就いて以来の絶対の義務だ」 王朝の存続よりも、中華の民の安全を最優先する――時代を先走りすぎた天才の、あまりにも壮大な大局観。飛廉はその圧倒的な器の大きさに魂を震わせ、深く平伏した。「御意……! この命に代えましても、北の地を守り抜いてみせます!」 飛廉を送り出した後、帝辛は側近の費仲を呼び寄せた。「費仲、ただちに指示を出す。――あの巨大な備蓄庫『鹿台』を開け、そこに貯められている莫大な食料や財貨のなかから、かなりの量を朝歌の全世帯へ配り尽くせ。また、王朝に勤める官吏たちにも、一年分の報酬を今すぐ前払いで分配せよ」 費仲は息を呑んだ。「大王、鹿台にはまだまだ財貨も食料も底を尽きぬほどございますが……。これほどの量を一斉に分配すれば、民や官吏が飢えぬための慈悲にはなりますが、この後で我らが敗れた時、乗り込んでくる敵側からすれば『略奪するはずだった物資の激減』を意味します。敵から凄まじい恨みを買うことになりますが、覚悟はおありですか?」「ふっ、構わぬさ」 帝辛の唇の端が、不敵に吊り上がる。「民の家に配られた食料を、周の奴らが正義を叫びながら強奪すれば、奴らは一瞬で『ただの賊』へと成り下がるからな。費仲、私のこの最期の嫌がらせに付き合う覚悟はあるか?」 その問いに、費仲は涙を流しながら、しかし誇らしげに胸を張った。「帝辛様、私はどこまでも商の臣にございます。敵にどれほど呪われ、恨まれようと構いませぬ!」「……良し。取り掛かれ」 次々と人々に最期の指示を与え、宮殿から人が少なくなっていく。 最後に、帝辛は幽閉されている寵姫・妲己への冷徹かつ温かい決定を、伝令の官吏へと託した。「これより、冷たい檻にいる妲己を、東方にある彼女の祖国へ丁重に送り返せ。戦火に巻き込むな、とな」 不倫の背徳に溺れ、恐怖から比干を殺害し、すべてを狂わせた哀れな美姫。帝辛は、彼女と直接会ってその顔を見れば、冷徹な王としての決意が鈍ることを知っていた。だからこそ、あえて一度も彼女の前に姿を現すことなく、ただ官吏の口を通じて「生きよ」とだけ命じたのだ。(さようなら。私の、愛しき娘よ……) 心の奥底だけでそう呟き、己を裏切った世界を愛し、孤独のまま盤面を整え終えた最凶の王。 商王朝の最後の灯火が、牧野の荒野を照らす決戦の朝に向けて、静かに、しかし最高に美しく燃え上がろうとしていた。(第21話 終)




