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微子の憂鬱  作者: 日和見


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裏切り

微子の憂鬱 第20話 王都・朝歌ちょうかを捨て、呂望(姜子牙)の営む秘密の店舗に身を潜めていた微子びしは、生きた心地がしていなかった。比干ひかんの急死、箕子きしの幽閉、そして宮廷からの追っ手。極限の恐怖に震える微子の前に、姜子牙が静かに歩み寄り、冷徹な双眸で見下ろしてきた。「微子様。……決断のときにございます」 その声は、優しくも逃げ場を許さない鋭さを持っていた。「このまま此処に隠れ続け、いずれ比干様のようになぶり殺されるか。あるいは箕子様のように冷たい檻へ幽閉されるか。……それとも、別なる道を歩まれるか」「し、しんは、あ奴は、お、お、弟で……」 微子はガタガタと歯の根を鳴らし、言葉を濁した。弟への恐怖、そして王族としての最後のプライドが、彼の喉を締め付ける。「私は……しょうの王族だぞ。たとえ殺されようとも、故郷の国を、た、た、民を見捨てることなど、死んでも出来ようはずがない……っ!」 そうだ。自分は先代の王、帝乙ていいつの長子なのだ。どれほど弟が憎くとも、国を裏切り、異民族やしゅうの側に寝返るなど、王族の誇りが許さない。必死に己に言い聞かせる微子を見て、姜子牙は、はぁー、と心底つまらなそうに深く溜め息を吐いた。「……微子様」 一転して、姜子牙の目付きが獣のように鋭くなる。彼は微子の耳元へと顔を寄せ、底冷えするような声音で囁いた。「貴方様は……朝歌の壁の外にいる民の姿を、兵士や官吏以外で、まともに見たことがおありですか? 彼らの声を、一度でもその耳で聞いたことがおありですか?」「何故、今そんな質問を……」 困惑する微子に、姜子牙はさらに深く、現実の歪みを突きつけるように耳打ちしていく。「大王が進める近代的な大改革。確かに、朝歌の周辺や、東方遠征のルート上にある一部の諸侯国は、街道の整備や貨幣の流通によって経済的に大いに潤いました。……しかし、それ以外の、恩恵から外れた多くの諸侯国や民はどうです?」「え……?」「彼らは年中休むことも出来ず、過酷な苦役へと駆り出され、跳ね上がった税をただ搾り取られるだけ。大王の巨大な理想を支えるための『生贄』にされているのです。長年にわたる遠征と度重なる大工事により、天下の半分はすでに疲弊しきり、民の声は限界の怨嗟に染まっています。このままでは商は内側から崩壊する」 姜子牙の言葉は、単なる嘘ではない。微子自身、西方の担当官として周辺諸侯の不満が限界に達していたのを肌で知っていた。だからこそ、その指摘はあまりにも重く微子の胸に突き刺さる。 動揺する微子の肩を、姜子牙は優しく、包み込むように掴んだ。「お可哀想な微子様。王族としての誇りを持つ高潔なあなただからこそ、お伝えするのです。――いま、貴方様の決断一つで、苦しむ民を救うことができる。この歪んだ暴政を止め、真の意味で商の国を救うことが出来るのです」「私の、決断一つで……国と、民を、救える……?」 ドクン、と微子の心臓が大きく跳ねた。 裏切り者として惨めに死ぬのではない。自分は、弟の歪んだ改革によって見捨てられた民たちを救う「正義の英雄」になれるのだ。姜子牙の囁きによって、微子の脳内で「王朝への反逆」が「大義のための正義」へと、あまりにも都合よくすり替えられていく。(私が、国を救う……? だが、弟を、商を裏切るというのか? 私は……私は……!) 脳内を駆け巡る激しい葛藤。 自分が怪物の手のひらの上で、商王朝の息の根を止めるための最後の一押しをさせられていることなど、恋する乙女のごとく呂望を信じ切った微子には、もう、何も見えてはいなかった。(第20話 終)

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