談合
微子の憂鬱 第19話 比干からの突然の緊急謁見要請が届いた夜。 若き王・帝辛は、普段とは違うただならぬ気配を察知し、身支度を整えながら親衛隊の一部を密かに招集した。「一体、何事が起きている……」 嫌な予感を胸に、帝辛が謁見の間へと踏み入った瞬間、その底知れぬ双眸が一瞬だけ見開かれた。 白い大理石の床に広がっていたのは、鮮血の海。そこには冷たくなった比干の遺体と、血塗られた凶器を手に呆然と立ち尽くす寵姫・妲己、そして彼女の配下たちの姿があった。「――全員、拘束しろ」 帝辛の凍りつくような声が響く。親衛隊が即座に動き出す中、帝辛は表情一つ変えずに矢継ぎ早に命を下した。「妲己を奥の檻へ連れて行け。幽閉しろ。……ただし、あの娘を手荒に扱うことは断じて許さん。――残りの者どもは今すぐここで首を斬れ! 其の親類縁者もすべて捕らえて処刑だ! それと、この件を口外した者は一族もろとも命は無いと思え。今すぐ取り掛かれ!」 実行犯の口を完全に封じるための冷徹極まる初動。返り血を浴びた宮廷が慌ただしく動く中、帝辛は比干の遺体の前に膝をつき、掠れた声で呟いた。「……嗚呼、比干叔父上。なぜ、こんなことに……」 深く嘆き、叔父の遺体を丁重に弔うよう指示を出した後、帝辛は冷たい檻へと向かった。 尋問室の妲己は、完全に正気を失っていた。うわ言のように「辛様を私が護る……比干が辛様を殺そうとしたの……」と繰り返す。その言葉の裏を冷徹に手繰り寄せた帝辛は、すぐにこれが兄・微子によって吹き込まれた最悪のデマであることを見抜いた。 ――そこへ、事態を聞きつけたもう一人の叔父・箕子が猛然と駆け込んできた。 普段はどこまでも物静かな賢者が、この時ばかりは髪を振り乱し、帝辛の胸ぐらへと掴みかかった。「辛ッ!! 何故だ! 何故お前は比干を殺したのだ! あの方がどれほどこの商を支えていたか分からぬ訳ではあるまい!」 殺気立つ親衛隊を、帝辛は手を振って下がらせる。そして、箕子の目を真っ直ぐに見据えて静かに告げた。「すまない、叔父上。私が謁見の間に着いた時にはもう……比干叔父上は息絶えていた。やったのは、妲己だ」「な……ッ!? ならば何故、あの毒婦を即座に処刑せん! 微子も同罪だ、タダで置くわけにはいかん!」 激昂する箕子に対し、帝辛はふっと、酷く寂しげな笑みを漏らした。「すまない、叔父上。私には……あの娘を殺すことはできないのだ。たとえ、すべてを狂わせた毒婦であろうとも。……本当に、すまない」 その歪んだ、しかし深すぎる愛の告白を聞いた箕子は、ガクリと全身の力が抜け、その場に崩れ落ちた。 追っ手を放ったものの、微子の邸宅にも職場にもすでにその姿は無かった。そして、微子の背後を調べるうちに、帝辛と箕子は、何年も前からこの王都・朝歌の裏社会に深く根を張り、すべての糸を引いている「何者か(姜子牙)」の存在に辿り着いた。「……手遅れだな」帝辛は静かに、卓上の地図を見つめた。 商の主力である東方遠征軍はあまりにも遠い。今すぐ急報を送り、どれほど急いで呼び戻そうとしても、兵の半数が戻るまでに一年近くは掛かる。防衛線の限界を完璧に測られ、内側から屋台骨を折られたのだ。「叔父上。かなりの確率で、我が商は滅びる」「辛……」「だが、国が滅び、王朝が数百年かけて積み上げてきた歴史や、国を動かす運営ノウハウまで消え去ってしまえば、次の時代に最も苦しむのは名もなき『民たち』だ。だから、叔父上……頼みがある」 帝辛の瞳に、王としての至高の覚悟が宿る。「私の手で、叔父上を形だけ『幽閉』させてくれ。狂った私が賢者を遠ざけたという形にする。その檻の中で、商の知識のすべてを守り、次の時代へと託してほしい。それができるのは、叔父上、あなただけだ」 滅びゆく国の設計図を託す、玉座の談合。 帝辛の底知れぬ器の大きさと民への想いを知った箕子は、深く頭を垂れ、その血を吐くような提案に静かに同意した。 後日、宮廷からは『箕子の幽閉』が発表された。 そして帝辛は、箕子がいなくなった北方の慰撫と防衛のため、親衛隊の名将・飛廉を急ぎ現地へと派遣した。「……ああ、どうか。私のこの最悪の予測が、ただの杞憂であってくれ」 空っぽになった朝歌の玉座で、帝辛は一人、来たるべき終焉の足音を静かに聞き続けていた。(第19話 終)




