殷の三仁崩壊
微子の憂鬱 第18話 その日、商の朝議はいつにも増して激しく紛糾していた。 最近の宮廷では、国境での朝貢の件以来、担当官である王兄・微子と、宰相・比干の対立が、まるでお約束の泥仕合のように繰り返されていたからだ。比干への嫉妬と憎悪を募らせる微子の視線は、日ごとに昏さを増していた。 そんなある日の夜、比干の邸宅に、一人の密偵が密かに姿を現した。 男は周囲を厳重に警戒し、人払いを求めた後、声音を潜めて衝撃の事実を告げた。「――比干様。大王の寵姫・妲己様と、王兄・微子様に、不倫密通の疑いがございます。我らの権限ではこれ以上踏み込めませぬ。どうか、比干様の手の者で真実をお確かめくだされ」「……何だと?」 男はそれだけを言い残すと、闇へと消え去った。比干は「まさか」と半信半疑になりながらも、ただならぬ気配を感じ取り、即座に自らの暗部(密偵)たちへ命令を下した。「二人の動向を、二十四時間交代で徹底的に見張れ」と。 数日後、もたらされた報告書に目を落とした瞬間、比干は激しい怒号を響かせた。「馬鹿者がッ! 一体何を考えておるか、あの二人は!!」 王の女を寝取るという、国家の根幹を揺るがす大不祥事。比干は即座に身支度を整え、帝辛への緊急の謁見を求める使者を放ち、宮殿へと向かった。 ――だが。あまりにも焦り、動揺していた比干は、その動きを微子の網に察知されていることに気付かなかった。「……バレた。比干叔父上に、すべて握られた……!」 自邸の密室で、微子は冷や汗を流してガタガタと震えていた。このままでは生首の山に自分の首が加わる。 微子の目的はただ一つ。「比干と弟(帝辛)の謁見を、何が何でも阻止し、時間稼ぎをすること」。 焦った微子は後宮の妲己の元へと駆け込み、彼女の不安を煽って味方につけようと、最悪の「言葉の毒(嘘)」を吹き込んだ。「妲己、大変だ! 最近立場の悪くなった比干が、起死回生のために大王(帝辛)を廃嫡し、自ら王位に就こうと兵を動かした! 比干は今、緊急謁見と称して宮殿に向かっている。最悪の場合、謁見の場で弟は……大王は殺されるぞ! お前の力で、なんとかあの謁見を止めて(・・・)くれ!」「な……なんですって……!? 大王が、殺される……?」 微子としては、妲己に泣きつかせて帝辛に謁見を拒否させるか、警備を強化させる程度のつもりだった。 しかし、微子は致命的なまでに、妲己の「愛と孤独の深さ」を見くびっていた。異国の地で帝辛を失う恐怖に苛まれ、微子の狂気に染まっていた彼女の脳裏で、何かがパチンと弾け飛んだのだ。(大王が殺される前に……私が、あの男を止めなきゃ) そして、事態は微子の想像を遥かに超えた最悪の結末へと突き進む。 大王を守るため、我を忘れて完全に暴走した妲己は、謁見の間に足を踏み入れた比干を、あろうことかその手で無残に刺し殺してしまったのだ。白い床に、商のすべてを支えていた高潔な忠臣の鮮血が広がっていく。「ひっ……!? え……あ、あれ……?」影から様子を伺っていた微子は、あまりの凄惨な光景に腰を抜かし、泡を吹いて絶句した。 止めてくれとは言ったが、物理的に息の根を止めろとは一言も言っていない。「そ、そっちの意味じゃない……! 殺すなんて聞いてないぞ……!!」 心の中で叫ぶも、すでに遅い。いくら寵姫とて言い訳の立たぬ大罪であり、妲己は即座に捕らえられ、冷たい檻へと幽閉された。(私は悪くない! 私は謁見を遅らせようとしただけだ! 生きねば、生き延びねばならん!) 己のヘタレな嘘が引き起こした惨劇の大きさに恐怖した微子は、捕らえられた妲己をあっさりと見捨て、這う失意のまま王都の闇へと逃亡した。彼が命からがら逃げ込んだのは、唯一の心の拠り所――「呂望(姜子牙)」の経営する秘密の店舗だった。「呂望……助けてくれ、比干叔父上が……妲己が……!」「……よくぞ私を頼ってくださいました、微子様。安心なされよ、此処にいれば安全です」 ガタガタと震える微子を優しく抱き止める姜子牙の顔には、闇の中で、完璧な勝利の笑みが浮かんでいた。 比干の死。これにより、商の政治機能は完全に麻痺した。さらに後日、この暴挙を激しく諌めようとしたもう一人の賢者・箕子までもが、狂乱する宮廷の混乱の中で幽閉される事態へと発展する。 叔父たちが全滅したのを見届けた微子は、姜子牙の手引きにより、夜陰に乗じて朝歌の街から一人、惨めにとんずらを極めて逃げ出した。 翌朝。『宰相比干の急死、箕子の投獄、王兄微子の逃亡』 宮廷から発表されたあまりにも衝撃的な報せに、朝歌の民たちは言葉を失った。本人の予期せぬ「ボタンの掛け違い」によって、王朝の屋台骨が、わずか数日で完全にへし折れたのだ。国を覆う不穏な沈黙と、底知れぬ不安の影。 六百年続いた偉大なる商王朝の終焉は、もう、誰の目にも止まらないところまで加速していた。(第18話 終)




