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微子の憂鬱  作者: 日和見


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東方遠征

微子の憂鬱 第13話 しょうの宰相・比干ひかんは、自邸の執務室でうず高く積まれた木簡を前に、深く溜め息を吐いていた。「……ああ、胃がキリキリする」 比干はこめかみを指で押さえ、商王朝とその周辺を取り巻く最新の情勢を頭の中で整理していく。 まず、北方。こちらは賢者・箕子きしが現地を見事に取りまとめ、商への信頼と支持は厚い。最も懸念すべき北西の姜族きょうぞくは、相変わらず国境を侵し合っているが、今回そちらへ派遣される将軍は「飛廉ひれん」だ。比干個人としては彼の傲慢な人柄を好まなかったが、こと戦闘においては「神速」「迅雷」と称される精鋭騎馬隊を率いる稀代の名将である。飛廉が徹底的に叩けば、しばらくは姜族も大人しくなるだろう。 そして、西方。西伯・姫昌きしょうは7年ぶりの帰還後も、商への朝貢を欠かさず平伏し続けている。どうやらあの長きにわたる幽閉で、完全に心が折れたようだ。(……フン。微子びし妲己だっきのやったあの凄惨な愚行も、結果としては周の牙を抜く役に立った、ということか) 南西の「しょう」は周の不穏な台頭を警戒して小競り合いを続けており、南方に商を脅かす大諸侯はいない。「――ならば。今こそ、長年の懸案であった『東方遠征』を果たすときか」 だが、決断の重さに胃が痛む。遠征にかかる天文学的な費用、兵糧、物資の補給線の維持、徴兵の手配。これらを考えれば、誰が宰相の椅子に座っていようとも頭痛の一つや二つは免れないだろう。だからといって、国家の未来のための報告を怠るわけにはいかなかった。 後日、比干が意を決して帝辛ていしんへと上奏を行うと、事態は劇的な速度で動き出した。 次の朝議にて、若き王・帝辛の口から、正式に東方遠征の号砲が鳴り響いたのだ。「――我が商の総力を挙げ、東の諸夷を平定する。ただちに軍を発せよ!」 その規模は、居並ぶ重臣たちの誰もが耳を疑うものだった。 商を守る正規軍20万の内、あろうことか「18万」を動員。そこに各地からの徴兵軍、さらには親商派の東方諸侯の軍勢が合流する。 それは、六百年の歴史を持つ商王朝にとっても、文字通り空前絶後の大規模遠征の始まりであった。 宮廷では将軍や補給を司る官吏が次々と任命され、朝歌ちょうかの街は軍靴の音で埋め尽くされていく。そんな中、王の親衛隊という任務ゆえに今回の遠征から外された飛廉と、その息子・悪来あくらいの二人が、実につまらなそうに、悔しげな表情を浮かべているのを見て、比干は張り詰めた緊張感の中で少しだけ口元を緩めた。 やがて、遠征軍の発向の日が訪れた。 果てしなく続く街道を、天をも覆い尽くすほどの黒き甲冑の軍勢が埋め尽くしていく。 地響きを立てて進む兵たちの背中を、城壁の上から見送った比干は、確信に満ちた瞳で東の空を見据えた。(これほどの軍勢だ。今回の遠征で、我が商の版図は、ついに東の最果て――あの果てしなき『海』へと達するに違いない!) 大国の威信をかけた、誇り高き大征伐。 だが、首都・朝歌の防衛力をほぼ「空っぽ」にして突き進むこの輝かしい軍勢の歩みこそが、背後で牙を研ぐ姜子牙にとって、これ以上ない絶好の好機となることを、この時の比干は知る由もなかった。(第13話 終)

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