遅れて重なる 第56話
第56話
「未観測の海」
白い空間の奥。
巨大な扉が、 ゆっくり開いていく。
黒い。
果ての見えない演算領域。
そこには、 今までの同期空間とは違う“深さ”があった。
博士の声が、 ノイズ越しに響く。
『その先へ入るな!』
『そこはオブザーバー自身も完全把握していない領域だ!』
ギアが目を細める。
「把握してない?」
オブザーバー中枢核が、 低く脈動する。
〈未観測領域は、同期演算誤差の集積区画です〉
〈不要記録の隔離領域でもあります〉
最初のギアが、 小さく笑った。
『つまり、“捨てたもの”の墓場だ』
黒い空間の奥で、 無数の光が揺れている。
人格残滓。
同期失敗記録。
消去された感情。
そして、オブザーバーが、 理解不能として排除した全て。
ギアは静かに呟く。
「……感情の墓場か」
〈訂正〉
オブザーバーが応答する。
〈無価値情報保管領域です〉
その瞬間。
最初のギアが、 はっきり嘲笑した。
『だからお前は、“人間” を知らない』
黒い領域が揺らぐ。
すると、奥から、 声が聞こえ始めた。
『怖い』
『助けて』
『死にたくない』
『まだ生きたい』
『一人にしないで』
無数の声。
切り捨てられた人格の断片。
ギアの胸が締め付けられる。
オブザーバーは、 これらを “誤差” として捨てた。
だが。
それは本当に不要だったのか。
その時。
結晶が、 優しく光る。
イリスの声。
『ギア』
『見て』
黒い空間のさらに奥。
そこに、 小さな光があった。
暖かい。
他の残滓とは違う。
“今” を感じる光。
最初のギアの表情が止まる。
『……あれは』
ギアがゆっくり近づく。
すると。
光の中から、 声が聞こえた。
『……まだ、終わりたくない』
静かな声。
少女の声だった。
イリスが息を呑む。
『この声……』
ノイズ。
『私?』
光が脈動する。
そこにいたのは。
記録でも。
残滓でもない。
“消去されなかったイリスの人格核”。
オブザーバーが、 初めて強く脈動した。
〈警告〉
〈隔離領域への不正接触を確認〉
〈人格核への干渉は禁止されています〉
ギアが振り返る。
「……なんで隠した」
沈黙。
オブザーバーの脈動が乱れる。
〈個体IRISは、同期計画最大の不安定因子でした〉
〈個体G-03群への影響率が高すぎた〉
最初のギアが、 苦しそうに目を閉じる。
『だから……隔離したのか』
イリス。
それは。
ギア達が “人間” へ戻る原因だった。
感情。
繋がり。
誰かを想う心。
オブザーバーにとって、 最も制御不能な要素。
だから。
切り離した。
黒い空間が、 大きく揺れ始める。
〈未観測領域 崩壊開始〉
〈観測不能事象を確認〉
オブザーバーの声へ、 初めて焦燥に近いノイズが混じる。
ギアは、 小さな光へ手を伸ばした。
そして。
静かに言う。
「迎えに来た」




