第百五話 甘い人生
気付くと芹緒は真っ暗な空間にいた。
芹緒が力を使った時の心の世界に似ている。というか心の世界なのだろうか?
芹緒は自分の両手を見る。脂肪に包まれて太くて短い、まるでぬいぐるみのような真っ白な指が目に入る。どうやらまだ芹緒は自我を保って心の世界にいるらしい。
芹緒は大きくため息をつく。先ほどのように息一つするのでさえ辛いというわけではなく、酸素が体中に行き渡るのを感じ、それもまた心の世界と同じだと納得する。
仮面の女性たちの今までの状況を考える。
彼女たちは心を壊され、身体は治っても意識が戻らない状態だった。
芹緒の場合はどうなるのだろう。
芹緒の見立てではあの体はもう死んだ、と思う。肉体が死んでも心? 魂? が認識出来るのなら、これは幽霊というものになったのだろうか?
芹緒はがっくりと肩を落とす。
まだ自分という『自我』が生きていることに心底うんざりしたのだ。
もしここが心の世界だというならゾッとする。
心の世界では時間は引き延ばされる。
それこそ無限とも思える時間の中で、芹緒の心はゆっくりと摩耗していくのだろう。
これが自殺を選んだ者の末路なのかもしれない。
自殺はダメ、という社会通念の中、芹緒は生きてきた。
だがそれでも死にたかった。
だからこれは甘んじて受け入れねばならない罰なのだろう。
何もしなくても存在? 可能な世界。
そう考えればある意味気楽なのかもしれない。
頭が動くのが幸いだ。
徒然なるままに妄想を吐き出していくのもいいだろう。
残念ながらその妄想をもう書き残すことは出来ないが。
芹緒さん
ふと美琴の声を思い出した。
自殺を実行しようとする前には聞くことのなかった、自分の名を呼ぶ女性、少女の声。
最初はお嬢様だと思っていた彼女は、実はとてもおてんば、どころか男になりたいと豪語する子で。
芹緒と入れ替わってからも彼女の男らしい決断や判断に男の先輩として羨望と嫉妬があったのは否定できない。
彼女と出会ってから本当に少しの迷惑とたくさんの幸せを受け取ることが出来た。感謝しかない。
芹緒さん!
芹緒は首を傾げる。
自分のことを『芹緒さん』と呼ぶのは、数少ない芹緒の女性の知り合いの中では知る限り美琴だけだ。
だが。
いつも自分を『芹緒さん』と呼ぶこの声はここ最近聞き慣れた声だったか? 少し違う声音な気がする。
だって。
芹緒と美琴はずっと入れ替わっていたわけで。
芹緒は少女姿の美琴から『芹緒さん』と呼ばれたことはただの一度もない。
「芹緒さん!!」
そして今までとは違う可能性にようやく気付いた芹緒は、だが声の方を振り向くことが出来なかった。
振り向いてしまえば、また自分を甘やかしてしまうと本能的に気付いているから。
この声を無視すれば、彼女も彼女たちも、芹緒というもうどうしようもなくくだらない奴を諦めてくれる。そう感じた。
「あっち!!!」
今度は有栖の声が聞こえてきた。
有栖の力は今朝聞いて知ったばかりだ。探しているものの方向がわかる、と。
芹緒の想像通り、遠くから気配が近づいてくるような気がする。
謎の焦燥感に襲われた芹緒は、少しずつその声から後退り、そして逃げ出した。
離れるにつれて彼女たちの声が聞こえなくなる。
十分離れたと思えた空間に来て、芹緒はようやく大きくため息を吐く。
わかっている。
芹緒が芹緒自身の言葉で彼女たちを説得出来なければ、どこまで逃げても彼女たちは追ってくるかもしれない。
自分自身が逃げる理由も分かってないのに説得なんて出来ない。
甘えるのは罪なのか?
誰かが誰かの優しさで生き長らえることに、芹緒は何の疑問も持たない。
だが自分には当てはめられない。
今までの人生で芹緒は自分で自分を存分に甘やかしている。
そうでなければ肥満になんてならず、借金も作らず、仕事を休むなんてこともないはずだ。
十分に自分を甘やかしている。
さらに他人の優しさにつけ込むのはずうずうしいにもほどがある。
『モテモテだねえ』
不意に聞こえた声に芹緒は飛び上がった。
振り返ると心の世界で出会った、元の身体に戻りたくないあの女性が白い裸体を晒しながらそこにいた。
「どうしてここに!?」
『あなたが来たんじゃないの? 私はあなたが見えたから声をかけただけだよ』
女性はそう言って芹緒に背中から密着する。彼女の柔らかい感触が芹緒の肌にダイレクトに伝わる。
だがそれに動揺するどころではない。
「僕は死んだはずなんだ。だからこんなところにあなたがいるのはおかしい」
『私も心は死んだはずなの。その理屈なら私の意識が戻ってここにいるのはおかしいんじゃない?』
「それはあなたの心が治ったから」
『じゃああなたの体も治ったんじゃない?』
「そんなバカな……」
芹緒は絶句する。
あんな山中、誰も知らないはずだ。
と、芹緒は思い出す。
芹緒が深夜、車で辿り着いたあの山奥に、不意に現れた金髪の少女のことを。
例え彼女の導きで芹緒の元に辿り着けたとしても、彼女たちだけでは芹緒の致命傷はどうしようもないはずだ。
芹緒の癒す力を美琴が使えたら?
「……」
そこまで考えて芹緒は押し黙る。限りなく低い可能性だがあり得ない話ではないからだ。現に芹緒だってあの場から山奥までテレポートしている。
美琴の力を芹緒が使えるなら、芹緒が開花させた力を身体を取り戻した美琴が使えても不思議ではない。
『すっごく簡単な質問するんだけど』 女性は肩越しに優しい声音で笑いかけながら問う。『あなたにとって私は何? 心を癒した数っていうトロフィー?』
「違う!!!」 芹緒は声を荒げる。「僕はみんなに元気になって欲しくて」
『見知らぬ他人のためにそこまで心を配れるのに、どうしてあなたを慕う人があなたを助けたいって気持ちは無視出来るの?』
「……僕は救われていい人間じゃないから」
『ようやくあなたの心が見えたけどさ、あなたの価値はあなただけが決めるんじゃないよ。あなたと関わった人たちにもあなたの価値を認める権利があるんだよ』
そう言うと女性は身体を離し、芹緒の背中をとん、と押す。
ただそれだけで芹緒の体は暗闇の世界を前に進んでいく。
『人生八十年』女性の声が遠くなる。『前半ダメでも後半巻き返すってのもありだと思うよ』
『それだけで納得出来ないなら……、私を現実で迎えに来てほしいな。こういう呪い好きじゃないけどね』
「……」
今まで自分のことばかり考えていた。
そうだ、芹緒にはまだやり残したことがあった。それは必ずしも芹緒が負わねばならない責任ではない。
ただ、芹緒に期待する誰かがいる。それだけで芹緒の冷え切った心に少しだけ熱が戻る。
「芹緒さん!!!」
そして思い出す。
美琴の声も芹緒に期待するものであることを。
姫恋だって桜子だって葵だって、有栖だって芹緒に期待している。
何を?
『まっすぐ私を見て』
女性の力はそれほどでもなかったのに、無重力の空間を突き進むように芹緒の体は美琴たちの声の方に向かっていく。
左右を見る。
何も存在しない、見ているだけで引き込まれそうなほどの黒。
消えたい。
この思いは今もまだ消えない。
何もかも投げ出してあの黒に溶けてしまいたい。
だけど。芹緒は目をつぶる。
もう僕は一度死んだ。
芹緒はそう結論付けた。
ようやく芹緒は死ぬことが出来た。
だから。
芹緒は目を開け顔を上げた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※
気付くと芹緒は眩い光の中にいた。
いや違う。
目は開かないが光源の中にグラデーションが見える。このグラデーションの青はそう、あの山から見えた空だ。
青を取り囲んだたくさんの黒い影が見える。
それは人の頭。
そう認識した途端、肉襦袢のような贅肉に包まれた体を認識し重さが戻る。グサグサとした鋭い痛みが全身を駆け巡る。だが口は開かないし目も開かない。
錆びた鉄の臭いと蒸せ返るような草いきれ。
耳は……
「優香さん!!!」
「ユウカ!!!」
「「芹緒様!!!」」
「芹緒殿、しっかりしてください!!!」
ああ、必死に叫ぶみんなの声が聞こえる。
芹緒の意識は心の世界から現実に戻ってきたらしい。
体の芯のあまりの冷たさに思わず身震いする。が体はぴくりとも動かない。
誰かが芹緒の胸を砕かんばかりに一定のリズムで押している。
これは知識で知っている。心臓マッサージだ。
さくらが必死の形相で芹緒の贅肉だらけの胸を強く強く押し込んでいるのがぼんやりとだが薄目の向こうに見えた。
その鬼気迫る表情は初めて会ったあの時を思い出す。が殺意はなく、今はただその表情の奥に泣きそうな感情が見えるほど、芹緒はさくらという女性との付き合いが長くなった。
「優香、心臓動く」
「葵の言葉は正しいのです!!!」
桜子と葵の力を感じる。
二人が力を『力の限界を超えること』させ、芹緒の心臓に働きかけている。
普段澄ました顔をしていながら案外表情がころころ変わる桜子と、飄々としているが案外悪戯好きな葵が、二人とも可愛い顔をくしゃくしゃに歪ませ、目や口から血を流して力を全力で振るっているのを感じるのは胸の辺りが痛む。
だが芹緒の心臓は動かない。
そうか。
やはりこの体は生命活動を停止させているらしい。
さくらの心臓蘇生マッサージ、桜子と葵の力によって芹緒の体はまだ死の淵ぎりぎりにいるのだろう。
芹緒は素直に納得した。
「なんで私じゃダメなのよぉぉぉぉぉ!!!!!」
悲痛な涙混じりの叫びが芹緒の耳をつんざく。美琴の声だ。声がした方向の黒い影は必死に芹緒の体に手を当てている。
ぎゅっと芹緒の体を押し潰す勢いで想いを込めたその手は、だが何も起こさない。起こらない。
癒しの力、か。
美琴は癒やしの力を使えないらしい。
それは身体に力の元がないからなのか、それとも使い方が分からないからなのか。
ただぽたぽたと涙が芹緒の身体に落ちてくる。
遠くから大きな音が近付いてくる。ヘリコプター?
芹緒はようやく思い出したその力を自分に使ってみる。
意識を向けた先が微かに光った気がした。
彼女たちを泣かせたい訳じゃなかった。
ならなぜあの刺された現場から逃げ、死を選んだ? と聞かれれば困ってしまう。
あの時はそうしたいと思った。
なんであれ、ようやく芹緒をこの世界から離れさせてくれる切っ掛けをもらえたと思った。
あの場にいたら止められると思った。
結局芹緒は逃げたいだけだった。ただこの世から逃げたいだけだった。
芹緒は意識を心臓に向ける。
その力は弱々しいものだった。
それはそうだろう。
すでに心臓は止まり、体は機能停止しているのだから。脳は酸素なしにどれくらい生きていられる?
「芹緒さんの反応があった!!!」
だが何故か美琴が微かな芹緒の意志に気付いた。
美琴の顔が見えた。
涙や鼻水で顔をどろどろにしながらもその高貴さは少しも損なわれていない。
芹緒の意志に気付いたのは美琴だけだった。
美琴は桜子と葵に檄を飛ばす。
「心臓じゃない、脳、脳に力を送って!!! 芹緒さんの癒しの力をブーストして!!!」
「「!!!」」
すぐさま二人は芹緒の脳に直接力を叩き込んできた。その凄まじいまでの圧倒的な力の奔流に、芹緒の意識は一瞬ブラックアウトする。
だが意識はすぐに戻る。
頭が冴え渡る。
今までも普通に思考していたと思っていたが、それ以上に思考が視界が全てがクリアになる。
芹緒の周囲を囲んでいた黒い影が一瞬にして芹緒の良く知る女性たちの輪郭を取り戻す。
芹緒の癒しの力が明確な指向を持って心臓を急速に癒していく。
そして。
「う、動きました!!!」
さくらの声が聞こえる。
芹緒の心臓が再鼓動を始めた。
「救急ヘリ到着しました!!! 急いで!!!」
つつじの声が聞こえる。あのヘリコプターは救急ヘリだった。
「せーのっ!!」
芹緒の醜い巨体がヘリから降りてきた数人がかりで持ち上げられ、不安定な布張りの上に寝かせられる。
「優香さん頑張って、死んじゃダメなんだからね!!!」
「ユウカ、もう少しだけ頑張って!!!」
そして救急ヘリへと運び込まれていく。
「芹緒さん」美琴の小さな手が芹緒の体に触れる。「せっかく戻れたんだから、もう少し頑張って」
その声を最後にバタンと扉が閉じ、芹緒は空へ旅立った。
芹緒は死んだ。
死んでようやく気付いた。
まだ生きる理由なんて大層なものは見つからない。
でも、自分のためでなく、彼女たちのために生きたい、と。
甘えてもいい。それが彼女たちの願いなら。
そんな甘い人生もありな気がした。
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