第百三話 いつも通り
翌朝。
芹緒が目覚めるとベッドはもぬけの空だった。
毛布にかすかに残る、自分のものではない体臭と温もり。まだ有栖がここを離れてそれほど経っていないらしい。
そこで芹緒は昨晩有栖に抱きついたことを思い出し頬を押さえると、その手が熱くなるのを感じる。
普段少女たちとはもっと過激なことをしてはいるが(!?)、それでもMMOで仲良くしていたあのアリスとまさかあんな一日を過ごすなんて、と芹緒は感慨深く思いを馳せる。
攻め攻めイケイケな美琴たちや優しいお姉さんであるメイドたちとは違い、上流社会のお嬢様でありながら芹緒と同じような恥じらいや一般感覚を持っていたのは、MMOでの生活ゆえか。
部屋の中を見渡すと寝ているのはいつも通り葵だけで、桜子や姫恋はもう起きているようだった。
芹緒は遠慮がちに葵を跨いでドアまで近付くと、引き戸のドアが外側から小さく開かれた。
「おはようございます芹緒殿」
「おはようさくらさん」
ドアが自動で開いて驚いた芹緒を出迎えたのはさくらの笑顔だった。
立ち上がっていたさくらは芹緒に当たらないようドアを開け、芹緒と朝の挨拶をすませると、いつも通りに芹緒のベッドに向かう。
「おやすみなさいさくらさん」
「失礼いたします」
そう言ってさくらは昨晩芹緒と有栖が寝ていたベッドに横になる。
これは桜子たちが泊まるようになってからの習慣だった。
リビングには人が多い。メイドたちだけならともかく、お客人である桜子たちがいる中でリビングの一角を占領して寝るのは礼を失すると感じたようだ。桜子たちはそんなことは感じないだろうが、それでも仕えるべき使用人としての礼儀は確かに存在する。だからさくらからベッドを利用させて欲しいと言われた時はすぐに頷いた。
トイレを済ませ芹緒がリビングのドアを開けると、中にいたみんなが一斉にこちらを振り向き挨拶をしてきた。有栖がいて美琴も起きていたので普段より視線が多い。
芹緒は少し身じろぎしつつも挨拶をして中に入っていく。
芹緒は知らない。
芹緒が起きてくるまで有栖が美琴や桜子が宣う『芹緒家の勃興』と『芹緒を囲うこと』について文句を言っていたこと、そしてさくらが芹緒が起きる気配を察してリビングのメンバーに伝えたことを。
こうして芹緒宅の朝は有栖を一人加え、いつも通りの朝が始まった。
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いつも通りジョギングをし、いつも通り力の修行を行なった。
そこで有栖は自分の力を開示した。
それは『有栖が欲しいものの方向を知ることが出来る』というものだった。
「普段は父の欲しいものを手に入れるために使っていたわ」目を伏せ有栖は独白する。「私個人でつかったのはMMOで沸いたボスの居場所を知る、くらいかしら。知ったってドロップするとは限らないのだけど」
「でもボスをすぐ見つけられるのはすごいよ!」
「お宝探しとかすぐ見つけられそう!!」
「……ここ最近『一人でゆっくりしたい』と願って色々出かけたりしてたのだけど、ことごとくあなたたちに会っていたわ」自嘲しながら有栖は言葉を続ける。「力も錆びついてきたのかもと思ったけれど、どうやらユウカと縁を繋ぐためだったのね」
そして有栖は隣に座る芹緒にしなだれかかる。
精神集中していた芹緒は周囲の会話に耳を傾けていなかったため、有栖の不意な重みに耐えられずそのままバランスを崩し、有栖ともつれるように倒れてしまった。
「大丈夫ですかお二人とも」
すぐにさくらが手を差し伸べ二人を起こすが、有栖と芹緒の体格差もあり、芹緒は有栖に抱きついた格好になってしまった。
すぐに美琴や姫恋たちからブーイングや笑いが巻き起こる。
こんななんでもない、いつもの光景。
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そして。
いつも通りさつきが運転する送迎用リムジンで九条邸に向かう。
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「それじゃあ私たちはいつも通り待ってるね」
「ありがとうね」
九条邸に着くと、いつも通り芹緒と美琴たちは二手に別れる。
美琴たちは芹緒の治療の仕事が終わるまで美琴の部屋で待機、芹緒は途中まで有栖と一緒だ。
「お待ちしておりました、芹緒様」
廊下で仮面の女性たちが芹緒たちを出迎える。
今まで毎日のように増えていた仮面の女性たちだが、心の世界に留まることを選んだ女性がいることで、その人数はほぼ変わりない。
「この人たちは?」
有栖がそっと芹緒に耳打ちする。
有栖と仮面の女性は直接の面識はない。仮面の女性たちにとって有栖は娘といえど紫苑鷹秋の関係者だ。なのでこれまで九条家関係者や有栖つきのメイドたちは邸内での接触を徹底的に排除してきた。
「僕の治療を受けた人たちだよ。これから社会復帰するために過去を捨てて仮面をつけているんだ」
「そ、そうなのね……」
ぼんやりとした説明だったが、有栖とて聡明な女性だ。昨日父の所業を聞いたこともあり、どういうことかすぐに理解する。
謝罪したいのは山々だが今このタイミングだろうか。
芹緒が仕事を始めてからでもいいのでは。
しかし有栖の格好は九条家の一人娘である美琴の姿をしている芹緒の隣に立っても問題ない格好と品位を兼ね揃えている。
名乗らないのは不自然だ。
「……私は紫苑有栖。私の父があなたたちに与えた数々の非道な行為、娘の私も謝罪いたします」
そう名乗ると有栖は深々と頭を下げた。
仮面の女性たちがどよめく。反応は様々だった。
だが元々は上流階級の女性たち。どよめく雰囲気こそあれど仮面をつけていることもあり、芹緒たちにその反応はよくわからない。
やがて一人の仮面の女性が一歩前に進み出る。
「紫苑様。あなたと父上は違う人間です。そして紫苑家の件も私たちは聞いています。もう恨みは捨て、芹緒様に尽くす所存です。あなたを恨む者はおりません」
「ご厚意痛み入ります」
仮面の女性からの赦しに有栖はなお一層頭を深く下げる。
一方で仮面の女性の『芹緒に尽くす』発言に何か物言いたげな芹緒だったが、廊下でする話ではない、部屋に行ってからしようと考え口を閉じた。
有栖は顔を上げると芹緒の横に立ち、共に歩き出す。仮面の女性たちはいつも通り、その後ろを静かについていく。
そして。
そして。
「それじゃあユウカ、頑張ってね」
「ありがとう。アリスもまた」
唐突にそれは起きた。
ふら、と仮面の女性が一人、背後から有栖に近づくと懐から包丁を取り出した。
「!?」
「死ね」
「やめなさいっ!!」
あまりのことに誰も動けない。
そして凶器は光をギラつかせ有栖を襲った。
辺りに大量の鮮血が飛び散る。
「きゃあああああああああああああ!!!!!」
誰のものともつかない悲鳴が九条邸の広い廊下にこだました。
「え?」
「あれっ!? 優香さん??」
同じ瞬間、美琴の部屋でも声が上がった。
だがこちらは悲鳴ではなく困惑の声だった。
先ほどまでベッドで寝そべっていた品の良い白いシャツにチノパンを穿いた芹緒姿の美琴の体が一瞬光ったかと思うと、白いワンピース姿の美琴の姿が現れたからだ。
その光景を目撃した桜子や姫恋には、美琴と芹緒が場所を入れ替わったように映っただろう。
だが違う。
「ん?」
自分のベッドでスマホをいじっていた美琴は急な身体のサイズや服の変化に一瞬戸惑ったが、すぐに立ち上がりベッドから飛び降りた。
「芹緒さん!!!」
その一言で美琴の部屋の空気は一瞬で緊迫したものになった。
「な、なに……?」
真っ赤なドレスをどす黒い赤に染めた有栖はただ茫然としていた。
その赤は有栖自身のものではなかった。
その赤は美琴の姿をした芹緒からではなかった。
有栖の目の前から白いワンピース姿の可愛らしい少女は消え、代わりに先ほど別れたはずの恰幅の良い中年男性がその時の格好のまま光に包まれ、有栖を背にするように場所を変え抱きしめていた。
そんな中年男性の体がショックで揺れる。
「がはっ」
中年男性が吐血し、その口から溢れたどす黒い血がまた有栖のドレスを汚していく。
「ユウカ……?」
焦点の合わない瞳に有栖を気遣う色を見た有栖は、そう呟く。
その中年男性の姿は美琴が纏う芹緒のものだった。
その中年男性はゆったりとした動作で有栖に背を向けると、有栖にその惨状が露わとなる。背中は血だらけで品の良い真っ白な上着がどす黒く染まり、なおも尋常でない量の血が滴り落ちている。
そんな状態の中年男性は未だに包丁を振り回す仮面の女性に向き合い、その狂気の一撃が腹を刺しその脂肪で止まる。
「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」
脂肪と筋肉がまとわりつき抜けない包丁をなお抜こうとする仮面の女性を、肥満体の中年男性は力ない動作ですがりつくように抱きしめた。二人の体が一瞬のまばゆい輝きに包まれ、
「ごめん、ちゃんと癒して……あげられ……なくて」
中年男性は切れ切れにそう呟いた。
その呟きを聞いた仮面の女性は急に憑き物が落ちたかのようにその場に膝から崩れ落ちる。と同時に血だるまの中年男性も無様に転がる。
その大きな音に我に返った仮面の女性たちがようやく動きを取り戻し、ある者は凶行に及んだ女性を押さえつけ、ある者は誰かを呼ぶべく走り出す。
「ユウカ!? ユウカ!! しっかりなさいユウカ!!!」
そして有栖はその手が汚れるのも構わず血だらけの中年男性を仰向けにし、声を必死にかける。
その声が聞こえたのかどうか。
中年男性は目を閉じたまま首だけ微かに有栖の方に向けると。
中年男性はその場から消え失せた。
「は……?」
有栖が呆然と言葉を零すのと美琴たちが血だらけの現場に駆けつけたのはほぼ同時だった。
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