#3 貼り付けられた箱庭
孤児院の外も、灰一色の世界だった。道を行き交う人達も、延々と並んだ建物も、灰色のペンキを被ったみたいだ。十五時を指したままの時計台が、排水溝のくぐもった音のようなチャイムを鳴らす。その音と共に、子供達がボールを持って走っていた。遠目から見ると、子供たちは灰色の人形のように見える。ルーソは陽気にステップを踏み、灰色の世界にボクを引っ張って行く。ルーソの赤毛は灰色の中にいると、一際目立った。
「■■■■、ここが私達の育った町よ。みんなは"箱庭"って呼んでるけどね」
ルーソはそう言うと、何も知らないボクに色々説明してくれた。孤児院で食事を済ませると、ボク達は決まって秘密の隠れ家で遊んでいたこと。マーテル院長が、夏休みにボク達を美術館に連れて行ってくれたこと。三人でお金を出しあってサーカスに行って、ボクがそこで会ったピエロを見て泣いちゃったこと。何も思い出すことはできなかったけど、話を聞いていると胸の中が暖かくなった。記憶を失くす前のボクは、きっと幸せな記憶に包まれていたんだろう。
「やあ、誰かと思ったら■■■■じゃないか」
後ろから声をかけられて、ボクは慌てて振り向く。だけど、声の主の姿を見て、ボクは目を逸らしたくなった。その人の顔は、目、鼻、口があらぬ方向に、貼り付けられたかのように付いていたんだ。まるで子供が描いた落書きのように。
「どうしたんだ? ■■■■。まるで俺に初めて会ったみたいな顔して」
「ごめん、バネイさん。■■■■、今日はちょっと調子が悪いんだ」
バネイって呼ばれた福笑い人間は、不思議そうにボクを見た。額と頬に付いた両目で見られると、ゾッとしたよ。ひょっとしたらボクもあんな顔なのかな。
「そうか……。ま、ちょっと寝れば良くなるさ。はやく元気になっていつもの調子に戻ってくれよ」
バネイさんは目元に付いた口でニッと笑う。歪な体で歩いていく姿は、まるでパーツが壊れた人形みたいにぎこちない。ボクは怖くて、バネイさんがその場を後にするまで硬直していた。
「大丈夫? ■■■■、バネイさんと話しているあいだ、ずっと震えていたよ」
ルーソが髭をひくつかせ、ボクの顔を見る。その瞳には、ボクと思しき姿が映っていた。ボクの顔は滲んだ絵の具みたいにひどく不鮮明だ。目も鼻も、輪郭すらも分からない。手足にはガントレットとグリーブが嵌められ、稲妻模様が走るハートが描かれたシャツを着ていることだけが見てとれる。実に奇妙な出立ちだ。まるで手足だけガチガチに固められているみたいだ。一体ボクはどんな顔なのだろう。触っても冷たい仮面みたいな感触だ。
「そりゃあ■■■■にとっては誰かも分からねぇ赤の他人だ。怖くねぇはずがねぇだろ」
さっきまで黙っていたウィルが呟く。ウィルはバネイさんと話している間も、バネイさんに近づこうともしなかった。灰色の鉄柱にもたれかかったまま、ウィルは腕を組んでいる。
「どう? ■■■■。何か思い出せた?」
ルーソの問いに、ボクは首を横に振った。みんなはボクのことをよく知っているのに、ボクはボク自身が分からないなんて、なんか変な感じだ。ボクが生まれ育ったはずのこの町のこともボクは分からない。まるでボクがいるはずなのに、ボクだけがいないみたいだ。
「ダメかぁ。もっといろんな所に行った方がいいのかな?」
「そんなことをしても、記憶が戻るとは限らねぇぞ。むしろ、■■■■が余計に困るだけだ」
ルーソの提案をウィルはあっさりと切り捨てる。二人はボクをよそに、次々と提案を出しあっていた。出し合うというよりは、ルーソの提案をウィルが次々と却下していただけだけど。二人がどんな事をしても、ボクの記憶は戻らなかった。いっそのこと、このまま思い出さない方がいいのかな。ボクもこの灰色の世界の一部にぬなってしまえばいいのかな。ボクはぼんやりと、灰色の空を見ていた。
「困っているみたいだね。■■■■」
二人とは正反対の方向から声がして、ボクは振り向く。透き通って、今にも空気中に消えてしまいそうな声だ。振り向くと、建物の影に溶け込んでしまいそうな女の子がいた。水色のワンピースを着て、黒紫色の長い髪をなびかせている。顔と手足には包帯が巻かれていて、どこか痛々しい。前髪から時折見えるエメラルド色の目は、吸い込まれてしまいそうなほど透き通っている。ボクは無意識のうちに、女の子の方へ一歩踏み出した。
「私はフィンデル。君のずっと昔の知り合いよ」
女の子、フィンデルは柔らかな口調で語りかける。フィンデルっていう名前は聞いたことがないし、あの女の子にも見覚えはない。でも、どこか懐かしい感じがする。まるで、あの子をずっと昔から知っていたみたいだ。ボクはフィンデルに話しかけようとしたけど、言葉がうまく出てこなかった。フィンデルもそんなボクの様子を感じとったのか、手で制す。
「君が今、何をしたいのかは言わなくても分かるよ。君は自分が何者なのか知りたいんでしょ?」
フィンデルの言葉に、ボクは頷く。包帯から覗く瞳は、ボクを見透かしているみたいだ。ボクの様子を見て、フィンデルは微笑む。
「それなら、この道の先にある、アドレムの館に行ったらいいよ。アドレムは箱庭の事ならなんでも知っている。君の事も知っているはずだよ」
フィンデルが指す方向には、巨大な屋敷があった。真っ黒で、灰色の空を呑み込んでしまいそうなほど大きい屋敷だ。壁のようにそびえ立つ屋敷は、威圧感を放っている。ボクは気が遠くなりそうになり、後ずさった。
「大丈夫、アドレムはとっても優しい人だよ。きっと君が来てくれたら、美味しいケーキを用意してくれるよ」
フィンデルは無邪気に笑い、建物の影に溶け込んでいく。ボクはフィンデルが何者か尋ねようと走るが、建物には誰もいなかった。あの子は誰なんだろう。ボクはフィンデルがいた建物の影を見つめていた。
「どうしたの? ■■■■。ボーっとして」
ルーソに話しかけられ、ボクは我に返った。ウィルも怪訝な顔をして、ボクを見ている。
「ふらついていたぞ。大丈夫か?」
ボクはウィルに頷く。二人にはあの子は見えていなかったのかな。それとも、夢だったのかな。でも、あの子が言っていた"アドレムの館"。そこに行けば何か分かるかもしれない。ボクは館の方へ歩いていく。
「■■■■。そっちはアドレムさんのお屋敷だよ」
ルーソが不思議そうにボクを見る。ボクは頷き、一歩ずつ踏み出した。
「あいつの所に行くには、少し骨がいるぞ。あの屋敷の門番は融通がきかねぇからな」
ウィルも顔をしかめて屋敷の方を見る。二人とも、あの屋敷に行くのは乗り気じゃないみたいだ。でも、ボクは自分が何者なのかを知りたい。二人の制止も聞かず、ボクは歩みを進めた。
「分かったわ。■■■■が行きたいなら、私も行くよ」
「相変わらず頑固な奴だ。お前は危なっかしくて見てられねぇぜ」
ボクが進み続ける姿を見て、ルーソとウィルも遂に諦めて、ボクについて行く。灰色の景色に佇む屋敷は、ひどく遠く、大きく感じた。まるでボクの記憶が遠ざかるように。




