#2 トモダチ
「あ、■■■■! よかったぁ、起きたんだ」
部屋の入り口から、黒豹の獣人が入ってきた。ボクは驚いて、マーテル院長にしがみつく。黒豹の獣人は、マーテル院長よりも背が高かったんだ。口を動かすたびに覗く長い牙は、鋭く光っている。首にかかった鈴の付いた首輪が、ひどく小さく見えた。ボクを見下ろすその姿は、まるでボクを捕まえて食べてしまいそうなほど大きい。
「どうしたの? そんな顔をして。私よ、ルーソだよ」
ルーソはボクを見るなり走り出し、激しく肩を揺する。あまりの力にボクの体は、なされるがまま揺れた。首が振り子のように揺れ、視界が回る。ボクの肩を覆い隠してしまいそうなほど大きな手。長く伸びた爪が当たって、少し痛い。ボクは目の前にいる異様な生き物に恐怖しか感じられなかった。
「おい、■■■■は怪我人だぞ。お前みたいなデカブツが揺らしたりなんかしたら骨が折れるだろ」
ルーソの後ろから鋭い声がした。声の主は緑色のマントと帽子を被った男の子だ。いや、ただの男の子じゃない。その子の顔は黄土色で、所々つぎはぎになっていた。片目はアイパッチで隠れ、残った赤い目はビー玉みたいに無機質だ。表情のないその顔は、人間というより人形のようだった。
「あ、そうだよね。ごめん、■■■■」
ルーソは慌ててボクから手を離す。まだ少しボクの肩にはルーソの手の感触が残っていた。ボクはマーテル院長の側を離れようとせずに、異様な風体の二人を見る。
「あなたの友達のルーソとウィルよ。あなたは四歳の時からずっと、この孤児院で二人と一緒に暮らしていたのよ」
マーテル院長はボクを不安にさせないように一生懸命に説明する。ボクが暮らしてきたこの白い部屋。何もかもが規則正しく並べられていて、なんだか落ち着かないな。窓の外から見える光景は、灰色の建物。まるでボクだけが、色のない世界に放り出されたみたいだ。
「院長先生。■■■■は大丈夫なの?」
「ちょっと落下のショックで記憶が混乱しているのよ。大丈夫、きっと治るわ」
心配そうに琥珀色の目を潤ませるルーソを、マーテル院長はなだめる。見た目に似合わず、ルーソの声はハープを手で弾いたように高い。その様子を見て、ボクはますます訳がわからなくなる。どうしてボクが知らない人達が、ボクの心配をしてくれるのだろう。
「お前、忘れたのか? お前は孤児院の階段から落ちて、頭を打って気を失っていたんだぞ」
ウィルが呆れたようにため息をつく。冷たく低い声は、マントに縫い付けられたヒイラギのように刺々しい。ボクは頭に手を当てる。頭には白い鉢金が巻き付けられていた。手を当てると、確かに少しズキズキする。体も鉛みたいでうまく動かない。
「あの時はびっくりしたよ。■■■■ったら、私達より先に飛び出して行っちゃったんだもん」
「全く、危なっかしいな。お前はいつだってそうだ」
目の前にいる知らない友達は口々に言う。記憶を失う前のボクは、一体どんな人だったのだろう。きっとこんなに友達がいて、幸せな人だったのかな。そう思うと記憶を思い出せない自分が、みじめな気持ちになってくる。
「ねぇ、もしかしたら■■■■が今まで行った所に行けば、何か思い出すかもしれないよ!」
ルーソが体を乗り出して、ボクの手を取る。ルーソの肉球の柔らかい感触が、ボクの手を包む。
「お前バカか? ■■■■は大怪我をしたばっかりだぞ。怪我も満足に治ってないのに歩かせる気か?」
ウィルが強い口調でルーソを諌める。抑揚がないけど、ウィルの声は胸に突き刺さるように鋭い。でも、ルーソはまるでいつも聴いているかのように気にも留めなかった。
「ウィルは、■■■■の記憶が戻らなくてもいいの?」
「俺はこいつの記憶がどうなろうとどうでもいい。戻る保証もないからな」
言い返すルーソを、ウィルは冷たくあしらう。こんな正反対なのに、二人が友達なのが不思議だ。記憶が戻るかどうかで二人は言い争っているけど、本当にボクの記憶は戻るのかな。記憶が戻ったら、それは"ボク"なのかな。記憶のないボクには分からないや。
「二人とも、■■■■が困ってるでしょ」
マーテル院長がルーソとウィルの間に入る。二人はお互いを睨みながら渋々引き下がった。マーテル院長はボクを真っ直ぐ見る。院長の緑色の目に見つめられていると、なんだか恥ずかしくなった。
「いいのよ、■■■■。今は無理に思い出さなくてもいいの。思い出すかどうかは、あなた自身が決めればいいのよ」
マーテル院長はボクから目を離さない。ボクも、院長の目を見ていた。なんだろう。この人の言葉は、聞かなきゃいけない気になるんだ。思い出すかどうか……か。このまま何もしなかったら、ボクの記憶は戻らないかもしれない。でも、それでいいのかな。今ボクを気にかけてくれる人達も、ボク自身も何者なのか分からない。そんな空っぽなボクになっちゃう気がするんだ。そう考えると、なんだかボクは死んじゃったみたいじゃないか。ボクは立ち上がって、部屋の入り口の方へ歩き出した。
「え、■■■■。もしかして外に行きたいの?」
ルーソが驚いてボクを見る。ボクは深く頷いた。ウィルもボクの行動が予想外だったのか、ビー玉のような目を見開く。
「お前、自分が怪我人なのを分かってるのか?」
ウィルの鋭い声に身がすくんだけど、ボクははっきり頷く。部屋から出ようとした一歩は軋んで痛かった。だけど、このまま自分が空っぽのままでいるのは、もっと怖い。
「よかったぁ〜。■■■■なら絶対そうしてくれると思ったよ!」
ルーソは飛び跳ねて、ボクの手を取る。兎みたいに飛び跳ねるルーソに、ボクは終始振り回されていた。ウィルは不機嫌そうに腕を組んで、そのまま黙っている。
「そう……やっぱり行くのね」
マーテル院長はボクを見て呟く。院長の顔は今までにないくらいに真剣な表情で、どこか寂しささえ感じられた。マーテル院長を見ていると、ボクの胸もぎゅっと締め付けられる。
「気をつけるのよ。帰って来るまでに■■■■の大好きなオムレツを作ってあげるから、夕方には帰ってきてね」
マーテル院長はボクを優しく抱き締めた。……そうだ、ボクがどこかに行く時には、決まってこうやって"いってらっしゃい"のハグをされた気がする。ボクから手を離すと、マーテル院長は名残惜しげにボクを見ていた。
「■■■■が行くなら私も行くわ!」
ルーソがボクの手を引く。今度は少し手加減してくれたのか、あまり強い力じゃなかった。ボクの側で、ルーソは照れ臭そうに髭を掻く。
「ウィル、あなたも■■■■と一緒に行くのよ」
「なんで俺が行く必要があるんだ」
院長の言葉を、ウィルは冷たく突っぱねる。上機嫌なルーソとは対照的に、ウィルは関わりたくないと言わんばかりに、部屋の端にあるタンスに寄りかかっていた。
「そんな冷たいこと言わないの。友達が困っていたら助けてあげるのよ」
マーテル院長に袖を引かれ、ウィルは渋々ボクの方に向かう。その足取りは不機嫌そうだった。ウィルは片目でボクを睨む。
「……変なマネはするなよ」
念押しをするウィル。ボクはおずおずと頷いた。
「決まりね! じゃあ、行こうよ!」
ルーソに手を引かれて、ボクは引っ張られるように部屋の外へ出て行く。その後をウィルは呆れたまま着いて行った。孤児院を出るまで、ボクは一つのことだけが頭に引っかかっていた。それは、部屋を出るまで、マーテル院長が終始険しい顔をしていたことだ。




