第8章 鬼人との遭遇
翌日、俺はクワンリについて斡旋所へやってきた。
この女に一人で仕事を選ばせると、ろくなものを掴んでこない。
この間も、給金が良いと喜んで荷運びの仕事を受けたが、荷車に積まれていたのは、どう考えても二人以上で運ぶ量だった。二人分だから給金が高いだけで、普通に割れば最低の日当である。
クワンリは身体強化を使って、一人で運べてしまう。狙いは悪くないのだが、そのせいで斡旋所に集まる遊び人たちから『馬鹿力女』などと呼ばれ始めていた。
今も掲示板の前で、三人分の荷運び依頼を剥がそうとしている。
(目立ちすぎるから、それはやめろ)
『むう……。給金は良いのだぞ?』
(そういう問題じゃない)
渋々と依頼書を戻したクワンリは、代わりに掲示板の隅から一枚の紙を持ってきた。
『ノルよ、これはどうだ? 鬼人の生息地調査とある。森の動物たちに尋ねれば、すぐに見つかるのではないか?』
最近、俺の思念が猫以外の動物にも通じると分かってから、こいつは完全に俺を当てにしている。
だが、石壁に囲まれた街で過ごすのにも少し飽きていた。森には行ってみたい。
(じゃあ、院長に必要な装備を聞こう。明日準備して、明後日に出発だ)
『決まりだな』
クワンリは嬉しそうに依頼書を抱えた。
斡旋所からの帰り道、今度はクワンリが男たちに絡まれた。
『馬鹿力女』の噂を聞いて、力比べをしに来たらしい。クワンリは断っていたが、酒の匂いをさせた男の一人が、強引に腕を掴んだ。
その瞬間、男の身体がくるりと回り、石畳へ転がった。
ほかの男たちが何が起きたのか理解するより早く、クワンリは深紅のローブを翻し、その間を踊るように抜けていく。捕まえようと手を伸ばした者から順に、力の向きを変えられ、地面へ転がされていった。
誰も殴られてはいない。
だが、誰もクワンリに触れられなかった。
最後の一人を転がすと、クワンリは俺を抱き上げ、野次馬が集まる前に一目散に走り出した。
抱えられながら、前世で見た合気道の動画を思い出した。
細いおっさんが、向かってくる門下生を次々と投げ飛ばす、どう見ても嘘くさいあの動画だ。
(あれ、本当だったのか……)
疑ってすみませんでしたと、名前も知らないおっさんに心の中で謝った。
魔族領では、相手を倒す武術より、自分と相手の身を守るための護身術が広まっているらしい。三つある流派のうち、クワンリは一つの流派で師範代に近い腕前だという。
(強い女は格好いいな)
そう褒めると、クワンリは俺の頭を揉みくちゃに撫でた。
脳が揺れる。
もう慣れてきたので、好きにさせておいた。
*
二日後、俺たちは街から離れた森へ入った。
しばらく歩いたところで、耳の長い小動物に出会ったので、鬼人を見なかったかと思念で尋ねてみた。しかし、この辺りの縄張りにはいないという。
さらに奥へ進み、大きな獣を探した。身体が大きければ縄張りも広い。何か知っているかもしれないと思ったのだが、人の気配を避けているのか、なかなか出会えなかった。
日が傾き始めた頃、今日は帰ろうとクワンリへ伝えかけた、その時だった。
背後の茂みから、大きな影が飛び出した。
びびった。マジでびびった。
全身の毛が逆立ち、勝手に低い警戒の声が出る。
現れたのは、二メートルを優に超える大男だった。筋肉の盛り上がった身体と、額から伸びる二本の角。
鬼人だ。
俺たちから少し距離を取り、腰を深く折って両腕を広げ、鳥が羽ばたくように上下させている。
おそらく威嚇なのだろう。
こんな状況で悪いが、ちょっと面白い。
『そこの猫。何がおかしい』
思念が、真っ直ぐ頭へ飛び込んできた。
『何をしに来た。そこの女は魔族か? なぜこの森にいる。我らの生活を邪魔せず、すぐに立ち去れ』
話が通じる。
俺は両前足を地面につけ、敵意がないことを示すため、ゆっくりまばたきをした。それから、害をなすつもりはなく、斡旋所の依頼で様子を調べに来ただけだと、穏やかな思念を返した。
鬼人は腕を下ろしたが、警戒は解かなかった。
話を聞くと、鬼人たちは以前からこの森で静かに暮らしていたらしい。ところが縄張りへ人族が入り込んだため、いつものように威嚇して追い返した。
鬼人同士なら、それで互いの領域を理解する。
しかし数日後、人族は大勢の武器を持った者を連れて戻り、山狩りを始めた。
鬼人たちは住処を追われ、冬籠もりに使う洞窟へ逃げ込んだ。大人十人、子供三人の、小さな集まりだという。
俺たちが受けた生息地調査は、討伐隊を送るための準備だったのだ。
クワンリへ事情を伝えると、彼女は何も言わず、悲しそうに鬼人を見た。
虫を追い払うか、殺すか。
昨夜話していたことが、今度は俺たちの目の前で起きている。
*
案内された洞窟では、鬼人たちが身を寄せ合っていた。
煙で居場所を知られないよう、火を使えるのは夜だけらしい。子供たちは寒さと恐怖で震え、大人たちは俺たちを見るたびに角へ手を伸ばした。
クワンリが俺を手招きした。
『ノル。私の持っている転移の魔術具を使えば、全員を魔族領へ送れる』
それは調査を終えたクワンリが、魔族領へ帰還するためのものだった。一度しか使えない。
(それを使ったら、俺たちはどうやって帰るんだ?)
『それは……また考えればよかろう』
出た。このお人好し魔族は、また自分のことを後回しにしている。
十三人の鬼人と、方向音痴の魔族を交互に見た。
(仕方ない。帰る方法は後で考えよう)
クワンリが俺の頭へ手を伸ばしたので、今度は素早く横へ逃げた。
ふふふ。いつも脳を揺らされてたまるか。
俺たちが調査に来た以上、鬼人が突然消えれば不自然だ。依頼を達成できなければ、別の人間がまた探しに来るかもしれない。
そう伝えると、鬼人の一人が古い角を差し出した。
鬼人の角は十年に一度、生え変わる。抜け落ちた古い角も大切に保管しているが、人族はそのことを知らないらしい。
古い角を持ち帰り、討伐したことにすればよい。
死体がないことを疑われるかもしれないが、ほかに良い方法もない。
俺たちは大人十人分の角を受け取り、代わりにクワンリが魔王宛ての紹介状を書いた。
転移の魔術具が淡い光を放ち、鬼人たちの姿を包んでいく。
最後までこちらを見ていた子供の一人が、消える直前、小さく頭を下げた。
あっちでは、幸せに暮らせるといい。
俺とクワンリは、光が消えた後もしばらく洞窟を見つめていた。
*
その夜は、鬼人の残した薪で火を焚き、洞窟で朝を待った。
燻製肉を果実に載せたもの。焼いた川魚に、ライムのような実を搾ったもの。薄い生地で香草と蛙肉を巻いたもの。
鬼人が用意してくれた料理は、どれも驚くほど美味かった。
焚き火の前で、俺はクワンリの身体へ寄り添った。クワンリは黙ったまま俺の背中を撫で、時々、魔草の煙を細く吐く。
薪が弾けるたび、毛に火の粉がつかないかだけ気をつけながら、俺は目を細めた。
静かで、良い夜だった。
言わないけど、『月が綺麗ですね』とでも言ってみたくなるような。
翌朝。
俺は重大なことを思い出した。
この女、方向音痴だった。
森へ入る時は鬼人に案内されて一日もかからなかったのに、帰りは三日経っても街へ着かなかった。
雨には降られる。携行食はなくなる。小動物は道を知らず、大型の獣は山狩りを避けて姿を消している。
ただ一つ良かったのは、討伐場所を訊かれても、クワンリに嘘をつかせずに済みそうなことだった。
三日間、本当に森を彷徨っていたのだから。
三日目の夜、俺たちは泥だらけの姿で斡旋所へ転がり込んだ。
鬼人十人分の角を提出し、場所を尋ねられたクワンリが、森を三日も彷徨ってようやく帰ってきたと正直に話すと、受付の職員は腹を抱えて笑い、それ以上は聞かなかった。
孤児院からは捜索願いまで出ていたらしい。
あと二日遅ければ捜索隊が組まれていたそうだ。
結果オーライである。
鬼人の討伐報酬は、驚くほどの額になった。
生息地調査の方は未達成。
当たり前だ。俺たち自身、もう一度あの洞窟へ行けと言われても、たどり着ける気がしなかった。




