第7章 排除と共存
孤児院の隣に、小さな露店ができた。
子供たちが薬草を採り、クワンリが薬を作り、孤児院の職員たちが店番をする。草原をあらためて調べてみると、鎮痛薬や虫除けのほかにも、腹下しの薬や傷薬に使える草が見つかった。
どれも安くてよく効くと評判になり、売れ行きはなかなか好調らしい。
『これはマーケティング・リサーチだ』
ノルは訳の分からないことを言いながら、今日も店のカウンターで昼寝をしている。
最近のノルは、ますます猫らしくなってきた。
獣落ちした状態が長く続けば、その身体の習性に精神まで引かれることがある。しかし、それにしても進み方が早い気がする。
私が猫好きだからと、つい本物の猫のように撫でたり、甘やかしたりしていることも関係しているのだろうか。
気持ちよさそうに陽を浴びて眠る黒い毛玉を眺めながら、私は少し心配になった。
なるべく早く調査を終え、ノルを魔族領へ連れ帰らなければならない。
もっとも、今すぐ起こす必要はないだろう。
尻尾の先だけを時々動かしながら、実に幸せそうに眠っている。
*
薬の売れ行きは順調だったが、一つだけ妙なことがあった。
虫除けの香だけが、ほとんど売れないのだ。
ほかの薬は棚に並べるそばから売れていくのに、香だけはいつまでも残っている。
効果が弱いのかと思い、いくつか持ち帰って焚いてみたが、吸血虫は近寄ってこなかった。匂いが嫌われているのかと、孤児院の子供や近所の大人たちにも確かめてみたが、皆、悪くない匂いだと言う。
効果にも匂いにも問題はない。
それなのに売れない。
試しに、店を訪れた客へ直接勧めてみたこともある。
小さな子供を連れた女性は、香の匂いを確かめ、値段を聞くところまでは興味を示していた。ところが、これで吸血虫が死ぬのかと尋ねられ、「近寄らなくなるだけだ」と答えると、困った顔をして棚へ戻してしまった。
『死ななければ、またどこかへ移るだけでしょう』
女性に悪意はなかった。ただ、家族を虫から守りたいだけなのだろう。
それでも私には、その言葉が妙に引っかかった。
商売というものは、やはり難しい。
その夜、私はいつものようにノルの首筋を撫でながら相談してみた。
『……ノルよ。寝ているのか? 少し相談したいことがあるのだが』
(……なんですか? 俺の尻を叩いて喜んでいた変態さん)
『まだ根に持っているのか。猫は執念深いというが、本当だな。ちゃんと謝ったではないか』
(分かってるよ。ちょっと意地悪しただけだ。で、相談って?)
虫除けの香が売れない理由を話すと、ノルは考える間もなく答えた。
(客は虫除けじゃなくて、殺虫剤が欲しいんだよ)
『殺虫剤?』
(虫を近づけない薬じゃなくて、殺す薬。店に来た人たちが、そんなことを話してた)
ただ眠っていただけだと思っていたが、ノルは店先で人間たちの話をきちんと聞いていたらしい。
私は心の中で謝りながら、その聞き慣れない薬について尋ねた。
ノルによれば、殺虫剤には生き物を殺すための毒が含まれているという。人に害が出ない程度に薄めて使うらしいが、そんなものを私が作るわけにはいかない。
吸血虫なら、香を焚いて天井から細かな網を吊れば防げる。魔族領では昔からそうしてきた。
『なぜ、わざわざ殺す必要があるのだ?』
(その方が、いなくなったのが目に見えて分かるからじゃないかな。追い払っただけだと、また戻ってくるかもしれないだろ)
『だが、網と香を使えば被害には遭わない』
(そうなんだけどね)
ノルの返事は、どこか歯切れが悪かった。
人間は、害のある虫だけでなく、見た目が気味悪いというだけで虫を殺すこともあるらしい。前世の世界には『G』と呼ばれる黒い虫がいて、見つかれば殺されるまで追い回されるのだという。
『黒いというだけでか?』
(いや、黒いからじゃないと思うよ。たぶん)
そう答えながら、ノルは自分の真っ黒な前足をじっと見た。
少し間を置いて、ノルは続けた。
人間は虫だけでなく、畑を荒らす動物や、人の脅威になる獣も排除する。時には同じ人間同士でも、信じる神や、肌の色、生まれた場所、考え方が違うだけで争うことがある。
(もちろん、全員がそうじゃないよ。助けようとする人もいるし、殺さずに済む方法を考える人もいる。ただ、怖いと思ったものを遠ざけるより、消してしまった方が安心できる人もいるんだ)
『先ほどの母親も、子供を守りたかっただけなのだろうな』
(そうだと思う。誰かを守ろうとする気持ちと、邪魔なものを消そうとする気持ちは、案外近いところにあるのかもしれない)
虫の側から見れば恐ろしい人間でも、子供から見れば自分を守ってくれる母親だ。
どちらか一つだけが、その者のすべてではない。
私は、昼間見た人間たちの顔を思い出した。
薬を買いに来た母親。店を手伝ってくれる孤児院の職員。採ってきた薬草を得意そうに差し出す子供たち。
皆、私たちと変わらず笑い、心配し、誰かのために働いていた。
それでも、自分と違うものを恐れる気持ちは、その同じ人間の中にあるのだろう。
もし人間が、ほんの少しの違いさえ恐れるのなら、姿も文化も違う魔族はどう見えるのだろうか。
『……ノルも、前の世界では排除されたことがあるのか?』
ノルはしばらく黙っていた。
(まあね。周りと考え方が違うだけで、変な奴だと思われることはあったよ)
それだけ言うと、もうこの話は終わりだと言うように、私の手へ頭を押しつけてきた。
私は耳の後ろをゆっくり掻いてやった。
魔族は、互いの縄張りを尊重する。
争いになりそうな相手とは距離を取り、結界を張り、相手が嫌がる香を焚く。仲良く暮らせないのなら、せめて互いを傷つけずに暮らせる場所を分ける。
それが当たり前だと思っていた。
だが、それも魔族が一度、自分たちの争いによって滅びかけたから覚えたことだ。最初から賢かったわけではない。
人間にも、いつかそういう方法を選べる時が来るのだろうか。
答えは分からない。
ただ、虫除けの香はこれからも作ることにした。
売れないからといって、殺虫剤を作るつもりはない。
買う者が少なくても、別の方法があることを棚に並べておく意味はある。
それを選ぶかどうかは、人間たち自身が決めればよい。
数日後、以前、香を棚へ戻した母親がもう一度店へ来た。
今度は迷わず一つを手に取り、代金を置いた。
近所の家で香を焚いたところ、その夜は子供が吸血虫に刺されずに眠れたらしい。死骸を片づけなくてもよく、思っていたより匂いも残らなかったと聞いて、自分も使ってみる気になったのだという。
一人が選べば、それを見て別の誰かも試す。
その日の夕方、香の棚には初めて、小さな隙間ができていた。
人間は、知らないものをすぐには選ばない。
だが、選ばないことと、決して変わらないことは同じではないのかもしれない。
*
露店を手伝いながら、私たちは斡旋所の仕事も続けた。
薬草採取や荷運びのほか、逃げたペットの捜索も多い。これはノルが街の野良猫たちへ思念を飛ばすと、驚くほど早く片付いた。
報酬はミルク粥一食分。
時には肉を要求する猫もいたが、それでも人間を何人も雇って探すよりは安い。
一方、給金の良い農作業や工事の手元は、予備兵役でもある『遊び人』へ優先的に回される。一般の人間も仕事を受けられるとはいえ、すべてが平等というわけではないらしい。
それでも地道に働いた甲斐があり、旅に必要な金額まであと少しとなった。
(ここらで一発、稼ぎのいいクエストでも受けて、一気に目標達成といきませんか?)
ノルが前足を伸ばしながら言った。
確かに、そろそろ街を出る準備を始めてもよい頃だ。
翌日、私たちは斡旋所で、いつもより少し大きな仕事を探すことにした。




