第6章 飼い猫と相棒
孤児院に居候するようになって、早くも一週間が経とうとしていた。
俺の日常は、朝から晩まで容赦なく子供たちに追い回される日々に様変わりしている。いくら図体が柴犬サイズとはいえ、本物の猫ではない俺には、人間の幼子を相手に牙を剥いて威嚇することなどできるはずもない。
結果、されるがままに揉みくちゃにされ、毛繕いをする時間すらまともに取れない有様だった。
一方のクワンリはというと、例の『魔道具』改め――彼女いわく、魔力術式を組み込んでいるので魔道具ではなく『魔術具』と呼ぶのが正しいらしい――薬草の精製器を無事に完成させ、今はまた別の新しい器具の製作に取り掛かっている。
相変わらず、職人モードの彼女は実に楽しそうだ。作業に没頭してあまり俺の相手はしてくれないが、子供たちの波に疲弊しきっている身としては、下手に構われない方が静かでありがたかった。
さて、日課となった施設周辺のパトロール(という名の散歩)を終え、俺はお待ちかねの食事の席へと向かう。今日も街は驚くほど平穏だ。
目の前に出されたのは、すっかり食べ慣れたミルク粥。
どうやらこの世界の「猫まんま」のスタンダードは、このミルク粥らしい。ありがたいことに、俺たちのビジネスが軌道に乗ったおかげで、食事は一日二食に増額された。しかも最近では、たまに何の種類か分からない魚の干物のようなものが具材として混ざるようになり、猫の身体としては極上の満足感を得ている。
ふと横を見ると、先日道を案内してくれた地元の野良猫の先輩(+もう一匹)が、俺と並んで美味そうにミルク粥をがっついていた。どうやらここの居心地の良さと飯の美味さに完全に胃袋を掴まれたらしく、施設にそのまま居着いてしまったのだ。
『……フン。人間に飼われるというのも、案外悪くないものだな』
食後に口の周りを舐めながら、野良の先輩が少し恥ずかしそうに思念を送ってきた。あのトゲトゲしていた野良猫をここまで骨抜きにするとは、ミルク粥のポテンシャル恐るべしである。先輩、ハマってくれて何よりだ。
満足して顔を上げると、少し離れた席からクワンリが手招きをしていた。
俺は彼女の元へ歩み寄り、身体の半分を彼女の膝の上に乗せて、ゴロゴロと喉を鳴らしてみせる。お安い御用だ。クワンリは目を細め、手慣れた様子で俺の耳の後ろや顎の下を優しく愛撫し始めた。
あまりの気持ちよさに目を閉じ、されるがままに快楽に浸っていると――ふいに、首元に冷たい、けれど妙に馴染む感触を覚えた。
目を開けると、首に何かが巻き付けられている。
(おいクワンリ、首輪か!?
いくらなんでも元人間のプライドとして、首輪を嵌められるのは屈辱的すぎるぞ!)
俺が猛抗議の思念を送ると、クワンリは悪びれもせず優しく微笑んだ。
『まあ待て、ノル。これはただの首輪ではない。人族の言語を認識し、お前の脳内へ直接翻訳して届ける『言語翻訳の魔術具』なのだよ』
おお……!
俺は言葉を失った。これはありがたい。これがあれば、これからはクワンリにいちいち『思念の同時通訳』をしてもらわなくても、人間たちが何を喋っているのかを俺自身の耳(脳)で直接理解できるようになる。
『しかも、身体の成長に合わせて伸びる仕組みもつけてある。これは私の独自の発案なのだ。どうだ、すごいだろ』
しかし、どうでもいい機能を自信満々に言われても、なんて答えたらいいか分からない。
『今回の、ノルの素晴らしい活躍への褒美だ。この小さな首輪の枠の中に、魔性石の術式を歪みなく設置するのはなかなか難儀したのだぞ?
ちなみにお前の方から人族へ思念を送ることはできないよう、安全用の制限をかけてあるから、安心して使うが良い』
クワンリは俺の頭を優しく撫でながら、少し声を潜めて続けた。
『それでな、ノル。……これから院長の老婆と、今後のことについて少し真面目な話をしようと思っているのだ。お前にも、ぜひその場に同席してほしい』
(院長と? 俺もか?)
『ああ。お前は前世で人族だったのだろう?
私は人族の社会の仕組みも、彼らの本心の駆け引きも、まだ上手く掴みきれんのだ。……それに、何よりな。魔族領からこちら側(人間界)に出てきてからというもの、土地の魔力が薄すぎて、どうにも体調が優れんのだよ。頭がぼんやりとして、いつものように上手く回らんのだ……。だから、お前を頼りにしているぞ、相棒』
いつもは堂々としている魔王の娘が、少し困ったように、けれど真っ直ぐに俺を「相棒」として頼ってきた。
魔族の彼女にとって、人間界の環境は俺たちが想像する以上に過酷なものだったのだろう。そんな中で、慣れない嘘や欺瞞の社会に立ち向かおうとしているのだ。
こんな風にストレートに頼られたり、心の底から褒められたりして、悪い気がするはずがない。
元人間の現代人として、そして彼女の「飼い猫(相棒)」として、ここは一肌脱いで、しっかりとその知恵を貸してやろうじゃないかと、俺は力強く喉を鳴らした。
あのスリの現場にいた引率の女性は、この孤児院の「寮母さん」だった。
院長室には院長と寮母さん、そして年長組の子供たちが数人集まり、クワンリによる『薬草教室』が始まった。採取できる薬草の見分け方、有用な種類、そして精製用の魔術具の使い方に至るまで、本格的な講義だ。
俺はソファの上で寝たふりを決め込みながら、首輪の翻訳機能を頼りに面白がって聞き耳を立てていた。
驚いたことに、クワンリは教え方が抜群に上手かった。魔界で教育者でもやっていたのだろうか。
元の世界にいた名将・山本五十六の「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」という有名な格言があるが、彼女はまさにそれを異世界で地で行っていた。魔族の社会にも、五十六のような優れた指導論を持つ先人がいたのかもしれないな、と感心してしまう。
教わる子供たちも寮母さんも、皆一様に真剣で、どこか楽しそうだ。じつに良い雰囲気が部屋を満たしている。
二日間の熱心な講義を終え、子供たちがさっそく薬草採取の実践へと出かけていった。
暇になった今日の午後、俺たちは院長にこの街の社会仕組みについて教えてもらうことにした。
期待していた「冒険者」という格好のいい職種は、残念ながらこの世界には存在しないらしい。代わりに国が定めた『遊び人』という奇妙な制度があるのだという。
院長の話を要約すると、遊び人とは実質的に「国の予備兵力(ニート対策を兼ねた足軽のようなもの)」だ。登録すると国から最低限の住居と小遣い程度の給金を支給されるが、それだけでは当然生活が苦しいため、皆アルバイトをして食い繋いでいるらしい。
職人の手元(手伝い)や公共工事の作業員、あるいは逃げたペットの捜索など、ギルドに似た『斡旋所』と呼ばれる場所に赴き、日雇いの仕事を貰うのだ。
――要するに、ただの「フリーター」である。
一般の民もこの斡旋所に行けば自由に仕事を貰えるらしいので、そこを窓口にすれば、これからの旅の資金を十分に稼げることが分かった。ここでの薬草教室がひと段落したら、さっそく斡旋所に足を運んでみようとクワンリと話し合った。
*
それにしても、クワンリは相変わらず「人族の領地は土地の魔力が薄くて、どうにも調子が出ない」と始終ぼやいていた。
夜になり、子供たちが寝静まった孤児院の一室。
横になったクワンリは、寝る前の習慣としてキセルのような細長い器具に乾いた草を詰め、美味そうに紫煙を燻らせていた。彼女いわく『魔草』という代物らしい。
こちら側の世界で慢性的に不足してしまう魔力を、この煙を吸い込むことで補填しているのだという。
だが、この魔草を吸った後のクワンリは、いつもより表情がとろけて、優しく、そして明らかに「ちょっとハイ」になっていた。前世のニュースでよく見かけた、あの緑色のいけない葉っぱを吸うとこんな感じになるのだろうか……と、いらぬ邪推をしてしまう。
『ふふ、ノル〜。昼間、子供たちがこうやってお前を触っていたぞ?』
クワンリが煙を吐き出しながら、おぼつかない足取りでベッドから這い出てきた。そして、子供から教わったのだと言って、俺の「尻尾の付け根(お尻のあたり)」を手のひらでポンポン、トントンとリズミカルに叩き始めた。
(……ッ!?)
脳内に強烈な衝撃が走る。嫌では、ない。いや、嫌ではないどころか、なんだかもの凄く変な、抗いがたい快感が身体の奥底から突き上げてくる。
「ニ、ニヤヤャ〜〜……」
「クルルルルル……」
元人間の理性が全力でストップをかけるのに、口からは聞いたこともない奇妙な猫の裏返った声が漏れ出てしまう。
やめてほしい。いや、でも、やめないでほしい。
「オーナウ……ウウウウワオォ……」
ダメだ、もう限界だ。
快感のあまり勝手にお尻がツンと高く上がってしまう。前足が勝手に布団をフミフミと捏ね始め、興奮のあまりシーツをガジガジと噛み締めてしまう。た、たまらん。
気づけばゴロゴロと激しく喉を鳴らしながら、完全にお腹を丸出しにしてベッドの上に転がっていた。どうにでもしてくれと言わんばかりの、心地よい虚脱感が全身を支配していく。
「ナー……ナー……」
蕩けた声をあげる俺を見て、クワンリはキセルを片手に「ウフフ、あははは!」と床を叩いてお腹を抱え、大爆笑している。
(……何お腹抱えて笑ってんだよぉ! もう、クワンリの意地悪……っ!)
抗議の思念を送る気力すら残っておらず、俺はただふにゃふにゃと恨めしげに彼女を睨みつけることしかできなかった。
こうして、俺たちの少し奇妙で、ひどく平和な人間界の夜が更けていく。
前世の四角いコンクリートの部屋では決して味わえなかった、泥臭くて温かい時間。
……うん、やっぱり悪くない。




