第5章 善意の行き着く先
誰もいないのだろうか。しんと静まり返った吹き抜けの玄関ホールに、ぽつんと二人(一人と一匹)で立ち尽くす。
「ごめんください」
クワンリがローブのフードを少し上げ、周囲に声を響かせた。
『誰か居らぬか? 少し話がしたくて来たのだが』
しばらくの沈黙の後、玄関ホールの横にある古びた扉が静かに開き、ひどく痩せこけた老婆が姿を現した。その目は深い疲労の色を帯びており、俺たちを見ると怯えるように身をすくめた。
「……何のご用でしょう。また、うちの子たちが何かご迷惑をかけてしまいましたか?」
老婆の言葉を、クワンリが『思念』を通じて俺にリアルタイムで同時通訳してくれる。
老婆の話によると、この施設は先の戦争で親を失い、行き場をなくした子供たちを育てている「孤児院」なのだという。そして老婆は、ここの責任者だった。
国からの最低限の援助は、施設を始めた当初の予算のまま据え置き。それなのに、戦争の傷跡が深まるにつれて預かる子供の数は増えていく一方。
何度国へ予算の増額を申請しても冷たく取り合ってもらえず、子供たちはいつも飢えに苦しんでいる。そのため、腹を空かせた子供たちが生きるために街で悪さを働いてしまうこともあるのだという。
老婆は、俺たちが「子供に盗みを働かれた」と怒鳴り込みにきた近所の商店主の類いだと思い、最初から平謝りの姿勢だったのだ。
そうこうしているうちに、背後の鎧戸が勢いよく開き、外へ出ていた子供たちがぞろぞろと帰ってきた。
彼らは一様に、異国風の深紅のローブをまとったクワンリを、訝しげに、そして興味津々な様子でチラチラと横目で盗み見ながら入ってくる。
その中の一人、小さな男の子が足元にいる俺を見つけた瞬間、その目をキラキラと輝かせた。
(……ヤバい。完全にロックオンされたな)
前世のサラリーマン時代から、俺はどうにも子供という生き物が苦手だ。予測不能な動きをするから接し方に困る。俺はさりげなくクワンリの影に身を隠した。
すると最後に、子供たちを引率してきた大人の女性が入ってきた。
彼女はクワンリの姿を見るなり、驚きと、それから張り詰めていた糸が切れたような圧倒的な安堵が入り乱れた複雑な表情を浮かべた。そして、脱兎のごとくクワンリの元へと駆け寄り、その場に崩れ落ちるようにして激しい謝罪を始めたのだ。
何事かと思い、俺はクワンリに「おい、何て言ってるんだ?」と思念を飛ばした。
クワンリからの翻訳を聞いて、俺は思わず心の中で膝を打った。
彼女は、あの広場でクワンリのローブに飲み物をこぼした、例の「母親」役の女性だったのだ。
彼女らは親子などではなく、ここの孤児院の職員と、お使いに出ていた子供だった。
クワンリの腰鞄を盗み取ったのは、引率の目を盗んで動いた孤児の子供の単独犯だったらしい。施設に帰ってきてから、子供が見慣れぬ豪華な鞄を持っていることに気付いた彼女は血の気が引き、慌てて広場へ引き返してクワンリを探した。だが、すでにクワンリの姿はなかった。
そのため、今日も今日とて、皆で街中を必死に捜索してきた帰り道だったのだという。
その時、ひどく痩せた少年がクワンリの顔を見て、ハッと息を呑んだ。
少年は大急ぎで扉の向こうへと走り去ると、すぐに別の小さな子供の手を引いて戻ってきた。その子の手には、クワンリの腰鞄がしっかりと握られていた。
『あの子だ。街角で花を売っていたのは』
クワンリの思念を聞いて、俺は初めて、目の前の痩せた少年が探していた花売りの子供なのだと知った。
(……一時はどうなることかと思ったけど、人間、全員が腐りきってるわけじゃないんだな)
俺は少しだけ胸が軽くなるのを感じた。
ふと思いついて、俺はその少年たちに向けて『第三の目』から思念を飛ばしてみたが、何の反応もなかった。やはり『思念』は人間には通じないらしい。
今のところ、この超感覚のやり取りができるのは、俺(黒猫)とクワンリ、そして地元の野良猫たちだけのようだ。やはり魔族としての本当の人型に戻るか、あるいは何らかの条件を満たさないと人間とは直接対話できないのかもしれない。
逆に、クワンリは猫たちの言葉(思念)を拾えていないようだった。彼女が野良猫と会話している様子はなかったからだ。これについては、後で彼女に詳しく確認してみる必要があるだろう。
何はともあれ、失われた「魔性石の鞄」は、人間の良心によって俺たちの元へと戻ってきた。
そして、このボロボロの孤児院こそが、俺たちの「人間界初のビジネス(クエスト)」の記念すべき舞台になる予感がしていた。
クワンリに詳しい説明を求めたところ、どうやらスリを働いた少年は、孤児院で病気に伏せっている仲間の薬代を稼ぐために、あんな無茶をしたということらしい。
見れば、クワンリは「病気の子供のためになるなら、この鞄の中身(魔性石)を全部使ってくれ」と言い出し、孤児院の職員や老婆は「滅相もない、泥棒しておいてそんなものは受け取れない」と突っぱねている。鞄を押し付けようとするクワンリと、必死に突き返す人間たち。
元の世界で、近所のおばちゃんたちが「いやいや、これは私が出しますから!」「いえいえ、うちが!」とやっている、あの押し問答の光景がまさに目の前で繰り広げられていた。
……ああ、また始まった。この魔族の女の、悪い癖だ。
(おい、クワンリ。何をもめているんだ?)
見かねて俺が思念を飛ばすと、彼女は困り果てた顔で返してきた。
『……病気の子供たちのために役立ててくれと言っているのだが、頑なに聞いてくれんのだ。人族の倫理観というものは、時に融通が利かなくて難しいな』
彼女が良い奴なのは百も承知だが、それじゃあ俺たちが飢えてしまう。俺はパン粥生活を脱出して、いい加減に鶏肉や魚が食べたいのだ。
(だったらさ、お前が持っているあの薬草で、子供たちの病気を直接治してやればいいじゃないか。魔術具の動力源(魔性石)は今戻ってきたんだからさ。その代わり、鞄は一回きちんと受け取ろう。ここの修繕や生活環境の整備に、その魔性石がどのくらいの価値になるかは分からないけど、上手く換金して使ってやればいい。その方がよっぽど合理的だろ?)
俺の現実的かつ建設的な提案に、クワンリは目を見開いた。そして、突如として俺を抱き引き寄せると、またしても両手で頭をガシガシと揉みくちゃに撫で回してきた。
だから、脳が揺れるって言ってるだろ……!
*
翌日。心地よい日差しと柔らかな風が吹き抜ける、孤児院の庭。
大きな木が作る木漏れ日の下で、クワンリは真剣な表情で精製用の魔術具を組み立てていた。
『……ノルよ、この魔術具に組み込む魔性石のバランスが、薬の出来を左右する最も重要な肝なのだ。この大きさや純度を、歪みなく完璧に設置せねば、薬草の効果を最大限に引き出すことはできない。……だが心配するな、私はこの魔力線を見極めるのだけは、魔界でもかなり上手い方なのだからな』
少し自慢げに語りながら、小さな魔性石を精密に配置していく彼女の横顔は、まるで熟練の職人のようで、見ていてどこか微笑ましかった。
一方、クワンリから魔性石を資金として受け取った孤児院の面々は、さっそく近所の大工を雇い入れていた。
材料を大量に買い込み、全員で協力して穴の空いた屋根を直したり、傾いた建物の壁を補強したりと、大掛かりな修繕作業が始まっている。
働いている人間たちは皆、弾けるような笑顔だった。元の世界で見た『賃金のために死んだ目で働く大人たち』とは全く違う。彼らは自らの生活を、仲間たちの家を良くするために、実に楽しそうに汗を流して働いているのだ。
クワンリが作ったカスミレ草の薬が効いたのだろう。昨日まで奥の部屋で真っ青な顔をして寝込んでいた子供たちも、少しずつ顔色を取り戻し、今では庭に出て大人たちの作業をキラキラした目で見つめていた。
『……どうだ、ノルよ。善意の行き着く先というものは、なかなか気持ちが良いものだろう?』
精製作業の手を止め、満面の笑みで修繕の様子を眺めていたクワンリが、ふいにとびきりのドヤ顔を俺に向けてきた。
(……ふん。まあ、悪くはないな)
俺が少し気恥ずかしさを隠して素っ気ない思念を返すと、クワンリは可笑しそうに目を細めた。
『ふふ、本当に素直ではないな、お前は。……まあ、そこがお前らしいが』
その時、背後から子供たちの群れが俺に突撃してきた。
「うわあ、大きな黒猫ちゃん!」「もふもふだ!」「おっきいー!」と歓声が上がり、遠慮のない小さな手によって、耳を引っ張られ、尻尾を振り回され、全身をこれでもかと撫でくり回される。
(おい、やめ……こら、引っ張るな……!)
観念して、子供たちの無法地帯なスキンシップに身を委ねながら、俺は心の中で静かに言葉を言い直した。
(……うん。まあ、こういうのも……悪くない)




